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愛ゆえに殴るのか?

 甲子園出場予定校と優勝校。その始まりと終わりが暴力によって色づけられた甲子園だったと言えるのでしょう。

 表題の校内暴力とは、生徒が暴力を振るうことではなく、教員の生徒に対する暴力の方です。これは、通常、学校教育法11条に定める懲戒権の行使の逸脱と捉えられ、問題化した場合にも学校側は“指導の行き過ぎ”“不適切な指導”として対処することが見られます。
 今回の事件でも、ミスをしたのにニヤケていた、反抗的な態度、決められた量の食事をとらないなどの“指導”の延長で暴力が為されていたと報道されています。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/feature/news/20050823k0000m040121000c.html
 
 学校教育法11条はこう規定しています。
 “校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。”
 明確に体罰を禁じています。
 ですので、平手であろうがなかろうが関係なく、今回の野球部長の行為は違法行為です。
 しかし、ここで、所謂“愛のムチ”はあるのか?という問題が生じます。
 この“愛のムチ”を許容すること、教師には“愛”故の暴力があることを許容する人々の存在が、問題を単純に違法行為として糾弾しないことの一因としてあると考えられます。

 戦前はもとより、戦後も一時期まで教師が生徒を殴ることを許容する風潮があった(少なくとも問題化されることは少なかった)ために、その環境で育った人々がノスタルジックに「最近の教師が殴らないから、生徒は付け上がる、生徒が生意気になる」との発言をすることも耳にします。
 しかし、“愛のムチ”とは何でしょうか?
 正確には、殴ることにある“愛”とは何か?ということです。
 
 児童虐待や機能不全の家庭で“ダブル・バインド”というコミュニケーションの状態があることが指摘されます。これは文字通り、二重の拘束、二つの異なった内容のメッセージが同時に発せられるために、受け取る側がどちらのメッセージを取るべきか分からなくなる状態です。
 この“ダブル・バインド”によるコミュニケーションは主に二つの帰結を導くと考えられます。一つは、両方のメッセージを正確に取れない自分の存在自体を否定する(自分に能力がかけているから理解できないと思う)こと、もう一つは、コミュニケーション自体を放棄することです。
 
 “愛”しているから殴る。
 愛という言葉から通常、殴る行動は導かれません。
 女性を殴っている男性をみて、「彼は彼女を愛しているのだ」と思う人はまずいないでしょう。それが両者の性的嗜好によるものなら別ですが、他者を殴るという好意から通常読み取られる意図は憎しみや憎悪です。
 ですから、“愛”しているから殴ることは、端的に“ダブル・バインド”のコミュニケーションを作り出しているといえます。
 “愛”故に殴る教員は、その行動と発言の作り出す環境が生徒とのコミュニケーションを機能不全にしていると可能性が高いと考えられます。

 でも、かつては何故問題化しなかったのか?“愛”ゆえに殴ることが何故生徒や父兄から了解されていたのか?
 それは、二つの理由が考えられます。
 一つは、社会全体に共通の認識があり、その認識が“ダブル・バインド”のコミュニケーションを無化できたといことです。
 つまり、その一部の行為に含まれる矛盾を合意された共通の認識によって矛盾ではなくしてしまうということです。
 これは二つ目の理由に繋がります。以前の夜回り先生に関する記事で述べたように、大学進学率は70年代まで20%台でした。したがって、大学を出た教員とは、一般の生徒の保護者たちよりも知的水準が高い専門家、まさに「先生」だったのです。これは時代をさかのぼればさらに激しく、僧侶と医者と学校の教師が身近にいる知識人であり、分からないことは彼らに聞きに行くというほどに尊敬されていたのです。ですから、そのような知的エリートである教員が殴ってよい、殴った方がよいと判断するなら、その判断は大衆である生徒の保護者達の触れられるべきものではないと言う、認識が共有されていたと考えれます。つまり、“愛”ゆえに殴ることの矛盾が知的エリートの判断という壁の中に閉じ込められることで、問題化しなかったと考えられるのです。

 その教員にとっては幸せな環境が変化したことに気づかない、受け入れられないことが“愛”ゆえに殴ることを正当化しようとする人々の存在を支え、今回の甲子園を挟む名門校の事件に繋がっていると考えられます。
 
 “愛”ゆえに殴って、生徒に“愛”は伝わったのか?
 おそらくそれは伝わってないはずです。
 なぜなら“ダブル・バインド”状況にあるからです。
 “愛”しているから、“お前達のため”だからという一方のメッセージと、殴るというもう一方のメッセージの作り出す状況から、一方だけをとることは一部の例外を除いて不可能です。
 つまり、殴ること、暴力を使うこととは、言葉で伝えることができない・能力がそこまでないことを明確に表す行為です。そして、その伝えられないことを伝えたい自分の感情・欲求を解消するために言葉ではない暴力を使っているのです。暴力という媒体を使うこと自体のこの属性を否定することができないため、不可避的に“ダブル・バインド”状態となり、矛盾するメッセージが生徒に伝わってしまい、コミュニケーションは機能不全を起こし、生徒をコミュニケーションから退却させます。(今回も、もし殴ることで伝わっているなら、何回も殴ることはなかったでしょう。教員生徒間のコミュニケーションが取れていたとは考えられません。)
 そこにあるのは、教員自身の幼児的な自己愛です
 言語能力の未発達な幼児が、保育者に自分の欲求をかなえてもらえない時に、物を投げたりすることと同じです。“愛”しているのは、生徒ではなく自分です。
 そもそも、その教員が“愛”しているから、“生徒のため”の暴力を肯定するなら、その教員自身がミスをするたびに他の教員から殴られることを認めなくてはなりません
 それで自分がミスをなくし、良質な授業を提供できるようになるのなら、まだ理解できます。
 しかし、そのような教員を私は見たことも聞いたこともありません。
 ごく一部の例外とは、このような場合と、暴力を使う場合に教員を辞めることを前提にしている場合です。教員という生徒を指導する立場を捨てることを前提に、一人の人間がもう一人の人間に、言葉では伝えられないこと、言葉を使うことでは与えられない効果を与えるために、暴力を使う、教師であるという地位のアドバンテージを捨てて殴りあうならなら理解できます。もちろん、教員を辞める・教育法違反どころか、その場合には刑法犯となる覚悟をしなくてはなりません。
 
 今回の事件での学校側の対応について、報道を見る限り、彼らがその例外ではないことは間違いなさそうです。残念なことに。

 教員は何のためにいるのか?何の対価として給料をもらうのか?
 教員は教員自身のためにいるのではないはずです。
 教員は契約関係から見れば、債務者、つまり、生徒に知識やその使い方を伝えるという務めを負う者です。
 生徒(正確には、保護者や国)は債権者です。つまり、教員にその役割を果たすことを求める権利があるのです。
 メッセージが伝わっていない場合、責任があるのはどちらでしょう?
 当然、債務者たる教員です。生徒が理解しない場合に、責を問われるのは第一に生徒ではなく教員なのです。その対価が給料です。
 自分のメッセージを理解されないことから、相手を殴ることで給料をもらっているのではありません
 債務者である教員が、対象である生徒が何を望んでいるのかを知ること、聞くことをしないで、どのようにして教員としての務めを果たせるのでしょう。
 生徒の声が、殴られることで聞こえることはあっても、殴ることで聞こえるでしょうか。

 教員は聖職という迷妄が、金銭という観点をためらわせるかもしれませんが、現実にその関係にある以上、適切な認識が求められるのは当然でしょう。
 自分が何の対価で給料をもらっているのか。
 その給料に見合うだけの務めを、文科省や学校の管理側に対してではなく、生徒に対して果たせているか。
 問われることは、企業なら当然のことでしょう。
 それを、教員がどれだけ意識しているか。
 
 以前も述べたように、教員に人格的指導や“触れ合い”を求めるべきではないのです。
 20代から「先生」と呼ばれ続け、40人もの人間に指示し、競争や批判から遠い環境が、人格を養うに適していないことは分かるはずです。
 求めるべきは、給料に見合った授業です。
 それは、学科だけのサラリーマン教師を増やすのではないか?とも疑問を生じさせるでしょうが、教員の環境は上記のようにサラリーマンの環境でもない場合が往々です。
 むしろ、人格的指導や“触れ合い”が学科指導の知識や技術の未熟さの言い訳や今回のような犯罪行為のカモフラージュとなっている場合は少なくないはずです。

 人は人を殴ってはいけないのに、教員もなにもないのです。
 営業マンが顧客が商品説明を理解しないと怒って殴ることも、エンジニアが依頼人が同じミスをしたからといって殴ることも、職人が客が自分の商品の価値を認めないといって殴ることも、全てやってはいけないことですし、犯罪です。
 教員だけが、サーヴィスの提供対象である生徒を殴っていい理由は全くありません。

 金八先生のような教員を求める願望や欲求が、このような勘違いした教員に、生徒を殴ってもいい、“愛”故に殴るのだとの妄想を育ませているとも、言えると私は考えます。
 
 

 
 
 
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by sleepless_night | 2005-08-28 17:21

ストーカーを見抜く/全体の補足

 ストーカーを通してみる現代の男女関係(同性愛の場合は同性関係)について述べてきた、全体の補足としてストーカーを見抜くためと言われるチェックリストについて述べます。
 チェックリストについては、ストーカーの心理類型について、特にDSMの基準を出す際の意義の一つにチェックリストを検討することが含まれると既述したように、チェックリストを示すというよりも、チェックリストをチェックするといった意図で述べます。 

