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“許された危険”とネットの匿名性

 実名化への舵きりが本気なら、あせらなくてはいけないのかもしれません。
 「自殺・爆弾」などの有害情報発信の阻止が実名化のネタでしかないことは明らかです。
 自殺にせよ、爆弾にせよ、海外のサイトの方が直接的なものがあります。日本国内で単に実名利用を進めてどうにかなる程度の問題ではありません。
 実名化しても、結局、故意的で(それ故に)最も有害性の高い(行政の追跡を遮る技術力とそのコストを負担するだけのメリットを持つ)サイトが残るだけだと考えるのが妥当です。

 実名にすることで、今までの社会で孤立してきたレイプ被害・セクハラ被害などの犯罪被害者や医療過誤被害者や非合法金融被害者、その他のマイノリティーに属する人々にネットが可能にした情報共有・団体活動・救済への入り口を閉じることになります。
 違法関連ではなくとも、人事・人間関係での相談、商品購入のための情報などで存在する、乗り合いバス効果(匿名性が高い空間で、通常の利害関係を離れた判断や意見を得られる効果)も実名化によって無くされることになるでしょう。

 このような利益と爆弾・自殺情報等の有害性のどちらが上回るかは判断が難しいかもしれません。特に、人命が関係すると、利益衡量を持ち出すことに憤慨する人もあるかもしれません。しかし、現に私達は人命をも含む利益衡量をする社会に生きています。例えば、年間約一万人が死傷する自動車は、明らかに走る凶器です。それでも、私達は自動車を無くそうと言いだしません。自動車も含む、存在自体に人命への大きな危険があるにも関らず、社会で許容され、組み込まれているものは“許された危険”と呼ばれることがあります。一人一人が合意したわけでもないのに、社会に大きな危険を生じさせる可能性がある物の存在が許されているのは、その物の有益性と危険の発生する可能性を比較した結果、前者を尊重したからだという発想です。原子力発電所なども代表的な、“許された危険”です。社会は(具体的には時の議会や“危険”を社会に組み込んだ歴史は)人命などの犠牲が一定数存在することで、社会全体の経済等が発展することを選んでいるのです。
ネットが関係する自殺や爆弾などの事件は目立ちますし、カウントすることができます。しかし、ネットが生み出した乗り合いバス効果のような利益は目立ちませんし、カウントもできません。それでも、確実にそれはあるはずですし、衡量すれば、利益が上回るはずです。利益は目立たず、一つ一つにインパクトがないため、害悪ほど印象にのこらなくとも、ネットを支えているのはそのような薄く目立たない利益だと、私は考えます。
 私は、爆弾・自殺情報等をネットから排除することはそもそも不可能だし、それらは“許された危険”としてネットという仕組みに入り込んでしまっていると思います。
 自動車が人を日々殺しても、圧倒的大多数は自動車を無くせとは言わないのと同じように、ネットにも危険があり、それを“許された”ものとして進んでゆくしかないと考えます。(“許された”とは、認めることではありません。自動車があっても人を跳ねてはいけないし、そのようなルールがあるのは当然なのと同じように、ネットで爆弾の作り方を提供することも、自殺を勧誘することも、肯定されません。)車で爆弾や死体を運べる“危険”があっても車体に名前を書かない・トランク内容物を車体外に表示しないのと同様に、ネットに自殺や爆弾の情報があっても実名での利用をすべきだとは考えられません。追跡可能性も自動車はナンバーを警察が把握することで可能になっているのと同様に、プロバイダーが一定の程度・期間ならば把握することが可能になっています。どちらも、匿名性を高めるための技術があれば、ナンバーやアドレスを偽造したり隠蔽できます。でも、自動車では私の知る限り、車体外に実名が分かるようにしようという動きがありません。(自動車は免許制ですから原則禁止されたもの、ネットは原則が自由と言う違いがあります。しかし、自動車の持つだけの直接的な加害性はネットにはありません。それを加味すれば、ネットと自動車を比較するのは許容範囲だと考えます。又、許容範囲ではないと判断しても、“許された危険”が社会にあることは理解されると思います)
私達の社会は、一定の“危険”を“許す”ことで利便性を追求すると言う判断をしているはずです。

 さて、なぜ本気であせらなくてはならないと考えるかと言うと、総務省の狙いはネット選挙運動などの政治への本格的なネット利用に備えるためだと、私は考えるからです。現在でも明確なネット選挙運動の法的規制根拠がなく、じわじわと実験的なネットの選挙利用をすすめる動きがあります。このままでは、なし崩し的に広がるでしょう。
 選挙運動と言うほどに本格的なものではなくても、ブログなどで選挙に関して活発な議論が展開されたり、情報発信(街頭演説・討論会の内容やその感想などから詳細な活動履歴の発信)がなされ、それが結合してしまい一気に大きな流れを作られることを総務省、そしてある政党が恐れているのではないでしょうか。
 例えば、ネット利用が実名化されれば、こうなると予想できます。
 自分の属する会社なり組織の利益のためにはA政党・a候補者を応援・投票するのが得策だし暗黙的に会社・組織もその候補・政党への投票をするように働きかけをしているが、全体的に見てその政党を支持できない・発言や活動に容れないものがあると考えることがあっても、それをネットで発信することができなくなります。中小の企業で経営者が社員を個々に把握できるところは勿論、大きな会社・組織に属していてもそうなるでしょう。又、直接に利益が絡まなくても、政治関係の発言をネットですることに大きなブレーキをかけられることは間違いありません。確実に実名化されたネットは、政治活動や政治的な発言を多くの人から実質的に奪うことになります。直接的な圧殺がとられることもあるでしょうが、何より日本独特の“空気”の力がそのような発言行為を殺すでしょう。ただでなくても、組織票が無くなって苦しく、自分達に投票するものだと思われた人達が選挙結果を見る限りあてにならなくてなっている、その上で、政治についての情報を発信されてはたまらないはずです(現実的にどのくらいの力があるかは不明だとしても、余分な労力や不安感が政党側に生じることは確かだと思います)。選挙を管理する上で、ハッキリと規制をかけることができない(ネットでの選挙運動を禁止するなど言っては、寝た子を起こすことになる)のに、思わしくない方向へ向かっている現状を何とかしたい総務省と、ネットを利用されて無党派を動員されては困る政党の思惑が一致したのが、ネット利用の実名化と考えるのは妥当な線だと思います。一人一人は小さく弱くとも、それらに結合されては、行政やある政党に「依らしむるべし」のための、「知らしむるべからず」が崩壊してしまいます。
 実名化によって、(行政やある政党にとって)“有害な情報”がネットから駆逐できます。日本人の“依然としてモラルの高い(知り合いの目が届くところで目立ったことはしない・集団内で目立った人間を叩きたがる)”ことを上手く使うための手です。 この“有害な情報”を駆逐される流れが完成される前に、ネットの持つ政治への力が議員達に届かなければ、ネットの持つ政治への力は根こそぎにされるはずです。
 安全になるのは政権であって、私達の暮らしではありません

