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ストーカーになったら・ならないために。

 ストーカーを通して見る現代の男女関係(同性愛の場合は同性関係)の補論として、前回は被害者になった・ならないための具体的な対処法について述べましたが、今回は、加害者になった・ならないためについて述べます。
 幾度も述べてきましたが、ストーカーは本来は好意感情に基づくものに限定されません。ですが、ここでも一応、日本のストーカー規正法の対象範囲となる拒絶型、親密性要求型、求愛型を前提に話を進めます。(分類についてはこちらストーカーとは何か?/心理類型と行為・関係類型のクロスを参照してください。)

(1)線引き。
 まず、これもストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世で既述した問題ですが、ストーカーになっているか否か確認してみましょう。

 ストーカーとは規正法の定義では(ストーカー規正法2条3条要約)
http://www.ron.gr.jp/law/law/stalker.htm
[目的]恋愛感情・好意、又はそれが満たされなかった時の感情を充足する目的で
[対象]当該特定の人、その配偶者や同居の親族、社会生活で親密な関係を有する人へ
[行為]以下の行為の反復で保護法益を侵害、若しくは侵害される著しい不安を与える行為
・付きまとい・待ち伏せ・進路に立ちふさがり、住居・勤務先・学校その他の通常所在する場所(住所等)の付近においての見張り、住所等への押しかけ。
・その行動を監視していると思わせるような事項を告げる、または、その知りうる状態に置くこと。
・面会・交際その他の義務のないことを行うことの要求
・著しく粗野または乱暴な言動
・無言電話、拒まれてるのに連続して電話・ファックス送信
・汚物・動物の死体その他著しく不快または嫌悪感を感じさせる物を送る、又は、知りうる状況に置くこと。
・名誉を害することを告げる、又は、知りうる状況に置く。
・性的羞恥心を害することを告げる、又は、それを知りうる状況に置く。性的羞恥心を害する物を送る、又は、それを知りうる状況に置く。
[保護法益]被害者の身体の安全、名誉、行動の自由、住居・生活の平穏 

この4つの要件に当てはまれば、ストーカー規正法の対象となるストーカーです。
但し、この4つの要件を考えた時、[目的][行為]の二つは認定が難しい、特に後者はどこからが法的対象になるストーカーなのかは判断が難しいところです。(※)
具体的に、・・を~回するとストーカーだとは言えません。

そこで、私見ではストーカーとして法的な対応をするべきだと考えるライン(線引き)を「被行為者(ストーカーの被害者・その可能性のある人)が発したメッセージによって、行為者(ストーカー・その可能性のある人)が思考・行動を修正・改善できるか否か」だとしました。
 つまり、前回の被害者としての対応①②の段階で変化がないなら法的対象となるストーカーと考えるべきということです。
  したがって、もし相手が(直接・間接を問わず)拒否の意思表示をしているにもかかわらず自分の感情・思考に基づく行動を変えることができないなら、自分はストーキングをしているのだと考えるべきです。

  既述しているように、概念としてのストーカーの定義は確定していません。
 しかし、“ストーキングと言う考えの中心にあるのは、望まれざる感心を持たれた誰か、そのため不快感を覚え恐怖するその当人の受け止め方なのだ。中略。ストーキングとは被害にあった者の目に映る光景である。”(※1)と言った視点、つまり、相手がどう感じているかに重点が置かれた概念であるということは一致していると言えます。


(2)ストーカーになったら。

 “ストーキングが被害者ばかりか、行為者の生活まで破壊することは分かってはいても関心の対象になってはこなかった。”(※1)

 ここで重要なのは、“行為者の生活まで破壊すること”だと思います。
 つまり、ストーキングをしても何も実りはないし、自らを害する行為だと言うことです。
 
① 心理類型で考えると、精神病系・パラノイド系の場合は、治療が必要ですので、ストーキングをしても何の改善になることもない(むしろ症状を放置されてマイナス)ので当然だと言えます。
 それ以外のパーソナリティ障害系の場合も同様にストーキングは何の改善にもならないはずです。
 もしかしたら、ストーキングをすることで一時的に精神的な安定感・充足感を得られるかもしれません。
 しかし、それは悪い位置での安定や充足です。ストーキングを続ければ、相手と自分の両方を傷つけ、生活を破壊してしまいます。必ず、その安定は崩れますし、絶えず、その現実の不安を感じているはずです。
 自分がどんなに努力をしても、どんなに思いを強くしても、関係とは相手と自分の二者間で成立するものですから、相手が拒めば、そこまでです。
 情熱も努力も、それを受ける意思のないところには絶対に通じません。
 ましてや、相手の心を支配することなどできません。

 自分のために、直ぐに止めることです。
 自分のために、その相手が必要だと思ったとしても、自分の現実の行いを見てみれば、単に自分と相手を傷つけているだけではないでしょうか。
 現に、相手は不安感や恐怖感を持っています。そんな相手と一緒にて、自分が幸せになれる・関係が継続できると思うでしょうか。
 もし、相手がとても素晴らしい人で、その人が自分にはどうしても必要だと感じているなら、自分の行為がその素晴らしい人を傷つけていることはどう考えるでしょう。
 もし、空虚感や不全感で相手が必要だと思っているなら、相手で空虚感や不全感は解決したか、解決して自分が満たされた安心感を得られているかを考えてみて欲しいと思います。
 もし、相手が自分の良さを分かってないだけ、時間をかければ必ず伝わると思っているなら、相手がどう感じ・判断するかは相手自身の権利であること、未来にどうなるかは不明でも、不安や恐怖を今与えてよい理由にはならないことを認識して欲しいと思います。

②ストーキングを止めて、他の何があるのか。
 即効性・有効性のあるものはありません。しかし、ストーキングが自分を害していること、何の解決も、実りももたらさないことは言えます。
 自分を変えるというのは、とても難しいことだと思います。(※2)
 決意と、長い時間、試行錯誤を必要とするはずです。
 一人では難しかったら、カウンセリングの技術を持つ医師や臨床心理士などの専門家に相談・助力を頼むべきでしょう。
 まずは、今の自分のどんな感情や思考がストーキングをする原因となるのかを確認してみること。
 ・対人関係で、見捨てられる不安を持っていないか?
 ・一時的な孤独を永続的な孤独と同じように感じていないか?
 ・他人の人物評価が激しく変化していないか?実際以上に素晴らしく思えたり、けなしてみていないか?
 ・実際的に見て、自分を過剰に評価したり、過剰に卑下していないか?
 ・自分という存在を自分で受け入れられているか?失敗したり、恥をかいたり、惨めだったり、成功したり、褒められたりと言った多面的な自分の経験を一つの自分の人生だと受け入れているか?一部を無視したり、一部だけを見つめていないか?
 
