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『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論

 ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性の※1で述べましたように、「自己愛」をめぐる補論です。
 といっても、基本的には精神分析学の範疇の補足で、それに絡めて少し拡張した話をしたいと思います。

 まず、自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」とは、幼児的期の自他未分離状態での、自分=世界という認識に基づき、自分の欲求が自分によって全て満たされるという全能感を意味すると述べました。
 自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」の意味はこれでよいとして、考えてみると、そもそも「自己」も「愛」も、このような否定的な意味合いを持っていないのにどうして「自己愛」として二つの言葉が組み合わさると否定的な意味に使われてしまうのか?疑問が沸きます。
 これは前回の※1で述べましたが、「愛」と言う言葉がリビドー(性的欲動・衝動)の訳語として当てられてしまったことが第一の原因なのですが、「自己愛」と言う言葉には精神分析でも悪い意味ではなく、寧ろ必要なものとの意味もあるのです。

 それは、自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」のような幼児的なものと区別するために、「健全な自己愛」と呼ばれます。
 現代アメリカの精神科医O・F・カーンバーグによる二つの区別を見てみます(※)と

[幼児的な自己愛]非現実的/正常な自己評価の欠如/他人に助けを求められない/他者を脱価値化/冷たい/無遠慮で過大な要求/非現実な愛の希求
[健全な自己愛]より現実的/安定した自己評価/愛情・信頼感/他者との関係が安定/暖かい/現実的な要求/現実的な愛の希求

 としています。
 「幼児的な自己愛」は自分の全能感に基づくので、非現実的で、実際の自分の力を無視した誇大感をもち、他者を道具のように使い、過大な要求をすることになると考えられます。
 これと、「健全な自己愛」はどう違うか、どうして同じ「自己愛」なのに対照的な特徴を導くのか?
 それは、自己愛性パーソナリティ障害の原因で前回に述べたことと一致すると考えられます。
 繰り返しますと、誰しも幼児の段階では、全能感を持つが、やがて自分と他人(保育者などの、自分の欲求を満たしてくれていた人)が違う存在であることを認識し、その不安・恐怖の中でのその事実の認識・受容が上手くできたかどうかが関係すると考えられます。即ち、その自分と他人の分離の認識・受容時の環境が十分に保育的で安心できるものではないかったり、褒めたり、出来たことを幼児と一緒になって反芻し確認してあげる人がいないと、耐え切れずに全能感に退避してしまう。また、適当な手本の存在がないと、全能感に源を持つ幼児の力が全能感のままに残ってしまうと考えられます。
 これが「幼児的な自己愛」だとすると、「健全な自己愛」は自他の分離を認識・受容するときに十分に保育的で安心できる環境があったり、手本となる存在が近くにいたことで全能感が全能感のまままでは残らずに、その後の自発性の源として収まった結果だとなります。
 このように、二つの「自己愛」は同じものであったのに、一方は発展の機会を逃し、他方は時期と発展の過程が上手く合致したことで違いが生まれたと考えられます。
 但し、留意すべきは、「健全な自己愛」にも「自己愛」が必要だと言う点だと考えます。
 ここで言う「自己愛」は「幼児的な自己愛」という意味ではありません。
 文字通りに、「自分を愛すること」です
 詳しくは後の「愛」についてと言うブログ自体の本論的な話に回しますが、ここでは日本でも有名なエーリッヒ・フロムの言葉(※1)を引用して説明に当てさせてもらいます。
 “他人に対する態度と自分に対する態度は、矛盾しているどころか、基本的には連結しているのである。中略。自分自身に対する愛の態度は、他人を愛することのできる人すべてに見られる。中略。もし、ある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身を愛している。もし、他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。中略。利己主義と自己愛とは、同じどころか、全く正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。中略。自分自身をあまりに愛しすぎているかのように見えるが、実際には、真の自己を愛せず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのである。”
 フロムの述べている「自分自身への愛」(自己愛)という広い範囲の中にカーンバーグの言う「健全な自己愛」も含まれると考えられますが、正確にはフロムの言う「自己愛」は“自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定する”という“肯定”の意味合いが強いものです。
 そして、この“肯定”こそが、「幼児的な自己愛」という全能感と「健全な自己愛」とを分けると考えら得れる育成環境での幼児の安心感を支えるものだと考えられます。ただし、“肯定”といっても単純に認めることを意味するのではないと考えられます。なぜなら、単純に幼児の行動を何でも認めることとすると、幼児が適切な手本を持たず、無制御に全能感を発揮してしまい、「幼児的な自己愛」にとどまってしまうと考えられるからです。“肯定”は、「健全な自己愛」のための基礎であり、それは、幼児の全能感を適当な目標へと向かわせるための支援や制御の基礎とも言える広いものだと考えられます(“肯定”感があるから、自分が自分の思うように行動できると同時に、保育者などからの注意なども受け入れる精神的な余裕がある。)。
 
 この“肯定”の意味するものを考える上で『世界で一つだけの花』を例にしてみると分かり易いかもしれません。 
 この曲の最後に“No1にならなくてもいい、もともと特別なONLY ONE”とあります。
 この歌詞は破綻しています。その破綻振りが、“肯定”や「自己愛」という言葉をめぐる混乱と合致しているので、理解の助けになると考えます。
 さて、どこが破綻しているかといいますと、“特別なONLY ONE”という部分です。
 この曲の歌詞全体を見てみますと
 “この中でどれが一番だなんて、争う事もしないで”“どうしてこうも比べたがる 一人一人違うのにその中で一番になりたがる”と言うように、個人個人を比較する以前の段階(比較不能の段階)で認めようとするメッセージを伝えようとしていると解釈できます。
 にもかかわらず、“特別な”“ONLY ONE”という比較を前提とした言葉を最後の最も重要な部分で使ってしまっています
 “特別”というのは、文字通り、他とは“特”に“別”であることです。比較表現の最たるものです。
 “ONLY ONE”とは“ONE”であること、一つしかないことを意味し、一つしかないことに価値を求める発想です。一つしかないことに価値を求めるということは、一つではないと価値がないことを意味します。そして、一つしかないといっても、ただ一つしかないことには価値は生まれず、それが求められる・需要があるのに一つしかないことに価値を見出すことを意味します。“ONE”という数詞を使っている段階で、数という抽象化の最たるものを使った段階で、比較以前の話にはならないのです。(※2)
 比較する以前の段階、比較不能の段階での個人を認めることは、フロムの言う“肯定”の概念と一致すると考えられます。
 要は、自分が存在するということだけ、それのみを根拠として、自分を“肯定”する発想です。 “ONLY ONE”という間違った言葉の代わりに入れるとしたら、“ONLY BEING”でしょう。
 ただ“BEING”(在ること)によって“BEING”(在ること)を認める・受け入れる、それが“肯定”です(在ること・生きるということ、というこれ以上遡りえない事実の“肯定”)。
 その“肯定”が与えられること、保育者によって与えられた“肯定”によって、自分自身で自分を“肯定”できること、それがフロムの言う「自分自身を愛する」ことであり、それがないと他人を愛することができないと言うのです。(自分の在ること・生きることに“肯定”感がないと、その自分のうちの空虚感・安心感を埋め合わせるために必死になってしまい、他者を“肯定”する余裕がなくなる)
 
 歌詞の最後の破綻によって『世界で一つだけの花』は、聞いた人を混乱させてしまいました。
 まず、歌っている当人(SMAP)のメンバーが「ONLY ONEになるように努力するべきだ」と言ってみたり、国会議員がこの歌を持ち出して若者を非難する発言をしたと、記憶しています。(※3)
 彼らは、“特別な”と“ONLY ONE”という最も重要な言葉の間違いと歌詞全体のメッセージ(比較以前・不能の段階での話し)の矛盾によって混乱し、あたかもこの曲が「幼児的な全能感」を認めるかのような誤解を持ってしまった(最後の間違った歌詞に影響された)のでしょう。
 そして、この様な誤解は、はっきりと意識されないものの、かなりの人が持っているのではないでしょうか。“もともと特別”など、世襲制の天皇家や王家、一部の天才くらいだというのは、落ち着いて考えれば分かるはずですし、もしそこに奇妙さを感じなければ、それこそが「幼児的な自己愛」だと言えます。カーンバーグの示したように、非現実的で、正当な自己評価を欠きます。
 曖昧な誤解となし崩し的な受け入れが同時にあったのでしょう。
 このなし崩し的な受け入れ、その年最大のヒットを生んだ程の需要が現代社会にあることは看過できないものです。
 さらに、ストーカーは現代の犯罪であり、その心理類型の一つであるパーソナリティ障害も現代の疾患であることから、関係は否定できません。

 つまり、“肯定”感の不足です。
 特に、子供を取り巻く環境での“肯定”感不足は深刻かもしれません。
 現在の文科大臣は“ゆとり教育”が大嫌いなようで、競争を教育に復活させることが信念のような人ですが、ある意味で正しく、ある意味で間違っていると私は考えます。
 つまり、“肯定”感というのは、比較以前・不能の段階の話ですから、競争とは次元の違う話です。順番としては“肯定”が競争の先になりますので、学校で“肯定”を目指すならまずは競争は後回しになります。
 しかし、社会の準備段階での学校教育に競争がない、特に運動会で順位を付けないなどというのは馬鹿げていますし、学校教育の役割を放棄しています。
 学校は学科や体育などの教育が第一で、教員もその訓練を受けてきています。学科や体育を集団の中でやることで、他者の中の自分を認識する、比較や競争の場、そこでの試行錯誤を通じて“No 1”や“ONLY ONE”を探る場です。
 しかし、“肯定”感、「自己愛」がない(“ONLY BEING”を認められる経験がない)と「健全な自己愛」へ育たないように、競争をする、他との比較に耐えるためにも“肯定”感や「自己愛」が必要になります。
 それが不十分な子供が、単一の価値観による競争の覆う社会で生きれば、不安や恐怖ばかりが強調されて、「幼児的な自己愛」への逃避へとつながると考えられます。
 競争のように他との比較がなくとも、やはり全能感がそのままになり「幼児的な自己愛」につながると考えられます。
 どちらもパーソナリティ障害の養育環境要因として挙げられているものです。
 この学校が学校でいられない社会、子供が子供でいられない社会が現代の犯罪と現代の疾患を生むのに重要な役割を果たしていると考えることは少なくとも否定はできないでしょう
 
 最近、この人生への“肯定”感の不足を埋め合わせようと、“肯定”を与えてくれる実際の保育者に代えて、国家を持ち出されようとしています。家庭も、学校も、会社も、与えることができなくなった“肯定”感を国家によって補償しようとするように、私には見えます。
 戦前に、天皇が国民の父親であり、国民はその赤子であるというのと同じです。

 「自己愛」をめぐる混乱、『世界で一つだけの花』の破綻、これらを認識し整理し、手を打たなくては、国家意識の宣揚を激化させ、かなり危険な状況をもたらすでしょう。
“肯定”感不足の不安感を紛らわし、埋め合わせようと、過去の汚点をなかったものとしたり、過剰に過去を賛美したりする、複雑で、汚れたり・ぼやけたり・輝いたりを併せ持つ、光を当てる角度や見る位置で違う歴史の中の汚点を拒絶し、輝きだけを見ようとする「幼児的な自己愛」に浸ろうとするこの流れに呑まれれば、非現実的で誇大的な政策が内外ともに対してなされ、結局、過去を繰り返すことになるはずです


※)『境界例と自己愛の障害』(サイエンス社)井上果子 松井豊著
※1)『愛するということ』(紀伊国屋書店)エーリッヒ・フロム
※2)この曲の歌詞にはもう一点、おかしなところがあります
 それは、人を花に例える部分です。人には色々な人がいて、誰一人同じ人がいないことを表すのに、“いろんな花”“違う種”と花の中の様々な種類と人間の一人一人の違いを持ち出していますが、これは傲慢です。
 人間を花に例えるなら、花の中でも向日葵なら向日葵、コスモスならコスモスと一つの種に収めて例えなくてはなりません。同じコスモスでも、一つ一つが別の存在であり、(市場的な)価値とは関係なく(むしろ市場的にはマイナスでも)違いがある。同じコスモスという種類でも、一輪一輪の花弁の大きさや形や並びの違い、丈の高低や、葉の付き方の違い、それらの違いが人間の一人一人の違いに相当するのです。そのようなコスモスならコスモスという一種の中で、殆ど見分けがつかないし、市場的には意味のない、無価値な差異を持ちながら、生きること・在ることの“肯定”を歌わなくてはならないのに、花の種類の違いと人間一人一人の違いを重ねて逃げています。
 人間を花という植物に例えて謙虚な、「人間も自然の一部にすぎない」との主張を採るふりをして、花の種類の違いと人間という一種の中の違いを重ねるという傲慢さ、人間中心主義を露呈しています。
※3)この二つの発言の記憶は、本当に記憶であって、何らかの記録を参照していません。
  間違いなどの指摘がありましたら、謝罪して、訂正をするつもりです。
 

 
 
 
 
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by sleepless_night | 2005-07-30 11:15 | ストーカー関連

ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性

 ストーカーの心理類型(3)非精神病系の残り、(3-2)自己愛性パーソナリティ障害(3-3)反社会性パーソナリティ障害について一気に済ませます。
 ストーカーの心理類型について述べてきたこれまでと同様に、以下は医療情報を含みます。注などの書籍に基づく記述ですが、参考に止めてください
 DSM(『精神疾患の診断・統計のマニュアル』)の扱い方の注意、意義・問題点・位置などについてもストーカーとは何か?/ストーカーの心理を問う前にを(太文字だけでも)参照ください。