 
 補足。
 ネット上で実名の人間が匿名の人物やその人物の言論について批評・非難することが見られます。
 匿名だとその言論の責任を取れないと考えている人や、そもそも批評・批判の内容に自信があるなら実名で構わないはずだ、実名での言論に匿名でものを言う権利は無いと言う様な意見も目にしたことがあります。
 確かに、ネットでの匿名性は一定程度で確保されているために、乱暴な物言いをする人も沢山います。刑事・民事での責任を取ってしかるべきなのに、匿名性とそれを乗り越えて責任追及することのコスト故に、責任を逃れている人も沢山いるのでしょう。
 しかし、内容自体がまともなものについても匿名自体を批判することに私は違和感を覚えます。
 ネットで匿名を使わなくては、ネット外の生活で確実に摩擦が増えます。
 正確には、摩擦を避けるために本当にどうでもいいことしか多くの人は発信できなくなるはずです。実名でブログを書けば、当然検索に名前を入れてヒットされることになり、友人でも知人でもないが利害関係を持っている人間や単に近くに住んでいる人、名前を知っているだけの同じ会社・組織の人などからも読まれることになります。
 そのような環境で、差しさわりの無い日記等以外のことを発信しようとすれば、発信することが割に合う人に発信者が自然と限定されて行くことになるでしょう。つまり、摩擦を生じさせるような言論を発信することで現に収入を得ている人です。現状のメディア状況と変化がなくなります。単に、既存のメディア構造で生きてきた人たちが、よりスムーズに広い言論発信ができるようになるだけです。
 社会を構成する大多数の人間に確固とした倫理観があるとは思えません。しかし、まったく私利私欲が心に満ちているだけでもないはずです。脆弱ながらも善意があるが、それは多くの場合、現実の摩擦が勝って発揮されていないというのが現状ではないでしょうか。
道で倒れている人がいる、多くの人がその横を困ったような顔・作った無表情で通り過ぎてゆく。もし、介抱したり救急車を呼べば自分が金銭的な負担や責任、それに伴う雑事と心理的な負担を負うことになるかもしれないことを考えれば、さわらぬ神にたたりなしと決め込むことが現実を生きる知恵です。そうと分かっていても、心にうずくものがある。
ネットを実名化することは、ネット外よりも厳しい現実をネットにもたらすことになるはずです。
 記録が残り、閲覧可能性だけは大きなネットで、実名で発言すれば、ネット外で同じ発言をするよりも厳密な法の適用や他者の監視ができるようになりますし、可能性だけの大きな閲覧性を根拠に責任範囲が広げられます。その環境では、ネット外と同じ程度の善意の発揮ですら、期待することは無理でしょう。
 匿名という環境が一定程度で保障されているからこそ、脆弱で発揮されることがなかった善意が現れて、今までの社会ならありえなかった情報の共有やそれを元にした活動が可能になったはずです。ネット外の生活で、道に倒れている人(困っている人)を助けることはしないけど、ネットで通り掛かりに困っている人へアイディアを出すくらいはできるという現状を、実名化は確実に無くします。
 匿名性が一定程度で保障されているから、ネット外の生活なら無関係の他者に語り掛けないけれども重要だと考えられる話ができるのです。
実名にすれば、ネットがネット外の生活にはっきりとつながり、ネットの明確な記録によってネット外の社会にある緩やかさまでなくなってしまいます。
 それは、発言に責任を持つ持たないの話ではありません。
 ネットという限られた文脈情報の中での話しが、その記録性と閲覧可能性から、ネット外を圧倒してしまうかもしれないのです。 そうなれば、やがてネットからまともな言論が消え、ネットが持つ社会への力は大きく殺がれることになるでしょう。
 総務省は、ネットは具体的な金銭を生み出す構造に最適化されるべきで、それ以外の政治や思想などの自分達の地位を危うくさせる可能性のある話題はネットからしめだされるべきだと言うのが本音なのかもしれません。
 
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by sleepless_night | 2005-06-30 22:55 | メディア

「マザコン」と付き合うと言うこと。/「マザコン」補足

 「マザコン」と恋愛は連想される関係にはない場合が多いでしょうが、教科書風な定義や背景説明の記載がそれだけでは煩瑣な解説で終わっているように感じたので、次回のストーカーについての前に、「マザコン」と付き合うという演繹的なことについても触れておきます。

 前回に述べたように、「マザコン」は母親のコンプレックスの作り出した世界で共依存的な母子関係にある人を意味すると考えられます。
 すると、「マザコン」と付き合うと言うことは、その母親のコンプレックスと付き合うということになります。
 これは非常に厳しい交際になると想像に難くないでしょう。
 なにせ、相手となる彼氏(結婚していれば夫)の母親は他人です。その他人は、彼氏(夫)を産み・育てた人です。コンプレックスの作り出した心地よい共依存関係を、あかの他人である自分が壊そうとすれば、敵と看做されて当然のはずです。極論すれば、母親は自分の人生を賭ける戦いとして、対応してくるかもしれません。
 彼氏(夫)とは、まだましだと言えるかもしれません。「マザコン」は自分のコンプレックスを問題にできる程に自分が無いと考えられるので、自分が覚悟とリスクを負えば、彼氏(夫)を上手く自分との関係に持っていけるかもしれないからです。
 しかし、彼氏(夫)を自分との関係に持って行くと言うことは、その母親と対決することが不可避になります。それだけのことをする価値が自分にとってあるのかが問われるでしょう

 逆に、「マザコン」とマザー・コンプレックスの違いで述べたように、単に母親を大切にしている人、所謂親孝行な彼氏(夫)を「マザコン」と看做している場合は、自身に家族関係のコンプレックスが解消されずにあると考えられます
 自分のコンプレックスを相手に投影して、自分を守っているという可能性があると考えられます。これはこれで厄介ですが、投影自体は何度も述べましたように避けられないこともあり、余程困難を生じさせる場合で無い限り、その都度、意識して修正していくことで対応できるものだと思います。
 ここまで述べてきたように、コンプレックスは誰にでもあると考えられるのですから、付き合う(結婚する)という最も親密な関係は、お互いが自分のコンプレックスを最も意識化する関係となるでしょうし、その解消へ向けた歩みを共にするものだとも言えるでしょう。

 



 
 
 
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by sleepless_night | 2005-06-27 22:13 |

マザー・コンプレックスから「マザコン」へ、熟年離婚の道。

 前半で述べましたように、一般で言われる「マザコン」とマザー・コンプレックスは違うと考えられます。ですが、「マザコン」とマザー・コンプレックスは無関係ではありませんし、最初に持ち出した「頼りがい」ということとも結びつきが出てきます。
 勿論、「マザコン」に「頼りがい」を感じる人はいないでしょうから、マザー・コンプレックスを持つ人(正確には、コンプレックスを解消し切れなかった人)とです。ただし、間接的に「マザコン」とも関係します。マザー・コンプレックスの時代の先に「マザコン」の時代が現れる と考えられるのです。
 
 このことを考えるためには、少し時代をさかのぼってみなくてはなりません。
 スタートは1950年付近です。つまり、団塊の世代と言われる人々が生まれた時代です。
 この1950年付近に生まれた人々は第一次ベビーブームと言われるように、世代内の人口が多い世代です。団塊の世代の人々は「金の卵」と言われる地方から都市へ多量の就職者を輩出し、日本の製造業を支えてきた人々です。世界の時代状況も味方して、日本は急激な経済復興・成長を遂げた時代です。団塊の世代と言われた人々は、非常に仕事へ没頭した人々だと言えます。それは、同時に特異な家庭形態を作ることに寄与しました。つまり、専業主婦が成人女性の主流となったのです。かつては、一部の上流階級しか許されなかった専業主婦という既婚女性の特異なありかたが、社会の経済発達とそれに乗った男性の賃金上昇によって可能になったのです。
 このモーレツ社員と専業主婦の間に子供が生まれ、それが第二次ベビーブームになりました。この子供達が結婚するのが、1990年台初頭からです。すなわち、「マザコン」が一般に認知されたドラマが放映された時期です。
 
 これを踏まえて考えてみます。
 まず、団塊の世代の人々の中でも地方から「金の卵」として出てきた人たちは、十代で故郷を離れた人たちです。しかも、それは沢山の兄弟姉妹がいる上、現金収入に乏しい地方社会では生きてゆくこと・生活を向上することが望めないから、苦しい家計を助けるためと言う理由が少なからずあったと考えられます。そうすると、彼ら・彼女らの中には両親との間で十分に感情的な分離を経験できるだけの時間的な余裕をもてなかった人たちが一定程度以上の割合で存在したと考えられます。つまり、感情的な分離のための基礎的な安心感とそれに基づく葛藤を経た上での新たな感情的な結びつきを作るだけの余裕がないままに、故郷・家族を離れざるを得なかった人たち、マザー・コンプレックスを含む、家族関係でコンプレックスを生じたまま解消できなかった人たちです。

 この人たちが結婚し、子供を育てることになります。
 結婚の形態は、上述したように、モーレツ社員と専業主婦の取り合わせです。
 モーレツ社員は家庭へと向ける力も時間も少ないはずです。家庭、子育ての全権は母親が握ることになるでしょう。
 そこで、前半で述べたように母親自身のコンプレックスを子供に思いのままに投影できる可能性が出てきます。つまり、コンプレックスを解消できる間もなく故郷・家庭を離れざるを得なかった女性が、誰にも制約されない自分の家庭の中で子供へと自分のコンプレックスを投影できる環境があるのです。
 一方で父親はどうするかと言えば、所謂水商売の女性へと、接待もかねて向かうことができます。そこには、自分を(高額な金銭を払うことで)受け入れてくれることが保障されている女性が待っています。そこで、コンプレックスに影響された行為・感情を満たすことが可能です。また、コンプレックスは理不尽な行動をとらせるだけの力がそれ自体であると考えられ、コンプレックスの持つ構造に上手く嵌れば大きな力を発揮できると考えられます。これが時代の求めた社員像と合致した可能性があります。つまり、会社は、母親の代わりに社員の故郷を失った寂しさと基礎的な安心感を与え、社員はそれに対して全労働力を奉仕する、労働による疲労は所謂水商売の女性が慰撫してくれる、というマザー・コンプレックスの代償行動がモーレツ社員としての男性の行動だと解釈できるのです。そして、マザー・コンプレックスに動かされていた人たちも外形的には非常に「頼りがいのある」人だと見えることも十分にあるでしょう。外形的には、仕事に一途で忠実な人間と見えるのですから、女性からみれば「頼りがいのある」と見えてもおかしくはありません。モーレツ社員ですし、所謂水商売の店等での付き合い・接待も多いでしょうから、自分の深い個人的な部分を家庭で見せる時間的な余裕も限られているので、「頼りがい」に疑問を持たれる様なことも少ないのも加えて、コンプレックスの持つ厄介な面を見せなくて済む可能性が高かったと考えられます。(※)