 そして、今の自分から新しく自分がどうありたいのかを考え、そのために一歩一歩、即効性を求めずに、今いる自分から徐々に変化を積み重ねる。
 試行錯誤の中でつらくても、他人で自分を紛らわそうとしないで、孤独に耐えてみる。
 対人関係では、自分と相手の距離を大事にする。それは、自分を大事にすることでもある。
 長い目で、自分も他人も見る。
 
③被害者に対して謝罪や賠償をどうするべきか。
 これは、被害の程度によると考えられます。
 つまり、刑事手続きに入れば責任を問われることは避けられませんが、基本的には相手が要求しているのかで考えるべきです。
 一方的に、自分が謝罪したい、賠償したいと思っても、相手は既に接触することを拒絶し、不安や恐怖を感じているなら、それ自体がストーキングの継続だと見做されかねません
 謝罪や賠償などにあたっても、少なくとも、双方の代理人を挟む程度の配慮はするべきだと考えられます。

(2)ストーカーにならないために。
 ストーカーは社会病理であるという側面は強く指摘されています。(※3)
 現代社会では、誰しもがストーカーの加害者、被害者になりかねません
 特に、既述してきたように、“体感的”なストーカー概念の使われ方はこの傾向を強めているように思えます。
 (1)で述べましたように、ストーカーとは被害者の視点に重点を置いた概念です。それはストーカー概念の歴史から必然的に要請されるので適切なものだと考えます。
 しかし、その歴史的・理論的な前提を欠くと、恣意的・暴走的用法の招く混乱を生じさせます。社会、少なくとも、マス・メディアの状況はその混乱を如実に表していますし、一般的に受け入れられている言論の中にも助長しながら非難するという矛盾した態度は見られます。
世界の中心で愛を叫ぶもてない男とストーカーをめぐって「純愛」の絶望/ストーカーから見えるものpart3で述べたとおりです。

 したがって、二つの方向でストーカーにならないためにどうするかを考えなくてはなりません。
 一つは、(1)で述べたように、自分自身の対人関係のありかた(自分自身のありかた)を見直すと言う方向です。
 もし、ストーカーになりかねない(感情による行動が意思で止めきれない)と意識するなら、ストーカーの心理/人格障害編 PART1ストーカーの心理/人格障害編 part2ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性などの特徴・傾向を自分で確認するなど、自分を引いた視線で見ることが役に立つと考えます(但し、パーソナリティ障害自体の問題点も同時に抑えておくべきだと思いますし、加えて、断定的な自己診断は避けるべきです。あくまでも、自分の中の偏りを認識する道具程度で考えるべき)。
 誰か一人との関係に熱中しやすいなら、その相手以外との関係も大切にして、視野狭窄に陥らないようする。自分の思考・言動に不安を感じたら、非難を含めた意見を言ってもらえるような関係の友人・知人がいれば暴走するまではいかないはずです。
 又、人間関係以外でも熱中できる趣味を持つなど、自分で充実感を感じられるものを見つけておけば、自分も他人も傷つけるストーキングをする必要がなくなるでしょう。(※4)
 もう一つの方向は、ストーカーとは何かを知ることだと思います。
 特に、~をしたらストーカーだというのではなく、何がストーカーという概念を必要としたのか、ストーカー概念は何を裏づけとして持っているのかを知れば、短絡的なハウ・ツーではないので、理論的にストーカーか否かを判断できると考えられます。さらには、“体感的”なストーカーの用法にも冷静に対処できるようになるでしょう。

(3)周囲の人間がストーカーになったら。
 これも、被害者の場合と同様に、その人と自分がどの程度の関係にあるのかによると考えられます。
 積極的に介入する際には、相応の責任が問われることが考えられます。自分のとれるリスクの範囲内で行動するべきです。
 自分の労力・時間をその人の為に使いたいと思わなければ、積極的に介入することは避けるべきだと考えます。
 もし、ストーカーが親しい友人や親族であってたら、だいたいの行動や加害状況を把握して、ストーカーのカウンセリング実績のある精神科医やカウンセラーに相談する、その上で、場合によっては、警察の力も借りるべきです。可哀相だからと放置すれば、被害が拡大し、結果としてストーカー本人をも害します。
 徒に、騒いだり、怒鳴りつけるよりも、専門的知識のある第三者を挟んだ方が安全ですし、有効なはずです。
 特に、家族や親族内という閉鎖状況で解決をしようとすると、そこはストーカー本人が育った状況ですので、ストーキングの根本的な原因の解決に必要な視点を見つけ難いと考えられます。

 以上で、ストーカーを通じての考察を終わり、本論へ入ります。
 

※)『ストーカーの心理』共著(サイエンス社)、『人はなぜストーカーになるのか』岩下久美子著(文春文庫)によると、海外では基準を定めているところもあるようですが、日本では警察の現場でも定まっていないようです。 
※1)『ストーカーの心理』P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル共著(サイエンス社)より
※2)『境界性人格障害のすべて』J・J・クライスマン、H・ストラウス共著(ヴォイス)   の助言を軸に、『人格障害かもしれない』磯部潮著(光文社)や『パーソナリティ障害』(PHP新書)の記述を参照しています。
※3)社会病理といのは二つの点から言えます。
 一つは、ストーカーとは何か?/ストーカーって一つじゃないの?でのべたように、社会の権利意識が変化したことで、今までも存在していた現象の捉え方が変わったと言う点です。
 もう一つは、都市の匿名性、伝統的なコミュニティーから切り離された不安感、情報技術の発達、過剰な欲求充足、混乱した価値意識といった現代の社会状況が寄与したと言う点です。
※4)『人はなぜストーカーになるのか』岩下久美子著(文春文庫)より
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by sleepless_night | 2005-09-25 14:13 | ストーカー関連

ストーカーの被害者になったら。

 ストーカーを通してみる現代の男女関係(同性愛の場合は同性関係)の補論として、ストーカーの被害者や加害者、その周囲の人間になった場合の対処についてまとめておきます。
 尚、ストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世やストーカーの分類についての記事で述べてありますように、本来、ストーカーとはハラスメント(嫌がらせ)の一つであって、日本のストーカー規制法(ストーカー行為等の規制等に関する法律)のように好意感情などの要件で限定されるものではありません。
 ですが、日本のストーカー規正法の対象から外れる類型、行為・関係類型で言えば、憎悪型と略奪型は対処がそれ以外とは大きく違う(※)ので以下は、この二つの類型を除いたものとします。
 したがって、以下は拒絶型、親密性要求型、求愛型を想定しています(それぞれの類型については、ストーカーとは何か?/心理類型と行為・関係類型のクロスを参照してください)。
 