 まず、岩下久美子著『人はなぜストーカーになるのか』より、“ストーカーを見破る十か条”を一部(①~⑩それそれの解説文)要約して引用します。
 “そもそもストーカーは一つの社会病理であって、精神科医による「診断名」ではないのだ。中略。私がここにピックアップした内容は、精神医学的なチェックリストではないし、また、そういった類のものとはまったく違うの目的のものである。以下にあげる様々な行動パターンは、ストーカー像を把握し、理解するための一種の手がかりである。”
 ①初対面の人にも「自分史」を話したがる。
  あって間もないのに、こちらが聞いていなのに自分の身の上話を一方的に話す。
 ②筆まめ。
  様々な形態で手紙(メール)を出す。内容は、自分に関することが多い。
 ③電話機。
  狙った相手と連絡を途絶えさせない。
 ④人によくカマをかける。
  人を信用できない不安から、相手を試すような言動をとる。
 ⑤親しくもないのに、突然、高価な贈り物を押し付ける。
  自分の所有物だと分かるようなはっきりした形、目に見えるものを贈る。
 ⑥対人評価がころころ変わる。
  対人関係の距離が上手く取れない、長続きしない。
 ⑦敵・見方を区別したがる。
  デジタル思考。YES・NO、白黒、全無。
 ⑧怒り出すと止まらない。
  自分の思い通りにならないと物凄い剣幕で怒り、コントロールできない。
 ⑨人並み以上に情報に敏感。
  流行ものが好きで、あきっぽい。
 ⑩案外、仕事ができる。
  マメで、切り替えが効き、粘り強い、自己アピールができる。

 さて、一見して分かるようにこれは境界性・自己愛性パーソナリティ障害のDSM基準が混ざったものです。
 これは、岩下さんが被害者・加害者への取材から抽出したものですので、日本のストーカー規制法の定義のように拒絶型(の一部)や求愛型に限定され、それ故に、拒絶型や求愛型の中心的な心理類型である境界性・自己愛性パーソナリティ障害の特徴が現れたと解釈して間違いではないでしょう。
 ということは、憎悪型や略奪型は切り捨てられているということ、思想的に全体から切り離されている(今まで犯罪とされない・できないことが、なぜ犯罪となったのか?犯罪とすることがどういったことを意味するのか?が問われていない)ことです。
 これを含め、岩下さんのストーカーの背景の分析はやや乱暴な観が否定できないと、考えます。(“体感ストーカー”やその表層の分析に揺れ・偏りがある。)
 つまり、これまで述べてきたように、ストーカーを法規制することには、それを支える思想の導いたパラドックスがあることを看過されている、表面的な現象をつなぎ合わせて終わっていると考えられるのです。

 次に、春日武彦著『屈折愛』よりストーカーのチェックリストについての春日さんの評価“ストーカーを見破る「鑑別法」はないのか?”を含めて要約・引用します。
 チェックリストとして雑誌に掲載されたのもについて述べられているので、まず、そのリストを孫引きします。

『ダ・カーポ』1996・12・18号
 ①一件自信満々に見えるが、つきあってみるとどこかいつも不安気な感じ。
 ②いつも自分のことだけを話したがり、相手の話は関心がない。
 ③「どうしてそんなに!」と思うよなことで激しく怒る。またその怒りが長い間、持続する。
 ④気の毒な人、立場の弱い人をネタにしたブラックユーモアで笑いをとろうとする。
 ⑤何かしてもらっても感謝せず、「してもらって当たり前」的な態度がほの見える。
 ⑥慕ってたはずなのに、何かの弾みで急に悪口を言い出す。
 ⑦何となくとっつきにくく孤立した印象があり、付き合い方が難しい。
 ⑧親しくもないのによく電話をかけてくる。「たいした用事はないのに・・」と違和感が残る。
 ⑨服装や髪型がいつもスタイリッシュにきまっている。
 ⑩「あの時はどこに行っていたの?」と実にさりげなく聞くが、こちらの言うことを信じておらず、時間をかけて同じことを聞く。
 YES10~9:ズバリ YES8~6:かなり危険 YES:5~4:注意 YES:3~0:多少

『週間朝日』1996・11・8号
 ①プライドが高くナルシスト ②流行の服を着るのが好き ③自分のことを話したがる
 ④怒りだすと止まらない ⑤毀誉褒貶が激しい ⑥友達が少なく、つきあいが長続きしない   ⑦かつて好きだった人を極端に嫌う ⑧昔の些細な出来事を覚えている ⑨よく人にカマをかける ⑩拒食症や過食症の傾向がある
 6つ以上:要注意 特に③と⑨が両方該当する人は「かなり危険」

 『プレジデント』1996・7号
 ①『ライ麦畑でつかまえて』を愛読している。
 ②おしゃべり(相手の話を聞く耳は持たないで、自分のことだけ)
 ③質問に対して簡潔に答えない。
 ④筆まめ。(②とも通じるが、内容は自分のことばかり)
 ⑤自分の写真を持ち歩く。(好き相手の写真も欲しがる)
 ⑥とことん相手に執着する歌が好き。
 ⑦いきなり貴金属をプレゼントする。
 ⑧携帯電話を手放せない。
 ⑨相手をテストしたがる。(他人が信用できないので、わざと相手を試す)
 ⑩情緒不安定で、衝動的な行動が多い。(ことに日本酒を飲んだときにキレやすい)

 これらについての春日さんの評価ですが、パーソナリティ障害のDSM基準との比較から『ダ・カーポ』のリストは“このチェックリストはボーダーライン人格障害と自己愛性人格障害とが重なり合ったあたりにストーカーの病理が潜んでいる、との前提に立って作成されているように見える。そういった意味では、妥当性が高いとは思われる”と一定の秒かをしているます。
 しかし、“チェックしてみたら満点であった人物がいた場合、だからいって注釈にあるとおり「ズバリ、彼はストーカーです」と言い切れるものなのか”とリストの存在自体に疑問を呈しています。
 さらに、“精神医学にせよ心理学にせよ、これらの学問は基本的に「後知恵」といった性格をもつ。中略。理解と説明のための学問なのであり、予言や予測のための学問ではない。”とリストによる事前判別に精神医学・心理学を用いることを否定しています。
 そして、“10項目のチェックだけで隣人をストーカーと断定してしまうようなテストが平然と横行する世の中にも問題が潜伏している”と社会全般の問題を指摘しています。

 『週刊朝日』のリストについては、③については妥当性を認めるが、⑨は単一の現象を過剰評価しているとしています。また、⑩についても無理があると否定的です。
 『プレジデント』のリストについては①⑥⑧に否定的です。

 結論として、“三種のチェックリストが、結局のところ「一斑を見て全豹とトす」といったまことに乱暴な方法論の実践となってしまっているところに、胡散臭さを覚えてしまう。チェックリストという形式を借りて好奇心に働きかけるための「覗き見装置」でしかあるまい。”とリストの存在自体を疑問視し、“我々の内なるストーカー的心性は、たとえストーキング行為として発露することはなくとも、チェックリストといったものに飛びつくことによってその存在が示唆されるのである。これこそまさにパラドックスではないか。”と述べてあります。

 さて、重複しますが、これらの三種のリストもパーソナリティ障害のDSM基準と重なることは理解されますので、ストーカーをパーソナリティ障害と同一視している傾向があり、是認できるものではありません。それは、このようはリストの形でなくとも、パーソナリティ障害のDSM基準を挙げたり、特徴を抜き出すことで済ませている場合も同様です。
 やはり、ここでもストーカーの法規制が持つ歴史的・思想的な背景から切り離されてしまったことが大きな原因となっていると考えられます。
 また、DSMを中心として、精神医学・心理学自体の弱みが認識されていないことも言えるでしょう。
 それは、一冊の本でこれらの全てに触れることは物理的に難しいということと同時に、自分の使う道具にけちをつけて説得力を削いでしまう、曖昧さ複雑さが読んでいて気持ち悪いことから、編集されたことが多分にあったことによると思われます。

 ストーカーの分類の必要についてで述べたように、ストーカーは分類が困難なほど多様です、と言うことは、分類をせずにストーカーを述べることは不可能であり、許容できないほど乱暴なことです。
 そこに現れるのは、春日さんの指摘の通り、その言論を消費する側の問題です。
 このブログの記事で言えば、“体感ストーカー”という問題です。
 “体感ストーカー”については以前の記事に詳述していますので繰り返しませんが、チェックリストはそれを使う側をチェックする方がストーカーをチェックするよりも有効だと言えるでしょう。 

 次回ストーカーの被害者になったら。に続けて、ストーカーの被害者と加害者、被害者になった場合の対処について、特に法的対処をめぐる問題について述べます。
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by sleepless_night | 2005-08-28 15:41 | ストーカー関連

民主党は日本をあきらめてはいかが?

 衆院解散が決まった日、うっすらと汗を浮かべこわばったりのある紅潮した顔で、すでにインパクトをなくしたフレーズを空白を埋めるように用いた繰言に近い演説をする小泉さんを見て、「この人も終わったな」と感じました。
 自民党は小泉さんの持つ選挙の旨みだけを使い、任期の終わりが見えてきた今、捨ての姿勢へとシフトしていく。しかし、後の自民党は小泉さんという劇薬と公明党というカンフル剤の多用による懈怠感だけが漂い、“終わりの始まり”が顕在化してくるのだろうと思いました。

 しかし、そうなっていないことが、現時点です。

 何故か?