 このように、マザー・コンプレックスと「マザコン」の両方の存在が可能になります。しかも、マザー・コンプレックスが生き残れる社会環境が「マザコン」を育成できる環境ともなっていると考えられます。  「頼りがいのある」男性とその妻が作った家庭が、「頼りがい」と対極とみなされる「マザコン」を産んだと解釈できるのです。

 今回は、少し社会の構造などへと話が触れました。この構造は今後も様々な場所で引き出されると思います。日本の恋愛や家族の歴史を考える際にはどうしても、第二次大戦後の変化ははずせない問題です。それは直接、現在の私達をとりまく恋愛や結婚の言説を作り出した時代だと考えられるからです。もう一つ、江戸から明治という大きな変革期もありますが、これと並んで大戦後の60年は重要な時代だと考えられます。
 少しずつ、この過去から現在への変遷という話の筋が見えてきましたが、次回も現代の問題にとどまりつつ、全体の話の筋へと勢いをつけて生きたいと思います。

 ということで、次回はより現代的な問題であるストーカーについて述べたいと思います。
 
(※)近年、話題になっていいる熟年離婚は、このコンプレックスを解消できないまま、経済環境に支えられて結婚・子育てをできた人たちが含まれていると考えられます。
 つまり、定年を控えて、男性はそれまで程、仕事や外での時間の消費が少なくなり、女性は子育てを終える状況で、改めてお互いに向かい会った時、お互いの持つコンプレックスに触れてしまうこともたぶんにあるでしょう。そうすると、今まで男性は会社と、女性は子供と共依存関係を作ることで外見的には上手くいっていたのが、男性は会社を、女性は子供を奪われることで関係に変化が生じるでしょう。そのとき、関心の大部分に共通点のない男女が、お互いのコンプレックスと対峙して解消へ向けた歩みを共にする可能性はかなり低いと考えて妥当だと思います
 『超少子化』鈴木りえこ著(集英社新書)には“子供に大変手のかかる時期に妻をサポートした夫へは、その後も妻の愛情や信頼の気持ちが続き、二人の関係は良子のまま持続する。”とあります。
 これは、当たり前のことですが、私が上述したことと重なるでしょう。
 母親・家族へのコンプレックスを解消できないまま都市へ出てきて、結婚し子育てをする夫婦でも、二人で子育てをするには、夫はモーレツ社員を突き進むことはできなかったでしょうし、何よりも妻による子供へのコンプレックスの投影がし難くなったはずです。また、二人で過ごす時間が多くなり、二人で様々経験をすれば必然的にコンプレックスに触れる場合があったはずです。そのとき、二人の間でともにコンプレックスの解消に向けた歩みがなされたこともあったでしょう。特に、育児と言う重労働であり、二人とも逃れられない責任をこなす中で、余裕を失い感情を爆発しあったりすることが、感情によって結び付けられた心的複合体であるコンプレックスを意識化させ、それを解消する機会になった幸運な場合もあったはずです。同書のこの部分は、非常に重要なことを過去、現在、未来の夫婦に伝えている内容だと思えます。
 
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by sleepless_night | 2005-06-26 14:15 |

「マザコン」とマザー・コンプレックスの違い

 前回、「マザコン」について話を進める前提として、コンプレックスという概念を生み出した心理学自体の問題点について軽く触れました。今回はそこでも述べました「マザコン」とマザー・コンプレックスの違いという点から展開したいと思います。
 
 「マザコン」がマザー・コンプレックスの略であることを知っている人は多いでしょう。しかし、マザーをつけない、単なるコンプレックスと聞いたときに正確な意味を答えられる人は多くないはずです。普段、コンプレックスと言うと劣等感と殆ど変わらない意味合いで使われていることが多いように感じる経験からの認識ですが、メディアで使われている状況からもそう言っても間違いではないと思います。
 この二つの言葉を一般的に使われている語意で結び付けて考えてみると、おかしなことに気付くでしょう。つまり、コンプレックス=劣等感だとすると、「マザコン」は母親劣等感となってしまい、「マザコン」と言われて思い浮かべる人物の性格とは違ってしまいます。 
 このおかしさは、「マザコン」とコンプレックスという言葉が訳語ではなく、そのまま日本語化されてしまった過程で、元の意味から離れてしまったことに原因があるのでしょう。特に、「マザコン」と略されてしまったので、コンプレックスと「コン」は同じ言葉だと意識されにくいことも影響していると考えられます。

 では、コンプレックスとはどんな意味で使われていたのかと言うと、“感情的な色合いをもった心的内容の混合物”(※)という意味です。英語で「複雑な・入組んだ」という意味の形容詞であることを考えれば、コンプレックスが“混合物”と意味付けられているのは問題なく了解されるでしょう。前回述べた理由(心理学自体の弱み)で細かい話へは触れませんが、“感情的な色合いをもった”という部分について補足します。人間は生きていれば様々な体験をします。そして、体験するということは同時に様々な感情を内心で生じさせています。それらの体験も同時に生じる感情も、新しい体験と感情へと進んで行くことが生きていることである以上、明確に記憶されることは圧倒的な少数となります。それらの中には、体験した時は大きな感情を伴ったものも含まれているはずです。それらは、無意識(意識して思い出そうとしてもできない)の部分でとどまり、その体験の様々な側面が感情によって結び付けられていると考えられているので“感情的な色合いを持った”となります。ただ、いちいち面倒なので“感情的な色合いを持った”は省いて、ただコンプレックスと呼ぶようになったようです。
 コンプレックスの厄介な点は、文字通り“感情的な色合いをもった心的内容の混合物”である点と無意識の話である点だと考えられます。
 ある体験をすると何種類もの体の動きと感情が生じます。体験は、その時の具体的な環境からも逃れられません(体験するとは、どこかで体験するということ)。ロボットで例えてみますと、ある体の動きと感情の動きをロボットが行うためには、そのための回路が必要になります。新しい動きや感情のためには、新しい回路が加えられていきます。一回の体験をするだけでも、相当な数の回路が必要になります。多くの体験を重ねる中で、大きな衝撃が加わったりして回路を別の回路と遮断する絶縁体の皮膜(カバー)が破れたり、皮膜が不完全な物も出てきます。すると、沢山の回路が接触して絡まっている状態で、ある回路に電流を通そうとしても別の回路にまで電流が流れたり、別の回路にしか通じなくなってしまったりと、本来の意図とは別の動きをしてしまいます。ある強い感情を伴った体験をしたときに回路の不具合が生じたために、一見関係ない別の場合にも、不具合部分が連動して統御がとれない状態がコンプレックスと解釈でき、その不具合自体が厄介だと言えます。
 また、不具合がロボットの内部の回路を収納する部分に生じていますし、回路が多すぎてどこの部分かも、不具合が生じていることすらも意識できない可能性もあるのも厄介です。

 上述の文章から分かるように、体験と感情を持つ人間でコンプレックスのない人間はいないはずです。コンプレックスが日常生活に支障をきたすほどのものではない限り、あまり気にしていないだけで、多少の影響は受けているはずです。むしろ、コンプレックスを生じさせるような体験と感情が、それぞれの人生を特徴づけているとも解釈できます。

 このようにコンプレックスは一般的に認識されている語義とは異なります。

 では「マザコン」という一般的に使われている言葉と、もともとのコンプレックスの意味から考えるマザー・コンプレックスはどう違うのかを考えて見ます。

 「マザコン」と称される人物の特徴を挙げますと、何でも母親の言うことを聞く・幼児期と同様に母親に世話を焼いてもらっている・母親から離れられない、と言うのが大体のものでしょう。
 これは、母子の関係性が幼児期から変化していない状態だと見ることができます。幼児期は、子供は母親に何でも世話を焼いてもらい、その欲求が満たされるのが当然だと考えるとされます。つまり、母親と自分の区別がはっきりしていないとも言えるでしょう。そして、対する母親の側でも、自分の中の幼児像を子供に投影して(幼児は話せないし、自己の考えを持つ段階でもないので、母親自身が思い描いている幼児像を実際の幼児によって邪魔されず、自分の思い描く幼児=実際の幼児、とできる)しまうことが考えられます。
 この母子関係は、自分の無い幼児と自分が思い描く幼児を持ちたい母親とで共依存関係を作ることができると考えられます。
 少し突っ込みますが、母親が自分の思い描く幼児像を実際の幼児に投影することに満足を覚えると言うことは、母親自身がコンプレックスによる相当程度の影響を受けている可能性があると考えられます。例えば、自分の子供を抱っこすることに強い執着をする母親が、自分が幼い頃に抱っこしてもらえなくてさびしい思いをした場合などが、その可能性があると考えられます。母親自身が、その抱っこへの執着が自分の過去の経験に影響されてのもだと意識している場合には、コンプレックスと取り組み解消へと向かう可能性が出るでしょうが、全く無意識的にどうしても抱っこしたくて止められないという状態の場合は、そのコンプレックスに支配された母子関係を継続してしまう可能性があるでしょうし、この母親のコンプレックスに支配された関係の中で子供が母親と分離できていない状態が「マザコン」と言われる状態になると解されます。(※2)子供自身は自分のコンプレックスを問題にするほど自分を作れていないので、コンプレックスと呼ぶことが適当と考えられません。