(3-2)自己愛性パーソナリティ障害(※)
 自己愛性パーソナリティ障害は文字通り、「自己愛」的なパーソナリティによって引き起こされる「障害」です。
 そもそも「自己愛」とは何かという問題を問うことは、ストーカー問題の帰結であり、その後の異性関係(同性愛なら同性関係)についての本論の序章になりますが、ここでは自己愛性パーソナリティ障害の説明に必要な精神分析学の範囲に収めます。
 前回・前々回の境界性パーソナリティ障害で述べたように、幼児は最初、自分と他者や周囲の世界との区別が付かない(自分=世界)認識を持ち、徐々に自分と他者は別の存在であることや、それ故に、自分の欲求は常に満たされるわけではないことなどを学んでいくと考えられています。
 つまり、幼児は最初の段階では、自分は何でもできる、自分の欲求は全て満たされるという認識状態にありると考えられます。
 この状態は自分=世界ですので、自分の欲求が全て満たされると言うことは、自分の何でもできる力で自分の欲求を全て満たす(と認識している)状態と言えます。自分(=世界)の全ての感情・欲求が全て自分(=世界)へ向かい・完結する、自分で自分を愛するということで「自己愛」と名付けられると考えられます。(※1)
 簡単に言えば、幼児的な万能感に強く支配されたパーソナリティだと言えると考えられます。
 DSMの診断基準で具体的な特徴を見てみますと

[診断基準]
誇大性(空想または行動における)、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人早期までに始まり、種々の譲許であきらかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上によって示される。
(1)自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績や才能を誇示する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
(2)限りない成功、権力、才能、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
(3)自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
(4)過剰な賞賛を求める。
(5)特権意識、つまり、有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由無く期待する。
(6)対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
(7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
(8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
(9)尊大で傲慢な行動、または態度

となっています。
 どうしてこのような偏りがパーソナリティに生じたかは、他のパーソナリティ障害同様に特定されていませんが、やはり、育成環境に注目する専門家が多いようです。(※2)
 「自己愛」についての上述にある通り、幼児期は自他の区別が付かず、万能感の支配する世界だと考えられますが、それが保育者などの他者との関係の中で徐々に、自他の区別などを学ぶと考えられています。その過程で、幼児は保育者によって作られた安心できる環境の中、自分と他者の分離の認識という不安・恐怖を経験すると考えられるのですが、そこでは、保育者が幼児がもともとの万能感を上手く利用できるようにすることが必要だと考えられています。 
 即ち、幼児の言動を褒めたり、出来たことを反芻するように確認することで幼児が「自分はできる」という自信の源として利用できるようにすると同時に、その万能感が万能感のままでないように大人となることの手本(幼児が自分の力を向けようとする先・自分もなろうとする目標)を示すことが求められると考えられています。その過程が十分に保育的でなく安心感がなかった場合は、幼児的な自分=世界の認識に逃避したり、手本のような存在がない場合には、幼児的な自己愛(万能感)段階で留まったままになると考えられます。
 そのような保育環境が、幼児的を万能感(自己愛、自分=世界)段階に残留させ、誇大感、それに基づく特権意識や傲慢な態度、他者を自分の才能や偉大さを映す鏡のようにしか扱えないで利用する共感性のなさ、自他の区別に基づく他者の尊重の欠如、自分の誇大性を傷つけるような他者への嫉妬や妄想を生じさせると言うことです。
 
 このような自己愛性パーソナリティ障害が、どうしてストーカーの心理類型の一つとなるかは理解できるでしょう。(※3)
 幼児的な万能感のために、相手を相手として認めるのではなく、自分の偉大さや才能の映し鏡のように利用したり、自分のアクセサリーのように利用する、それが満たされなれないと、過剰なまでに怒りをもち、自分の欲求の正当性の確信や、それに基づく妄想(本当は自分のことを愛しているのだ・相手は能力が低くてまだ自分の良さを分からないだけだ)などによってストーキングに至る。
 ストーカーという犯罪の支配性という特徴と幼児的な自己愛(万能感)が一致してしまうと考えられます
 特に、自己愛性パーソナリティ障害の特徴である、誇大性や特権意識というのは幼児期の意識に属すると考えられ、脆弱性があるので、拒絶や非難に弱く、防御的に過剰反応すると考えられます。
 したがって、不幸にして周囲にアドバイスできる人やマネージメントしてくれる人がいない場合で、相手に拒絶された場合にはかなり厳しい事態を招くと考えられます。(※4)

(3-3)反社会性パーソナリティ障害
 パーソナリティ障害は現代の病、二十世紀が統合失調症の世紀だと言われるのに対して、二十一世紀はパーソナリティ障害の世紀であると言われる存在の中でも、特異で古典的な感じを持ちます。
 なぜ、そのように感じるかは診断基準をご覧頂くと理解されると思いますので、さっそく挙げます。

[診断基準]
A他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以降起こっており、以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
(1)法にかなう行動と言う点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
(2)人をだます傾向。これは繰り返し嘘をつくとと、偽名を使うこと、または自分の利益や快楽のために人をだますことによって示される。
(3)衝動性または将来の計画を立てられないこと。
(4)いらだたしさおよび攻撃性。これは身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
(5)自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
(6)一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。
(7)良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりするこによって示される。
Bその人はすくなくとも18歳である。
C15歳以前に発症した行為障害の証拠がある。
D反社会的な行為が起きるのは、統合失調症や躁病エピソードの経過中のみではない。

 これは、犯罪者や文字通り反社会的とされる組織に属したり、行動を起こしたりする人にパーソナリティ障害の名前を付けてみただけといっても過言ではないと言えるでしょう。
 この基準のAのどれをとっても、他者の法益(法律によって守られる利益。例:生命身体財産)の侵害の危険を想定できるものです。
 反社会性パーソナリティ障害以外のパーソナリティ障害の診断基準で、このようなものは他にありません。そもそも、パーソナリティ障害は、精神病ではないが、著しく偏った思考や行動のために生活で頻繁に重大な支障や軋轢が生じることで主観的な困難をかかえる人を想定しているとされる(パーソナリティ障害の全般的診断基準を参照。本人が苦しことが中心であって、)のに、反社会性パーソナリティ障害は本人の主観的苦痛ではおさまらず、他者の法益まで侵害することを診断基準にいれている特異な存在です
 『人格障害かもしれない』(磯部潮著)ではこう記しています“B群の反社会性人格障害を除く三つの人格障害は罪を犯すといっても、自暴自棄になって、違法ドラックにおぼれたり、売春行為をしたりするようなケースがほとんどです。中略。自分自身を破滅に至らしめるような罪を犯しても、他人に直接危害を加えることは少なく、それどころか、自分自身を直接的に傷つけてしまうのです。”
 このように、反社会性パーソナリティ障害だけは扱いが別だと考えるのが妥当で、このパーソナリティ障害の心理類型のストーカーの場合には、対処を他の心理類型以上にしっかりと(特に、行政への働きかけを)しないと危険だと考えられます。(対処法なども、まとめて後に出します。)

 反社会性パーソナリティ障害の原因も特定されていませんが、養育環境に注目する説では、養育者との人間的な接触や愛着が欠如していたことで他者への共感性が獲得できなかったり、手本として適切な人物がいなかったことや手本としていた人物がその役割を破綻させてしまったことなどが考えられています。
 このように、反社会的パーソナリティ障害は現代に現れた特徴的な存在というよりも、古典的な“極道”の世界(の育成環境)にも通じる存在に感じられます。

 反社会性パーソナリティ障害を持った人がストーカーとなった場合は、その外の心理類型とは異なった支配性があると考えられます。つまり、他の心理類型では自分の妄想の世界や自分の万能感の支配する世界を満たされたものとするため(満たされなかったときの怒りもありますが、基本的には満たそうとする欲求があってストーカーを行う(幼児期の満たされなかった感情欲求を満たそうとする、ある種の湿っぽさがある)と考えられますが、反社会性パーソナリティ障害を持った人の場合、搾取的で操作的な要素があり、ある種の乾いた乱暴さが支配性の中にあると考えられます

 以上で、心理類型の説明を終了し、次回ストーカーとは何か?/心理類型と行為・関係類型のクロスに行為・関係類型との関係を示します。

※)『境界例と自己愛の障害』(サイエンス社)と『パーソナリティ障害』(PHP新書)
  『ナルシズム』(講談社現代新書)をベースにまとめています。
※1)「自己愛」はリビドー(性的欲動)の対象が自他未分離な自分であることを意味するので、本来なら、「愛」ではなく「欲求の向かう先」と言った言葉が適切なのでしょうが、概念の輸入時の翻訳で「愛」とされているのでそのまま使います。補論で述べますが、この曖昧な訳語の導入で、「自分を愛すること」の意味の混乱が生じて、分かりにくかったり、誤解がまかり通ってしまっているのでしょう。
※2)『人格障害』(至文堂)
※3)パーソナリティ障害の全般的診断基準でも、境界性パーソナリティ障害でも繰り返し述べましたが、母数が膨大(百万人単位)なので、原因として自己愛性パーソナリティ障害があっても、自己愛性パーソナリティ障害を持つ人がストーカーになる可能性が高いと言えることはありません
 また、自己愛性パーソナリティ障害自体が、自己愛の病理は精神疾患を持っている人に共通する要素なので独自に設けることが疑問視され、削除するか争われた概念です。
 自己愛性パーソナリティ障害自体を認めても、上述したように、自己愛性パーソナリティ障害を持つ人は、脆弱な自己愛を守るために他者との深い接触を望まない場合もあり、ストーカーとなることにマイナスの要素も抱えています。
※4)芸術家の中には自己愛性パーソナリティ障害を推測される人が指摘されていますし、前衛的だったり、耽美的である作品を作るには、その要素が必要とも考えられます。
 その際、生活面での低い対応能力をサポートしてくれる存在、上手く外部とのマネージメントを担ってくれる存在があると才能(があったなら)を大成できるとの指摘があります。(『パーソナリティ障害』岡田尊司著)


 
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by sleepless_night | 2005-07-29 21:20 | ストーカー関連

アダルト・チルドレンとの関係/ストーカーの心理 人格障害編part2補論

 ストーカーの心理/人格障害編 part2の※4が長くなるので別立てします。

 繰り返しますが、パーソナリティ障害を持つ人は百万人単位でいると推定されています。その膨大な人数と比較すれば、その中でストーカーとなる人は極少数の存在です。
 境界性パーソナリティ障害の診断基準を見て気付いた方もいらっしゃるかもしれませんが、境界性パーソナリティ障害とアダルト・チルドレン(AC)の概念はかなりの重なりが認められます。
 『アダルト・チルドレンと家族』(斉藤学著)は、精神医学との関連でPTSDを持ち出しています。PTSDとは心的外傷後ストレス障害の略称で、災害や事故の報道があるたびに、必ずといっていいほど出る名称です。外傷後ストレス障害は気分障害に含まれ、DSMでは“気分障害または不安障害のエピソード中にパーソナリティ障害の診断を下す場合には注意しなくてはならないが、それは、これらの状態が、横断面的にはパーソナリティ傾向に似た病像を示すことがあり、その人の長期的な機能の様式を後方視的に評価することが困難になるからである。”と混同への注意を促していますが、心的外傷がパーソナリティに影響を及ぼすことや、境界性パーソナリティ障害の家族発現様式には物質関連障害(アルコール依存も入る)があることから、ACと境界性パーソナリティ障害の関連性も指摘されています。(『人格障害』心的外傷と人格障害、依存と人格障害)また、町沢静雄(精神科医・立教大教授)の「アダルト・チルドレンは要するにボーダーラインと同じことを意味している」との発言が『人はなぜストーカーになるのか』(岩下久美子著)では紹介されています。
 アダルト・チルドレンはアルコール依存症の治療の現場の中から提唱され社会的な意味合いの強い概念(アダルト・チルドレン・オブ・アルコーリクス)ですが、拡大して機能不全家族(成人の精神安定機能・子供の保育機能が不全の家族)で育った人へも適用するようになった概念です(アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクション・ファミリー)。
 つまり、境界性パーソナリティ障害の原因の家族関係に注目するものとアダルト・チルドレンの原因とされるものは、幼児期の保育環境が幼児にとって安心できるものではなかった点で共通します。
 アダルト・チルドレンの特徴として『アダルト・チルドレンと家族』は以下のものを挙げます。
 ・周囲が期待しているように振舞おうとする    ・表情に乏しい
 ・何もしない完璧主義者である          ・楽しめない、遊べない
 ・尊大で誇大的な考え(や妄想)を抱えている   ・ふりをする
 ・「NO」が言えない               ・環境の変化を嫌う
 ・しがみつきと愛情を混同する          ・他人の承認を渇望する
 ・被害妄想に陥りやす              ・自己処罰に嗜癖している
 ・抑うつ的で無力感を訴える           ・離人感が伴いやすい