(1)ストーカーの被害者になったら。
 ストーカーの心理類型によって最適な対処法が違っていますが、共通してするべきとされる対処を挙げます。(※1)
①率直に、明確に、誤解や疑問の余地のない表現で、自分の意思や感情を伝える。 
 →まず、自分が被害者である自覚を持つこと。
 自分の意思、即ち、「相手(ストーカー)と交際(orを継続)するつもりはない。好きではない。相手の行為は自分にとって迷惑(恐怖)である。直ぐに、止めて欲しい。」をはっきりさせないと、表現に隙や迷いが現れる可能性がありますので、(特にストーカーが元配偶者や交際相手だった場合)しっかりと気持ち・思考を固める必要がある。
 ②接触を断てばよいだろうと、①を飛ばしてはいけない
 ②は①を伴って意味を持つので、①をしないままだとストーカーに想像や妄想を否定する契機を認識させられない。
 表現する際には、絶対に、「あなたには私よりも素敵な人がふさわしい」「気持ちは嬉しいけど」など、ストーカーに希望を持たせてしまう表現はせず、NOがNOとしか採りようの無い明確・率直な表現をするべき。
 最初の段階で曖昧な表現・態度、相手が察することを期待するような表現をすることは状況を深刻化させてしまう可能性があるため、率直・明確な表現を心がける。 
 但し、重要で難しいのが、自分の意思や感情を感情的に伝えてはならない点です。
 理由は二つあります。一つは、既述してありますが、ストーカーには相手を支配(所有)しようとする傾向があるからです。被害者が感情的になっているということは、ストーカーにとっては自分の行為(ストーキング)が被害者に影響を与えていることを意味します。ですから、感情的になっている姿・言動を見せることはストーカーに自分の行為が効果的であることを伝えることになり、ストーキングを助長しかねません。
 もう一つは、ストーカーの心理類型の一つ自己愛性パーソナリティ障害系(ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性)の場合に、感情的な怒りや非難の言葉が、ストーカーを傷つけてしまい、行動を激化させる可能性があるからです。
 感情を伝えることと、感情的になることは別です。どんなに感情的になりたくとも、結果を得るためには我慢することが必要とされます。
 
②完全に接触を断つ。
 →①をしたら、後は完全に無視すること。決して、「もう一回だけ」などの話し合いに応じたり、相手を説得しようとはしないこと。
 理由は二つあります。一つは、①と同様に、ストーカーに反応すること自体がストーカーを助長してしまうからです。もう一つは、説得が不可能だからです。
 なぜなら、例えば「あなたは私のことを好きになる」とのストーカーの発言に反論、説得しようとしても、私(被害者)が私のことを一番よく知っているとどんなに頑張っても、未来の自分の気持ちなど確実に分かることなど理論的にも、経験的にもありえないからです。対話も説得も、逆に利用される可能性が高いので、するべきではないでしょう。
 “いい人”であることは諦めて、冷徹になることが求められます。
 NOといくら明確に、率直に表現しても、それと同様の明確で率直なNOの態度を持たなくては、①の意味が損なわれてしまいます。

③個人情報・身の回りの安全を守る。
 郵便受けやドアポストから、手紙や請求書が抜き取られないようになっているか。
 電話やドアホンで在宅しているかどうか判断できるようになっていないか。
 カーテンは遮光性の高いものになっているか。
 ドアやベランダのサッシの鍵は簡単な技術で開錠できるタイプになっていないか。
 電気・ガス・水道メーターなどが誰からも見えるようになってないか。
 ゴミに個人情報を含んだものをそのまま入れていないか。
 通勤・通学路、時間が固定されていないか。
 さらには、インターネットのセキュリティ措置(スパイウェア対策等)はどうか。

④証拠・記録を残す。
 →①②にしろ、それで済めばよいのですが、そう上手くいく場合ばかりではないので、公的機関への相談、対処要請をするためにの証拠や記録を残しておかなくてはなりません。
 送ってきた手紙、Eメール、電話、ファックス、プレゼント、などストーカーが接触してきたできる限りの証拠を記録とともに残しておくことです。待ち伏せ、付きまといなどはメモで時間と場所を可能な限り記録しておくべきです。できればビデオや写真が日付入りであればよい。
 物的損害を加えられたら、必ず警察に届けて、記録に残す。肉体的・精神的な損害が生じたら病院で診断書を書いてもらう。 
 
⑤第三者、周囲の人に被害を伝える。
 →自分の周囲、ストーカーの周囲の人に、自分がストーカーの被害を受けていることを伝える。
 理由は四つあります。
 一つは、①②について一人ですることは、特に女性被害者が男性加害者に向かってする場合に、困難で危険である可能性が相当にあるので、精神的にも実務的にもサポートしてくれる第三者が存在することが望ましいからです。
 二つ目に、周囲の人間からストーカーがストーキングに必要な情報を収集する可能性があるからです。
 三つ目に、後々に行政手続、司法手続きに入った時に、証言によって被害を確認できるからです。
 そして四つ目に、周囲に伝えておくことで、ストーカー側が流す虚偽の情報が周囲に伝わって、自分(被害者)を困難な状況にすることを防ぐためです。知らない間に付き合っているとされたり、被害者であるのに被害妄想だと片付けられたり、逆に加害者であるとの偽情報を流されると、周囲の誤解によってさらに追い詰められてしまう可能性があります。(※2)

⑥支援機関に相談する。
 →行政などの支援機関に相談、場合によっては介入を求める。
 具体的には警察、法務局、弁護士会や民間援助組織に相談すれば、状況に応じた対応や助言が得られるでしょう。
 警察なら最寄の警察署や県警に問い合わせればストーカー対策の部署(例:警視庁ストーカー対策室http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/stoka/stoka.htm)が分かります。
 また、弁護士会とは各都道府県に一つ(東京だけは三つ)ある、その都道府県で開業する全ての弁護士が所属する会です。どこに相談したらいいか迷ったら、弁護士会に相談すれば良いでしょう。(日弁連http://www.nichibenren.or.jp/jp/hp/houritu/soudan/houritsusoudan.html)。また、地域によっては無料法律相談所を行政が設けている場合がありますので、市町村役所へ問い合わせてもよいでしょう(http://www.asahi-net.or.jp/~zi3h-wrz/law2shiya.html)。
 その際に、③④が役に立つはずです。相談する際に、被害の状況は明確な証拠や記録によって確認できれば、支援機関はそれだけ正確な対応ができるはずです。また、警察や弁護士などの日常的に接しない業種の人と話すために、あらかじめ何を相談したいのかを具体的に考えておき、メモしておいた方が有意義に支援機関を利用できるでしょう。
 状況が深刻化して、警察の介入が必要な場合には、ストーカー規正法に基づいて警告や命令を警察に実行するように要請したり、場合によっては直ぐに告訴(刑事裁判の手続きにのせるので、ストーカーは逮捕されます)したりすることが考えられますが、その際に一人で行くよりも法的資格を持った人間を同行した方がスムーズだと思います。警察は殺人や窃盗などの明確な刑事事件の捜査は組織人員の性質上得意ですが、ストーカーのような民事との境界が曖昧さを含む場合には、被害が明確化しないと動きにくい傾向が指摘されます。また、警察官は実務的な処置のための知識は詳しくとも、法律に詳しいとは限りません。ですので、専門家だと認めざるを得ない、権限を持った人間が同行することで、警察の対応が変わる可能性は高いと言えます。
 実際に、どこにどこまで相談・支援を求めるかは個々で異なるでしょうが、正確な情報は後の対処において精神的な支えになるはずです。被害者なのにお金を支払わなくてはならないというのは腹立たしいものでしょうが、問題解決を第一と割り切るべきだと考えます。