 一方、マザー・コンプレックスはというと、「マザコン」のような母子一体を作る程度ではないが、母親との関係で生じたコンプレックスが解消されていない状態だと解釈できます。例えば、母親が非常に厳格な人で子供の頃に息苦しさを覚えている子供が、少年から青年期にかけて非行に走ったりする場合、母親に関連して生じたコンプレックスが原因だとも考えられます(母親との関係のなかで生じた息苦しさという感情と、その息苦しさを感じたとき知覚され記憶された様々な物事が無意識の中にあり、息苦しさを感じたり、その記憶されたものから連想される物事に触れたときに、あたかも母親に対して反抗するように、その対象に行動してしまうと考えられます)。
 ですから、前回も述べましたように、マザー・コンプレックスがある場合は、母親との関係は難しいものとなるはずです。コンプレックスの例えでロボットを持ち出しましたように、ある強い感情を伴う体験があったときに、絶縁体が破損し周囲の混乱した回線へ電気が流れてしまい、上手くコントロールできないのですから、母親との関係のみならず、そのコンプレックスに触れる物事のある関係にも影響があるはずです。

 このように、近年放送されたドラマでの台詞やコンセプトのように、“マザコン=母親を大切に思い愛している人”というのはかなり無理があるものだと思えます。

 ここまでで前半を区切って、後半にさらに「マザコン」の背景などへと話を進めます。

(※)『分析心理学』C・G・ユング著/小川捷之訳(みずず書房)
(※2)既述しましたように、コンプレックスは誰にでもあると考えられます。また、赤ん坊への投影も、他の成人への投影も避けられないと考えられます(初対面で印象をもつのは仕方がない)。全くの無意識から影響をもろに受けてしまったり、それが日常に大きな問題を引き起こさない限り、そのつど気をつける程度が丁度よいように私は思います。本当に、深刻な場合は専門家へ相談をすることをお勧めします。また、コンプレックスはわざわざ探し出すようなものだとも思えません。例に挙げたのは、本当に例であって、似たようなことがあってもコンプレックスが原因だとも断定できません。 
 何度も述べたように、心理学からの解釈は参考です。
 また、これは宗教についても共通しますが、心を扱うことは危険を伴います。下手に突っ込んで、藪から蛇を出すことにもなりかねません。心理学に関する資格は、最近議論されているように複雑です。巷にもマス・メディアでも、~カウンセラーという肩書きの人がいますが、カウンセラーという資格を認定する団体が沢山ありますし、なんとなくカウンセラーという肩書きになっている人も見られます。難しいのは、認定する団体が玉石混交である上、肩書きがあってもカウンセリングの能力が保障されるとは言えないことでしょう。
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by sleepless_night | 2005-06-26 12:16 |

勘違いする男と女/「マザコン」問題の前提

 「頼りがい」「レディー・ファースト」という言葉をもとに共依存関係という概念について二回に渡って述べてきました。今回は、「マザコン」という現象について述べたいと思いますが、ここに至って非常に厄介で退屈な問題が幾つかあります。

 「マザコン」という言葉は、約十年前に放送されたドラマによって注目をされ、認知された存在だと思います。それ以前も、嫁姑問題に絡んで男性の性格の問題はあったと思いますが、それに「マザコン」という名称が与えられたことで一気に、嫁姑という女性間の問題から男性の問題と捉えられるようになったと言えるでしょう
 その「マザコン」という言葉は前回述べた「レディー」という言葉と同様に英語です。
 どちらも訳語を当てずにそのまま使われていますが、日本語化の過程で意味が変容されています。
 「マザコン」とはマザー・コンプレックスの略ですが、コンプレックスという言葉の元の意味と「マザコン」にはかなりの違いがあります。
 最近も「マザコン」男性とその恋人、母親の三者関係をテーマにしたドラマが放送されていたようで、その主人公が「母親を大切にしてどこが悪い!」と叫んでいるシーンを見ました(本編を見たことはないので、CMでです)が、母親を大切にしたり、母親と仲がいいこととコンプレックスは結びつきません。このドラマのホームページで、“マザコン=母親を大切に思い愛している”としていますが、それ自体がコンプレックスの意味から外れています
 なぜなら、コンプレックスがある場合は、そのコンプレックスに触れる関係が上手くいかない・自分の意図から外れることになるはずだからです。単に仲のよい母子関係にある男性を「マザコン」と非難している女性の方が、コンプレックスを持っていると考えた方が妥当です。 詳しい話は次回に述べますが、とにかく、母親と単に仲がよかったり、関係が上手く行っていることはコンプレックスと結びつかないはずです。

 さて、“厄介で退屈な問題”を延べておく必要があると考えるので、「マザコン」についての詳しい話を次回に延ばすのですが、その問題とは、コンプレックスという概念を生み出した心理学という学問の持つ問題です。

 心理学は科学なのか?心理学の様々な流れが提供している学説は科学的なものなのか?
 という問題が一つ。
 もう一つは、その学説は、それによって示された人間の正常なあり方(モデル)という倫理学に触れるため、それが倫理学の見地から妥当なのか?という問題です。

 こう書いていて見るだけでも非常に厄介で退屈に感じますが、簡単にでも前提として述べておかないと私が述べようとすることが表せなく、後々の文章と一貫しないおそれがあるので、述べて置きます。

 第一の問題ですが、これは科学とは何かという問題を聞いているのと同じです。そして、その確実な解答は出ていません。幾つかの重要な科学の要件として、仮説と実験による理論構築・その理論を使って実際の現象を操作できるか・同じ実験をして同じ結果を得られるか・仮説と実験が追試できるように詳細な論文になって公開されて他の研究者がチェックできるようになってるか、などがあります。心理学でも心理療法に使われる学説は、この要件のいくつかを満たせないものがあります。一つの学説に反発して、独自の学説を作り、それが一つの理論として心理療法に使われています。
 ですから、分析としては面白いが、その分析が本当に間違いのないものか、同じ人間を治療するための医学と同じ程度に科学的と言えるのかは疑問があると考えられます。
 しかし、だからといって心理学と占いを一緒にしてしまうのも同意できません
 例えば、手相占いをしている人と比較してみます。
 占い師がカルテのような書類を作っているのを私の経験上知りません。
 なぜカルテが重要な違いになるかというと、カルテを作らないと、その人がどんな手相をしていたか、それに対して自分はどんな診断をしたかが残りません。すると、その人に対する占いが外れたときに、原因を追究し、自分の占い理論が間違っていたか、理論の当てはめ方が間違っていたかも分からず、外れたままの自分の占い理論と経験で他の人を占ってしまいます。要は、進歩が無いんです。 外れたことを、相手のせいにすることしかできません。また、占い師に外れた占いの責任を問うこともできません。
 対して、心理学理論を元に治療行為をする場合は、カルテを残さなくてはなりません。
 そうすることで、患者の記録と自分の診断や治療経過が書類で残り、そして上手くいったり、躓いたり、失敗したときに、原因を追求でき、自分の理論と経験を修正でき、また、他の心理学者や医者、臨床心理士などの専門家によって検証されたり、間違っている可能性がある理論の修正情報も共有され以降の治療に生かされます。
 ですので、心理学には自然科学と比べて色々と弱い点がありますが、理論が応用され、百年以上の経験とそれに基づく修正が行われてきた実績を考えれば、少なくとも、一つの重要な人間を分析する視点として認めるべきだと思います。
 又、恋愛をめぐって心理学の見地からも言論がなされていますが、中には還元主義的(なんでも心理学によって解説できてしまう)なものもあります。確かに、説得的で興味深いものがありますが、恋愛(やそれに関連したもの)を心理学だけで事足りるとする態度は受け入れられません。心理学自体の弱みもありますが、視点がどうしても現在の抽象化された個別の関係で話が終わってしまう可能性があるからです。現在、恋愛と言われている行為態度や言論を分析するには、やはり別の人文科学や社会科学からの視点や成果も必要だと考えます。