 どうでしょう? どちらも育成時の安心感の欠如や自他分離の不具合を根拠としているために、特徴が重なります。
 安心感を与えられなかったので、自分と他者が違うことを認識するときの不安・恐怖に耐えられず分離を上手く受け入れられなかった。そのため、幼児の万能感(自分=世界のように、何でも欲求が満たされる感覚)が残り、不安感を埋めるために代替的に他者へ依存しようとしたり、常に誰かに承認されていないと耐えられず、承認を失うことを畏れて断れず、楽しくなくてもふりをしてごまかす、他者の欲求を自分の欲求とするので一人だと自発的な欲求が沸きにくく無力感を持ち、自分の欲求があっても外的評価による完ぺき主義のチェックのために行動に移せない、無力感や欲求不満から自傷行為やアルコールなどの物質に依存する、など、基本的に同じ症状を見せると特徴から解釈できます。 
 アダルト・チルドレンという概念を挟んでみると、境界性パーソナリティ障害のイメージが変わったもに見ることができるのではないでしょうか
 すなわち、パーソナリティ障害、「人格」の「障害」という否定的で、本人の道徳的な責任に結び付けられやすい(これは精神疾患一般に言えるのかもしれません)ものから、家族の機能不全の被害者という見方ができるようになると考えられます。
 “生きずらさ”を抱えた人たちに与えられ、社会に認知されたアダルト・チルドレンという言葉にパーソナリティ障害と言う否定的なニュアンスを持つ言葉を重ねることは、せっかくのアダルト・チルドレンという言葉の価値を下げるのではないかとも考えられますが、私は必ずしもこれが悪いことではないと考えます。
 『アダルト・チルドレンと家族』では“ハイヤーパワー”と言う宗教領域の言葉が治療に使われています。これはアルコール依存症を持つ人の救済・互助組織やACの療法技術が、キリスト教がコミュニティーや社会福祉団体で重要な役割を果たしているアメリカで発展したことと関係すると推測されます。これ自体が悪いとも思いませんが、宗教領域に入ることは宗教自体がもつ危険性にも触れると考えられますし、注意しないとカウンセリングが宗教化(カウンセラーや治療の理論が宗教の教祖や聖典的な扱いになるったり)してしまう恐れがあると考えます(宗教は倫理問題に関連してだいぶ後に触れます。宗教は心理学と同様に心に関連しますし、その力が非常に大きいため使い方を間違えると大変危険です。しかし、薬と同じで反作用が大きいと言うことは、効果も大きいですし、わざわざ捨るものでもないでしょう。ですが、良い関係を持つためも、それなりの知識や経験が必要だと考えます。その点、宗教を怖がったり馬鹿にしたりを、知識が無いのに、知識が無い故にしがちで、たまたま“引っかかった”宗教組織にあまりにも容易に没入してしまう日本人が少なくないように思え、カウンセリングで宗教領域のものを扱うことには多分に危険があると考えます)。ですので、アダルト・チルドレンを境界性パーソナリティ障害のような完全に精神医学の対象領域に捉えなおすことで、そう言った宗教領域の話や手段を持ち込まなくてもよくなり、リスクを回避できる点では、悪くないことだと考えます。
 アダルト・チルドレンとの重なりを指摘して被害者との視点を示しましたが、境界性パーソナリティ障害を持った人でストーカーとなった人の罪が軽くなるわけでも、同情するつもりもありませんが、アダルト・チルドレンとの共通という視点は否定的で全員が危険な存在とみなされがちなパーソナリティ障害を持つ人がいかに身近で、大多数が社会で(生ずらさを抱えながら)普通に生活しているかを理解するためには非常に適していると思います。

 ついでですが、パーソナリティ障害を持った人で社会的に成功している人も多くいると考えられています。
 これは、マザー・コンプレックスについてと同様になりますが、パーソナリティ障害を持つ人は、空虚感や不安感から逃れるため、満たすために依存対象の為に過剰な貢献をしようとすることがあると考えられるので、これは企業なり組織なりにとってみれば、忠実で有能な人材と映ります。また、これは一部の人間になりますが偉大な哲学者や宗教家、芸術家は境界性パーソナリティ障害の特徴である空虚感と同様の実存的な悩みを持ち、それを乗り越えることで歴史に残り、人々の考え付かなかったような思想や作品を生み出すことができたとも指摘されています。
 また、パーソナリティ障害を持つ人には魅力的な人が少なくないことも指摘されています
 それは、パーソナリティ障害を持つということは幼児・子供の時期の(万能感の反面の)純粋さを残していることや、パーソナリティ障害とはパーソナリティの偏りであり、偏りとは裏を返せば突出している部分、他の人には真似できない部分だと言えます。ですので、魅力的に映ることがあるようです。
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by sleepless_night | 2005-07-26 22:01 | ストーカー関連

ストーカーの心理/人格障害編 part2

 ストーカーの心理類型の(3)非精神病系、つまり、パーソナリティ障害(人格障害)を持った人がストーカーとなった場合の、今回は(3-1)境界性(3-2)自己愛性(3-3)反社会性という(3)の下位分類についてです。
 心理類型の(1)精神病系(2)パラノイド系(3)非精神病系の説明、使用するDSM(『精神疾患の統計・診断のマニュアル』)については、前回(ストーカーの心理/人格障害編 PART1)前々回(ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 )前々々回(ストーカーとは何か?/ストーカーの心理を問う前に)などをご覧下さい。
 
 以下の文章は注などの書籍に基づいた既述ですが、医療情報を含みますので、参考にとどめてください
 診断基準はDSM-Ⅳ-TR(『精神疾患の統計・診断のマニュアル』第四版新訂版)(医学書院)からの引用です。
 前回同様にDSMからの重要な引用を挙げた上で、文章を進めます。
 “DSM-Ⅳは、臨床的、教育的、研究的状況で使用されるように作成された精神疾患の分類である。診断カテゴリー、基準、解説の記述は、診断に関する適切な臨床研修と経験を持つ人によって使用されることを想定している。重要なことは、研修を受けていない人にDSM-Ⅳが機械的に用いられてはならないことである。DSM-Ⅳに取り入れられた各診断基準は指針として用いられるが、それは臨床判断によって生かされるものであり、料理の本のように使われるためのものではない。中略。このマニュアルに含まれる診断基準を有効に適用するためには、各診断基準群に含まれている情報を直接評価できるような面接が必要である。”
 DSMの診断基準を出すのは、ストーカー問題の理解の道具とするためであって、精神疾患をもつ人を排除・差別するためのものではありません。
 ここまでも、重ね重ね述べてきましたが、ストーカーの原因として精神病やパーソナリティ障害があることと、精神病やパーソナリティ障害を持つ人がストーカーになる可能性が高いことは全く違いますし、示してきたデーターがそれを裏づけています
 それらを念頭に置いた上で、ご覧下さい。

3-1)境界性パーソナリティ障害(境界性人格障害)
 境界性パーソナリティ障害の属するB群はパーソナリティ障害の中核的な存在で、中でも境界性パーソナリティ障害はパーソナリティ障害の特徴を最も現すものだと言われています(※)。
 境界性パーソナリティ障害の「境界」と言う言葉は、パーソナリティ障害全体の歴史と繋がります。
 統合失調症の概念を生み出した十九世紀ドイツの精神科医E・クレペリンは正常と精神病の中間形態として人格異常という概念を生みます。対して、二十世紀ドイツの精神科医K・シュナイダーはパーソナリティの偏りと精神病を別次元で考え、精神病質という概念を生みます。
 それからも、はっきりと枠に捉えきれない患者に対して様々なアプローチや概念が生み出されてきた中で、二十世紀中盤にアメリカの精神科医R・ナイトがクレペリンの考えた中間状態を「境界(ボーダーライン)」と呼んだことが広まり、診断基準を整えようとする動きが出ます。しかし、捉え処のない・治療の効果が上らない患者を投げ入れるための「くずかご」となったような状態が続きます。
 やがて、現代アメリカの精神科医O・F・カーンバーグがナイトの「境界」概念を引き継ぎ、理論化します。但し、ナイトの考えたようなどっちつかずの中間状態と違い、一つのかなり広い範囲を含む人格構造としてです。
 また、現代アメリカの精神科医J・ガンダーソンはカーンバーグの理論的アプローチと違って経験的で観察可能なアプローチで「境界」という概念を明確化し、これがDSM-Ⅲに大きく影響します。
 現在の、境界性パーソナリティ障害の「境界」は、このようにパーソナリティ障害の複雑な歴史の直系的な位置にありますが、現在の境界性パーソナリティ障害の「境界」には、精神病とそうでない状態の中間という意味(クレペリンやナイトのような考え)はなく、名残のようなものです
 イメージを掴むためにも、境界性パーソナリティ障害の特徴を診断基準からみてみましょう。(注意・必ず前回の記事を太線だけでも読んで下さい。パーソナリティ障害の全般的診断基準や、パーソナリティ障害全般の前提知識無く個々の診断基準を読むと、間違った解釈をしてしまう可能性が高いと思います。)
[診断基準]
 対人関係、自己像、感情の不安定及び著しい衝動性の広範な様式で、成人早期までにはじまり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
(1)現実に、または想像の上で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力。
(2)理想化とこきおろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる、不安定で激しい対人様式。
(3)同一性障害:著名で持続的な不安定な自己像または自己感
(4)自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも二つの領域に渡るもの。(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、むちゃ食い)
(5)自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し。
(6)顕著な気分反応性による感情不安定(例:通常は2~3時間継続し、2~3日以上継続することはまれない、エピソード的に起こる強い不快気分、いらだたしさ、または不安)
(7)慢性的な空虚感。
(8)不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかを繰り返す)
(9)一過性のストレス関連性の妄想的観念または重篤な解離性症状。

となっています。
この基準を見ても分かりますし、DSM自体にも“自我同一性の問題をかかえた青年や若い成人たちは、一時的に境界性パーソナリティ障害であるかのような誤った印象を与えることがある。”との既述があるように、境界性パーソナリティ障害の症状は紛らわしいものと言えるでしょう。パーソナリティ障害の全般的診断基準にもあるように、パーソナリティ障害との診断を早期に出すことはできません。(※1)
 また、“この障害を持つ人の大部分は、30歳台や40歳台になれば、対人関係も職業面の機能もだいぶ安定してくる”と考えられていることも、このパーソナリティ障害を、そもそも精神医学の対象とするべきかという疑問を持たせる原因の一つであると言えるでしょう。
 
 診断基準で、イメージはつかめたと思いますので、境界性パーソナリティ障害を持つ人がどうしてそのようなパーソナリティの偏りを持つに至ったかについて話を進めます。
 境界性パーソナリティ障害の原因は(パーソナリティ障害全般でのべたように)特定されていませんが、境界例パーソナリティ障害を持つ人の育成環境(家族関係)に注目する専門家が多くいます。(※2)
 つまり、育成環境が与える人間の内面の成長過程への影響に重要な原因を見出しているのです。
 どういうことか簡単に述べますと。 
幼児は自分と他人の区別が付かない、自分=世界という万能感を持っていると考えられ、それが3歳位までの間に徐々に、両親を始めとする保育者が自分の欲求をいつも全て満たしてくれるわけではないこと、すなわち、自分と違う他人がいて、自分も他者から独立して存在していることを認識するようになると考えられています(勿論、こんな言語化して考えている・認識していると言うのではありません。但し、幼児の認識能力については様々な実験である程度の正確性で確認されています。)。
 そのような自分と他人という認識を持つ中で、自分と言う存在を把握する際に、最も身近な存在(保育者)を観て、人には時や状況によって様々な感情や側面があるが、一人の人間であることを学んだり、保護された環境あることの認識による安心感によって、幼児は保育者や世界から切り離された自分という存在を見つめ、自分を作り出そうとする力を発揮できるのだと考えられています。
 境界性パーソナリティ障害を持つ人の特徴として診断基準の(1)(3)(4)(5)(7)は、この環境の中で保育者が保護的な環境を作らなかったことと結びつく(※3)と考えられます。つまり、他者と自分が違うことを認識するという幼児にとって極めて不安定・不安・恐怖な状況で、十分に保護を与えられ無かったことで、人間関係で常にその満たされなかった安心感を求めて、安心を与えてくれる対象を求め・縋り付く、それでも根源的な安心が満たされず不安であるので、相手をコントロールしようとする(自殺の脅しは相手を自分に引きつけ、見捨てることをさせない手段となる)と考えられます。安心して自分を作ることに向かえなく、常に不安を感じ、相手に見捨てられまいとするので、自分が自分としてどう在りたいのかが不明確で、自分が把握できないために空虚感を持たざるを得ないと考えられます。その苦しみを自傷行為の苦しみで紛らわせたり、浪費やむちゃ食いなどを苦痛なまでにすることで人間関係で満たされない感情を代替的に満たして安心感を得たりすると考えられます(これは、自己と他者が違う存在であることの認識が上手くいかなかったことともつながるとも考えられます)。
 また、(2)(6)(8)は、自分と他者が違う存在であることを認識する時期に、上手く自他の分離ができずに、相手が様々な面を持つが一人の存在であることや、そのような他者とでは自分の思う通りには行かないことの認識が上手くいかなかったことと結びつくと考えられます
 つまり、他者は様々な面を持つが一人の人間であるということを受け入れられなかったため、複雑で曖昧な人間像を持つことに耐えられず、相手の良い面と悪い面を切り離してしまい、どちらも極端であるがゆえに、人物評価が激変する。(これは自分にも向けられ、安定した自己像を持てなくなる)また、自分と他者(世界)の切り離しが上手くできてないので、人間関係に自分の幼児期の万能感(自分=世界)を持ち込んでしまい、当然それは満たされないために不適切な激しい怒りを持つことになります。幼児のように何でもできるという状態と、現実には不可能であることから一気に無力感へと代わるので、感情も非常に不安定になると考えられます。

 この様な境界性パーソナリティ障害が、どうしてストーカーの大きな類型を占めるとされるのかは理解されるでしょう。(※4)
 満たされない空虚感、不安感から、出会って直に全面的に依存できる誰かを探してしまい、その人を過剰に美化してとらえ、それでも空虚や不安が消えないために、相手を強くコントロールしようとする。
 相手に拒絶されたり、欲求が満たされないと、逆に過剰に相手の人物評価を貶め、抑制できない怒りをもち、その感情を元に、相手をストーキングによってコントロールしようとすると考えられます。
 このように、境界性パーソナリティ障害の持つ悪い面がストーキングに嵌ってしまう、満たされない空虚感や不安感からの依存行為の結果が、支配というストーカーの特徴に嵌ってしまうと考えられます。そして、境界性パーソナリティ障害を持つ人の母数の多さ故に、その中のごく一部がストーカーであるにも関わらず、ストーカーの中でも大きな位置を占め、目だっててしまっているのでしょう。
 