⑦引っ越す。
 →究極的な対策。
 ストーカーの被害者であるにも関わらず、⑤で料金を支払ったり、時間と労力を取られて腹立たしいのに、引っ越しまでするとは納得がいかない場合が非常に多いでしょう。
 また、現実的に、別の場所で新たな生活を始めることを気軽にできる人も多くは無いはずです。
 ですので、一時的な避難措置と捉えて実行することが考えられます。
 この際、引越し業者や引越しのお知らせなど、引越し先がストーカーに知られる(後を付けられる)ことが無いように情報を管理する(業者に情報秘匿を確認)必要があります。特に、引越しに際してはゴミが大量に出ると予想されますが、その中には個人情報や引越し先の手がかりになるものがある場合がありますので、処分にあたっては細心の注意を心がけるべきです。

 以上の対処法に当たっては、『ストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世』で述べたように、自分の発したメッセージによって、相手(ストーカー容疑の人物)が思考・行動を修正できるか否かが対処法を進めるか否かの判断材料として適切だと考えます。
 つまり、①で明確・率直に否定のメッセージを伝え、②で接触を断ったにも拘らず、事態に改善がないならば、③以降の対処を進めるべきだと考えます。ストーカーは反復性と激化傾向が特徴的な犯罪ですので、注意して変化の有無を見定めて対処の停止・継続・進行を決めるべきです。
 ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 で述べたように、心理類型の精神病系やパラノイド系の場合は、ストーカー本人の中でしっかりとした妄想の世界が構築されている可能性が高く、③以降の対処を取らないで放置していても事態は改善しないと考えられます。
 特に、後者パラノイド系は心理社会的機能が低下せず、実生活で生じうる状況に関連した妄想を生じさせているので、⑤⑥の対処を取らないと被害が拡大進行する可能性が高いと考えられます。

 最後に、ストーカーの進行した被害を受けた場合に、心理的なダメージを受け、それによって他人に対する警戒感が強くなりすぎたり、似たような場面で被害時の感情が再現されたりする症状を持つ可能性が指摘されます。
 対処後、直ぐには安堵感で気付かないかもしれませんが、落ち着いて来てから、生活に支障が現れるようなら、カウンセリングを受けて、自分の中で経験を整理したほうがよいでしょう。
  
(2)ストーカーの被害者にならない為に。
①ストーカーの被害者になりやすい人。
 『行為・関係類型と心理類型のクロス』などで既述してありますが、ストーカーの約7割は拒絶型、即ち、一定以上の親しい関係にあった相手をストーキングする場合です。
 ですので、簡単に言えば、配偶者や恋人だった人間が被害者になりやすいと言えます。
 職業的には、医者、看護師、介護職、カウンセラー、教師など、親密さや信頼感を持たれやすい職業にある人が被害者になりやすいと言えます。
 尚、親密性要求型に含まれるスター・ストーカーの場合は、文字通り、芸能人などの著名人が被害者となります。これは古典的な職業病とも言えるでしょう。

 では、このように関係性や職業ではない観点、性格的にはどのような人が被害者になりやすいのか?
 共通して指摘される性格は、所謂母性的な人間です。(※3)
 “母親的なやさしさと厳しさ。”“やさしげではあるけれど、どこか毅然とした雰囲気である場合が多い”。
 加えて、“同情・共感しやすい”“責任感が強く、面倒を見たり尽くしたりする”“罪の意識を持ちやすい”“自己犠牲が得意で我慢強い”などの指摘があります。
 特徴を見る限り、多くの人から好感を持たれる人だと考えられます。
 私見ですが、この特徴の中で重要なのは、“罪の意識を持ちやすい”“自己犠牲が得意”と言う点にあると考えます。
 他の特徴では、ストーキングされても毅然として対処、ストーキングの対処法で述べた①②を自然と実行してしまうので、ストーキングが成立しにくいでしょう。
 “罪の意識を持ちやすい”“自己犠牲が得意”と言った場合に、自己評価が低い人間だと推測されます。つまり、一生懸命に努力したり、誰かの役に立っていないと、自分の価値を認められない傾向があると考えられるのです。
 そこがストーカーの付け入る隙であり、『行為・関係類型と心理類型のクロス』で述べた“特徴的な隙”だと考えられます。
 (ここで勘違いしてはならないのが、隙があるからといって、ストーキングされる理由はないということです。“同情・共感しやすい”ことも“責任感が強い”ととも“我慢強いこと”も褒められこそすれ、責められるべきことではないし、ましてやそれによって法益を侵害されてよい、されるだけの理由があるということは絶対にありません。)

②ストーカーの被害者にならない為に。
 ですから、性格的にストーカーの被害者になりやすい人間でなくなるには、基本的には自己評価を含む自尊心を高めることだと考えられます。
 これは『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論で述べた「健全な自己愛」を持つことと同じです。
 自尊心は外的(社会的)評価と内的(基本的)評価によって構成される、つまり、社会的にどのような役割・地位を担っているかという外から見える自分を評価する側面と、自分は自分の生きてきた経験や姿勢を肯定できているか(自分を自分で受け入れているか)という内からの評価の両方によって構成されていると考えられます。
 どちらか一方が弱ければ、もう一方がそれだけしっかりと支えないといけなくなり、支えきれないと自尊心を保てなくなると考えられます。
 “罪の意識を持ちやすい”ということは、責任を感じなくてもいい場合、ストーカー(犯罪)の被害者になることという責任を感じる必要のないことにまで責任を感じてしまい、自分を責めてしまうことですので、内的評価が低い人が多いと考えられます。
 その場合、内的評価の低さを補うために、“毅然とした雰囲気”や“面倒を見たり尽くしたり”して外的評価を強めて自尊心を保とうとしていると考えられます。
 したがって、根本的には自己評価を高めるようにすることが適切だと言えます。(プライドを高くし高飛車になることではありません。自分を自分として尊重でき、自分の感情の表明や保障されている権利の行使が相手にとって不快・不都合だとしても引け目を感じないで行えるようになることです。)

 対人関係においては、“ギブ・アンド・テイク”の関係を持てるように、与えるだけ、受けるだけにならないような、人間関係を築けるように意識することです。(※4)
 自己評価が低く、「健全な自己愛」を上手く持てないと、補償的に与えるだけになったり、逆に自分を満たそうとするかのように相手に求めるだけになったりすると考えられます。
 ギブ・アンド・テイクの関係が持てるなら、ストーカーの被害を深刻化させる可能性は低いと言えるでしょう。
 “自らが成熟することが一番の防御”だと考えられます。(被害者が未熟だというのではありあません。これは“成熟”と言うよりも、人間関係のバランスと捉えた方が妥当です。)