 もう一つの問題です。心理学の学説や理論の示す人間のあり方(モデル)が倫理的な規範としての役割を担ってよいのか?という問題ですが、私は積極的なモデルとしては認めるべきではないと考えますが、消極的なモデルとしてなら妥当だと思います。
 つまり、“人間は~であるべき”ということを心理学が示すことは妥当ではないが、“~ことをすると・・・となるので注意した方がいいよ”と言うことは妥当だと考えます。
 これは簡単に言えば、明らかに不幸なことを避ける以外は、アドバイスをする程度しか認めないということです。アドバイスですから、聞く聞かないは自由です。それは、前の問題で述べたこととも関係します。つまり、心理学という学問自体のもつ弱点があるので、“~するべき”といえるほどの力は与えないほうがいよいと考えられるのです。心理学の学説や理論が示す人間のモデルの検討のためにも、他の学問分野からの成果が必要だといえます。

 後者の問題は倫理学上の様々な問題と絡むのでサラッと流すものではないのですが、それについては、性交をするのは何歳から許されるべきか?という問題を考えるときに述べたいと思います。

 以上で、「マザコン」問題の前振りは終わります。
 次回こそ本当に、「マザコン」問題を直接扱います。
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by sleepless_night | 2005-06-23 22:07 |

勘違いする男と女/「レディー・ファースト」と共依存の根

 「頼りがい」と共依存について述べた前回の後半部として、今回は「レディー・ファースト」についてです。 
 「レディー・ファースト」は「頼りがい」と同様に、女性にとって好ましい男性の行為態度に含まれるものでしょう。
 中には外国人男性と比較した日本人男性の欠点として、あるいは、外国人男性の優れた点であるとして語る人、言論もあります。

 ですが、直截的な疑問がわきます。
 「レディー・ファースト」って「レディー」であることが前提なのではなかろうか?
 「レディー・ファースト」を求める女性は自分が「レディー」だと自認しているのだろうか?


 「レディー」という単語は、確かに女性一般を指す言葉ではあるのですが、無礼だったり無教養な女性を、皮肉以外で、指すことはないでしょう。
 女性を示すほかの単語との区別は、丁寧な表現であることが主ですが、それはもう一つの区別理由と関連しているはずです。つまり、「レディー」は現在でもそうですが、貴族の妻か娘を示す敬称としての単語であることです。貴族の属する階級で、恥ずかしくないだけの礼儀と教養が求められる女性ということです。
 ですから、「レディー」は女性一般でも、丁寧さを要求される(丁寧に扱うことがふさわしい対象を指す)場合に使う単語であると考えてよいでしょう。
 そうすると、「レディー・ファースト」を受けるには、単に女性であることでは不十分だといえます。

 「レディー・ファースト」を求める女性の中に、自らの中身を問う態度が見られるでしょうか?
 どうも、女性に親切にすることを「レディー・ファースト」と“勘違い”している人が少なくないように思えます。 
 もし、女性に親切にすることが「レディー・ファースト」で、女性であることのみを根拠に「レディー・ファースト」を受ける資格があると考えるなら、それは女性であることを根拠に差別する男性や社会を認めなくてはなりません。それを分かって、「レデイー・ファースト」を賛美しているのでしょうか?

 今から約三十年前に、大きな運動になったウーマン・リブや、現在騒がれているジェンダー・フリーは、この“勘違い”に疑問を突きつけるものと考えてよいでしょう。
 女性である、生物学的に女性に分類される、それを根拠に特定の行為態度を要求すること・されることの問題を提起し・改善を要求していると言えます(思想内部でも大きな幅がありますので、これに当てはまらなかったり、非常に極端なことを求める流れもありますが、基本的にこの生物学的性別の社会での意味を問い直す姿勢は共通しているはずです)。
 生物学的に女性か否かは子供を産む性か否かが判断要件として決定的な価値を持ちます。ということは、生物学的に女性であることが重視される社会は、女性に子供を生むことを義務的な役割だとみなす社会だといえます。それは個々の女性の生き方を、個々が望むようにできない社会だと言えます。産まない女は女として間違っていると見られる社会が、女性にとっても男性ににっても好ましいとは思えません。

 つまらない話をしましたが、要は、「頼りがい」と共依存と同じ根を持っていると言うことです

 「頼りがいのある」男に「頼り」たい女と、「頼りがい」を持ちたい男、「頼りがいのある」が男のほめ言葉として自然に取られる社会は、“勘違い”した「レディー・ファースト」と同様に、その個々人のあり方以上に、男であること・女であることを理由に推奨される行為態度が重視されるということです。
 そこで、今までと違った方向で生きたいと思っても、性別を重視する態度が作り出した共依存関係にあったなら、阻害しあうでしょう。
 「頼りがいのある」男は自分の支配する環境に女を閉じ込め、「頼り」にしたい女は閉じ込められて安心感を得る。
 “勘違い”した「レディー・ファースト」を賛美して、自分が「レディー・ファースト」を受けるに値する人間かを自省しなければ、「頼りがい」の孕む共依存関係を推奨し、自分もその関係へと陥る可能性があるはずです。女なんだから「頼り」たい、女なんだから「レディー・ファースト」されたい(されるべきと考える)人には、男なんだから「頼りがい」を持ちたい、男なんだから「レディー・ファースト」したい人がピッタリです。お互いに性別を持ち出した関係で依存しあえばよいのかもしれません。
 ですが、共依存は共依存です。お互いにその関係でお互いを縛りあう可能性が存在しますし、態度の持つ意味を意識して変えなければ、新しい関係も共依存的なものになるでしょう。
 一つの共依存が苦しくなったり、依存が思うように行かなくなって、別の新しい共依存へ渡っても、同じことになる可能性が高いはずです。
 
 自分が「レディー・ファースト」を受けるに値する人間だと自信がある女性には、言うことはありません。それが“勘違い”でないことを祈りましょう。



注)女性に親切にするなということを言っているのではありません。
 女性と言う性別であることを理由に親切にすること、親切にすべきだと思うことが、危険を胎すると述べているのです。
 これは、別の問題を述べる際に詳しく述べますが、「レディー・ファースト」を求める女性の態度が、相手にパートナー(共働者)ではなく、ペアレント(親)やプロテクター(保護者)であることを求めるように思えるときがあるのです。
 また、これら外国語の流入と、それらを日本化してしまうことで生まれる様々な問題についても、折に触れて述べて行きたいと思います。

注2)今回は「レディー・ファースト」を中心として話をしたので、女性について問題の比重を置いてしまいました。 次回は、この反対に男性のマザコン問題について述べたいと思います。
 

 
 
 
 
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by sleepless_night | 2005-06-19 15:26 |

勘違いする男と女/「頼りがい」と共依存

 タイトルの中で、触れていないテーマ“性”に踏み出します。性といっても、性交についてだけ述べるのではありません。
 よく知られているように、“性”という一つの言葉でジェンダーやセクシュアリティやセックスがくくられてしまっています。性教育や性の倫理などの話題になると、とたんに混乱したり噛合わない話が生じるるのは、この言葉の区別の無さが一つの原因のはずです。特に、長い間、旧来型の組織にどっぷりとつかって生きてこられた男性やその配偶者の方や、そのような両親の強い影響下でその態度を内面化した人は非常に意味の分からない話に聞こえるでしょう。
 「男が男らしくて何が悪いんだ!」や「ジェンダーフリーなんてやるから社会が乱れるんだ!」や「オカマが増える」「すぐにセックスして未婚の母が増えたらどうする!」のような、殆ど意味のない感情の雄たけびを発する人は、そのような人たちなのでしょう。どっかの県知事選に出ていた“青春スター”などは典型で、理屈ではなくて、自分の人生の肯定感の為にその雄たけびを上げているようにしか見えませんでした。

 実際、この区別の上で話しをすることは慣れないと非常に面倒です。その論理的帰結が実際に自分が経験することになれば、分かっていても混乱するでしょう。
 でも、この区別がないと、性をテーマとする話のかなりの部分ができなくなります。
 ですので、このような話も当然しますが、私は別のもっと直截的な話についても述べたいと思います。
 つまり、「恋愛」です。

 テーマには“性”としかあげませんでしたが、実は、「恋愛」というものやその帰結の一つである「結婚」というのが“性”というテーマを挙げた重要な動機です。“恋愛”とテーマに挙げなかったのは、それよりも広い話ができなくなることもありますが、単に見てくれが悪かったからです。

 ですので、面倒な分類をつかって、性教育がどうだとか、とうのは私にとってかなり副次的な話題です。
 「恋愛」「結婚」という出来事について、それを形成する(法律婚の場合)男女の関係についての考察と妄想を、これから断続的に述べてゆきます。
 
 ****************

 今回のタイトルである“勘違い”と言う話についてです。殆ど愚痴めいていますが、初回ですので。

 「頼りがいのある」男と「レディーファースト」されたい女の“勘違い”

 「頼りがいのある」と言うのは、ほめ言葉です。そして、私の経験上、それは男にとってのほめ言葉です。
 「あなたって、頼りがいの無い人ね」と言われると、大抵の男は、自分のふがいなさを感じ、自分に欠点があるものだと感じるでしょう。