 小泉さんが解散を決定した時、郵政は世論的に全くの関心外でした。
 そこで、あの郵政民営化のキャッチフレーズを並べた演説をして効果があるはずはない、小泉自民党が勝つためには考えられる限り一つの戦略をとることが必要だと考えられました。
 それは戦略というより技術、「ロー・ボール・テクニック」「フット・イン・ザ・ドア」と言われる技術(テクニック)と共通した技術です。

 「ロー・ボール・テクニック」とは、low ballつまり「低い玉」、低く投げられた球から初めて徐々に高く投げるようにすることで、本来なら採ってくれないような高く投げられた玉でも取ろうとさせることができる、させられるテクニックです。
 「フット・イン・ザ・ドア」とは、foot in the door、つまり「玄関に入った足」、まず家の玄関内に入ることを許諾してもらうことから始め、その許諾を得て中に入ったあとの要求に対しても許諾を得やすくさせるテクニックです。

 読んでの通り、セールスマンなら基本的なテクニックでしょう。

 これと小泉自民党の不可欠な戦略・技術と何が関係するのか?
 それは、この二つのテクニックが下敷きにしている社会心理学の概念、「認知的不協和」です。
 認知的不協和理論はアメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガーによって考案された理論です。
 概略すると、人間は認知の間にある不協和(不一致・矛盾・緊張)を嫌い、それを解消するように努力する傾向があると言う考えです。
 例としてポピュラーなタバコの例を出しますと
 認知A:自分はタバコが好きだ。   認知B:タバコは発がん性がある。

 この認知ABは一緒に持っていると不協和(自分は発がん性のあるものを好んでいるという心理的な緊張)を生みます。
 そこで、この不協和を解決するために、幾つかの手段を採ります。
 ①否定:認知ABのどちらかを否定する(例:タバコが身体に悪いからタバコを止める)
 ②変更:認知ABのどちらかの解釈を変える(例:自分はタバコを吸っているがたいして好きではない。たいして吸っていない)
 ③付加:認知ABを両立させるための新たな認知を加える(例:タバコは心理的なリラックスに役立つ。)

 このような認知的不協和理論が「ロー・ボール・テクニック」「フット・イン・ザ・ドア」の理論的下敷きとなっています。
 つまり、「ロー・ボール・テクニック」「フット・イン・ザ・ドア」では、どちらとも最初の要求、「低い玉」や「玄関に入った足」について承諾していることで、それから後に拒絶をしにくくできると考えられるのです。
 認知A:自分は「低い玉」を取った。 玄関に入ることを許した。
 認知B:自分は「高い玉」を取りたくない。 相手の商品を買いたくない。
 二つの認知は不協和を生じさせます(低い玉をとっったのに高い玉を取らない 玄関に入ることを許したのに商品は買わない)。
 最初の自分の意思・行動と後の意志・行動との一貫性のなさは不協和を生みます。
 そこで上手く①②③から、都合の良いものを選ばせるように誘導できれば、自分の意図通りに相手を動かすことに成功します。

 小泉さんは、最初から一貫して郵政民営化を掲げていることは否定のしようがありません。
 その小泉さんを圧倒的に指示したのは国民です。
 その一貫した小泉さんを、支持しない、郵政に関心が薄いということで支持しないことは、かつて小泉さんを支持した有権者の中に認知的不協和を生みます
 つまり、認知A:郵政民営化を支持した小泉を支持した 認知B:郵政民営化に関心がないから小泉を支持しない。
 小泉自民党が勝つには、この不協和を利用するしかないことは明白でした。
 そして、予想をはるかに上回る出来で、今のところ達成しています。

 小泉さんも、郵政が国民の関心外と知っていたはずです。
 それでも、あえて郵政解散と命名したのは、有権者に、かつて自分を圧倒的に支持した有権者に、それを思い出させて認知的不協和を生じさせることが必要だと知っていたのかもしれません。嫌でも郵政民営化を持論とした小泉を支持した記憶を呼び覚ます(コミットメントしたことを意識化させる)ために、次々と知名度のある人物を立てる、しかも、それが極論すれば郵政民営化に賛成かどうかだけで投入される。郵政民営化に反対した議員へぶつける今だかつてない劇を展開する。
 見事というほかないです。

 一方、民主党は、花火大会の横でやる落語のような存在感しかありません。
 居ることは分かるのですが、悲しいくらいに、話が聞こえず、誰も見ようとしません。

 民主党が本当に政権をとりたいなら、一度、日本をあきらめてはどうでしょう
 キャッチフレーズが“日本を、あきらめない”とありますが、一度あきらめてから、そのあきらめの上から戦略を立てた方が有効だと考えます。
 小泉さん、特に、彼の秘書である飯嶋さんにはこの種の諦めを持っている雰囲気を感じます。
 飯嶋さんの著書『代議士秘書』(講談社文庫)には、多くの馬鹿らしい有権者からの陳情の話が出てきます。その馬鹿らしい陳情を処理しなくてはいけない、自嘲が漂っています。
 飯嶋さんは、この様な長年の経験から、有権者へのあきらめ、要求水準のディスカウントを経験しているはずです。つまり、正論言っても通じないというあきらめ、です。
 そのあきらめがあれば、認知的不協和理論のような手を使うことに躊躇しません
 認知的不協和理論を使ったものは多く見られますが、これはマインド・コントロールの基本的なテクニックでもあるのです。このような技術を使うということは、相手よりも自分の方が正しいことを知っている・できるという自信がなくてはなりません。なぜなら、このテクニックは相手の心理をだます、見るべきものを見えなくできるからです。相手より判断力などが上だと確信しないと使うことが正当化できません

 民主党の岡田代表が、「国民は賢明ですから」と口にするのをよく聞きます。

 アイロニカルな発言かもしれませんが、どうも本気で言っているようにも感じられます。
 ここに、今回のここまでの戦略的な敗北の原因があるのではないでしょうか。

 あきらめの上で、自分の信念(利益)を実現させるために必要なら危険な手も使う意気込みを持つ組織と、あきらめを経ずに自分の信念を繰り返すだけで実現できない組織。

 倫理上の是非は争いがありますが、民主党が政権をとる、この一点から考えれば、民主党も諦めを経る必要があると、私は考えます。


 ついでに、このようなテクニックを使うマインド・コントロールを防ぐ・解除するには、多くの粘り強い手順が必要とされていますが、基本的には、コントロール側の出す情報と矛盾する多くの情報を提供して本人の中で疑問を生じさせ、それを上手く補助していくことが必要とされると考えられています。被コントロール者と議論したり、コントロールされていると指弾することはかえって相手を防御的にして被コントロール下に固まろうとするので、相手に疑問を持たせる情報を提供して、その疑問を少しずつ発展できる環境を整えることが必要だとされます。
 
 今、民主党、岡田代表がやっていることは情報提供の方向ではありますが、脱コントロールのような被コントロール者のコントロール環境からの隔離ができないハンディキャップがあるため有効性は低く、少なくとも即効性はないと考えられます。
 即効性を求めるなら、インパクトのある対抗的な情報を打ち出す、例えば、政府の郵政法案から導かれる試算から一つの具体的数字だけ(民営化30年後の郵便局の数、30年後の東京から青森へはがきを出すときにかかる代金、など)を抜き出して全面広告を打つ、繰り返しその数字をマス・メディアで言うなどの方法が考えられます。対話ではなく、その数字を刷り込むことで、小泉自民党の作った思考の枠組みに引っかかりをつくることを目指すのです。抽象的な枠組みに対して、単純で具体的な反例を提示して、刷り込むのです。
 下手をすれば、小泉自民党の劇の敵役と一緒くたにされますが、今の劇へと集中された国民の視線を乱すことはできる可能性があると考えます。
 もし、民主党が、このようなテクニックを使わずに政権を取れたら、その時、日本の政治は本質的な変化をしたと言えると思います。その可能性は極めて低いように感じられますが。
(これは、民主党政権になることで日本が良くなるということではなく、あくまでも、政党のとる手法や手法に対するメディアや国民の耐性の話です。)


選挙後の追記
 岡田さんが「もっと他に大事な問題がある」と言うのはよくなかったです。相手の土俵から逃げているとしか、私には感じられないものでした。相手が「大事だ」と言っている問題に「他に大切な問題がある」と言っても、相手が「大事だ」と思っている問題の解決になりません。
 宗教で言えば、「~教を信じないと地獄に落ちる」と信じている人に、「もっと他に大事な教えがある」と言っても全く説得になっていないし、相手の信念や恐怖感に揺るぎを与え、他に目を向ける余裕を作り出すとは考えられないことと同じです。


主参照:『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)西田公昭
 尚、宗教についてで詳しく述べますが、マインド・コントロールという概念自体にはかなりの疑問が呈されています。心理学の科学性については以前の記事で述べてありますが、それと関連し、それ以上に科学性を疑う声があります。さらに、倫理上、マインド・コントロールを認めてしまうと被コントロール者の責任問題を問えなくなる可能性があるためにも議論があります。
追記:また、マインド・コントロールを認めた上でも、多くの伝統宗教の修行や企業研修などでマインド・コントロールと同じテクニックは使われます。問題なのは、どこでどの程度使うことが許されるかといったことが合意できていないことや、(特に宗教については)一般に知識として知られていないために徒に騒いだり怖がったりしてしまい合意の前提となる情報共有が為されないことです。

 
 
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by sleepless_night | 2005-08-20 11:27 | メディア