(3)ストーカーの被害者が周囲にいたら。
 これは、その被害者とどの程度の親しさ、どのような関係にあるのかによりますが、基本的には、情報を提供し、求められれば支援をすることだと考えます。
 まず、確認しておかなくてはならないのは、ストーカーは性別・年齢・職業と関係なくなりうるし、一見した変態とも、異常者とも見えない、逆に非常に魅力的な人物、社会的地位のある人物でもなりうるもの(アダルト・チルドレンとの関係/ストーカーの心理 人格障害編part2補論参照)だと言うことです。無配慮に軽口をたたいたりすれば、被害者を追い詰めることになりかねません。
 指摘された人物がストーカーだと、信じ難い感想を持つかもしれません、ひとまずは相手の立場から情報を聞き、信じた上で、それを確認していくべきです。(※5)単なる印象や評判のみで、被害を訴える人の話を判断し、発言をすることは犯罪の二次被害を生じさせる可能性が多分にあります。
 さて、具体的な支援としては、上記(1)のような情報を提供し、(1)①や⑥に際して同行・協力するなどが考えられます。
 ここで二つ注意するべきと考える点があります。
 一つは、あくまでも被害者本人が何を望んでいるのかを尊重すること。
 被害者の人生はその人の人生です。対処の結果は被害者に向かいますので、被害者本人を支援すること、決定は被害者本人がすることが基本にあるべきだと考えます。
 但し、元配偶者や交際相手にストーキングされている被害者の場合は、“学習された無力”というドメスティック・ヴァイオレンス(DV)における被害者の現実対応力の低下が見られることが考えられます(※6)。その場合、被害は深刻であり、刑法の適応対象になると推測されるので、行政への通報などの積極的措置を取るべきだと考えます。もちろん、介入する以上は相応の責任を覚悟するべきです。
 もう一つは、(1)①②で同行・代理行動する場合に、ストーカーと暴力関係にならないように注意する点です。ストーカーとはいえ、それは暴力を使ってよい理由とはなりません。助けたつもりが、自分が犯罪者となってしまう可能性があります。また、口論や対立などはしない、冷静な対応を心がける点は被害者本人と同様にするべきだと考えられます。

 次回は、加害者の側の対処法について述べます。

※)憎悪型と略奪型への対処は極めて困難だと言わざるを得ません。
 憎悪型とは被害者の選択に意味が殆ど無い、相手を恐怖・混乱させたいだけのストーカーで、ストーカー規正法の適用外の上に、脅迫行為でとどまる傾向が強いので、刑事事件として逮捕・立件されない可能性が相当に考えられるからです。
 したがって、現状では、最も効果的な対処は⑦のようにストーカーが接触できない場所に自分が行くことだと考えられます。
 略奪型は、最終的な目標が自己の性的妄想の実現ですので、被害者に気づかれないように意図している場合が多いと推測され、対処としては③の個人情報の保護や身の回りの安全を守ることが考えられます。
※1)①~⑦まで、それぞれを挙げている書籍を以下に記します。
 ①:『ストーカーの心理』(サイエンス社/P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル共著)、『人はなぜストーカーになるのか』(文春文庫/岩下久美子著)、『屈折愛』(文春文庫/春日武彦著)、『あなたがストーカーになる日』(廣済堂出版/小早川明子著)、『ストーカーからあなたを守る本』(法研/高畠克子、渡辺智子著)、『ストーカーの心理』(PHP新書/福島章著)の参照した全てがこれを挙げています。決意の必要性は(小早川)から。感情を感情的にならないで伝えることは、(共著)(春日)(高畠・渡辺)から。段階的・曖昧な拒絶表現の禁避は(共著)から。
 ②:(共著)(岩下)(高畠・渡辺)が挙げています。説得や議論の禁避は(共著)(春日)(高畠・渡辺)(福島)が指摘しています。
 ③:(共著)(岩下)が挙げています。
 ④:(共著)(岩下)(春日)(高畠・渡辺)が挙げています。
 ⑤:(共著)(岩下)(春日)(高畠・渡辺)が挙げています。理由1は、私見。理由2は、(共著)。理由3は、(高畠・渡辺)。理由4は(春日)。
 ⑥:(共著)(岩下)(福島)が挙げています。(春日)では“警察へ届けてもすぐには動いてくれないだろうが”とありますが、規正法があり、専門の部署もあるので、直ぐか否かは別として対応や助言はあるはずです。また、上述したように、弁護士や書士などの専門家が同行していると対応も違うでしょう。
 ⑦:(岩下)(高畠・渡辺)が挙げています。
 ストーカー被害者へのカウンセリングの必要性については(共著)(小早川)(高畠・渡辺)(福島)で指摘されています。
※2) 但し、伝える時期と伝える範囲に注意するべきだと考えられます。
 なぜなら、被害が極めて軽微な段階で広範囲な人間に伝えてしまった場合、逆に、名誉毀損などで民事・刑事責任を追及される可能性が考えられるからです。
 もちろん、ストーカー規正法などに違反すると認められればよいのですが、極初期の段階では、信頼できる少数の友人(つまり、①②で実際に支援してくれそうな人)や被害を防ぐために不可欠な人間(加害者の親族・職場の上司)などから口の堅い、信頼できる人間を選び、事態の進行に応じて伝えることが安全だと考えられます。
 不用意に、「~はストーカーだ」「~にストーキングされた」と広めてしまうと、“公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわず”名誉毀損罪(刑法230条)、“事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した”ら侮辱罪(刑法231条)に問われる可能性があります。“公然”とは、特定の多数人若しくは不特定の人間に伝わる状態、名誉毀損とは社会的な評価を毀損することです。侮辱罪は、“事実を摘示”しない場合です。刑事のみならず、民事的にも賠償を請求される可能性(民法709条)があります。
 相談したり、被害にあっていることを伝えることをためらってはいけません(伝えないとストーカーに間接的に協力してしまっている可能性がある)が、段階に応じて必要十分な範囲を見定めて情報を伝えることが必要だと言えます(これを、被害にあっている不安な状態で見極めることも難しいでしょうから、最も信頼できる人間に相談したり、⑤で状況に応じた対応と情報を得ておいた方が安全でしょう)。
※3)被害者に多く見られるの性格的な特徴については、前段は(岩下)、後段は(小早川)の引用です。
※4)(福島)の指摘です。
※5)先入観や偏見は、ストーカーを無意識に助力をすることになります。但し、実際に偽の被害者、若しくは、自分がストーカーであるにもかかわらず被害者であるようなことを主張する場合もありますので、相談される側は相当な注意が必要とされます。
※6)“学習された無力”とは、家庭内(交際)で相手から暴行を受けた人間が陥る状態。関係から離れよう・解消しようとした初期に暴力によって制圧されてしまい、それが繰り返されることで自分が無力であることを“学習”してしまう。他者から見れば、自分の意思で関係を継続しているかのようにみえてしまう。(高畠・渡辺)参照。
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by sleepless_night | 2005-09-23 13:19 | ストーカー関連