 しかし、「頼りがいのある・ない」という言葉を使う主体(女)は、そもそも、何を根拠に頼ろうとする、頼る権利が自分にはあると言うのか、どうして「頼りがいのある」ことが男女関係で女性が男性に求める自然なものとして採られているのか、疑問が生じます。(日本を含む世界の多くの地域で男性が社会の主導権をとってきたために、女性は男性に頼る生き方しかできなかったのは間違いでないでしょう。現在でも、男性が主導権を握っているのは程度の差はあっても変わりありません。しかし、個々の男女関係を見たとき、60年近く以前のような、頼るしか生きる術の無い時代でも環境でも現在はありません。一定以上の生活を単独で営むことは十分に可能です。確かに、「頼りがいのある」男性に頼って生きる方が得・楽である可能性が高い状況はあるでしょう。しかし、「頼りがいのある」を男性についてのほめ言葉として流通させてきた過去の社会状況と現在は、過去の社会が強いてきた態度しか女性に許されないほど同一のものではありません。したがって、頼る権利が自明のものとして女性にあることは認められません。頼ることは、現在において、選択です。)

 「頼りがいのある」男と「頼り」たい女の関係は、共依存関係とも言えます。
 一見、依存という言葉が当てはまるのは女の側だけのように見えますが、「頼りがい」を持ちたいと思っている男の側も、その気持ちを持つ(満たす)ために、自分に依存してくれる女を必要としてる(依存)しているのです。
 これは、相互依存とは違います。
 違いは“人”と言う字のたとえが分かり易いでしょう。
 “人”と言う字を金八先生は、一本の長い線がそのままだと倒れるから、短い線が支えていると解説していたように記憶しています。これは、「人は一人では生きていけないから、皆で仲良くしようね」という説教のトリビアルな前振りです。非常に聞こえが良いのですが、どちらも相手がいないと“人”として存在できていないことを表しています。これが共依存です。
 相互依存は“人”として存在できた上で、経済的や生活の質などの為に、“人”と“人”が相互に助け合うことです。依存という言葉はインパクトがありますが、これは現代社会の厳しい経済環境のなかでは共助という程度以上に強い支えあいが求められるから、印象付けるために使われたのでしょう。平井堅さんの『life is・・』について述べた以前の文章の結論に出したのはこの関係とも言えます。

 勿論、「頼りがい」という点だけで共依存関係かどうかを判断することはできません。
 ただ、その言葉を使ったり、男女関係でほめ言葉として流通しているということは、共依存関係に陥りやすい傾向があるのではないかと私は考えます。

 共依存はどうして避けるべきだと言うのか?
 それは、依存という状態は何を対象にするにせよ、生活に問題を引き起こす可能性が高いからだと考えられます。
 アルコール依存の場合は、アルコールがないと生活ができなくなり、酷くなれば妄想を起こしたりしてその人の人生をおくれなくなります。つまり、アルコールに人生を支配されます。
 共依存も、(今回の例えの場合)「頼りがいのある」と思いたい男と「頼り」たい女の、どちらか一方が、自分の人生を今までやってきたことと違った方向に進めたいと思ったときに、それをできなくしてしまうおそれがあります。つまり、「頼りがいのある」男は相手の女を自分に頼らせておこうとする可能性があるでしょうし、「頼り」たい女は相手の男がいないと困るので男を「頼り」にしている自分がいないと不快になるようにコントロールしようとする可能性があります。又、二人ともに今までと違った方向に進みたいと思っても、共依存関係が成立していたということは、二人で一つの“人”と言う字を作っていたわけですから、離れたくても、離れたとたんに立って(普通に生活でき・人生を思った方向に進める力をもつ)ことができないで、新しい共依存の対象を見つけることしかできない可能性があります(変な相手とばかり付き合ってしまう人は、この可能性が現実化していると考えられます)。
 どちらも、自分の人生をお互いの依存で(悪い方・苦しい方に)コントロールしあっています。
 どんな人間も自分の人生を家族や他の人との関係で制約されることはありますが、共依存の場合はお互いに縛りあってお互いに苦しい状態になる可能性が高いといえます。

 人から「頼り」にされることの喜びは、自分が存在する「意味」「目的」を感じる時とも言えます。
 しかし、前回までに述べてきたように「意味」「目的」にも二つの用法があり混同は避けるべきであるのと同じく、「頼り」と言う言葉からも二つの関係を導き出されるので、それを意識しておくことは必要だと思います。
 幸福な“勘違い”が続き、そのまま終われることは、多くの幸運がないと難しいはずです。
 そして、現代社会はその幸福な“勘違い”を支える幸運が過去の時代のようにはありません。

 「レディー・ファースト」については次回述べます。
 

 

 
 
 
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by sleepless_night | 2005-06-18 14:52 |

女子アナものAVではなく、女子アナがAVに出る日

テレビを見ているとき、私はテレビ画面に写っていない場所のことを想像します。
 真面目に原稿を読んで、深刻そうな顔をしているアナウンサーは上半身だけスーツを着ていて下半身は裸じゃないかとか、かなり変態じみた想像をします。

 直接見ることのできるスタジオの中にいる人しか、アナウンサーは下半身裸かどうか分からないはずなのに、多くの人はアナウンサーが下半身裸かなど疑問をもたないでしょう。
 もっと一般的なことを言えば、ドラマで出てくる室内のシーンでは天井がないこと(がある)を意識することはないでしょう。
 
 私達は、テレビを見るとき、「~のはずだ」という信頼でもって、見えない部分を補っています。 アナウンサーは上半身しか映ってなくてもズボンをはいている「はずだ」。ドラマに出てくる室内に天井はある「はずだ」。ということです。
 テレビは「~のはずだ」がないと、成り立たないメディアということです。
 
 その「~のはずだ」が最近、急速に融解してきています。

 端的には、CMに出ている人が、報道・情報番組に出ていることに表れています。

 CMとは、CMを出している企業の宣伝です。そこに出演することは、その企業の利益のために働くということです。さらには、その宣伝する商品などについて一定の責任を負うことになります。CMに出ることはただの仕事であって、出演者の人格とは全く関係ないということはありません。社会保険庁の広告に江角さんが出ていたにも関わらず、江角さんが未納だったときのことを考えれば理解されます。もし、CMに出ることがただの仕事で、出演者の人格に関係なければ江角さんの未納は社会保険庁のCM出演の障害にはならないはずです。社会保険庁のCMに出ると言うことは、出演者の江角さん自信が年金の掛け金は払うべきだと思っている「はずだ」ということです。同様に、コナカのCMに出ている松岡修造さんはコナカのスーツが良いと思っている「はずだ」とみなされますし、セコムのCMに出演している長島さんはセコムが信頼できると思っている「はずだ」とみなされますし、アメリカンファミリーのCMに出ている矢田亜希子さんはアメリカンファミリーの保険が優れていると思っている「はずだ」とみなされます。
 勿論、それらを仕事でやっていること(建前という要素があること)は視聴者は知っているのですが、それでも「はずだ」という思いが私達にあるから、江角さんはすさまじい非難を浴びたのです。

 CMと対極にあるのは報道です。報道を語る際に公平中立(※)と言う言葉が持ち出されるのを聞けば分かるように、報道をするにはCMのような一私企業の利益にたった姿勢ではできません。 報道する人間は、そんなに優れているとも素晴らしいとも思っているわけではないのですが、それでも私達は報道に携わる人を公平中立な「はずだ」と言う約束めいた考えを捨ててはいないはずです。報道番組を見ると言うときの態度は、社会で起きていることを、ありのままの事実や、それについて公平中立な立場で分析している「はずだ」という態度が基本として存在します(メディア・リテラシーはこの「はずだ」という基盤の上で展開されるものだと思います。何故なら、もともと公平中立「のはずだ」という基盤としての信頼・期待がなければメディア・リテラシーが要請されることはないからです)。
 報道番組でこのような「はずだ」という期待や信頼の構造がなくなるということは、電波の有限性やテレビ・メディアの強い影響力から導きだされた公共性と、それを理由とした寡占体制を否定することになります。民放がスポンサーによって支えられているということがあっても、報道において公平中立である「はずだ」と言えない(報道ができない)のなら、寡占を維持する根拠を失います。

 CMの出演者が報道番組に堂々と出ているということは、「はずだ」というテレビを支えている約束が無くなったということです。

 一私企業の商品を良いものだと思っている「はずだ」という人が、公平中立な「はずだ」というのは無理です。
 例えば、保険のCMでアメリカンファミリーに出ている(アメリカンファミリーの保険が良いと思っている「はずだ」)矢田さんが保険業界の報道をすること(公平中立である「はずだ」)は両立できません。保険会社のCMに出れば、その保険会社をはじめ、保険業界全体の利益と関係します。その会社や業界の利益のために働いている人が、公平中立であることはできません。できる可能性が無いのではなく、見ている側が「~のはずだ」という信頼を持つことができないのです。矢田さんは保険会社のCMに出ている以上、保険会社の利益関係者「のはずだ」としか見ることはできませんし、発言もその制約をうけます。報道に求められる「はずだ」を満たすことは不可能です。