 長さの都合で、次回アダルト・チルドレンとの関係/ストーカーの心理 人格障害編part2補論へ続きをまわします。

※)境界例パーソナリティ障害の歴史については、以下の書籍をまとめています。
 『人格障害かもしれない』(光文社新書)磯部潮
 『パーソナリティ障害』(PHP新書)岡田尊司
 『境界性人格障害の全て』(ヴォイス)J・J・クライスマン H・ストラウス著
※1)『人格障害かもしれない』と『人格障害』(至文堂)成田善弘編より
※2)繰り返しますが、パーソナリティ障害自体が家族関係を重視した精神分析学から生まれているので、家族関係を重視するのは当然となります。
 家族関係については、クラインやカーンバーグを中心の自他分離を『パーソナリティ障害』から、クラインやカーンバーグが取り入れた対象関係論をつかった解説を『境界性人格障害のすべて』から、『境界例と自己愛の障害』からも全般的な既述のヒントを得ています。ストーカーへの適用は、『屈折愛』や『人はなぜストーカーになるのか』と要旨を同じくしていますが、DSM基準自体から読み取れますので、直接の参照はありません。
※3)保護的な環境を作らなかったことと言うと、ネグレクト(育児放棄)などの虐待を中心に考えるかもしれませんが、過保護というのも虐待に含むとの考えもあります。
 つまり、保育者がいつまでも子供を自分の手元に置いておきたい、自分の思うようにいて欲しいために、幼児が自分自身を持つことを阻害する、いつまでも保育者へ依存するように自立の芽をつむことも含まれます。また、理想の押し付けも同様で、幼児や子供に自分の願望を投影して、その投影した像へ従うことを強制することも含まれます。
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by sleepless_night | 2005-07-26 21:09 | ストーカー関連

ストーカーの心理/人格障害編 PART1

 いよいよ、ストーカーの心理類型の本番ともいえる非精神病系に入ります。
 精神病系は、境界性・自己愛性・反社会性と三つに分類してあることでも分かるように、人格障害という精神疾患を持つ人がストーカーとなった場合を指しています。
 “最強のストーカー”(福島)、“現代的ストーカー”“ストーカーの内面を理解するためのモデルとして最も適切”(春日)、“ストーカーの中核となりうる人たち”(岩下)、“ストーカーもストーカー的人物も、精神的虐待行為をするような加害者は人格障害であることが圧倒的に多い”(小早川)、“精神病系以外の3グループに関しては、精神医学において人格障害という診断”“ストーカーの心理背景には、人格障害という様相が深く関わっていることを指摘しておきます”(高畠・渡辺)
 とストーカー関連の書籍でも人格障害について非常に重点を置いてあります。
 以前も、述べましたように、殆ど人格障害の解説書になってしまっているものまで見られるほどですし、ストーカーを見破るチェックリストと言ったものには人格障害の診断基準を混ぜて書き直したようなものがあります。
 
 さて、このストーカー問題で重視される人格障害について詳しい話へと入る前に、以下のことを述べておかなくてはなりません。(わけの分からない名称が多く出てきますが、とりあえず述べる趣旨はご理解いただけると思いますし、細かい話は措いて、太字だけ押さえて頂いてれば十分です。) 
 ストーカーの定義(ストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世)でも述べましたように、熱心な片思いとストーカーを線引くものは、行為者が相手側の出したメッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと考えるので、ストーカーとして法律の適用や措置を採ることを勧める場合、ストーカーには重軽の程度の差はあれ妄想があると考える、精神病や人格障害がある可能性が高いと考えるのは妥当でしょう。
 しかし、繰り返しますが、原因として精神病や人格障害があることと、精神病や人格障害を持つ人が高い確率でストーカーとなることは同じではありません。 
 前回ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 で述べたように、精神病を持つ人の全ストーカーに占める割合は0.6%です。
 それでは残りは、非精神病系となり、人格障害だと考えられるのだから、人格障害を持つ人はストーカーとなる可能性が高いのではないかと思うかもしれません。 
 しかし、人格障害を持つ(持つと考えられる)人の数は膨大です。
 正確な数字はありませんが、磯部潮(精神科医・臨床心理士・東京福祉大教授)は日本人の約500万人が何らかの人格障害をもっているのではないかと推定をしています。(※)アメリカでも約1000万人が持っていると推定がありますので、人口比から一致します。
 又、DSM-Ⅳ-TR(『精神疾患の診断・統計マニュアル』第四版改訂版)では、人口における人格障害各分類の有病率について以下の数字を出しています(人格障害は10分類あります)。
 妄想性人格障害:0.5~2.4% シゾイド人格障害:不明 失調性人格障害:3% 反社会性人格障害:3~4% 境界性人格障害2% 演技性人格障害:2~3% 自己愛性人格障害:2~16% 回避性人格障害:0.5~1% 依存性人格障害:不明だが多い 強迫性人格障害:1% 
 一人の人物で重なって診断される場合もありますので、総計でどの程度かは不明ですが、少なくとも日本にも100万人単位で持っている人がいると考えられているのが、人格障害という疾患です。 
 ストーカーは警察統計でも年間一万数千人です。しかも禁止命令や警告などの強制力を伴う措置を生じさせたのは、一千数百件です。この統計にカウントされていない被害があると考えるのは当然ですが、そうだとしても人格障害を持つ(持つと考えられる)人たちの全体の人数と比較してみれば、人格障害⇒ストーカーと考えることが不当で偏見によるものであるのは理解されると思います。(※1)
 さらに、人格障害を持つ(と考えられる)人は女性が男性の2~3倍だと言われている(※2)のに対して、ストーカーは男性が8~9割を占めています。このことからも、人格障害を持つことと、ストーカーになることは同じではないと理解できると思います。(但し、男性はストーカーの多数を占めるのに、人格障害では少数派であるのなら、人格障害をもった男性がストーカーとなる可能性は高いのでは?とも考えられます。しかし、人格障害が百万単位の人数であるに対して危険なストーキングを行い強制力のある措置を取られた人が一千数百人なのには圧倒的な差があります。理論上は相対的に高くなりますが、全体を見れば可能性が高いとは決して言えません ※3)
 加えて、DSMというマニュアルについての話(「ストーカーの心理を問う前に」)で述べましたように、人格障害自体を診断のマニュアルに入れること、人格障害という診断に根拠を与えるようになったこと自体に大きな疑問を寄せられています。
 人格障害は精神分析学という心理学の一分野の影響を強く受け成立した歴史もありますので、精神分析学自体への疑問点も同様に意識されなくてはなりません。
 また、何か問題を起こした人、犯罪を犯した人、などに精神病や人格障害というレッテルを貼ること、精神医学(や心理学)という学問によってお墨付きを与えることで、「私達とは別の人間で、私達とは関係ない人たちだ。」との印象を与え、「心の闇」と呼んで、呼ぶ側の安心感を維持しようとする傾向が見られます。
 人格障害はその概念自体に疑問を投げかけられ、また、人格障害という診断が妥当なものだとしても当てはまる人の多さから特殊な問題ではない、非常に一般的で日常的な視点を必要とする(わが身に引き寄せて考える、自分もそうかもしれないと考えるべき)ものだと言えると思います。このことについては詳しく、ストーカー問題についての一連の帰結で述べます。
 
 では、ストーカーの心理類型の(3)非精神病系について述べます。
 今回も前回同様にDSMの診断基準を引用します。これは、繰り返しますが、ストーカーの分析・理解のため、特に人格障害の診断基準はストーカーを見破るチェックリストとの比較をしていただく際に必要であることから引用を出すのであって、差別や排除の道具ではありません。また、注に提示した資料に基づいた記述ですが、医療情報ですので、参考に止めてください。
 さらに、前回も出しました注意書きを再度提示します。
 “DSM-Ⅳは、臨床的、教育的、研究的状況で使用されるよう作成された精神疾患の分類である。診断カテゴリー、基準、開設の記述は、診断に関する適切な臨床研修と経験を持つ人によって使用されることを想定している。重要なことは、研修を受けていない人にDSM-Ⅳが機械的に用いられてはならないことである。DSM-Ⅳに取り入れられた各診断基準は指針として用いられるが、それは臨床判断によって生かされるものであり、料理の本のように使われるためのものではない。中略。このマニュアルに含まれる診断基準を有効に適用するためには、各診断基準群に含まれている情報を直接評価できるような面接が必要である”(序・臨床診断の活用より)

(3)非精神病系
 先程から長々と人格障害と述べてきましたが、どうしてこれが非精神病なのか?と疑問に思うでしょう。
 精神病という言葉自体も幾つかの使われ方の違いがあり、それに対して「非」というのですから、非精神病という言葉にも違いが出てきてしまいます。
 大雑把になってしまいますが、どうして非精神病と言われるかというと、それが人格の障害だからだと考えられます。つまり、病気というのは、病気になった人には健康な状態、病気ではない状態があり、それがその人の通常の状態ですが、人格障害を持つ人の場合は、そうではなく、人格障害を持った状態こそがその人の通常の状態だと考えられるのです。
 したがって、病気とは呼ばないと考えられるのです。
 では、人格障害とは何か?
 DSMは“その人の属する文化から期待されるものから著しく偏り、広範でかつ柔軟性がなく、青年期または成人期早期に始まり、長期にわたり安定しており、苦痛または障害を引き起こす、内的体験および行動の持続的態様”としています。
 分かりやすく逐語で説明しますと、人格とは“環境と自己に関する知覚、関係、および思考の永続的な様式”とDSMは定義しています。つまり、成長し・経験をする中で作られてきたその人の性質を「人格」と呼んでいると考えられます。ですので、人格障害は基本的に18歳以下の人には診断されません(※4)
 そして、その「人格」に「障害」があるとは、その「人格」の持ち主が生活する環境で重大な軋轢を頻繁に起こし、その人自身も苦痛である程の場合を指していると考えられます。
 まとめますと、著しく偏った思考や行動の為に生活で軋轢・支障が生じさせ苦痛を持つ人が人格障害を持っている人だと言えると考えます。
 但し、二つ注意点があります
 一つは、「人格」という日本語だと、思考や行動の偏りの為に軋轢・支障をきたすという現実的な問題以上に、その人の道徳的・倫理的な側面にまで踏み込んで「障害」があると見做される恐れがあるので、以下、「人格障害」ではなくパーソナリティ障害とします。DSMもこちらを採用しています。
 二つ目に、上記の定義を読んで頂いて理解されると思いますが、パーソナリティ障害、つまり、「偏っている」か否かという判断はその人の生きる社会状況・時代に大きく依存します。一つ目の注意点で述べましたことと関係しますが、パーソナリティ障害とは、パーソナリティ障害を持つ人の内面ではなく、その人と周囲との関係の問題に重点があると考えらるのです。但し、いかなる状況・時代であっても軋轢・支障をきたすようなパーソナリティには共通性が見られるとは考えられます。それでも、パーソナリティ障害だとの判断には非常に幅や曖昧さは認めざるを得ないと思います。

 パーソナリティ障害の原因は特定されていません。
 遺伝との関係も指摘されています。人格障害という概念自体が精神分析学の影響で生み出されていることとも関係して、その人の育成環境に注目する説もありますが、この説をとっても家庭だけを指すことは不可能で、広く社会全体の環境を問題にされます。また、脳内物質のアンバランスさや神経系の障害との関係も考えられています。どれか一つというのではなく、複合的な要素が相俟っていると考えるのが妥当なようです。(※5)

 パーソナリティ障害は前述したように10分類に分かれます。
 この10分類は3群に分けられます。
 奇妙で風変わりなことが多いA群:妄想性、シゾイド、失調性
 情緒的で移り気に見え、行動予測が困難なB群:反社会性、境界性、演技性、自己愛性
 不安や恐怖を感じているように見えることが多いC群:回避性、依存性、強迫性
 
 このようなパーソナリティ障害の全般的(個々の分類ではなく、パーソナリティ障害という大本の分類かの)診断基準を以下に引用します。

A.その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った、内的経験および行動の持続的様式。この様式は以下の領域の2つ(またはそれ以上)の領域に現れる。
(1)認知(すなわち、自己、他者、および出来事を知覚し解釈する仕方)
(2)感情性(すなわち、情動反応の範囲、強さ、不安定性、および適切さ)
(3)対人関係機能
(4)衝動の制御
B.その持続的様式は柔軟性がなく、個人的および社会的状況の幅広い範囲に広がっている。
C.その持続的様式が、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な療育における機能の障害を引き起こしている。
D.その持続的様式は安定し、長期間続いており、その始まりは少なくとも青年期または成人期早期にまでさかのぼることができる。
E.その持続的様式は、他の精神疾患の表れ、またはその結果では上手く説明されない。
F.その持続的様式は、物質(例:薬物乱用、投薬)または一般身体疾患(例:頭部外傷)の直接的な生理学的作用によるものではない。
 
 おそらく、この全般的診断基準で大体のイメージはつかめると思いますが、具体的には難しいでしょう。
 この診断基準にもあるように、人格障害との診断は他の精神疾患では説明できないものであるので、その他の精神疾患について知らないと判断できません、また、診断にあたっては長期に渡る評価が必要とされるので、即断できるものでもありません。

 次回ストーカーの心理/人格障害編 part2にストーカーの心理分類(3)非精神病系の-1)-2)-3)の個々の解説を出します。
そちらの方がストーカーの心理分類としての具体的イメージが持ちやすいでしょう。

※)『人格障害かもしれない』(光文社新書)磯部潮著
※1)警察の統計ということは、ストーカー規正法の定義のように、恋愛・好意感情という限定がかかりますが、ストーカーの加害者の8~9割が男性であることは海外でも同様です(『ストーカーの心理』ミューレンら共著)すので、比較として妥当だと考えます。
※2)『境界性人格障害のすべて』(ヴォイス)J・J・クライスマン、H・ストラウス著 白川貴子訳 星野仁彦監修
※3)これはあくまでも統計という数字上の問題を使って、いかに精神病や人格障害とストーカーを同一視することが間違ったものかを示すための記述です。ストーカー被害を甘くみたり、ましてやその一件一件を軽く見ているのではありません。たとえ、ストーカー被害が一件しかなくとも、その一件を受けた人にとってはそれが全てです。ほかがどれ程少なくとも関係はありません。 それでも、精神病や人格障害は偏見を伴いやすく、まして犯罪者がそうだった場合、全体が危険だと見做される恐れがありますので、このように述べているのです。
※4)18歳以下の場合は一年以上の特徴の持続がないと診断しない。さらに、反社会性パーソナリティ障害は18歳以下では診断を下せない。(『DSM-Ⅳ-TR』)
※5)『境界例と自己愛の障害』(サイエンス社)井上果子 松井豊共著 
  『パーソナリティ障害』(PHP新書)岡田尊司著
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by sleepless_night | 2005-07-23 23:00 | ストーカー関連

ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 

 今回は、ストーカーの心理類型についてです。
 DSM(『精神疾患の診断・統計マニュアル』)についての解説を挟みましたので、ストーカーの分類について再度挙げておきます。詳しくは以前の記事をご覧下さい。分類を使用するにあたっての重要な情報も含まれておりますので、ご覧になっていない方は是非とも目を通して頂きたく思います。
 ストーカーの分類については多くありますが、その中でも行動・関係類型についてはミューレン(※)らの分類から、心理類型については福島章(※1)説を採用します。
 行為・関係類型とは、ストーカーと被害者との関係とストーカーの行為を焦点にした分類で、この分類がないと具体的事例への当てはめに不便で、実用的な分類として勝手が悪いものとなると考えられます。
 心理類型とは、ストーカーがストーキングという犯罪行為をするに至った心理を焦点に分類するもので、これによってストーカーの理解や治療、ストーカーへの対処が理解できると考えられます。
 この二つの類型を組み合わせることで、ストーカー問題を総体的に分析・理解することができると考えます。
 後者、心理類型について個々の類型の解説を述べ、その後で、二つの類型を組み合わせを提示する予定です。

 さっそく、話を進めます。
 福島説では、心理類型を
 (1)精神病系
 (2)パラノイド系
 (3)非精神病系 -1)境界性 -2)自己愛性 -3)反社会性
 と大きくは3類型、全部で5類型とします。
 
 この一つ一つを解説するということは、必然的に、医療情報を示すことになります。
 そして、前回述べましたように、これから示す情報はDSMに大きく頼ります。
 参照するDSMは最新のDSM-Ⅳ-TR(『精神疾患の診断・統計マニュアル』第四版新訂版)です。(※2)
 はじめに、DSMからの極めて重要な引用をします。
 “DSM-Ⅳは、臨床的、教育的、研究的状況で使用されるよう作成された精神疾患の分類である。診断カテゴリー、基準、解説の記述は、診断に関する適切な臨床研修と経験を持つ人によって使用されることを想定している。重要なことは、研修を受けていない人にDSM-Ⅳが機械的に用いられてはならないことである。DSM-Ⅳに取り入れられた核診断基準は指針として用いられるが、それは臨床判断によって生かされるものであり、料理の本のように使われるためのものではない。中略。このマニュアルに含まれる診断基準を有効に適用するためには、各診断基準群に含まれている情報を直接評価できるような面接が必要である。”(序・臨床判断の活用 より)
 この引用を理解して頂ければ十分だと思いますが、これから提示しますDSMの基準は、ストーカーの分類と、それを通じた理解の為に不可欠だと判断するので引用を示すのであって、それぞれの診断を振りかざして他者を病気呼ばわりするためのものではありません
 重ねて、DSM基準を提示する意味を確認させていただきたいと思います。
 以前も述べましたように、精神医学(を含む心理学)は大変に危険なものだと言えると考えます。肉体の病気や障害を素人判断で診断したり治療したりすることの危険は一般的に理解されていると思いますが、心理学はある種の親しみがあるために危険性を看過されているように思います。
 心は見えませんし、触れません。ですから、切っても切れませんし、血も出ません。
 しかし、その反面で、心を傷つける、普段意識しない部分まで探りを入れると、思わぬ動揺や深刻な痛手を負うことがあると考えられます。
 ですから、例えば心理学の一分野である分析心理学の専門家としての資格、分析医(医と付きますが、必ずしも医者ではありません。分析心理学の理論を使った心理療法を行う資格があると言う意味の医です)を取得するには教育分析という、治療者となる人自身が長期の分析を受けなくてはなりません。治療する側は自分の心理を十分に把握しておかないと、患者の心理に巻き込まれて、治療者自身がダメージを受けたり、治療で深刻な間違いを犯す危険があるからです。
 では、この様な危険な存在は触れるべきではないのでは?と疑問に思うかもしれません。
 当然です。
 しかし、これも以前述べましたが、恋愛、結婚などの男女関係(同性愛の場合は同性間)
について、性という分野の話をするに当たっては避けることができません。心理学はこの分野に限らず、それが登場した時から、社会思想に多大の影響を与えてきました。そのことからも分かるように、心理学は分析・理解にとって非常に切れ味の良い刀だといえます。切れ味の鋭い刀は、扱いを間違えると相手は勿論、自分までも大きく傷つけます。

 ですから、過剰なほどの注意を喚起させていただいて上で、この魅力的だが危険な道具に触れたいと思います。
 尚、注などで提示した参照資料に基づいた既述ですが、医療情報ですので、あくまでも参考の範囲に留めてください。

 心理類型の(1)精神病系について。(※3)
 “統合失調症(原文・精神分裂病)などの精神病が発病しており、その症状の一つである恋愛妄想、関係妄想などがストーキングの動機となるケース”(福島)
 統合失調症とは、妄想・幻覚を伴い感情・思考の調和やまとまりを維持できなくなる症状の精神疾患で、社会的・職業的機能の著しい低下が伴います
 19世紀後半のドイツの精神科医E・クレペリンが様々な症状を持つ患者達の中に共通して特有の痴呆性を見出したことから、それが一つの病気ではないかと推測し早発性痴呆と呼ぶことを提唱したことに、統合失調症の歴史は始まります。
 続いて、スイスの精神科医E・ブロイラーが早発性痴呆と呼ばれる症状の患者達が必ずしも痴呆に至るわけでもないことから名称を精神分裂病と変えます。現在、誤解を招く恐れがあるとして改称されたこの名称は、当時主流だった連想心理学(人の心は観念などの連想機能で構成されると考える理論)の影響で、この精神疾患の原因が心の連想機能が低下し、正常に働かなくなったことだと考え、精神分裂病と呼ぶようになります。
 統合失調症は、百人に約一人の割合で起き、ガンと同程度で多くの人に発病する一般的な病気です。原因は、遺伝要因や環境要因が挙げられていますが、単純に示すことができるものはありません。ただ、遺伝要因は一卵性双生児の不一致率が高い(同じ遺伝子を持っているにもかかわらず他の病気よりも、一卵性双生児がどちらも統合失調症にかかる確率が低い)ことが分かっていますので、遺伝するのでは?という心配は意味が無いことが分かっています。 
 かつては、不治の病のように見做されていたものの、現在は薬などの発達により、50~60%の人が日常生活に不自由のない程度に、さらに20~30%の人が介助者の支援で生活でき、慢性化し常に介助者を必要とする人は15~24%とされています。
 統合失調症は優勢な症状によって主に4つの病型に特定されます
 妄想を中心的な症状とする妄想型、効果的なコミュニケーションを損なうほど著しい会話の脱線・滅裂、日常生活に支障をきたす程の著しい行動の混乱・無秩序を中心的な症状とする解体(破瓜)型、過剰な運動性や逆の不動性・拒絶性などを中心的な症状とする緊張型、顕著な症状が無くなった後も持続的に軽度の症状が見られる残遺型、の4つです。
 
 この中で、ストーカーの心理類型と関係すると考えられるのは、妄想型ということになります。 (しつこいようですが、統合失調症を持つ人がストーカーとなる確率が高いのでも、ストーカー予備軍となるわけでもありません。警察統計では、統合失調症を含む精神病を持つストーカーは全ストーカーの内でも0,6%を占めるに過ぎません。)
 妄想とは“外的現実に対する間違った推論に基づく間違った核心であり、その矛盾を他のほとんどの人が確信しており、矛盾に対して反論の余地のない明らかな証明や証拠があるにもかかわらず強固に維持される”(DSM)もので、ストーカーとなった場合、他者の仕草を勝手に自分への好意の合図だと確信したり、相手との関係を周囲によって妨害されていると信じたりと、様々な妄想の内容があります。
 統合失調症の妄想型は、妄想を持っているものの、認知機能や感情が他病型より比較的保たれているため、恋愛妄想や関係妄想などに基づいてストーキングできてしまうと考えられます。
 ただし、比較的保たれている認知機能や感情によって逆に道徳や法律を認識できる可能性も、治療を受けている場合は薬で妄想をコントロールできる可能性もあり、ストーキングをすることもかなり難しいと考えられます(※4)。
 ストーカーの心理類型の精神病系は統合失調症だけではもちろんなく、他にも妄想を引き起こす精神病が考えられますが、心理類型の中心を(3)人格障害系と捉えるために代表的な妄想を症状とする統合失調症妄想型に止めます。

(2)パラノイド系について
 “《妄想》をもっているが、妄想以外の点ではまったく正常者と変わらない能力を保持している”“《パラノイド》には統合失調症の軽症方と見られる《パラノイア》と、特別の正確の人に心理的・環境的なストレスが加わって起こってくる《心因性パラノイド》の二種類がある”(福島)
 まず、《パラノイア》、つまり、妄想性障害から。
 妄想性障害は、統合失調症の妄想のように奇異ではない、実生活で生じうる状況に関連した妄想が少なくとも一ヶ月続き、基本的に、心理社会的機能の著しい低下が無く、妄想を口に出したり、行動に移したりしないと、そうとは気づかない精神疾患です
 妄想の主要な内容に基づいて、色情型、誇大型、嫉妬型、被害型、身体型の主に5つに分類されます。
 ストーカーの心理類型と関連するのは、色情型と被害型だと考えられます。
 色情型とは、他者が自分を好いていると言う妄想内容を持つ場合で、性的な魅力よりもロマンチックで精神的な関係に関するものが多く見られる。相手として有名人から全くの他人まである。
 被害型とは、自分が陰謀や監視、追跡や中傷や毒物混入の対象となっているとの妄想を持っている場合です。
 妄想性障害はまれで、人口の0.03%程度が持っていると考えられています。
 一見正常に見えること、社会的機能が低下していないことから、妄想性障害を持った人がストーカーとなった場合はかなり厄介だと言えます。
 公的機関に相談しても相手が妄想性障害だと気づかれなかったり、逆に訴訟を起こされたりする場合もあり、さらに、心神耗弱(刑法39条2項)として刑が減免される可能性があります。
 《心因性パラノイド》の《心因性》とはストレスやショックなどの心理的な影響を原因とするもので、そのような原因によって生じる妄想だと考えられます。(※5)
 
 長さの関係で、今回は(1)(2)で終わり、次回に本番とも言える(3)人格障害へと進みます。
 
 ※)『ストーカーの心理』(サイエンス社)P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル共著 詫摩武俊監訳 安岡真訳
※1)『ストーカーの心理学』(PHP新書)福島章著
※2)『DSM-Ⅳ-TR 精神疾患の診断・統計のマニュアル』(医学書院)高橋三郎 大野裕 染谷俊幸 訳
※3)『統合失調症』(ちくま新書)森山公夫著 から統合失調症の歴史を
   『統合失調症』(講談社)伊藤順一郎監修 から回復率を
   参照し、DSMの資料と組み合わせています。
   犯罪率は、http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki17/taiou.pdfより
※4)社団法人 日本損害保険協会
  『予防時報209号・精神分裂病と人格障害』和田秀(川崎幸クリニック医師)著
  http://sonpo.or.jp/business/library/public/pdf/yj20914.pdf
   より、統合失調症を持つ人の刑事事件発生率の低さの原因についてを参照しています。
※5)心因性パラノイドについては、これ以上の資料が見当たりません。
   文字通り心因性で妄想を生じさせている場合をまとめて指していると考えられますが、はっ  きりしませんので、以降、パラノイド系と指す場合は妄想性障害を中心に考えます。
  

      
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by sleepless_night | 2005-07-23 00:32 | ストーカー関連

女子アナと飲酒ではなく、セックスだったら?