「純愛」の絶望/ストーカーから見えるものpart3

 前回、前々回と求愛型ストーカーを考えることで、現代の男女関係(同性愛の場合は同性関係)におけるコミュニケーションのジレンマが現れることを述べてきました。
 簡単に要約しますと、自由主義に基づく権利意識の向上から男女関係(同性関係)において理性的なコミュニケーションが求められ、権利化されているにもかかわらず、その自由主義の社会での進展により、選び・選ばれる者として非理性的なコミュニケーションへの欲求がより求められるようになったという、同一の理論が導く両立しない欲求の間で生じるジレンマです。
 
 さて、前回述べたように求愛型ストーカーについての考察の視点として2点ほど加えます。

 まず、一点は、求愛型を典型とし、略奪型や拒絶型なども含む男性が加害者の大多数を占める犯罪であるストーカーを生み出す社会環境についてです。
 日本に限ったことではありませんが、今回は一応日本についての話に絞ります。
 ストーカー関連の書籍にも触れているものがありますように、ストーカーという犯罪を生み出す・助長する要因の一つに、社会的に男性が主導権を取ることが期待されている環境が考えられます。
 つまり、男性は様々な組織・場において主導権をとること、特に女性がいる場合にはその関係で男性が関係を主導することを期待されているという社会環境(社会といっても、行政・産業などの主要な社会部門は男性社会ですので、主に男性同士で何とはなしに期待しあって、それに女性も同調しているというのが正確かもしれません)の中でストーカーが生まれ・育てられるという側面があるということです。
 特に、象徴的・公的な場、儀礼的な場では男性が未だに主導的な役割を果たすことが求められています。例えば、戸籍、子供の保護者、葬儀の喪主、などでは男性という性別を持つことが何らの実質的な意味を持たないにもかかわらず男性が戸籍筆頭者、保護者欄は父親の名前、喪主は成人男子が優先されるなどが社会的に通用しています。
 しかし、このような社会的期待があるものの、男女関係の実際では男性が主導していると言えないのは経験からも様々な兆候からも了承されることでしょう。
 例えば、「コクる」(好意感情を相手に告白する)のは男女ともに行われており、とりたてて男子・男性側がするものだという意識は見られませんし、妻側の申し立てが7割を占める結婚20年以上の夫婦の離婚、所謂熟年離婚の急増を考えれば、男女関係の実際は男性が主導しているとは言えません。また、夫婦関係にあっては他国と異なり妻側が家計を握る割合が圧倒的であることからも、男女関係の実際を主導しているのは男性だとは言えません。
 傾向としては、女性が関係の主導権をとるようになっているとまでも言えるでしょう。(※)
 
 男性へ主導権をとることを求める社会的期待はあるが、男女関係の実際では女性が主導権をとる傾向がさらに増してきている、社会的期待と実際との間のズレが拡大しているのです。
 かつても関係の実際を女性が主導していることは、家計の把握の点からも、少なからずあったはずですが、同時にそこでは女性が男性の要点的な主導権を認めること、社会的期待に沿うことが要請・強制されていましたのでズレがあっても問題化しなかったのですが、社会的期待の圧力がそこまでの力を失ったために男女共に自身の都合で入り乱れた形で使い分けをするようになってしまっている(都合の良い時に、女であること・男であることを持ち出せる)と考えられます。
 これは、以前述べました「レディ・ファースト」「頼りがい」として現れています
 「レディ・ファースト」は「レディ」である前提を抜いて要求され、「頼りがい」が引き換えなく要求できる(「頼りがい」のある男性を求めることは、その男性の言うことを聞くことが理論的には必要であるが、その都合の悪い部分は抜いて、単に「頼りがい」だけを求めることができる)事です(※1)。
 関係の実際に圧力をかけるだけの力も無くなった社会的期待が残り、軽くなった分それを入り乱れて都合よく使うことができる社会環境、その言説・態度が、男子(の保育者・教育者)をコミュニケーションを通しての不透明で多様な成果より、分かりやすく数量化された成果(偏差値・金銭等)の獲得へと向かわせ、その獲得が男女関係を主導する資源・資格であるとの「誤解」(※2)を生み、関係の実際に当たって自愛的なストーカーを生む要素になっていると考えられるのです。

 もう一点は、求愛型ストーカーの心理類型の中心を占めるパーソナリティ障害の現代性に関連してです。
 前回は“体感的”であること・ストーカー規正法の背景的な理論への無自覚さを中心として『世界の中心で愛を叫ぶ』を例に述べましたが、今回は前々回の最後に述べた鏡像としての“体感ストーカー”、その象徴としての「純愛」について述べます。
 パーソナリティ障害について軽く振り返ってみますと、著しく偏った思考や行動のために生活で苦痛をもつまでに軋轢・支障を生じさせる人がパーソナリティ障害を持っていると考えられ(※4)、日本だけでも100万人単位で持っている人がいると推測されています。
 大きく3群に分けられ、全部で10分類されており、求愛型ストーカーをはじめとして、ストーカーの心理類型に境界性と自己愛性が入っています。
 境界性パーソナリティ障害・自己愛性パーソナリティ障害ともに、原因が特定されていませんが、育成環境に注目する説では幼児期の全能感からの発達が上手くいかなかったために、一方では空虚感や同一性障害・極端な対人評価変動と見捨てられ不安へ(アダルトチルドレンとの類似)、一方では幼児的な誇大感・他者への共感性欠如・嫉妬へとつながるとされています。
 いずれにしても、『世界で一つだけの花』を例に述べたように、「健全な自己愛」を欠いている、“肯定”感不足であり、不安や空虚や恐怖すらを秘め持っていると考えられます。
 これが21世紀の精神疾患と呼ばれるものであり、“体感ストーカー”とはこれに集約されるような現代の不安と願望に歪められた鏡像だと考えられると記述しました。
 しかし、これと「純愛」との接点は何か?
 前回述べたような、理性的なコミュニケーションに対する割り切れなさや自由主義的権利の進展による“個人的”領域の解体以外に何があるのか。
 それは、近年に「純愛」と称された代表的作品、『世界の中心で愛を叫ぶ』『いま、会いにゆきます』『冬のソナタ』に共通する要素、主人公やその相手方が死者である(『冬ソナ』は死にませんが、実質上の死による分断があります)ことに注目すると現れると考えます。
 なぜ、死者ではなくてはならないのか?
 死者ではないと、理性的なコミュニケーションによる割り切れなさを通り過ぎることができない、“体感ストーカー”のような鏡像に向き合わなくてはならないからです。
 つまり、求め得ないものを求めざるを得ない欲求を突きつけられてしまうことを回避するためには、原理的に、求め得ないもの、死者が必要になるのです。
 しかし、“求め得ないもの”など求めていないと反論があるでしょう。
 ここに、パーソナリティ障害の特徴である幼児的な自己愛の下の不安と空虚感という視点が必要になります。
 パーソナリティ障害を持つ人のの不安や空虚感を満たそうとする行動、特に、境界性パーソナリティ障害の場合、すり替えが生じると考えられます。即ち、パーソナリティ障害は幼児期の自他分離時の不安や恐怖からの回避行動が偏りの一つの原因と考えられ、その幼児期に作られた不安や恐怖の強い感情的の充足を今の他者との関係に求めても不可能、過去の保育者が満たさなかったものを代償的に今の他者との関係に求めている(すり替えて入る)ために、どれ程求めても満たされることはないと考えられるのです。
 このようなすり替えには“求め得ないもの”を求める、満たされさを抱えながら求める絶望的な疲労と苦痛を伴うと考えられます。
 前々回に述べたように、現代の交通・情報技術の発達による過剰選択施と、その選択をするための価値観の相対化は、男女関係(同性関係)における不安と空虚感をもたらします。誰かの“ONLY ONE”であることを保障されることはないにもかかわらず(それ故に)、“ONLY ONE”でありたい欲求が生じる。膨大な他者の中での“ONLY”(唯一性)は現実的にも理論的にも不可能(他者の選択基準を設定することの不可能性・他者は常に生死するため時間軸を入れると選択対象が定まらない)であるのに、求めようとしている・求める欲求があるのです。(※5)
 即ち、そこに“求め得ないもの”を求める欲求があるといえるのです。
 これを現実の世界、生きた人間に求めれば挫折は自明です。たとえ、フィクションであっても生きた人間を対象に求める話であれば、幻想が現実感にくじかれる惧れがあります。
 そこで死者を持ち出すこと、死者をすり替えの対象とすることで挫折の痛みを回避できる上に、それを求める行為自体の自愛的耽美に留まっていることができます。
 これは最もコミュニケーションから遠い関係性を求めていることになります。
 理性的なコミュニケーションを前にした割り切れなさを通り過ぎた形態、相手の出したメッセージによって思考・行動を修正する必要も無い究極的な求愛型ストーカーの夢の形とも言えます。
 
 「純愛」と呼ばれる物語はなぜ、「純」即ち「純粋」だと言われるのか。
 おそらく一つは、登場人物に自分を投影することで代償的な経験をし、カタルシス(浄化感)を得られやすい話だからというのがあるのでしょう。
 しかし、この“求め得ないもの”が求められる話だから「純粋」だと言われている部分が少なくない様に私には感じられます。
 死者によって担保される「純粋」さです。
 やがて死ぬ人物、一時期だけ蘇った死者、死んだと思われ記憶喪失を経て別人となった人、死や実質的な死を持つことで、コミュニケーションによって「汚される」ことのなさを保障された「純粋」さ
 それは「純粋」であっても脆弱です。
 “コップの中に小さな油が一滴浮いて居たら、もうその水は飲めない”「純粋」な愛。
 “心底愛にあこがれながら、他方で、とことん愛に絶望している”(※6)人々が一方で「純愛」を求め、一方で不幸なストーキングに走る。
 