 ラサール石井さんは、何の疑問も無かったのでしょうか?
 ラサールさんは「~のはずだ」の融解現象の象徴だと、私は捉えています。
 ラサールさんが嫌いというのではありません。好き嫌いという感情的な話ではなく、本当にテレビ自体が支えられてきた構造(視聴者が「~のはずだ」と信頼を持てる)が軽々と無化されていること、それにたいして何も疑問が上ってないメディア全体に対して唖然としているのです。ラサールさんが出ている報道番組のあとに、ラサールさんが出ているCMが流れるのを見るのは、本当に信じられない光景です。

 もう、ここまでするならテレビに出る人は、俳優とか歌手とか芸人とかキャスターとかアナウンサーとかの区別を一切なくしてしまったほうが良いはずです。
 そうすれば、視聴者は明確に「~のはずだ」という態度を放棄できます。
 アナウンサーで採用するとか、芸能人として事務所に所属するとかを一切やめて、全て“テレビに出る人”という枠で採用をするようにすれば分かり易くなります。
 現状でさえ、それと似たようなものなのですから。
 俳優は演技ができるから俳優になっているのではないし、歌手も歌が上手いからなるのではない、アナウンサーは日本語が正しく使えるからでもないし、芸人は芸があるからでもない。
 この人は「~のはずだ」という態度を視聴者からなくし、ただ画面に次々と表れる“テレビに出る人たち”の戯れを見る。
 
 双風亭日常ではhttp://d.hatena.ne.jp/lelele/20050616とマツケンとヒトシくんの壊れ方についておっしゃっていますが、これらも、「~のはずだ」の融解という視点からすれば極めて当然の出来事のはずです。
 つまり、これだけ無茶苦茶にテレビを支えてきた「~のはずだ」という区切りを侵犯する行状が出現しても見ている側も作っている側も問題だと思っているように見えない。マツケンさんもヒトシくんもメディアの中で長いキャリアを持ってきた人たちですが、この現状を見て、もう今までの約束ごとを気にしなくてもしたいようにしても問題ないということを悟ったのでしょう(ヒトシくんはスーツのCMにもともと出ていましたけど)。
 時代劇俳優は時代劇に出る「はずだ」とも、司会者はおちゃらけた番組にでない「はずだ」とも視聴者も製作側も期待・信頼していないということが分かって、やりたいようにしはじめたというのが“壊れて”見えるのであって、“壊れて”いるのはマツケンやヒトシくんではなくテレビメディア自体だと考えるのが自然です。

 ですから、もう女子アナもののAVという世界は終わりになってもいいのです。
 これからは、女子アナがAVに出たり、AVに出ている人がニュース原稿を読む時代になります。
 その時には、アナウンサーという存在自体がもっていた「~のはずだ」という考えがないのですから、だれがニュース原稿を読もうと関係ありません。
 視聴者側も、その原稿を読む人間の属性に今までのような「~のはずだ」という期待を持っていないのですから。
 AVに出演して、男優と激しい性行為に及んでいる女性が、ニュースを読む、そのニュースが過激な性教育を非難する議員の発言の紹介であったり、未成年の性交経験についてであったりしたら、それを見る視聴者にとってまたとない脱「~のはずである」の機会となるでしょう。
 テレビに出ている人が何をし、何を言おうと、そこに立場や役割に要請され、期待される属性は一切ないとありありと実感されるはずです。
 現状と程度の差の問題であって、本質は一緒なのですから、そんな日が来ても、私は驚きません。

(※)公平中立とは、真ん中に立つと言うことではありません。独立性を意味するものです。
 人間が物理的に存在する以上、真ん中に立つとことはありえません。どこかに立つことしかできない人間が、真ん中に立ったりはできません。どこが中心かも、どの規模や時間で測るかで異なるのです。できるのは、独立した自分という立場から、自分がその責任を持つ形で、誠実な資料読解と論理展開をすることです。
 今のマス・メディアの使う公平中立は、単にどっちつかずの状態で責任を取らないようにするための欺瞞であり、公平中立を口実にメディア批判する議員は単に自分の言うことを聞かないことへの感情的反応にすぎないと、私は思います。
また、“ありのまま”の事実と表現しましたが、これも同様の理由でありえません。
 何か出来事が生じたとき、それを見聞きした人が観察・記憶・表現する過程を担う以上、“ありのまま”はありえなくなります。これはビデオなどの記録媒体をつかっても同様です。その記録媒体も物理的に存在する以上、どこから・いつ・どのくらいの間、記録するか、その映像・音声をどうやって編集するかで、“ありのまま”はありえなくなります。
 
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by sleepless_night | 2005-06-17 22:13 | メディア

平原綾香の「意味」

 前回は平井堅さんの『life is・・』に触れて「意味」「目的」の二つの用法について述べましたが、この二つの用法の混用という形があらわになっているのは平原綾香さんの歌う『jupiter』です。この作品の作詞は吉元由美さんという方なので、歌詞について述べる際に平原さんのお名前を出すのは筋違いともいえますが、作品自体が平原綾香さんと切り離せないような認知のされ方をしていると思いますので、間違いともいえないでしょう。

 さて、歌詞について話を進めます。「意味」「目的」の混用を示す前に、歌詞の分析をします。

 まず、出だしであり、曲の最も印象深い(これは平原さんの声によるものが極めて大きいと感じます)“everyday l listen to my heart ひとりじゃない”とあります。
 これが何故、“ひとりじゃない”のか?
 歌詞からこの理由となる部分を抜き出してみます。

 “深い胸の奥でつながってる”
 “この宇宙の御胸に抱かれて”
 が直接的なものです。
 
 さらに、“私を呼んだなら どこへでも行くわ”“ありのままずっと愛されている”“いつまでも歌うわ あなたのために”も間接的な理由と言えるでしょう。つまり、“呼んだなら”と言うことは、コミュニケーション可能な位置に“私”がいることになりますし、“ずっと愛されている”ということは、距離的にそばにいなくても、“ずっと”気にかけてくれている存在がいると解釈できるので心理的には“ひとりじゃない”といえます。これらは“深い胸の奥でつながってる”と同じことを言っていると考えてよいでしょう。距離的にそばにいなくても、気持ちの上で“つながって”“ひとりじゃない”といっていると考えられるからです。
 
 “この宇宙の御胸に抱かれて”というのも“listen to my heart”“命のぬくもり感じて”と合わせて考えると“つながって”と同じことになります。
 “listen to my heart”は心音を聞いているいることですし、“命のぬくもり”というのも心臓から送り出される血液の暖かさです。
 “宇宙”と一見関係がなさそうですが、そこで「人は地球に生まれ、地球は宇宙に生まれた。したがって、宇宙の営みと人間の営みは究極的に一致している」と言う考え、「自然の秩序と人間の秩序は同じだ」という考えを媒介すれば、心拍や血液という人体と宇宙は関係します。
 “果てしないときを超えて輝く星が出会えた奇跡を教えてくれる”という部分からも、“輝く星”という宇宙の仕組み・法則と“出会えた”という人間の営みを一致させようとする考えが読み取れます。<※>
 つまり、人間は“宇宙”とも“つながって”いると言っていることになります。

 以上から、“ひとりじゃない”のは、“呼んだなら どこでも行く”“ずっと愛”してくれるような存在がいるので、心理的に“ひとりじゃない”ことと、“宇宙”と“つながって”いるので理論的に“ひとりじゃない”と言うことを表していると考えられます。

 ここまでで、「意味」「目的」の混用の基礎が現れています。

 「意味」「目的」について述べてきた文章で繰り返していますが、「意味」「目的」には二つの用法があります。用法①は超自然的・超人間的存在(神さまのような存在)や法則の示す「意味」「目的」です、用法②は人生をコントロールできたり、意図した結果への影響力を持てたときに感じる「意味」「目的」です(例えば、試験に受かる「目的」で勉強して合格したときに、「意味」があったと感じる)。
 
 この二つの用法からすれば、“宇宙”と“つながって”いることは用法①と関係します。
 上述したように、“宇宙”と“つながって”いるためには「自然の秩序と人間の秩序は同じだ」というような考えが無くてはいけませんし、これは“輝く星”が“出会えた奇跡を教えてくれる”のですから、『jupiter』はこのような考えを持っているといえます。そして、用法①は法則の示す「意味」「目的」ですから、“宇宙”と“つながって”いるとすれば、そこで使われる「意味」「目的」も宇宙(そら)という自然の法則(現在、人間と自然の間に共通した究極的な法則は見つかっていませんから、ここでの自然とは超自然的と考えていいでしょう)の示すもの、つまり、方法①の「意味」「目的」となります。