個人的な総括。

 元はと言えば、選挙におけるメディアの問題について触れたことだったのですが、そのままズルズルと引きずってしまいました。
 なので、解毒のための総括として以下を書きました。

 メモのような形式ですので、味気ない文章です。

 まず、投票動機は人によって様々であり、何を重点に、どの位の理解の深度で投票したかも人それぞれであることは言うまでもない。

 そこで、選挙期間中に記した、『民主党は日本をあきらめてはいかが?』で示した、認知的不協和の観点から、選挙の意義をまとめてみる。

 まず、簡単に振り返ってみると。

 認知的不協和とは二つの認知が不一致・矛盾によって両立しない状態を指し、人間はこれを解消しようとする傾向があると言うのが認知的不協和理論の示す内容。
 そしてこの理論を実際に応用するために重要なことはコミットメントであること。
 つまり、コミット(結果形成に参与させること)によって、認知の不協和を明確に意識させることが必要になる。

 私見から考えると、小泉さんの戦略は有権者に認知的不協和を生じさせる戦略。
 つまり
 認知A:郵政民営化を持論とする小泉を支持して首相にした。
 認知B:郵政で解散した小泉を支持しない。
 この認知ABは両立しない上、認知Aについては有権者が重要なコミットをした。
 特に、“約束”や同じ写真を使うことでこのコミットメントの記憶を喚起させた。
 これによって、投票動機に一定の影響を及ぼすことができると考えられる。

 実際にどの程度効果があったかは、もちろん不明。

 しかし、今回の小泉自民党の戦略は、郵政というシングル・イシューの賛否という非常に単純で明確な意思を求めた(それ以外を許さなかった)点にあったことは間違いない。

 この戦略については、メディアを含めて評価は高い(好ましいと評価)とは言えない。
 やり方(戦略)について、容れなさや反発を感じる人も少なからずいた。

 だが、今回の戦略:シングル・イシューの明確な二項対立図式の設定を強く否定できない、メリットがある為に否定して小泉戦略を全否定するべきとは言い切れない点があり、それは少なからず有権者の自民への投票動機に結びついていると考えられる。

 メリット、全否定を拒ませる要因とは、従来の選挙方式の弊害の排除
 つまり、小選挙区制が導入されたのは以下の中選挙区制の弊害を打破するためであったのに、小選挙区制でかえって激化してしまったという弊害を除去する効果が小泉戦略にはあったこと。
 弊害とは
・日本の政党は政党が中心ではなく議員個人が中心であり、議員の互助組織的な色彩が強かったために政党の政策合意が不鮮明だったこと。
・小選挙区制によって政党の力を強くし、政策合意に重点を置くようにしようとしたが、反対に議員個人のネットワークによる選挙が激化して、かえって政党の政策が弱められてしまったこと。そして、これは政党によって候補者が立てられると言うよりも、ネットワーク(後援会)を個人的に形成できる個人が政党の候補者として取り込められてきた日本の選挙のあり方に由来する。
・もともと深刻な社会対立がない日本で後援会を個人的に作るためには、広く無限定なり益集団を取り込まなくてはならず、明確な政策が出せずに人柄による選挙になってしまったこと。そして、議員の投票行動が有権者の投票行動に大きな影響を与えなかった。(今でも、議員の投票行動を公報する媒体がない)
 
 小泉戦略は、郵政民営化法案と言う極めて明確な法案の賛否による候補者選別、それに漏れた人間を容赦なく切り捨て、選挙区に何の縁(個人的ネットワーク)もない人間を投入したことで、この上記の弊害を排除する(少なくとも、そうしたポーズは国民に受け入れられた)メリットがあったと考えられる。

 だからこそ、小泉戦略が全否定できなかった
 有権者も、小泉郵政民営化案に賛成だとは言い切れないにもかかわらず、投票したほうがいいように感じた。(このくらいラディカルな手法をとらないと、変えられないだろうという実感から、許容できた)
 
 しかし、同時に小泉自民党への投票をさせなかったデメリットは何か
 それが、戦略によって目を向けさせられなかった法案の内容

 郵政民営化の目標は財投改革であったはず
 つまり、特殊法人に郵貯・簡保・年金の膨大な資金が旧大蔵省によって自由に突っ込まれては不良債権化するという、国民の資産が非民主的な決定で損なわれることを防ぐ点にあった。
 しかし、2001年にこの仕組みは変わっている。
 以前は、[郵貯・簡保・年金⇒旧大蔵省運用部⇒特殊法人]だった
 現在は、特殊法人は独自に債権を発行してそれを市場で売ることで資金を得る仕組みに変わっている。つまり、構造的には郵貯・簡保・年金の資金は直接に特殊法人に流れないことになっている。
 ところが、特殊法人を支えるのに特殊法人自体が発行する債券だけでは足りずに、国からも資金を入れられている。それが、財投債という国債によってなされている。財投債は年間40兆円発行されている。そして、その国債を買っているのが郵貯・簡保・年金。
 つまり、[郵貯・簡保・年金⇒国債⇒特殊法人]に見かけが変っただけ
 これの流れを郵政民営化で変えることはできそうもない
 理由は二つ。
 民間会社(十年後に郵貯・簡保は完全民営化)になっても、国債を引き受けなくては既に保有している国債の価値を落としてしまう上、兆単位の資金運用先も国債以外に簡単に見つけられない。民間会社であるために、国がその運用を口出しできないため、かえって問題の解決を遠ざける。
 また、根本である特殊法人があり、そこに必要な資金が特殊法人自体で賄えない、特殊法人という天下り先の必要性がある限り、国債発行は止まらない。
 おまけに、株の買い戻しを認めているので、巨大な金融・流通・保険会社という私的独占を生み、かって健全な市場機能を阻害する可能性まである。

 手段と目的とは常に相関関係にある。
 目的が正しければ正しいほど、許される手段はリスクが高くても許容される。
 例えば、おぼれている人を見つけて助けようとした時、自分にロープも船もなければ、その近くにあったり、持ったりしている人から奪うことも許される。
 目的=人命救助と手段=窃盗との間のバランシングの結果、目的の価値が手段の不当さを補う関係が成立している。

 選挙とは、その目的を合意するための手段
 そこで、不当な手法を使うことはかなりの問題がある。
 しかし、シングル・イシューの明確で単純な賛否を設定する以外で、小選挙区制の目的を実効させることが可能かと言えは、今までの状況から考えて、極めて困難であると言わざる得ない。
 したがって、小泉戦略は必ずしも否定されるものではなかった。 
 ところが、その戦略を用いて果たそうとして当の目的たる政策の内容があまりにも穴がありすぎる。言葉の指す内容と、実際の中身が差がありすぎるし、補完的に具体的な法案がなければ有害な面ばかりが表に現れてしまう。
 それを今回主張すると、小泉戦略による二項対立図式に当てはめられてしまう上、本当に既得権益保守の為に反対する人間に誤ったメッセージを送ってしまいかねない。
 即ち、小泉のような人間が出てきても、その時だけうまく使って票を取り、肝心な時になったら潰せば済むということを学習させてしまう。
 また、補完的な政策が採られること可能性もある(一年後に小泉さんが降りるので、可能性は非常に低い)。