 行き着いた場所が豊かなオアシスではなく、荒野であった。
 ある人は砂漠の逃げ水を恍惚と眺め、ある人はそれが逃げ水だとの忠告を無視して砂漠へ駆けてゆく、ある人はそれが水かもしれないとあこがれを無意識に感じながら砂漠へと向かう人を笑っている。
 それを見るような寂寞とした感情を覚えます。

 この現代に行き着くまでどこをたどり、なにが起こり、何を取捨してきたのか。
 何を求め、何がその求める感情や行為の間で矛盾し、何がしうるのか。
 希望はあるのか。
 次回から、現代の男女関係へと続く歴史、本論へと進みます。

 
 
※)具体的・直接的なデータがありませんが、『人はなぜストーカーになるのか』の著者
岩下久美子さんは拒絶型ストーカーが増加している原因の一つを男女関係の実際を主導するのが女性である割合が増えたことだとしています。尚、岩下さんは男性側の取残されを指摘していますが※1の指示箇所でも述べてありますように、男性だけの問題と捉えることは妥当ではなく、女性側の思考・行動にも問題があり、岩下さんの様な分析は一方的な感想であると考えます。
※1)勿論、「頼りがい」「レディ・ファースト」で述べたように、これらは「頼りがい」を持ちたい男性、「レディ・ファースト」したい男性という対象が必要である、共依存的な関係(都合よく「頼りがい」「レディ・ファースト」を求める女性を、必要とする・都合のいい相手として求める男性がいる)です。だからこそ、それが維持できる社会環境全体が問題となるのです。依存症も進行する過程で一時期、上手く行く(例:アルコール依存も過程の一時期はアルコール摂取により日常をそれ以前よりも円滑に進めることができる)ように、男女関係の共依存体制も上手くいっていた時期があり、現在は、それを過ぎて、依存対象が依存する主体を蝕み始めた時期にあると考えられ、ストーカーはその一つだといえると考えられます。
※3)「誤解」として、「」をつけたのは、後に詳しく述べますが、数量化された成果が男女関係の中の一つである婚姻(恋愛結婚が9割を占めるため、恋愛についても関連する)においては資源となっていることがデータ上現れている(結婚は同一経済を形成できる法的形態ですから、当然なのですが、単にそれだけなら男女ともに同一程度要求されることになります。しかし、現実・要求に関するデータからは、男性の数量化された成果に非常な偏りがある、資源化していることが現れている)ため、誤解と言い切れないからです。だからこそ、男子(の保育者・教育者)が数量化した成果の獲得を重視するといえるでしょう。但し、数量化された成果の方が分かりやすいという点も、社会状況が不透明になるほどに、そちらへ向かわせる(保守化する)理由となっていると考えられます。
※4)ストーカーの心理/人格障害編を参照して下さい。
※5)『世界で一つだけの花』と自己愛をめぐって/ストーカーの心理part3補論を参照してください。
※6)『純愛時代』(岩波新書)大平健著
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by sleepless_night | 2005-08-19 20:22 |

世界の中心で愛を叫ぶもてない男とストーカーをめぐって

 現代の男女関係(同性関係)を描く線として、ストーカー、求愛型ストーカーに焦点を合わせるとことを述べました。
 拒絶型の一部も含まれると考えられますが、基本的に求愛型にするのは、拒絶型ストーカーは脅迫・暴力傾向があり明確な犯罪行為へつながることが考えられるため、現代の関係を考察する、賞賛され・肯定される関係と非難される関係の境界線を考察する対象として妥当ではないからです。

 さて、前回、“体感的”なストーカー概念の使用が、使用する本人の立つ土台を無意識的に崩していること、“体感ストーカー”を使う人はそれが鏡に映し出された自分であることに気づかずに使っているのではないかということを述べました。

 この点について、もう少し述べたいと思います。
 “体感的”な概念の使用で共通するのは、セクハラです
 ストーカーの歴史についてで述べたとおり、ストーカーとはハラスメント(いやがらせ)の一種であり、セクハラ(セクシャル・ハラスメント/性的嫌がらせ)と基本的には同じ概念です。
 セクハラという概念が流布し始めた時、セクハラかどうかが相手方の恣意的な判断に依存しすぎているのではないか?という戸惑いを含むボヤキやクレームがありました。
 つまり、セクハラだと言われればセクハラになってしまう、違法かどうかを相手の胸先三寸で決められて不条理ではないか、ということです。
 この考え・疑問は当然といえば当然なものです。
 「逆セクハラ」という本来の概念からは考え付かないような言葉まで出現した有様を見れば、いかに意味やその背景の思想の根を絶たれた状態で使用でされているかは理解できるでしょうし、その状態が戸惑いや疑問に拍車をかけているのでしょう。
 結局、この“体感セクハラ”のおかげで本来なら強制わいせつに該当する事例までセクハラで済まされてしまい、刑法によって取り締まられるべきものを見逃している(気軽に使われる軽さの言葉で捉えられ大目に見る)自体が現れる反面、単なる日常会話がセクハラとして糾弾され、感情や思惑をぶつける材料になってしまうこともあります。
 “体感的”な概念の使用の弊害は、“体感ストーカー”と同じです。
 そして、意識しないうちに自分達の立っている土台、つまり、日常生活における地面、どこまでが許されてどこからが許されないのかという認識を崩しています。 

 しかし、同じ“体感的”な概念の使用、相手の判断による概念の適応ということでも、他とストーカーには大きな違いがあります。
 それは、セクハラや、他の被害者の判断に適応が依存する法概念(例:名誉毀損)とちがってストーカー(求愛型)の場合は社会一般から賞賛・賛美される、理想とまでされる場合が存在することです。
 他の概念の場合、それはどうやっても賛美の対象にはなりません。
 せいぜい、害はないと許容されるという場合が考えられるだけです。
 しかし、求愛型ストーカーの場合には、賞賛・賛美され、理想化され、社会に広く流通しているものが含まれるのです。
 ストーカーか否かを判別するのは、メッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと述べました、そして、それはストーカー概念の誕生が自由主義的な権利拡大によるものであり、男女関係(同性関係)の開始・継続において合意(同意)の持つ権利性が高くなったことの表れだということも述べました。
 求愛型ストーカーは要するにこの合意(同意)という権利を前にした、割り切れなさを持つストーカーです(※)
 男女関係(同性関係)における物分りのより理性的なコミュニケーションで処理できないジレンマがストーカーとなっていると考えられるのです。
 男女関係(同性関係)を扱った、所謂恋愛モノの小説にしろ映画・ドラマにしろ、この同じジレンマを扱わないものは少数であることは例を待つまでもない事実です(相手の単一性や自分の好意感情の永続性を主張する求愛によって、相手に求愛を受け入れさせて、相愛関係へと向かうという筋を持つ。その間の、自分の求愛に答えてくれない相手と、その求愛を催す感情とのジレンマが描く話を典型と考えますが、設定によって違いはあるものの、理性的なコミュニケーションで割り切れないジレンマの感情は共通するはずです)。
 勿論、それは小説であり、映画であり、ドラマです。“実際の人物・事件とは一切関係のない”世界、フィクションです。
 しかし、それがマス・メディアのの世界では主流であり、マス・メディアの現実です、それを受け入れる大多数の人々も現実です
 これらの世界を非難する、疑問を投げかけるこで、「敵」を作ることさえあります。
 
 “体感ストーカー”がその現実の社会で流布しているのです。
 むしろ、“体感”だからこそ流布できたのでしょう。
 しかし、“体感”であろうとなかろうと、ストーカーという概念にはその歴史性が背景として存在します。意識せずにいても、概念を使えば、それと同時にそれを支えてきた歴史的な背景も持ち込まれることになります。意識的なレヴェルでは根から切り離されていても、それには影のように切り離せない理論的な背景があります。
 無意識ゆえに逡巡無く“体感ストーカー”を使い、同じ口が所謂恋愛モノの小説や映画やドラマを賛美できる。自分で自分の立つ土台を崩していること、ストーカー概念が背景としてもつ自由主義の権利拡大によって所謂恋愛モノの成立に必要な“個人的”領域の縮小に気付けないこと。
 この無自覚さの導く混乱は、以下の例からも理解できると思います。

 小説から映画、ドラマ、舞台へと無節操な怒涛となった『世界の中心で愛をさけぶ』(※1)の一場面を見てみます。
 主人公の朔太郎が祖父に依頼されて、祖父の長年の恋人の遺骨を朔太郎の恋人のアキと、墓から取りにいったシーンから引用します。

“「こういうのって、やっぱり不倫になるのかな」ぼくは重大な疑問を提起した。
「純愛に決まってるじゃない」アキは即座に反論した。
「でもおじいちゃんにも相手の人にも、妻や夫がいたんだぜ」
彼女はしばらく考え込んで、「奥さんや旦那さんから見ると不倫だけど、二人にとっては純愛なのよ」
「そういうふうに立場によって、不倫になったり純愛になったりするのかい」
「基準が違うんだと思うわ」
「どんなふうに?」
 「不倫というのは、要するにその社会でしか通用しない概念でしょう。時代によっても違うし、一夫多妻制の社会とかだと、また違ってくるわけだから。でも五十年も一人の人を思いつづけるってことは、文化や歴史を超えたことだと思うわ。」”