 そして、この歌詞では正面から「意味」「目的」に触れた部分があります。
 “愛を学ぶために 孤独があるなら 意味の無いことなど おこりはしない”です。
 この“意味”とは用法①の「意味」であると考えられます。

 ところが、“わたしのこの両手に何ができるの 痛みにふれさせて そっと目を閉じて 夢を失うことよりも悲しい事は 自分を信じてあげられないこと”とあります。
 これは、明らかに用法②の話です。
 つまり、自分という小さな存在ができることは、大きな社会や歴史の観点からは小さく、「意味」の無いことであるように感じます。その無「意味」さは“痛み”を感じさせます。“夢を失うこと”があれば「目的」を失い、“痛み”はなおさらでしょう。そこで、“自分を信じて”と励ましがあります。

 この歌詞全体はキー・フレーズである“ひとりじゃない”という部分に表されるように、超自然的・超人間的な次元を表現しようとしています。
 “宇宙”と人体の“つながり”という超自然的な話と、“御胸(みむね)”や“ありのままでずっと愛されて”という明らかなキリスト(超人間的存在)のイメージの話をしています。
 しかし、同時に“わたしのこの両手でなにができるの”“夢をうしなうことよりも悲しいことは 自分を信じてあげられないこと”という一般の人生の次元、生活の次元での話しがなされています。超自然的・超人間的な話が全体としてある中で、突然に“夢”という人間的・生活的な話が出てきてしまいます。

 違った次元の話を同じ歌詞の中、それも全体を無視する形で混ぜています。
 ですから、さっと聞くと“意味のないことなど”の部分の“意味”が用法①か②か分からなくなります。

 用法①の「意味」のように、人間を超えた存在などが示す「意味」(神様のような存在が、人間の生きる「意味」は~だ、と示す)なのか、用法②のように、私達が生活するなかでやってきたことの成果が感じられたときに言う「意味」なのか、迷い易くできています。
 
 この作品の曲は、ホルストの代表的な作品で、クラシックの定番であるだけに優れたものです。歌手である平原さんの声も独特で一度聞けば忘れない面白みがあります。

 しかし、歌詞はいただけません。あまりにも安易にニューエイジ的な概念を使いすぎている上に、それを貫徹もできていません。繰り返しになりますが、“自分を信じてあげられないこと”と“愛を学ぶために”につながりが無さ過ぎます(次元の違う話を入れているのですから当たり前です)。
 さらに言うと、“宇宙に抱かれて”“つながって”いるは子宮をイメージさせます。“ひとりじゃない”状態がこれでは、子宮回帰願望と同じです。子宮から出た上で、独立した個人としての孤独感や苦しみとそれを乗り切る希望を歌った平井堅さんの『life is・・』と対称的です。
 
 『jupiter』の印象で、以降の平原さんの音楽を能動的に聴いていませんが、もう少しきちんとした作詞の作品があれば聞かず嫌いを払拭して聞いてみたいです。

<※>このように宇宙や自然の内部にある秩序や法則にひそむもの(現代の科学や医学では分かっていない。西洋的な分析思考ではなく、東洋的な全体思考)こそ、人間に必要であるという考えは1970年代に登場したニューエイジと言われる思想潮流。
 耳障りの悪くないことが多いですし、日本人には馴染みのあるようなフレーズが多いのですが、それに完全に入り込む態度は受け付けられないでしょう(これはニューエイジに限らず思想全般についての日本人の態度ですが)。
 『jupiter』はこの日本人の思想への無自覚な態度や感覚で受け入れたり拒んだりする傾向をよく表しているとも言えます。 

 
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by sleepless_night | 2005-06-17 20:37 | 宗教

平井堅に見出した希望 人生の「意味」「目的」part3

 二回連続して人生の「意味」「目的」について述べてきました。

 ここでは、そのpart2で述べた内容を平井堅さんの『life is・・』を用いてより明確に述べてみたいと思います。

 読み直すのが面倒だったり、読んで頂いてなくても大丈夫なように、軽く前二回の内容を述べます。
 まず、人生の「意味」「目的」という言葉には二つの用法があること。
 それは、用法①:超人間的・超自然的な存在や法則の示した「意味」「目的」です。具体的には、神様が人生の「目的」は~だと言った、というようなもの。
 用法②:人生をコントロールする力や意図した結果への影響力を持てたときに感じる「意味」「目的」です。具体的には、一生懸命仕事をして成功したときに「目的」に「意味」があったと言ったり、失敗した時に「意味」が無かったと言うときの「意味」「目的」です。

 そして、日常で多くは用法②を使うが、混用してしまうことがあること。また、二つの用法に基本的な共通点があるので用法①の「意味」「目的」を持ち出さなくても、人生の「意味」「目的」を持つことが出来ると言うことを述べました。


 さて、『life is・・』へ話しを進めます。
 http://music.yahoo.co.jp/shop?d=p&cf=52&id=248066

 まず、“どうして僕らはこんなに 息苦しい生き方選ぶの”とあります。
 これは、実存主義的です。息苦しいというのはネガティブな状態です。“選ぶ”と言う言葉は普通、ポジティブな状態に使います。つまり、“選ぶ”というのは自分が“選ぶ”のですから、自分を苦しめることはしないと考えるのが普通です。しかし、どのような結果や状態であれ、自分の置かれた環境で、そこで可能な選択肢を“選ぶ”ことで自分の人生は成り立っているというのは一つの見方(実存主義)からは正当なものです。
 私は、この“選ぶ”という言葉と“息苦しい生き方”という言葉が並ぶのを違和感とともに、人生の“息苦しさ”を的確に表現したものだと思います。自分は自分が心地よくあるように“選ぶ”はずなのに、現実は“息苦し”さを感じることがある。自分が“選んだ”結果であるだけに、それはよけい“息苦し”さがあるのです。

 そして、さらにこの歌詞の重要なポイントであり、私が前回に述べたことと関連するのは
“答えなど何処にもない 誰も教えてくれない でも君を想うとこの胸は 何かを叫んでる それだけは真実”
“永遠は何処にもない 誰も触れることはない でも君が笑うとその先を 信じたくなるそれだけが真実”
“答えなど何処にもない~痛みを抱きしめるそれだけが真実”
 というサビの部分です。
 サビが重要なのは当たり前ですが、その内容に、私が前回に述べたことと共通する考えがあり、惹かれるのです。

 ここでは、“答えなど何処にもない”“永遠は何処にもない”とあります。
 つまり、私の述べるところの用法①「意味」「目的」(神などの超人間的な存在や法則の示した「意味」「目的」)は“ない”ということです。
 “答え”と言うのは“永遠”と対句になっているので永遠性のある“答え”だと考えられ、超人間的な存在や法則など(そこまで明確に意識しなくても、従うべき言葉だったり、間違いのない教えのような意味)を指すと解せます。
 そして、“答え”が“ない”とするならどうするかと言うと、“君を想うと何かを叫んでる”“君が笑うとその先を信じたくなる”“痛みを抱きしめる”としています。
 これが前回述べたことと重なります。
 用法②の「意味」「目的」(仕事で成功したり、試験に受かったりなど、「目的」に「意味」があると想ってした時)に、虚しさを感じることがあり、それは人間が有限の存在だからだと述べました。一人の人間がやることは、自分の思い通りに出来たとしても社会全体からは小さく見えたり、何をやっても結局死んでしまうということが虚しさを引き起こすと考えるのです。
 そこで、用法①の「意味」「目的」のように、神や仏などの教え、宗教団体の教義が持ち出される余地があるのですが、用法②の「意味」「目的」でも工夫をすれば足りると述べました。
 その工夫こそが、この歌詞のサビが表していることと同じだと解するのです。
 工夫とは、用法②の「意味」「目的」でも、自分中心ではなく、他者との関係に中心を移すこと(それまで人生の「目的」を自分が仕事で成功し金銭を得、地位を上昇させることや、自分が勉強して試験に受けることとして「意味」を見出していたことから、「目的」を自分が他人と良い関係を築くことから自分の人生に実りを見出すことで「意味」を見出すことに変える)ですが、この歌詞でも“君を想う”という他者との関係を重視することによって、“答え”“永遠”が無くても、それが無いことから来る“痛み”をも“抱きしめ”て“その先”へ進むことができるとしています。

 平井堅さんの他の作品、特に、恋愛をテーマにした作品では、このような考え方とは反対のもの(所謂オンリーユー・フォーエバー的な歌詞)が多いので、平井さん自身の意図は別にあるのでしょう。
 しかし、この作品を独立してみれば、私の考え方と似たものだと思っています。

 
 
 
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by sleepless_night | 2005-06-12 13:57 | 宗教