 結局、小泉戦略のような二項対立図式に持ち込まないと政策による選択が実現できないが、同時に、その法案自体に問題多いと、政策論を根拠にして法案に反対することも二項対立図式によって阻まれ、法案による選挙という小選挙区制の目的(二項対立を持ち込んだ目的)をかえって害してしまったと言える。

 小泉自民圧勝という結果をどう捉えるにせよ、この過程は通らなくてはならない道なのかもしれなない。
 それは、市場主義の本当の痛みを国民に理解させると言う点もさることながら、具体的法案を備えた政策と投票行動による議員の選択と言うことがどれ程の負担を国民に求めるかを理解させる点でも言える(今回も、郵政以外の政策を考慮に入れた上の選択でなければ、確実に「こんなはずじゃなかった」となる)。


 民主党新代表の前原さんは、ポスト小泉と対決することになるが、前原さんのような攻撃力を競う姿勢では、小泉さんには敵わないだろうし、ポスト小泉であっても与党としての力に対抗できる期待は低いように思う。自民党と同じような力の張りあいをして、自民党に勝てるはずはない。政権保持にかける執念、政権のうまみを知り尽くしている、政権無しには生きてゆけない体の自民党がどれ程の力を見せるかを侮っている。
 管さんの復活は、価値観としての対立軸を持ち出させるだろうが、民主党自体の与党への実現性は低くなったはず。

 行き着くところまで行かないとダメだということ、その流れを加速させるという意義がこの選挙にはあったとだと言えると思われる。
 もしくは、小泉さんを失った自民党も政権から遠くなった民主党も、どちらも内部崩壊して、再編が生じる可能性が出てきた。(ポスト小泉でトップに名前が出ている人が本気で小泉さんの代わりになれると思っているのだろうか?)

 以上、今回の選挙の個人的な総括。

 記事から分かると思いますが、私は小選挙区・比例区ともに民主へ投票しました。
 アメリカの大統領選で民主党ケリー候補へ投票した人が、選挙後に欝や放心状態になったと聞いたときに、大げさだと思いましたが、今回の自民圧勝という結果を見て私も放心気味になりました。
 個々の問題はありますが、根本的に、1000兆もの借金を作った行政を担当した政党がどうして、責任も取らずに延々と政権と言う最大の利権を確保していることを許すのか、なぜ自民党にかくも寛容なのか、私には理解できません。
 60年前、戦争に敗れても、この国は二つの機関的な組織が維持されました。
 官僚組織とメディアです。
 どちらも、そのままに戦後も維持されてきました。
 つまり、責任を取らなかったのです。
 責任を取らせると言うのは、組織の最も基本的で必要なルールのはずです。
 与えられたチャンスやポジションでミスをしたり成果を挙げられない場合には、そのチャンスやポジションを別の人間や組織に渡す。人材や組織の代謝がなければ、ミスを防ぎ、成果をあげるインセンティブが働くことは考えられません。代謝がなければ、内部での融和にのみ視線が向けられ、澱んだ人材や組織となることは避けられないでしょう。
 その二つの組織の上に現在の民主制があり、政党が同じような無責任の構造に組み込まれているように見えます。
 
 選挙のことを洗礼や禊と表現する人がいます
 選挙を経たことで、それ以前の問題や責任が流されてとでも思っているのでしょうか。
 洗礼や禊とは、人間を超えた神などの存在を前提に初めて意味を持ちます。
 選挙とは、最も人間的な営みです。
 神のような人間を超えた存在による赦しや免除の機能など微塵もありません。
 選ぶ人間が間違えば、その間違いはそのまま放置されます。
 神のような引き受け手はおらず、結果はそのままに返ってきます。
 
 あと何年後かは分かりませんが、国家財政が破綻する、つまり、国債を引き受けれる組織も国も無くなると言う状態になったとき、第二の敗戦の焦土からそれを学ばなくてはならない、民主制を血を流して勝ち取った社会が経てきたような混乱や苦しみから学ばなくてはならないのかもしれません。
 もちろん、それは私の単なる感想ですので、この先がどうなるか、自民党政権がどう4年を運営するかなどは分かりません。もしかしたら、驚異的な改革を成し遂げる党になるのかもしれません。経済回復によって税収が増えて、本当に財政問題を解消できるのかもしれません。

 私が民主党に入れたと言うだけのことです。 
 私の選択が間違っていることは十二分にあります。
 だからこそ、民主主義は現実における最善の統治システムだと思います。 

 次回から、元に戻る予定です。




追記・メディアについての雑感) 選挙当日に、自民党のあまりの議席数にテレビの特番を見る気になれなかったのですが、気を取り直してテレビをつけると、古館伊知郎さんが堀江さんと話している中継の場面でした。「金の次は権力ですか」「ホリエモンのロマンが聞きたい」だの「私は(選挙を)するつもりがないんです」だのと、何が彼をあそこまで勘違いさせてしまったのか分かりませんが、テレビを消させるだけの醜さを私は感じました。特番全体があの調子だったら、さぞ酷い番組だったろうと思います。
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by sleepless_night | 2005-09-18 21:25 | その他

9・11の論理

 テロとの戦争を前面に出して勝利した、ジョージ・W・ブッシュ。
 郵政民営化を前面に出して勝利した、小泉純一郎。

 一方は、9・11という自爆攻撃をされたことで、都合の良い争点を与えられ勝利した。
 もう一方は、自爆することで、9・11を作り出して、都合良く争点を絞り勝利した。

 どちらも、「テロの撲滅」「官から民へ」という、それ自体は否定されないキーワードで自分を覆い、具体的に何をするのか・どうなるのかを問わせなかった。

 一方は、恐怖を煽り、反動の攻撃を支持させた。
 もう一方は、不安の反動の強権を支持させた。

 そして

 一方は、「テロの撲滅」で、テロとは関係のないイラクを占領できた。  
 もう一方は「官から民へ」で、郵政民営化の結果がどうなるにせよ、郵政と関係の無い、どんな法案でも通せるようになった。
 

 9・11の論理。

 9・11の論理は、論理自体に注目を集め、恣意的に前提を設定されて使われる。

 一方では
        テロは撲滅しなくてはならない
               ↓
            イラクはテロ支援国だ
               ↓
        故に、イラクを撲滅しなくてはならない。

 もう一方では
         官から民へ移行しなくてはならない
               ↓
            郵便局は官だ
               ↓
         故に、郵便局を民営化しなくてはならない

 どちらも、論理の整合性のみがスッキリしているが、そもそもの前提はスッキリしていない。

 一方には、そもそもどうしてテロが起きるのか?
        そもそもイラクはテロ支援国家なのか?
 もう一方には、そもそも官から民へ移行させることの目的は何だったのか?
          そもそも、郵便局の各事業も、他の官業もひと括りで語れるの?