 この場合、朔太郎は法律に則った発想、つまり現代の法律が基礎とする自由主義的な発想をしたと言えます。朔太郎は、自分の祖父とその恋人だけの関係ではなく、法律・事実上ともに強固な利害関係を有する祖父の妻(つまり、朔太郎の祖母)や祖父の恋人の夫の意思を考察の対象にしています。自由主義的視点に立てば、朔太郎の祖母にも祖父の恋人の夫にも自分の配偶者との婚姻関係があるわけですから、知る権利があり、そこで得られた情報をもとに、婚姻関係の継続を判断する権利があるのです。
 アキは、これに対して朔太郎の祖父とその恋人の感情だけを問題にし、その感情の「文化や歴史を超えたこと」であるとの発想をもとに、正当化します。
 つまり、アキは祖父とその恋人の間に、関係者の法的な権利の侵入できない(すべきではない)“個人的”領域を認めているのです。
 
 もし、アキの立場を承認する、その理論を承認するなら、求愛型ストーカーについてはストーカー規正法の対象外とすることになります。
 なぜなら、男女関係(同性関係)は“個人的”領域だとして、その男女関係以外の人の権利、よりも男女関係内の理論を優先することを認めることになるからです。
 この点、遺骨を取る事は祖父と恋人の合意があるので、求愛型ストーカーとは違うのではないか?という反論が考えられます。
 しかし、繰り返しますが、ストーカーという概念が持つ背景は自由主義的な権利拡大であり、男女関係(同性関係)の開始・継続における合意(同意)の権利性の向上による、“個人的”領域という外部社会のルールからの聖域の解体です
 朔太郎の祖父の配偶者も、祖父の恋人の配偶者にも、各自の婚姻関係の継続についての権利,遺族には遺骨や墓所の所有・管理権がありますので、それを男女関係の内部の理屈で阻害・侵害することは、自由主義的な権利の視点からは許されません(前回の述べたように、大雑把には、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいという考えである自由主義が進展することは、他人に迷惑をかけなければ何でもできるようになる反面、他人の迷惑になる(権利を害する)ことへの取締りが厳しくなるのです)。
 また、朔太郎の祖父と恋人のような合意に基づき確固として継続している男女関係と、求愛型ストーカーを比較するのは妥当といえるのか?との疑問もあるでしょう。
 しかし、求愛が無ければ合意に基づく男女関係(同性関係)は開始されない以上、考察対象としては同一の範疇に入ります(考察対象としての男女関係・“個人的”領域に求愛段階も含まざるを得ない)。 さらに、ストーカーか否かはメッセージによって思考・行動を修正できるか、と抽象的に述べたのは、回数や手段などでストーカーか否かを判別できないからです。具体的に何をもって許容される男女関係の求愛行動か求愛型ストーカーなのかが分かりません。(※2)したがって、この点からも求愛型ストーカーが合意に基づく男女関係と考察対象としては同一範疇に入るため、比較は妥当だと考えます。

 この例を読んで感情的な反発を感じる人もあるかと思います。
 非常に野暮なことだと私も感じます。
 しかし、これがストーカー規正法を支える権利性です。
 感情的な反発を感じる人は、求愛型ストーカーを前に逡巡をしなくてはならないのです。
 もし逡巡をしていなけれが、“体感的”にストーカー概念が使われていることによって、免れているだけだと考えられます。

 小谷野敦さんは“メディア等が、「恋愛をすべきである」という形での「あおり」を行い、それに個々人が洗脳されて、好意を持つ異性(同性でも)への「言い寄り」に展開するとき、それが「ストーキング」になる潜在的可能性は低くない。たとえばこれを、「未熟な精神からくる行為」と評するものがいるが、一方で、恋愛はファナティックでなければ本物ではないという、言説もあり、これは明らかにストーキングを助長しているのだ。”(※3)と述べていますが、ここで述べているストーカーは求愛型ストーカーだと考えられます。小谷野さんは特定の他者への強い好意感情という人間感情の普遍性への信頼をベースにして、近代以降、現代の恋愛をめぐる言論とその論理的な帰結への疑問を呈しています。その信頼性の上で感じられる現代への違和感が、ストーカーを犯罪と無邪気に呼ぶことへの逡巡です。

 このような迷い、男女関係(同性関係)を巡る言論の矛盾し錯綜する混乱を前にした迷いと、自分の体験としての割り切れなさ、物分りの良いコミュニケーションを理想とすることへの逡巡を考えることが、現代の私達の男女関係(同性関係)を考えることの一つの核となると私は考えます。

 もう二点ほど、求愛型ストーカーを考えるとこで現れる、現代の男女関係(同性関係)の視点を次回に述べます。

※)ストーカーの行為・関係類型と心理類型のクロスで述べてあるように、どうしても人間関係のスキルの低さはあると考えられます。但し、次回述べますように、これにも見逃されるべきではない点があります。
※1)『世界の中心で愛をさけぶ』(小学館)片山恭一著  
 著者の片山さんが卒論でマルクス、修論でエンゲルスを書いた人だけに、随所に唯物的な思想とその世界観に対する感情としての割り切れなさが現れているように感じます。
 主人公の朔太郎とアキを中心とするその他の人物の会話の内容が示す思想の傾向性は大江健三郎さんの後期作品の思想とに類似性があるように思えます。
 傑作と言えるほど作品としての完成度を感じませんが、上手い部類に入るのでしょう。
※2)補論で挙げますストーカーのチェックリストも結局は、何をどの位したか?ではなく、その人がどんな人かを判別するとこでストーカーをチェックする意図のものです。
 求愛段階というのは、自動車にたとえると、スタートさせたエンジンの力を車輪に伝えて自動車を動かそうという段階です。動いている自動車を加速させるより、止まっている自動車を動かす時の力が必要なように、求愛段階はかなりの感情的な力が必要だといえるでしょう(相手をその気にさせるためには、その気になった後の関係を維持する時期よりも感情的な力が必要)。そのような強い感情に基づく行動が通常も想定される段階では、何が、どの位からがストーカーなのかの判別は具体的には不可能に近いはずです。
※3)『恋愛の超克』(角川書店)小谷野敦著 
 『もてない男』(ちくま新著)で有名になった小谷野さんは、博士論文『<男の恋>の文学史』で片思いについて、膨大な資料と垣間見せる叙情性をもって著しています。近著『かえってきた もてない男』では、悪い崩れ方を見せている観があり、残念に思います。それは別として、小谷野さんの著作の情報量は他の同類の書籍ではなかなか見られないものがあり、このブログも非常にお世話になることになる(なっている)はずです。
 
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by sleepless_night | 2005-08-13 00:08 |

ストーカーから見えるものは

やっと、ストーカー問題の帰結部であり、本論の導入部へとたどり着きました。

 長々とストーカーについて説明を重ねてきましたので、少しまとめますと。

 まず、ストーカー問題の最初に示した、ストーカーの定義について振り返ってみます。
 ストーカーの定義として、ストーカー規正法の定義とその他の定義を出しました。
 
 法律の定義するストーキングは、
[目的]恋愛感情・好意やそれが満たされなかった時の怨恨の感情を充足する目的
[対象]当該特定の人、その配偶者や同居の親族、社会生活で親密な関係を有する人
[行為]一号から八号の行為の反復で保護法益を侵害、若しくは侵害される著しい不安を与えること
[保護法益]被害者の身体の安全、名誉、行動の自由、居住地の安全

 その他の定義でストーカーは
①一方的な好意・恋愛感情
②妄想・幻想に基づく
③繰り返し・執拗に接近・付回すなどして迷惑・攻撃し被害を与える人

 とされます。

 分析のための類型として、ストーカーの類型として行為・関係類型と心理類型の二つの類型を出しました。
 行為・関係類型では拒絶型・憎悪型・略奪型・親密性要求型・求愛型の5つ、心理類型では精神病系・パラノイド系・境界性パーソナリティ系・自己愛性パーソナリティ系・反社会的パーソナリティ系の5つです。

 そして、前回までに類型の説明を終えました。
 結果として、定義の問題でも“奈良の騒音オバサン”の例で出しましたように、憎悪型ストーカーがストーカーとして認知されていない(定義に入っていない)こと、ストーカーの心理類型がパーソナリティ障害に偏っていることが問題として出てきました。
 前者は、定義の問題で述べたように、ストーカーの歴史から日本のストーカーが切り離されていること。
 後者は、パーソナリティ障害自体の捉え難さ、特にパーソナリティ障害という概念を生み出した精神医学(心理学)自体の弱み・曖昧さとパーソナリティ障害という概念の当てはまる人々の普通さ・膨大さが軽視されてしまっていることが、ストーカーの心理問題として語られるパーソナリティ障害に集約されてしまっている原因だと挙げました。

 既述ように、どちらも、全体からの切り離し、全体を見れていないことで共通しているのです
 このように、切り離されて輸入されたストーカーという言葉が漠然とした不安の中で即座に受け入れられ、定着し現在に至っているわけです。
 それは、近年警察によって言われる“体感不安”になぞらえて言えば、“体感ストーカー”とでも言えるものです。
 確かに、ストーカーの概念に当てはまる人はいます。身近で被害にあった知り合いを持つ人も少なくないでしょう。
 なにより、ストーカーという言葉、ストーカー規正法のおかげで、被害者の8割を占める性である女性は被害を言葉に表せるようになり、被害の深刻化に対処できるようになった(行政や学校・会社で相談窓口ができた)点で、非常に評価されるべきものです。