 今回、NEWSのメンバーが女性アナウンサー(菊間さん)としたのが、飲酒ではなく、セックスだったら、どうだったのだろう?
 そんなことを考える人はあまりいないかもしれません。
 でも、この仮定を考えることはあながち変態的でもないと思います。
 特に、メンバーと菊間さんへの処分の重軽の意見の二分の意味は、セックスと比較することでよく現れると思います。

 今回、NEWSのメンバーと菊間さんがテレビ出演の取り消しや、謹慎、減給などの処分を受けるのは、このメンバーが未成年だったから、つまり、未成年飲酒禁止法に反し(メンバーは一条一項に、菊間さんは一条二項に反します)たからだと考えてよいでしょう。
 
 しかし、この明らかな違法行為について、賛否が分かれることを支えるのはメンバーが18歳だからだと考えられます
 つまり、高校卒業して就職したり、大学入学したりする年齢、そして、その新入社員歓迎会や新入生歓迎会で当然のように飲酒が容認されていることは大多数が認識し、かつ、自分達も経験していることです。
 法規範と社会規範のズレに18歳という年齢が嵌り、この賛否の二分を支えているということです。
 厳罰賛成の立場なら、法規範を重視し、反対の立場なら社会規範を重視すれば、どちらも同程度の説得力をもつことができます。
 しかし、これは飲酒という一つの行為についての法・社会規範のみを持ち出して賛否を争っているだけです。

 そこで、最初の話をですが、飲酒ではなくセックスだったらどうだったのか
 “お酒は二十歳から”のようなキャッチコピーがないので、明確に意識している人は多くないでしょうが、18歳(と)がセックスすることは合法です。
 刑法では176条(強制わいせつ)と177条(強姦)で“十三歳未満”の男女(強姦は女性のみ)に対しては暴行・脅迫を用いてなくとも、わいせつ・姦淫を処罰対象としているので、“十三歳以上”ならば合意の成立を認めていると考えられます。つまり、刑法では十三歳が性交の合意有効無効(性交の適法違法)のラインとなります。
 しかし、勿論、十三歳以上でも性交をすれば犯罪になります。
 なぜらば、青少年保護育成条例があるからです。
 この条例は、確認をしていないので分かりませんが、殆どの県にあるはずです。当然、今回の事件が起きた宮城県にもあります。
 この条例、宮城県青少年健全育成条例30条では、青少年(14条:青少年=6歳以上18歳未満)との性行為を禁じています。又、そのほかの都道府県でも同様で、18歳未満との性行為は禁止されています。
 刑事処罰のラインは、以上から18歳だと言うことになります。
 では、民事ではどうかというと、民法731条では女性は16歳以上、男性は18歳以上と婚姻可能年齢を定めています。
 つまり、民法は性交(結婚許可に性交許可は含まれる)を女性の場合16歳以上と考えていることになります。
 ちなみに、これでは青少年保護意育成条例に反するのではないか?と考える人もいるかもしれませんが、条例では婚姻した場合を除くとしています(婚姻による青年擬制:結婚するくらいの精神的成長があるのだから、成人と同様に法律上は扱う制度)。
 
 長々と細かい話をしましたが、今回、NEWSのメンバーと菊間さんがしたのが、飲酒ではなくセックスなら法律上は問題なかったのですし、そうするとそれぞれの所属する会社としても罰する根拠は基本的にはないことになるはずです。 ただの痴話話、芸能ネタで、リポーターとの低劣なやり取りをするだけで、処罰という問題にはなる可能性は低かったと考えられます。(但し、深夜に呼び出していたようなので、この行為も条例に反します。条例35条)

 さて、セックスならよかったという話をするために、以上を述べたわけではありません。

 まず、ざっと読んでみると、法律が(特に、セックスに関しては)バラバラだということに気づくと思います。
 そして、このバラバラなセックスについての法律の規定と飲酒の規定を考えてみると、さらにおかしなことに気づくはずです
 法律には、それぞれ目的があります。
 例えば、未成年飲酒禁止法なら、体(特に脳)が発育段階にあり、かつ、判断能力が未熟な未成年を飲酒によって精神的・肉体的に害を受けることから守ることです。
 刑法でしたら、国民の生命身体財産を侵害から守ることです。
 上述した、セックスに関する刑法に当てはめますと、十三歳以上の男女の身体や性的自由を守ることが、この条文の目的になります。
 青少年健全育成条例でしたら、その名の通り、県内の青少年の健全な育成のために、青少年を有害な行為・場所から保護することです。
 民法は、人々の生活の中でのトラブルを防いだり、トラブルを解決するための共通のルールですから、民法731条が婚姻年齢を制限したのは、制限年齢以下では、婚姻について判断する力がないと考え、その様な判断力不足からする結婚生活をすることの損害(結婚生活を維持するための社会的な能力の欠如からの困窮、子供の育成の困難、育成環境の不全)を防止することが目的だと考えられます。

 気が付きましたか?
 未成年飲酒禁止法が守るのは、飲酒する本人です。
 対して、刑法・育成条例・民法の各法の性交に関する条文が守るものは、セックスする本人のみならず、セックスの結果生まれる可能性のある子供もです。
 本人を守るだけの条例が、20歳を合法違法のラインにしているのに、他者(生まれる可能性のある子供)をも守る法律・条令の場合は、18歳を合法違法のラインにしてあるのです
 
 セックスに関しての法律の混乱もさることながら、この理不尽な差異を意識ていしる人はどれくらいいるでしょう。
 十八歳ならセックスという、新しい生命、自己決定のできない他者を生み出す可能性のある行為をすることが法律で認められている、法律で保護される関係を作ることができる自由があるのに、飲酒という、結局は自分の体が不健康になる(最悪、死亡する)だけ(※)の行為は十八歳では違法になってしまうのです。
 これは、明らかにバランスが悪く、理不尽な状態です。
 このようにセックスの法規範と比較して考えると、今回が飲酒をしたのではなく、セックスをしたと考えたとき、それが非難に値しない(違法ではない)と判断するなら、飲酒も非難をすること(違法として処罰する)はできなくなるはずです。(※1)
  
 このように考えてみると、今回の件、18歳と飲酒すること、それを法的に社会的に処罰することで何がしたいのか、理解しがたいものです。
 厳罰賛成側の論拠だった法規範を中心に考えても処罰することが不合理なものだと考えられてしまうのです。 

 
 さて、「でも、理不尽でも法律は法律。アナウンサーや人気アイドルという社会的な影響力のある人間には、一般人以上の倫理が求められる。だから、一般には飲酒はしているけど、彼ら・彼女らは許されず、厳しい制裁を受けるべきだ。」と考える人もいるかもしれません。
 これに関しては、以前述べたように、現在、アナウンサーは倫理性を求められていません。話す機械として存在していますので、人格は関係なくなっています。(以前の記事『女子アナものAVではなく、女子アナがAVに出る日』) ですから、菊間さんは、この件でテレビ出演を降板させられるべき理由は考えられません(期待が無いので、それを失うこともない)。
 だいたい、毎日必ずテレビにでている、自己責任と合唱した国会議員、某政党、責任や倫理から最も遠い人々が映る中で、彼ら・彼女らに、飲酒をしたことで倫理を問うことの重要性がどこにあるのか、私には理解できません。
 最近も飲酒した議員が議場にいたこはどうなったのでしょうね。
 公安委員長も県警も、十八歳、繰り返しますがセックスして子供を作ることが許される年齢の人間、新しい生命の責任をもてるとされる年齢の人間が、せいぜい自分一人が死ぬくらいでしかない飲酒や、公園で騒いだことを騒ぎ立てて何をしたいのでしょう。

 こんな“事件”で騒いで、法律を振りかざし、処分をしていたら、これから有名人は自動車を制限速度で走らせなくてはなりませんね
 自動車は以前述べたように、“許された危険”です。殺人の道具となる可能性を大きく含んだものです。だから、免許という、原則禁止(免許を持たない人は運転を禁止されている)の制度をもちます。
 セックスと同様に、自分の生命身体だけではなく、他者の生命身体への加害・影響を及ぼすものです。法律上、18歳から許される点でも同じです。多数が未成年飲酒禁止法の年齢制限を守っていないと同様に、多数が法廷速度を守っていません。
 多数が法規範を守っておらず、社会規範的には許容範囲の行為でも、有名人であることを理由に処罰されるべきとするなら、自動車の制限速度も守らない有名人を処罰しなくてはならなくなります。
 本当にどうでもいいことで、それが本当にどうでもいいと分かっているはずなのに、ベタに法律や倫理(法律も倫理も考えての上ではなく、法律に書いてあること、それに従うことを倫理と勘違いしている)を持ち出して叩こうとするのは何故でしょうね。
 

※)“だけ”としたのは、アルコールで死ぬことを軽視しているのではなく、新しい生命、自分以外の他者を、その他者の意思抜きに誕生させることと比較してのことです。
 つまり、自己決定が飲酒ではあてはまりますが、セックスの結果の子供には子供自身の自己決定が保障されていません。
 自分の決定で自分が被害を受けることには合理性がありますが、自分が決定権のないことで多大な影響(この世への誕生)を受ける子供にとってはそれ自体がある意味で不合理です。
 ですので、“だけ”と自己決定のあるアルコール摂取について強調しました。
※1)これは、あくまでも現行法を見渡してみたときに導かれる論理の帰結であって、性交を何歳から許可されるべきかという倫理学からの視点から導かれるものではありません。このことについて、私見を導くには、恋愛・結婚の歴史を通覧した上で、男女(若しくは、同性)間の関係性の倫理を考えなくてはなりません。
 
 

 
 
 
 

 




 
 
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by sleepless_night | 2005-07-20 21:49 | メディア

ストーカーとは何か?/ストーカーの心理を問う前に

 ストーカーとは何か?/ストーカーって一つじゃないの?でストーカーの分類と分類の歴史を通して分類すること自体の問題について述べるに引き続き、分類の内の心理類型について必要な範囲で解説を加えます。
 ストーカーについて突っ込み過ぎて当初の目論見である恋愛や結婚などの男女関係についての話から離れているようにも思いますが、今しばらく我慢していただけるとこの突っ込んだ話の意義が見えてくると思います。
 私自身もここまでストーカーについて回数を裂くようになるとは、実のところ、思っていませんでしたが、話題の核を十分に述べるためには避けることができませんし、特に、今回触れるDSMについてはストーカー問題について書かれた書籍で無視され、暴走気味な感があるので述べておきたいと思うのです。

 さて、前回からDSMと普通に使っていましたし、これからストーカーの心理について話をする時にDSMが多く登場することになりますが、ご存知ない方のためにも、そもそもDSMとは何かから話さなくてはなりません(※)。 
 DSMとはDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorderの略称です。
 逐語訳をしますと、精神の障害(病気)の診断と統計の手引き、となります。
 前回述べたように、発行しているのはAmerican Psychiatric Association(アメリカ精神医学界 略してAPA)と言う学会です。APAはその名の通り、アメリカ合衆国の心理学・精神医学の学者・医師が属する最大で、最も有力で権威ある学会です。
 DSMはAPAによって1952年に最初の版(第1版)を発行され、現在の第4版の改訂版に至っています。
 どうしてアメリカ合衆国の学会が作った手引き書(マニュアル)でグダグダと話をしなくてはいけないのかと言いますと、このDSMがアメリカの精神医学・心理学のみならず世界の精神医学・心理学に携わる人から(勿論日本でも)聖書のような扱いを受けている(そして、ストーカー関連の書籍でも必ずと言っていい程DSMの基準が出される)からです
 もう一つ、WHO(世界保健機関)が発行しているICD(International Classification of Disease 訳:疾病の国際的な分類 現在は第10版)もありますが、これとDSMが精神医学・心理学の診断の指標として代表的な存在となっています。
 ICDという国際機関の発行する診断指標とアメリカ合衆国という一国の学会が作った診断指標が同等(若しくは、DSMの方が多用される)の影響力を持っているのです。
 ですので、病気か否か、何の病気かを決めるためのマニュアルであるDSMについて、DSMに問題があるなら、それについて触れておかなくてはいけないと考えるのです。単純に、DSMに記載されていることを根拠に、人に病気にがあるとか、障害があるだとかと判断するのは本当に危険です。特に、ストーカーというそれだけでも犯罪者として扱われる対象を、精神病だと判断する、精神病(や人格障害)が原因だとするような危険な雰囲気がストーカーについて書かれた本にはあるように、私には感じられる(※1)のです。
 
 まず、DSMがどうしてアメリカ合衆国のみならず世界で影響力を持つようになったかと言いますと、それはDSMの第3版が現れるまでの精神医学・心理学の状況に原因があると考えられます。
 すでに心理学についてはその弱み(※2)について述べましたが、その弱みがもろにDSM-3の出現まで精神医学・心理学の現場に現れていたのです。自分の習った先生や、自分の属している組織の上司、または、その地域や国の精神医学・心理学の権威者によって、用語・診断内容や方法がばらばらで、そこにいる限り、自分の先生や上司、権威者が言ったことに異議を挟むことが難しかった、つまり、先生・上司・権威者=診断のマニュアルだったので、それらの人々が言っていること、診断したことが正しいと見做されることになります。そこに、DSM-3が登場しましまた。
 DSM-3には、いくつかの代表的特徴があり、それらの存在によってDSMが現在の地位を獲得したのですが、その中の一つに操作的診断基準があります。
 操作的診断基準とは、診断する側の主観を排し、病因ではなく症状の無味乾燥な既述を並べることで操作性を持った診断基準です(幾つかの基準を後に出します)。
 この診断基準を採用することで、それまで自分の先生・上司や権威が即診断基準となって異議を挟むことが困難だったものが、現れた症状をDSM-3の基準に合うかどうかという視点が診断に持ち込まれ、その基準への適否を持ち出すことで自分の先生・上司や権威と違った診断を採りやすくなった(それまでの権威へ対抗できる新しい権威が登場した)と考えられます。又、DSM-3がそのような利便性から世界で影響力をもったことで、バラバラだった診断基準に統一の要素が生まれ、精神医学・心理学自体の弱みを軽減でき、学者・医者の間での思考・意思疎通にも利したと考えられます。 
 しかし、そのDSMには問題点が幾つか指摘されます。
 まず、操作的診断基準の利便性も相まって、日常が病気化されてしまう点です。DSMの診断基準を読むと、殆どの人が病気だと見做される恐れがあり、DSMの権威によってそれが裏書されてしまう問題があります。ですが、これは利便性のあるマニュアルを取る反面として致し方ない、許容範囲の問題だと言えると思います。
 看過できないのは、DSMの病気の採否や診断基準の形成にある問題です。
 表面化した問題の最たるものに、病気としての同性愛があります。
 DSM-2に性的倒錯の一つとして挙げられ、病気だとされた同性愛は、DSM-3が出されるまでの間の社会変化、それによる同性愛者達(APAの会員も含む)の運動の攻撃対象になりました。
 しかし、DSMは精神医学・心理学という科学を標榜する分野のマニュアルです。
 誰かが何か言ったこと、社会の多数の心証が変わったことで、科学的な基準であるマニュアルが変わってよいのでしょうか?
 ですが、もともと、同性愛がDSM-2に入れられていたのは精神分析学の影響が原因であり、精神分析学の人間観を基準に考えること、精神分析学の科学性が保障されていることが前提として必要だったはずなのです。
 そして、繰り返すように、精神分析学(心理学)には脆弱性があります。
 科学性に脆弱さを抱えた前提での判断とそれに対する社会の価値観変化という科学ではない要素との戦いが、DSM-3にはあったことになります。 
 そして、妥協的に“性的志向性の障害”という新しい診断がAPAで承認されにもかかわらず、DSM-3を実際に作るときになって“自己違和的な同性愛”という診断名が登場し、おまけに、DSM-3の改定版でこれが削除されてしまったのです。
 この一連の動きが、科学性を支えるデータと理論の検証というよりAPA内部の政治性によってなされたと指摘されています。
 もう一つ、人格障害というこの後の話で登場する診断名に関する問題があります。
 DSM-3の改訂版の草稿でマゾヒスティック・パーソナリティ・ディスオーダー(自虐的人格障害、マゾヒスティックといっても性的な意味ではなく、自虐的で他者からの承認を不快に感じる障害を指す、以下、MPDと略します)の名称と診断基準が提唱されました。しかし、その診断基準を見ると“アメリカ人らしい利己主義に染まってない行動”が精神障害だと言っているようなものになっていたのです。MPDは改訂の審議過程で名称を自己敗北型人格障害と変え、診断基準に小さな訂正を加えられ、DSM-3の改訂版の特別付録に入れられましたが、DSM-4ではなくなってしまいます。その一連の動きも、科学的な検証とは言い難く、恣意的だという指摘がされています。
 また、人格障害の一つである境界性人格障害の成立も、同様で、診断基準を作る過程で、他の診断と明確に分離できなかったにも拘らず、DSM-3に入れてしまったこと、そして、この診断名が医師の側の都合(新しい病気をつくることで患者を拡大できる。人格障害の特殊性を利用して医師と患者との間に起こったトラブルを患者の人格障害のせいにできる)の為に使われてしまう恐れがあることが指摘されています。
 