 ところが、全体から切り離された・根から切り離された言葉・概念が“体感的”に使用されることで、それを使う側にも矛先が向けられていることに気づいている人は多くないように思います。
 つまり、ストーカーと体感的に使うこと、体感的にストーカーを非難する人(※)が同じ口で賛美の言葉を与える対象、もしくは、自分自身の好ましいと思う関係についてまで否定される可能性があることにどれだけの人が気づいているだろうかということです。
 
 ストーカーについてなぜ語ろうと言うのか?
 この根本のスタートで、私はストーカーが日本の男女関係(同性愛の場合は同性関係)をゆがんだ形で拡大されているものだと考えていること、推奨され・賛美される関係と否定され非難される関係の区別の作り出した線が時代の男女関係(同性関係)を描く線だと考えていること、その両者は同じ社会に存在し通底すると考えることを述べました。
 ストーカーの全体を見渡して、その線が浮かび上がってきたのに気づいていただいていると思います。
 類型で言うと、行為・関係類型の拒絶型と求愛型です。
 特に、求愛型ストーカーについて考えてみること。
 求愛型ストーカーの説明でも述べたように、この類型はもっとも通常の男女関係(同性関係)に近い、つまり、境界線上のストーカーです。
 この線が時代の男女関係(同性関係)を描く線だと考えるのです。

 ストーカーの定義の問題で野口英世の例を使って、熱心な片思いとストーカーの判別の問題について述べました。
 そこで、ストーカーと認定し措置を採るべきだと考えるのは、相手が自分の出したメッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと述べました。
 拒絶型がまさしくこれに妥当すると考えられますが、求愛型も同様に妥当します。

 メッセージによってお互いの思考・行動を修正するのは、人間関係の基本的なルールであり、マナーです。
 ストーカーとして対処すべきは、このような基礎ができない人だといえます。

 しかし、この基本的であるはずのルール・マナーにあやしさ(危うさ)が現れる関係、その最たるものが、男女関係(同性関係)です。
 正確に述べますと、そのようなあやしさのある欲求や情熱を感じることが一般的だと考えられる・理想とまでされるのが男女関係(同性関係)だということです。
 つまり、相手のメッセージによって物分り良く行動する、修正する人がいたとして、その人を自分の恋人や配偶者にしたいと思うか?、ましてや、そんなドラマや映画や小説を読んで楽しいか?ということです。
 自分に対して相手が特定の強い感情を持って接して欲しいと思うこと、それを実感させて欲しいと思うことが、男女関係(同性関係)では強く現れると考えられます。
 
 ストーカーの歴史は、社会、特に女性の権利意識の向上によることは前述しました。
 つまり、西洋社会(の価値観を共有する社会)の大原則である自由主義(と同時に導かれる平等主義)による権利意識の明確化です。
 自由主義とは、“明白な法的規則か暗黙の了解によって権利とみなされるべき、一定の利益を侵害しないこと”を前提として、“ある一人の人、あるいはどんな数の人びとでも、他の成熟した年齢の人物に対して、彼が自分の利益のためにしたいと望むように、してはならないという権限を与えられてはならない”ことを意味します(※1)。
 つまり、他人の迷惑にならなければ、明らかに馬鹿で自分に有害なことも許されるということです。
 重要なのは、“権利と見做されるべき、一定の利益を侵害”することはできないということです。
 そして、この“一定の利益”に男女関係(同性関係)内部の事項が含まれ、男女関係(同性関係)の開始・継続に双方の合意(同意)が“権利とみなされるべき”こととなった結果の一つがストーカー規正法です。

 拒絶型と求愛型、特に求愛型ストーカーが境界線上となるのは、この合意(同意)をどう捉えるべきか、さらに前提にさかのぼって、“個人的”領域(※2)を守るべき・このような自由主義的な権利意識からの保護地域(聖域)を認めるべきかという問題への問いに対する論者の逡巡と重なるからだと考えます。
 つまり、ストーカーはこれまでも述べてきたように多様に分類され、その中でもグラデーションがあります。そして、明らかに規制の必要なストーカーへ法規制をかけることには、グレーゾーン(境界線上)のストーカーの法適用が不可避的に含まてしまいます。そこで、そのグレーゾーン、求愛型と拒絶型の一部に当てはまる人々について法適用をすることに、感情的に逡巡を覚える論者が出てくるのです。この逡巡は、グレーゾーンをストーカー規正法の対象範囲に含まれてしまうこと、それが法規制にとって避けられないことであるが、そのことが自分達の感情やある種の理想を否定することになることに気づいていることから生まれるのです。
 ですが、この逡巡も、自由主義の生み出したものです。
 そして、逡巡する論者達もこの自由主義という大前提を否定できないのです。

 自由主義が社会の法に取り入れられ、社会の慣習、人々の価値意識に取り入れれなければ、男女関係(同性関係)で自分を特定の存在として求められることを欲求すること、その欲求を実現可能な欲求として認識することは基本的には不可能でした。
 自由故に選択の機会が与えられ、選択にされされる故に、選択される対象たる自分を納得させる理由が求められる
 だからこそ、自分との男女関係(同性関係)を希望する他者の意欲・欲求に強いものを求め、単純で物分りの良い(他の多くの関係では理想的なはずの)コミュニケーションでは満たされなさを感じ、合意を“権利とみなされるべき”ものに入れるかの感情的逡巡が生まれる、少なくとも、物分りの良いコミュニケーションを理想と捉えることに感情的に逡巡すると考えられるのです。
 さらに現代の交通・情報技術の発達で、選択の範囲が人間の選択能力をはるかに上回るまでに広まってしまい“過剰選択肢”の問題(選択肢が多いほうが自分にとって良い判断ができると考えられるのに、選択肢が過剰なほど多いとかえって選択を放棄してしまう)まで絡んできます。つまり、選択対象が過剰に広がり、その中に自分も当然含まれる。そうすると、選択された場合に、なぜ、どうやって自分なのかを問うことが極めて困難になる。困難ゆえに、よけいに問いへの答えを求めたくなる。

 “体感ストーカー”はこう言った状況で広まったと考えられます。
 過剰選択肢で虚脱的な寄る辺の無さ、自分という特定の個人を求められる理由を求める感情・欲求、正確な知識を欠く自由主義的な権利意識。
 その混沌とした不安と願望の入り混じった中で、“体感的”にストーカーという名称が使われてしまい、本当に問題とされる対象を逃し、意識せずに自分の立つ土台を崩してしまっている。

 ストーカーの心理類型の中でも境界性パーソナリティ障害系のストーカーは満たされない空虚感から逃れるための過剰な依存を特徴とすると考えら、自己愛性パーソナリティ障害系は自分の価値を映し出してくれる鏡を求めることがあると考えられます。行為・関係類型の中の拒絶型ストーカーは権利・正義意識をもってストーキングすることがあります(拒絶型に該当する心理類型の中心は境界・自己愛性パーソナリティ障害系、また、この二つは求愛型の中心類型でもある)。

 逡巡を感じることができず、“体感ストーカー”を使う人は、その言葉が、鏡に映し出された自分だということに気づいているでしょうか。

 
 次回は、もう少しこの視点で話を続けて、本論への道筋をつけます。

※)難しい点ですが、問題意識としては“体感ストーカー”を意識するべきと考えますが、ストーカーである可能性がある場合への内心での準備のようなものは必要だと思いますし、ためらうと深刻化する恐れがあります。また、ストーキングは犯罪です。犯罪を非難することは当然です。ストーカーによる被害は直接に肉体的な危害と同様に、その心理的な危害が重大であることは決して軽視されるべきものではありません。
※1)『自由について』J・S・ミル著 水田洋訳
※2)フェミニズム運動、1960年代以降のフェミニズム運動のスローガンの一つ“個人的なことは政治的なこと”。これによって、性関係を含む個人的とされた領域にまでフェミニズムの問題意識が及ぶようになった。
 
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by sleepless_night | 2005-08-06 23:08 | ストーカー関連

ストーカーとは何か?/心理類型と行為・関係類型のクロス

 ストーカーの心理類型について、一通りの説明が終わりましたので、心理類型と行為・関係類型のクロス(二つの類型を重ねる)をしていきたいと思います。
 行為・関係類型を軸に、心理類型を重ねます。
 心理類型は、分析や理解には必要ですし、適していますが、ストーカーの情報を集める必要があり、初見では判別できず、具体的な事例の最初の当てはめに使うのには適していません。ですので、直接的に判別できる行為・関係類型を軸にした上で使うことが妥当だと考えるます。
 行為・関係類型はかなり以前に出しましたので、再度、同じ説明文を挙げ、追加的なものを加えてあります。
 尚、行為・関係類型は『ストーカーの心理』(サイエンス社)P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル共著/託摩武俊監訳/安岡真訳に拠ります。

[①拒絶型]
 一定以上の親密さのあった関係(親子・夫婦・恋人・親友・長年の同僚や取引相手・医者患者間・教師生徒間)が壊れたときに生じるストーカー。
 この拒絶型が最も多い類型。警察の統計では、全ストーカーの約70~80%がこれに当てはまる。
 関係の喪失感から、よりを戻したい・断られた腹いせ、の目的を持つが、ストーキングという行為の過剰さがその目的を達成することに有効だではないとの認識はある。
 それでは何故するのかと言うと、権利意識や正義感という妄想の下に自分がストーキングを止めると、関係の喪失を認めることになる、ストーキングが相手と自分の関係を維持する行為なので、それは有効ではない、かえって有害だと認めても止めることができないからだと考えられる。
 権利意識・正義感から、脅迫・暴力につながる傾向がある。
⇒[心理類型]で考えると
 中心的には(3-2)自己愛性パーソナリティ障害系が該当すると考えられます。
 自分への誇大な評価から、相手にも関係を規定する権利があることを受け入れらない。独占欲が強く、相手の意思を考慮せず(共感の欠如)に、自分の思い描く世界に従わせようとする(不当な他人の利用)。
 尊大で傲慢であるようで、それは幼児的な全能感に基づくだけに、批判や拒絶に弱い。
 (3-1)境界性パーソナリティ障害系も、拒絶型に該当することが多いと考えらる。その場合は、自分の権利や正義という妄想が前面になく、喪失された関係への強固な依存が見られると考えられる。
 境界性の持つ空虚感を満たすため、その関係に一切の希望や期待を求めよう(極端な人物評価)とし、関係が失われることは、それに求めた一切の希望も期待も失われることを意味するので、喪失を受け入れられなくなる(見捨てられることへのなりふり構わない努力)。
 (3-3)反社会性パーソナリティ障害系は特徴的な関係の場合には拒絶型に該当すると考えられます。特徴的な関係とは、相手側に特徴的なスキがあり(※)、それに反社会的パーソナリティ障害を持つ人が付け込むようにして作られる関係のことで、同じような相手と同じようなトラブルを繰り返すことが考えれます。
 (1)精神病系(2)パラノイド系も、医者患者間の場合に考えられます。

[憎悪型]
 拒絶型ほどの親密さの無かった関係の相手、若しくは、殆ど知らない他者に対して、相手を恐怖・混乱させたい欲望から生じるストーカー。
 ストーキングの相手の選択には意味が無く、手当たり次第の感がある。
 憎悪とは、自分の中でストーキングのきっかけとなる出来事で感じた自分の感情をすぐに爆発させるのではなく、内にためて反芻し、確認・維持された強固で冷徹な怒りと憎しみの感情のこと。したがって、計画性が強く、脅迫的である。
 きっかけとなった出来事で、自分は被害者であり、ストーキングはそのお返しであると、正当化している。
 どの類型よりも脅迫行為を行いやすいが、実際の暴力行為へ及ぶことはどの類型よりも少ない。
⇒[心理類型]で考えると
 中心的には、(2)パラノイド系が該当すると考えられる。
 妄想以外は正常者と変わらない能力を持ち、妄想に基づく行為をその能力を使って実行し  ていく。
 (3-3)反社会性パーソナリティ障害系のようにも見えるが、憎悪型のストーカーは社会的な能力の低下がなく、自分の行為の結果を計算でき、保身行為をとることができ、直接的な暴力行為を取ることが少ないので、当てはまることは少ないと考える。

[略奪型]
 自分の性的妄想を満たすための相手をストーキングするタイプ。
 性的妄想の実現という目的のための手段としてのストーキング。
 目的が相手との関係を意図したものではなく、自分の欲望と妄想の実現と言う一回性のあるものなので、ストーキングの期間は他の類型に比べて著しく短く、外から観察できることが少ないため、警告となる兆候なしに暴力行為が発現する。
 拒絶型以外で最も暴力行為に至ることが多い類型。
⇒[心理類型]で考えると
 中心的には(3-3)反社会的パーソナリティ障害系が該当すると考えられます。
 特徴的な性癖を社会の中で統御できずに実現しようとする(社会・法規範の無視)、性犯罪  の前科を持つことが多いなど、パーソナリティの偏りが主観的苦痛でとどまらず、他者の法  益(法律によって守られる利益:生命身体財産など)侵害に及ぶ傾向が当て嵌まります。

[親しくなりたいタイプ(親密性要求型)]
 相手と相思相愛の関係を築きたいとの一方的な意図から生じるストーカー。
 最もしつこく、拒絶型以外で最も長期にわたり、多く見られる類型。
 孤独感で切迫する自分の生活を解決してくれる相手(理想の相手)だとみなして強い好意を持ち、その権利があるとの思いもある。求めるのが相思相愛といっても、所謂恋人や配偶者へ求めるような関係性というよりも、保護者的な愛情を求める。
 ストーキング自体が自分の生活の孤独感からの逃避・補償行動ともなる。
⇒[心理類型]で考えると
  見ず知らずに近い相手をストーキングする場合には、(1)精神病系(2)パラノイド系(3-2)自己愛性パーソナリティ障害系が該当すると考えられます。
 該当する心理類型にかなりばらつきがあり中心的なものを特定しにくい。
 ただし、孤独であり、それからの救いのために理想の相手を見るという点からは(3-2)の推定ができる(境界性系も該当すると考えられるが、自分に相手と関係をもつ権利があるとの思いが強い場合は自己愛性を考えた方が妥当すると考える)。
 相手が有名人である場合は、(1)精神病系(2)パラノイド系が中心的に該当すると考えられる。
 歌手や俳優などの芸能人の場合には勿論、社会的地位の高い人(著名な医者や学者、宗 教家などの人を助ける立場の人や行政組織の高官や企業の重役)の場合でも他の行為・関 係類型のように直接的な関係を持つことが考えられないので、それだけ妄想の世界がしっか りしてないとストーカーになれないと考えられる。

[相手にされない求愛者タイプ(求愛型)]
 親しくなりたいタイプとの違いは、相手の扱い方と関係の可能性にある。
 この類型のストーカーは、社交・人間関係のスキルが非常に低く、不器用で、鈍感であるために生じる。
 全ての類型の中で最も世間一般の男女関係(同性関係)に近いともいえる。(※1)
 比較的ストーキングの期間は短期。ただし、本人が変わらないために累犯性がある。
⇒[心理類型]で考えると
  中心的には(3-1)境界性パーソナリティ障害系(3-2)自己愛性パーソナリティ 障害系が考えられる。
 上手く関係性を作れない、相手の感情や思考に鈍感、自分の行動がどのような効果を持つのか評価できないことが、(相手を引き付けるために)自分の価値を喧伝することに夢中になったための場合なら(3-2)、空虚感から相手へしがみつこうとしたための場合なら(3-1)が考えられる。

 以上で、ストーカー問題の下拵えが完了です。
 このように見てみますと、一般にストーカーとして問題にされているのは、拒絶型と親密性要求型と求愛型の3つを指しているために、指摘されるストーカーの心理類型がパーソナリティ障害系に偏って注目されていると理解できます。
 特に、最も多い拒絶型の中心がパーソナリティ障害系であることは大きいのでしょう。
 つまり、このことがストーカーの心理をめぐる乱暴とも思える決め付けにつながっていると考えられるのです。
 そして、この心理類型と行為・関係類型のクロスだけ見ると、いかに心理類型として挙げられる病名や疾患名の持つ悪い面が強調されてしまっているかに気づくでしょう。
 心理類型だけの説明では、疾患全体について述べることができるのですが、クロスさせてみると、行為・関係類型が軸となるのでそれに直接結びつく心理類型の特徴を示さなくてはなりません。そこが、ストーカー問題(の心理類型としてのパーソナリティ障害)と通常のパーソナリティ障害に関する問題の取り上げ方に差が出る原因となっているのだと考えられます。
 
 憎悪型は以前に述べたように、最初からストーカー規正法の定義から外れているために、ストーカーだと認知されておらず、略奪型は目的のための手段であり、目的自体が強姦や強制わいせつに相当するのでそちらの罪に吸収され、独自にストーキングとして摘出されないためにストーカーとして認知されないと考えられます。

 ストーカーの歴史から切り離した定義、差異を無視した言論、社会からの隔離、そこから全体の中での視点が阻害されていることが見えてきます。
 それが、ストーカーと一言で名指される存在を不明なものにし、本来なら被害者として救済されるべき人を外したり、感情的な排除で済ませようとしたりし、騒いだ割に問題の解決になっていない、臭い物にフタ的な発想で終わってしまう。
 
  次回ストーカーから見えるものはで、このストーカー問題の帰結、具体的に何がストーカー問題が現代の男女関係(同性関係)を考える上で重要なのか、何がこれを通して見えるのか、に入ります。
 また、ストーカーの対策などについても補論の形で出します。
 
 
補足)境界性パーソナリティ障害と自己愛性パーソナリティ障害はどちらも、「幼児的な自己愛」に育成原因を求められるので、似ていますし、パーソナリティ障害自体が重複(境界性と自己愛性が重複して診断される)が非常に多いとされています。また、前々回に述べたように、自己愛的な要素はどの精神疾患にもみとめられると考えられています。

※)ストーカーの被害者側の特徴は別に述べますが、明らかに不幸で、本人も不幸だと思っているのに、なぜか同じような関係を繰り返してしまう、同じような相手を選んでしまう人の場合、不幸である関係に痛みの中の安らぎのようなものを感じていることが考えられます。依存が苦しいのにせずにはいられないのと同じことが、人間関係への依存である共依存も同様に言えると考えられます。
 フロイトは、このような苦痛をなぜか繰り返してしまうことを「反復強制」と呼びましたが、これは経験から学習されたものだと考えられます。
※1)求愛型の場合、かなり認定が微妙な人々がストーカーとカウントされることが多いと指摘があります。ストーカーの定義の問題についてで述べましたが、ストーカーと認定するか否かは、相手が自分の出したメッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと考えられますので、唐突で不器用な求愛を時流や感覚でストーカーとするのは正確ではありません。
 ストーカーか否か、概念を正確に定義することは、問題を考える上での基礎です。
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by sleepless_night | 2005-08-02 22:11 | ストーカー関連