 そして、勿論、これら全てには倫理学上の問題があります。
 例えば、同性愛を問題にするとして、どうして同性愛が病気だと考えられるかと言えば、精神分析の想定する人間の精神の理解もさることながら、一般に受け入れらていたのは、男は女に、女は男に性的な興奮を感じるのが「自然」だからというのが大きいのでしょう。
 そして、「自然」と言わしめる根拠は、自分の体験と男女間の性交ではなくては子供ができず、子供ができなくては人類が現在まで存続しなかったからでしょう。
 しかし、自分が男(女)に性的な興奮を覚えるという「自然」な体験、男女の性交で子供が生まれる、この二つの事実があっても、その事実を根拠に男性(女性)は女性(男性)に性的な欲望を感じることが「自然」であり「正しい」、という倫理的な価値の根拠とは認められません。
 なぜなら
 男性は女性に性的興奮を覚える→男女の性交が「自然」だ→同性の性交は不「自然だ」→不「自然」なことは「正しい」とは言えない
 という一連の論理は
 同性愛は「正しい」とは言えない→理由は、不「自然」だから→理由は、男女の性交が「自然」だから→理由は、男性は女性に性的興奮を覚えるのが「自然」だから→男女の性交が「自然」だ→同性の性交は不「自然」だ→不「自然」なことは「正しい」と言えない→同性愛は「正しい」とは言えない・・・・ と論理が循環してしまいます。つまり、主張する(証明する)事実の価値を、主張される(証明されるべき)事実によって根拠付けてしまっているのです。 
 同様に
 男女間の性交が「正しい」→理由は、性交とは子供を作る行為だから→男女間の性交で子供は生まれる→子供が生まれるから男女間の性交が「正しい」・・・・・と循環して、主張の根拠が主張の対象になってしまっています。
 このような循環論を持ち出してしまうと、証明として成立しないのは理解されると思います。俺が言っていることが「正しい」、なぜなら、俺が言っているからだ、と同じで、自分の意見に同意していない相手を合理的な論理を用いて説得し合意を得るための技術である証明とはならないからです。
 このように「自然」である、そもそも、「自然」なのかにも問題がある中で、何を病気にするか(何を「正しい」人間の行為とするのか)、どうそれを判断するかを、曖昧で、少数の間で政治的に決定していることに問題があるとされるのは当然です。性交の許可年齢を検討する際に詳しく述べますが、事実と価値の混同の問題です。
 
 では、どうするのか?DSMを無視するべきなのか? 
 私は、コンプレックスの問題でも述べました様に、一つの分析の道具として価値があると考えています。
 但し、あくもでも以上に挙げたような様々な難点を踏まえたうえでのです。
 DSM、そして精神医学・心理学を占いと同じような感覚で接すること・扱うことにも非常に危険を感じますが、聖書や神託のような扱うことにも非常に危険を感じます
 DSMが頻繁な改訂をすること、それがデーターの蓄積を待たずにであることが、非難を避けるための策略だとの見方もありますが、私は、それがあくまでも暫定的で過程的な知識の集積であることを表すものだと見たいと考えます。
 曖昧で、政治的かもしれませんが、それでも間違いを訂正できる、しようとする姿勢を持ち続けることが精神医学・心理学への信頼、科学への信頼を支える重要な要素だと考えるからです。
 
 以上を踏まえた上で、ストーカーの心理類型の解説を進めます。
 続き⇒ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 

※)DSMの歴史、DSMの問題点については『精神疾患はつくられる』(日本評論社)ハーブ・カチンス スチュワート・A・カーク著 高木俊介 塚本千秋 監訳 と以下の文書を参照しています。
国立精神・保険センター精神保健研究所社会精神保健部 部長 北村俊則氏
  http://www2.kuh.kumamoto-u.ac.jp/kokoro/research2a.html
医学書院 週刊医学界新聞 第2248回
  http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n1997dir/n2248dir/n2248_03.htm
※1)精神病や人格障害を患う人が決まってストーカーになるわけではないと明確に否定してあるのですが、書籍の大半を人格障害の解説に充てているという形態から説得力を欠くように私には感じられます。著者が精神科医や心理学者、カウンセラーであることが大きな理由なのでしょうが、無邪気に利用しすぎの感が否めません。せめて、精神医学や心理学の問題について一章割く位の配慮があっても良いのではないかと感じられます。
※2)マザー・コンプレックスについての文章を参照してください。
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by sleepless_night | 2005-07-18 11:02 | ストーカー関連

ストーカーとは何か?/ストーカーって一つじゃないの?

 前回ストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世でストーカーの定義とその定義を使った熱心な片思い行為との線引きについて述べました。今回は、ストーカーの分類について主に述べます。
 話を進めるまえに、定義を振り返り、分類以前の共通点を確認しておきたいと思います。

 定義には二つ、法律の定義とそれ以外の定義を出しました。
 法律の定義はストーカー行為規制法二条の要件を、それ以外の定義については三人の定義をまとめたものをだし、その違いはそれ以外の定義の要件②である妄想・幻想であることを述べました。
 そして、熱心な片思いとストーカーの線引きとしても、その要件を用いて、その行為者が相手側の出したメッセージによって思考・行動を修正できるか否かがポイントであると述べました(法律の要件は満たしても、法律による行政の対応を申請するか否かのポイント)。

 又、ストーカーは規正法が示すように恋愛感情・好意の感情に関係した行動であると日本では限定されているが、もともとはハラスメント(嫌がらせ)というそれまでの法律では規制されなかった行為が、権利意識の拡大によって法律によって規制の対象となったものの一部であることも述べました。

 以上、前回の記述をまとめてみますと、ストーカーとは幻想・妄想によって為される嫌がらせ行為であることが理解されると思います。
 ストーキング(ストーカー行為)には、このことから特徴的な行動傾向があると考えられます。
 それは、妄想・幻想に基づく故に、定義にある執拗・反復性に加えて、思考・行動が激化する傾向と、相手を支配(所有)しようとする傾向です。
 この共通点に立ち、ストーカーの分類を述べたいと思います。
 
 でも、なぜストーカーの分類が必要なのか?そもそも分類は可能なのか?という疑問点もあります。
 ストーカーの分類の必要性は、ストーカーと呼称される存在が単一の名称でくくられることが危ういほどに多様であるため、分類をしないと分析もそれを通じた理解もできないからです。
 被害者との関係、加害行為の種類、期間、激化の程度・可能性、原因となったストーカーの性質、ストーカーの育成環境、生活環境など多様であり、理解するためには、それらを収集されたデーターから読み取り、特徴付けて分類しなくてなりません。
 ストーカー関連の書籍でも、分類に対するスタンスはかなり消極的なものです。
 それは、必要であるが、分類が困難だからです。
 “現状におけるストーカーについての分類化・分析は精神科医によってもまちまちであり、多様である”(岩下)、“ストーカーの行動は予測不能というのがむしろ一つの特徴ですから、その行動を統計的に分類をしていくのは非常に難しい作業となります。中略。類型に当てはめることでかえって被害者に先入観を持たせてしまうことにつながり、その結果被害を大きくする可能性もある”(高畠・渡辺)。と言ったような慎重さが分類する側にはあります。
 そもそも、ストーカーの研究のための分類は、“特定の専門家や個人の目的、理論的関与から生じた様々な優先項目による”(ミューレン・パテ・パーセル、共著、※)、つまり、誰が、どんな集団を対象に、どのような目的で、分類をしたかによって異なります。
 分類を一番初めにしたのは、1993年にゾーナほかがロサンジェルス市警の事例研究を元にストーカーの動機・被害者との関係を軸に、色情狂・恋愛脅迫症・単純な脅迫症状の三つに分類したものです。これは精神分析学(※1)と司法制度の二つの観点に立ち、分類にあたってDSM(アメリカ精神医学界の発行している精神障害の診断マニュアル)を標準にしたものです。
 以降、1995年のハーモンらによるニューヨーク刑事・最高裁法精神医学クリニックの紹介した被験者を基に被害者とのつながり方・かつての関係のあり方の視点からの分類。
 1996年のライトらによる、被害者から提供された48項目のチェックリストに基づく、被害者との関係・動機などによる分類。
1997年のキーレンらによるストーキング罪公判の被告人精神分析を基にした精神病か日精神病かという二分類。
1999年のミューレンらが、自身のクリニックへ裁判所・医療関係者から回されてきたストーカー、自ら来院したストーカーの精神分析を基に、動機とストーキング発生状況と被害者との関係の二つの観点から5つへの分類。
と、分類法が現れているますが、分類の意味が一定しないこと、データーの収集の問題などから、確立した分類はないと考えられています。
 日本での市販の書籍でも、古典的・現代的(春日)、関係類型と心理類型のクロス(福島)
精神病と非精神病(岩下)、目的自体のストーカー・手段としてのストーカー(小早川)、被害者との関係と心理類型(高畠・渡辺)とそれぞれの立場や目的で異なった分類が提供されています。
 
 さて、この分類の混乱状況からどれを選択するかというと、行為・関係類型を1999年のミューレンらの分類から、心理類型はほぼ全てが同様なので代表的な福島章(上智大教授・精神科医)による五つの分類を採用したいと思います
 ストーカーの行動や被害者との関係、そのどちらに偏って分類しても具体的な事例への適応が簡単ではあっても実効性や分類としての効果が低いこと(福島説は関係に重点が置かれすぎに感じます)、さらに、心理分類だけでは単なる後付の分析で終わってしまうこと、分類の当てはめ自体が困難であることから、双方を補う形で併用し、二つの分類軸をクロスすることで許容範囲の妥当性を確保できると考えるからです。
 具体的な分類を以下、挙げます。
 [行為・関係類型]
 ①拒絶型:一定以上の親密さのあった関係(親子・夫婦・恋人・親友・長年の同僚・取引相手・医師患者・教師生徒など、親密さが相当の年月によって形成されていた関係)が壊れた時の生じるストーカー。
 ②憎悪型:拒絶型ほどの親密さの無かった関係の相手、若しくは、殆ど知らない他者に対して、相手を恐怖・混乱させたい欲望から生じるストーカー。
 ③略奪型:自己の性的妄想を満たすための対象をストーキングするタイプ。
 ④親しくなりたいタイプ:相手と相思相愛の関係を築きたいとの一方的な意図から生じるストーカー。
 ⑤相手にされない求愛者タイプ:社交技術・求愛の技術が著しく低い、若しくは、男性性を過剰に持ち出すことから生じるストーカー。
 おそらく、④⑤が日本で一般的に想起されるストーカーでしょうし、ストーカー規正法が念頭に置いたのも④⑤、加えて①でしょう。特に、②はまったくストーカーとして認知されてない存在、前回述べた奈良の騒音オバサンが当てはまるタイプでしょう。

[心理類型]
 (1)精神病系:統合失調症などの明らかな精神医学の治療対象。犯罪を犯しても、責任阻却(刑法39条)されるタイプ(※2)。
(2)パラノイド系:責任阻却される可能性のある妄想障害があるタイプ。
 (3)非精神病系:人格障害などの、精神医学が治療対象とするか意見が分かれるタイプ。責任阻却されず、一般と同様に処罰対象になる。
  (3-1)境界性
  (3-2)自己愛性
  (3-3)反社会性
     へと、さらに分類される。
 
 ここから先、行為・関係類型と心理類型のクロスをする前に、心理類型について前提を述べておかなくてはなりません。
 以前、コンプレックスでも触れた心理学(精神医学)、特にDSMとの関係で前提抜きに話をするめるのは危険すぎると考えるからです。
 尚、次回ストーカーとは何か?/ストーカーの心理を問う前にでも触れますが分類はあくまでも分析と理解のためであって、差別と排除のためではありません
 ストーカー規制法を始め、刑事法、そのほかの法的措置の対象となっても、日本の刑事政策の基本は更正です。応報ではありません。

※)『ストーカーの心理』(サイエンス社)P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル共著、詫摩武俊監訳、安岡真訳 分類の歴史は同書の4章に拠っています。
 (福島)=福島章 著 『ストーカーの心理』(PHP新書)
 (岩下)=岩下久美子 著 『人はなぜストーカーになるのか』(文春文庫)
 (春日)=春日武彦 著 『屈折愛』(文春文庫)
 (高畠・渡辺)=高畠克子・渡辺智子 著 『ストーカーからあなたを守る本』(法研)
 (小早川)=小早川明子 著 『あなたがストーカーになる日』(廣済堂出版)
※1)精神分析学は、心理学の一つの分野・学説で、フロイトによって創始され、現在にいたるまで多くの分析家を輩出し、修正を重ねてきた。日本仏教でたとえると、天台宗の比叡山のような存在。
※2)刑事法では、基本的に、その犯罪とされる行為が、該当する条文から読み取れる要件を満たすこと、その行為が条文が示す刑罰から見て処罰するほどのものか、そもそも行為者は行為の意味を認識していたか、という3つを満たしていないと処罰できません。
 このうちの最後の、行為の意味を認識していたか(自分の行為を認識していたか)がないと、行為への刑事責任を問えない。このような場合に責任が阻却されたといわれます。   
 
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by sleepless_night | 2005-07-15 00:11 | ストーカー関連

ストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世

 ストーカーというと、どんな人間を想像するでしょうか?
 実際に、ストーカー被害に会った人もいるでしょうし、ストーカーの被害者が身近にいた人もいるでしょう。マス・メディアでも殺人にまで至ったストーカーをはじめとして、様々な形でストーカーに関する情報が見られるようになりました。 
 ストーカーという言葉が1995年にリンデン・グロスの本(※)によって紹介されて以来、ストーカーは身近な危険の一つになったことは確かでしょう。
 でも、ストーカーとは正確にはどのような人物を言うのでしょうか?
 もしかしたら、ストーキングとは言えない行為まで含めて呼んだり、ストーカーなのにそうだと認識していないこともあるのではないでしょうか?
 
 正式名称、ストーカー行為等の規制等に関する法律(施行H12・11・24)の2条から、法律上のストーカーの定義を抜き出して見ますと
 “特定の者に対する恋愛感情その他の行為の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的で、当該特定の者またはその配偶者、直系若しくは同居の親族その他当該特定のものと社会生活において親密な関係を有する者に対し”一号から八号に定める行為を“反復してすること”です。
 整理しますと
[目的]恋愛感情・好意やそれが満たされなかった時の怨恨の感情を充足する目的
[対象]当該特定の人、その配偶者や同居の親族、社会生活で親密な関係を有する人
[行為]一号から八号の行為の反復で保護法益を侵害、若しくは侵害される著しい不安を与え ること
[保護法益]被害者の身体の安全、名誉、行動の自由、住居等の平穏
以上、四つの要件を満たす行為がストーキングとなると考えられます。
 http://www.ron.gr.jp/law/law/stalker.htm
これは、今までは個々の行為では軽犯罪や刑法で処罰することが困難な事例へ対処するために“侵害”のみならず“著しい不安”を与えた際にも違法として処罰することで、他の法律とは大きく異なります。

 この法律の定義では、ストーカーの心理面へは踏み込んではいません。法律ですからどういった心理過程でストーカーとなるのか、ストーキングするのかは問題とはなりませんから当然ですが、この点について補足的に他のストーカーについての定義を参照してみます。
福島章(上智大教授・精神科医)、春日武彦(精神科医)、岩下久美子(ジャーナリスト)の三方の著書(※1)からストーカーの定義として共通する要素を抜き出してみますと三点あります。
 ①一方的な好意・恋愛感情
 ②妄想・幻想
 ③繰り返し・執拗に接近・付回すなどして迷惑・攻撃し被害を与える人
 となります。

 つまり、法律にはなかったのは②の幻想・妄想です。三者は精神医学の関連から②を要件としていると考えられます。法律でこの要件を入れると、いちいち精神鑑定をしなくてはならないので、外形から判断できる行為や目的を挙げて済ませたのでしょう。

 ストーカーという言葉を持ち込んだリンデン・グロスの著書では定義がないのですが、概ね、この定義に当てはまっていると考えられます。

 さて、このような二つの定義の関係を考え、ストーカーについての理解を深める最適の人物が新千円札の顔となった野口英世です。
 野口は山内ヨネ子と言う女性を二十歳の時から二十五歳まで追いかけています。野口はヨネ子に一目ぼれしてイニシャルでラブ・レターを山内家へ数回投函し、それに対して山内家はヨネ子の通っていた女学校と協力して差出人を探し出し、野口英世が当時フランス語を習っていた教会の牧師から止めてもらうように説得を依頼したようです。
しかし、それでも野口はあきらめずに、上京して医師開業試験予備校・済生学舎でもヨネ子を見つけて付きまとい、野口が開業試験に合格した後も、ヨネ子の家に上りこみ好意を伝えようとしたようです。(※2)

これはストーカーと言えるのか?単なる強烈な片思いではないのか?
 野口のケースは重大な二つの問題を提起してくれます。
 第一に、ストーカーとそうではない人の線引き問題です。
 第二に、ストーカーと時代状況の問題です。

第一の線引き問題を野口英世のケースで考えて見ます。
  これは非常に微妙で線引きを判定するには最適かもしれません。
 手紙の件があってから数年後、ヨネ子は野口と同じく、医者になるために福島から上京します。そして、上京後に、東京の医師開業試験予備校・済生学舎で一方的な野口のアプローチに含まれていた野口の個人講義の押し付けを受け入れていた部分があったようです。この押し付け講義でヨネ子は野口から頭蓋骨の標本をプレゼントされているようですし、何度も野口がヨネ子の家に訪ねてきた中で数回は家に上げたこと(ヨネ子は当然、当時の若い独身女性と同様に一人暮らしではなかったし、来客を上げるかどうかも年長の監督者が決めたはずです。)もあるようです。
 現在のストーカー防止法が当時あったとすれば、ヨネ子も家族も当然に警察へ申し出ることができ、野口英世は“住居等におしかけること”(二条一号)“面会、交際その他義務のないことを行うことを要求すること”(二条三号)を繰り返しているので、警察はヨネ子や家族からの要請のに基づき、警告(四条)や行為禁止の仮命令(六条)をすることができます。
 でも、法律的にはそうできても、果たして強烈ではあるが片思いであって、ストーカーだと見做すべきなのか否かが判断の難しいところです(ストーカー規正法は被害者の申し出がないと適用できません。また、私達の日常生活には厳密な法の適用をすれば違法である行為が多く含まれています。ですので、法律的には可能でも、実際に適用するかどうかの判断が問題になります)。現在、最も多くのストーカーが生じるのは元配偶者や元交際相手ですので(※3)、法律ではストーカーとして対処することができるが、心情として相手をストーカーとして法律の適用を迷うという問題と同じだと言えます。後に触れますが、ストーカーだった場合には、最初の対応が極めて重要になるので本当に難しい判断となります。

 法律を持ち出すかどうかの判断の鍵は、法律の定義とその他の定義との違いである②幻想・妄想だと、私は考えます。 つまり、相手が自分の側が出したメッセージによって行動を修正できるか否かです。 
 詳しくは次回のストーカーの心理面で出します色情狂・病的心酔、人格障害で述べますが、具体的に法律による対処を考えるかどうかは、この点で判断されるべきだと私は考えます。
 そうしますと、野口は最初に手紙を出した件でフランス語を習っている牧師から、ヨネ子は付き合う気も好意も無いことを伝えられているにもかかわらず、長期にわたって自分の感情や行動を修正することがなかったと言えるので、法律による対処を受けるのが妥当だと考えられます。 すなわち、野口英世は法律的にストーカーだと認定されるべきです

 但し、ここで第二の問題です。それは野口英世のこの行為は明治時代のことです。明治時代に現代の法律や、現代の概念としてのストーカーを持ち込んでいいのかという問題があります
 言い換えると、ストーカーは普遍的にストーカーなのかという問題です。
これも、次回の心理面で詳しく述べますが、結論を述べますと、基本的には違うと考えるべきです。
 しかし、やはり要件②の点は重要だと考えられます。
 どんな時代であれ、相手がいる関係で、自分の信条や感情だけで関係を作ろうとすることは不可能ですし、ましてや相手が受け入れないからといって加害行為や脅迫行為が許されることはあるべきとはいえません。
 時代や社会によって、許容範囲が違うことはあっても、ストーカーだと認定するべき存在の核はあると考えます。
 野口英世は、明治時代の基準から考えても、かなりグレーゾーンだったことは確かでしょう。もし、野口が手紙を出した時に医院の責任者(医院のオーナーである医師が日清戦争へ軍医として出征していたので、医院に書生として住み込んでいた野口が医院の管理責任を任されていた)ではなく、ただの労働者だったら、警察がすぐに介入していたでしょう。また、女性の地位が低く、同郷意識が高かった時代だったことも、野口の行為がグレーゾーンで留まった(行政の介入が要請されなかった)と見做される原因だったはずです。

 野口の例はあくまでも例だとしても、ストーカーは非常に身近であると同時に、やはり難しい判断が必要となる存在だと言えます。
 この難しさは、上述したような判断の難しさもありますが、ストーカーという言葉だけが一人歩きし、正確な理解がないことも多分にあるはずです。
 その最も有名な例が最近マス・メディアで有名になった奈良の騒音オバサンです。
騒音オバサンと近隣住民との十年に渡る苦闘を、オバサンの強烈なキャラクターと共に伝えられ話題となりましたが、住民がどうして十年も信じられないような困難に晒されたかというとストーカー法が生まれた海外の経緯から切り離されて日本ではストーカーが広まって、ストーカー法が制定されてしまったからだと、考えられます。

 ストーカーという言葉が海外で登場したのは、1980年代からで、それ以前は鹿狩りで鹿を追う人という意味が一般的だったようです。(※4) まず、有名人への執拗な付きまとい行為がスター・ストーカーとして注目され、女優がストーカーに殺害された事件によって認知が広まり、それがやがて家庭内暴力に含まれる配偶者からの嫌がらせ・加害へと概念が拡大して、さらにハラスメント(嫌がらせ一般)に含まれるようになったようです。
 つまり、日本ではセクハラとストーカーが結びつけて考えられないのです(何度も指摘しましたように、外来語の受容時の意味の捻じ曲げ問題です)が、ストーカーはハラスメント(嫌がらせ)の一部であって、それまでは違法とは想定されなかった行為に対処する時代の要請の一つだと言えると考えられるのです。
 最初に反ストーカー法を制定したカリフォルニア州法を見てみます明確に現れています。
 http://caselaw.lp.findlaw.com/cacodes/pen/639-653.1.html
 646・9(a)“any person who willfully ,maliciously,and repeatedly follows or willfully and maliciously harasses another person and who makes a credible threat with the intent to place that person in reasonable fear for his or her safty ,or the safety of his or her immediate family is gulty of the crime of staking.”とあります。
 又、イギリスでは嫌がらせ行為防止法で対処します(http://www.opsi.gov.uk/acts/acts1997/1997040.htm)。
 このような例からも、ハラスメント(嫌がらせ)という、それまでは違法性や加害性が社会から認められなかった分野が、人々(主に女性)の権利意識の向上によって、違法行為となっていった一つがストーカーだというのは理解されるでしょう。

 日本は、最初にリンデン・グロスによって紹介されたのが、一方的で妄想的な好意感情やそれが満たされないときの憎悪感情に基づくストーキング行為でしたし、マス・メディアもストーカーをハラスメントと関係するものだとは報道していませんでした(私の知る限り)。
結局、法律もストーカーはストーカーとして“恋愛感情又はその他の好意の感情”という制限をつけてしまい、ストーカーを社会の権利拡大の流れから切り離してしまったと考えられます。

 もともとの、ストーカーの位置づけ、カリフォルニア州法を見ても分かるように、騒音オバサンは明らかに、故意的に近隣住民を脅かし・困らせる行為を繰り返していたようですので、立派にストーカーの概念に当てはまります

 ですが、この日本のストーカー概念の限定(流れからの切り離し)は理由があるとも言えます。
 カリフォルニア州法をはじめとしてアメリカの約20州の反ストーカー法や連邦法、そのほかの国の反ストーカー法には各国憲法から違憲性があるのではないかという疑問があるのです。
当然、それは日本に同様の反ストーカー法が制定されれば、違憲の疑いが相当に出てきます。
 警察をはじめとする行政の恣意的な運用の危険は非常に大きいと言えるでしょう。特に、昨今の微罪での過剰な拘禁や有罪判決を見れば、日本で同様の反ストーカー法を制定するのは危険すぎるかもしれません。
 アメリカ各州の反ストーカー法にも、適用除外対象としてジャーナリストや労働争議などを挙げているものもありますし、適用についても具体的な行為(回数等)を挙げて法の悪用を予防する措置が採られています。
 もし、これらの措置が法律で明確に規定されていない反ストーカー法が制定されれば、議員のメディア規制のまたとない手段となってしまうことは明らかでしょう。

 もっとも、このようなハラスメント等の法意識の変化にストーカー規正法が位置づけられているとの意識は、見られません。それはそれで怖いことです。

 次回は、ストーカーの分類と心理面へと話を進めます。

※)リンデン・グロス『ストーカー』(祥伝社)
※1)福島章『ストーカーの心理』(PHP新書)、春日武彦『屈折愛』(文春文庫)、岩下久美子『人はなぜストーカーになるのか』(文春文庫)
※2)渡辺淳一『遠き落日』(角川文庫)
ロックフェラー大学  http://www.rockefeller.edu/benchmarks/benchmarks_060704_d.php
 野口英世の胸像は今も、ロックフェラー大学図書館にあり、それを目当てに日本人観光客が大学にきているようです。大学のホームページでもあるように、アメリカ、そして所属していたロックフェラー研究所(大学)でも、野口の存在は無視されているに近い状況のようです。新千円の顔になったと聞いたとき、日本人の私でさえ驚き疑問をもったのですから、アメリカ人にしてみたら理解不能に近い出来事だったのでしょう。
※3)警察庁 http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki17/taiou.pdf。ストーカーが元配偶者や元交際相手であることが最も多いのは海外でも同様です。
※4)P・E・ミューレン、R・パーセル、M・パテ 共著『ストーカーの心理』(サイエンス社)
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by sleepless_night | 2005-07-08 23:04 | ストーカー関連