 とられる手段は目的実現に有効なものなのか?

 
 そして

 一方では、軍事制裁を拒否されたわけでもないのに、なぜか3ヶ月の査察延長を拒否し、形だけの連合を作って軍隊を侵攻させた。
 もう一方では、任期がまだ残っているのに、なぜか継続審議を拒否し、それだけの賛否を基に組織を再編して選挙をした。

 どちらも、その時、国民は圧倒的にそれを支持した。

 しかし
   
 一方では、支持をした本人達が、それが自分達の首をしめることだったと気付きだした。

 もう一方は、どうなるだろう。


 論理が整合していればしている程、前提の間違いは、はっきりと結果に現れる。
 論理が単純であればある程、個々をそれたらしめている差異は切り捨てられる。

 それを踏まえての選択だったのだろうか。

 もちろん、そうだったのだろう。

 国民は賢明ですから。






補足)「郵便局員は公務員じゃなきゃだめですか?」というレヴェルでの小泉さんの問いかけに、素直に同じレヴェルで応答して投票してしまった人がどの位いるかという疑問です。メインのはずの金融・財政への効果(その先の社会保障)についての政府案への評価をある程度までつけて投票したのか。さらに、郵政法案を国政・外交の全体とタイミングの中で評価して投票したのかという疑問です。

追記・個人的な感想)
 どのようなスタンスで投票をしたにせよ、郵政民営化の結果が自分達の選択によるものだということは忘れられない事実として認知されるでしょう。
 得票率では議席数のような圧倒的な差ではなかったですし、公明票の強い影響もありましたが、結果は結果です。
 現在の有権者が未来の有権者によって責められるか、称えられるか、政治に究極的な責任を持つことを(今更ながら)自覚させる(する)には、とてもよい選挙だったと思います(だからこそ、小選挙区制が導入されたのだから、死票を問題にするのは妥当ではないと思います)。

 小泉さんの選挙手法は、間接民主制を破壊する可能性を持ったものでした。
 もし今回のような選挙手法が許され、インターネット投票が可能になれば、衆参で決められないことは全て国民投票でということになり、議員の意味を大幅に低下させることになります。
 もちろん、それは悪いこととは言えませんが、議会の意味を改めて決めなおさなくてはならないでしょう。
 インターネット選挙活動のみならず、議会制度自体を考え直すことを、今回の選挙は求める意味があったと言えます。

 自民は圧勝しましたが、多くの人が指摘するように自民党が勝ったとは考えられません。
 特に、首都圏の得票を見ると、候補者本人の力だったと評価できるような得票ではありません。
 小泉さんが勝ったと言うべきです。
 そして、小泉さんはあと1年で政権を離れます。
 自民党は、政権党であることがアイデンティティーの大部分を占めるといわれる政党です。
 小泉さんは自民党が自民党であることを守るために、自民党を壊したともいえます。
 小泉さんが守るために壊した自民党を、次に誰が支えることができるでしょう。
 私は、小泉さんが院政を敷いたとしても、もたないと思っています。
 自民党にも有能で、ヴィジョンを持った議員がいると思います。しかし、その存在が自民党という古びた大船を新しい大洋の航海に向かわせるだけの力を発揮できるとも思えません。また、小泉さんのような人物とイコールの政策を認知されている人もいませんので、今回のような戦略を採れることもないでしょう。
 民主党も今回の選挙で大きなダメージを負いました。指摘されるように、民主党の未だにはっきりしないバックボーンの弱みが戦略と状況の悪さで露骨に出たのでしょう。今回、政権を取ったら、それこそ第二自民党にもなれずに終わったかもしれません。

 政権交代がない民主主義国家とは異常です。
 政権とは国家の最大の利権です
 政権を取れば、行政の収集・集積してきた膨大なあらゆる情報を入手でき、行政のもつ広範な裁量を利用できます。最高裁の人事を最終的に決めるのも行政(内閣)です。ということは、行政や行政によって管轄される企業で問題が生じた時の最後の砦でさえも、影響を持つことができるのです。
 どんな政党が取っても、利権は利権です。
 違った集団が一定期間ごとに担当しないと、全ての情報と全ての裁量権の作る利権のパイプが敷かれ、公式のシステムの流れを阻害してしまいます。
 同じ政権のブラックボックスでこのパイプの配管図が引かれているかぎり、国民は選択の基礎となる情報を十分に与えられたとはいえないはずです。
 そして、そのパイプで自分たちが最も効率よく利益を得るために、自分たちがパイプを支配する場合以外を想定して配管図は引かれません。固定した分配が、多くの知らない場所で知れない情報に基づいて為されるのです。
 それは民主主義とはいえません。

 自民対民主という図式ではなくとも、私は、自分の住む国が政権交代のある国であって欲しいと願っています。
 情報や利益配分がブラックボックス内で作られる国家の心地よさよりも、情報が表に流通し、利権が固定されないことでもたらされる混乱のある国家の緊張を、私は望みます。
 一朝にして成るものではないはずです。少なくとも、十年単位で見る目を要求するはずです。
 その混乱と緊張に国民(私)が耐えられるか。

 中毒を持つ患者は、その中毒の弊害によって自分の身が殺されることを認識し、受け止め、新たな人生を生きたいと思った時、初めて中毒の対象を断ち、その禁断症状の苦しみに向かおうとすると言われます。
 財政は、国債中毒です。
 一党が政権を持ち続ける、それを許してきたのは、関係に対する嗜癖(中毒)です。
 中毒であることを認識し、それを断ち、新たに新陳代謝のある体、健全な距離のある関係を作り出せるのか、国民に問われているはずです。
 国民がどうありたいのか、どういう社会が幸せな社会か、どういう社会で生きたいのかということを自らに問いかけることが必要となります。

 “痛み”の先に何を求めるのか。
 小泉さんからは、それは聞こえません。
 自民党からも、民主党からも聞こえません。
 それは、国民が自らに問いかけて、答えを出していなからだと思えます。
 どうありたいのか?どのような社会を生きたいのか?
 漠然とした誰かではなく、「私」はどう考えるのか。 

 選挙の喧騒が過ぎた今、メディアの提供する日々の祭りに逃避せずに、沈黙の中で自らに問いかけるべきだ、と思います。
 
 
 
 

 
 
 
 
 

   

 
 
 
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by sleepless_night | 2005-09-12 00:29 | メディア

一票では、政治は変わらない。

 投票所に行って、一票を投じる。
 その一票では、政治は変わりません。
 面倒だったり、他の予定があったり、何となく興味がなかったりして、投票に行かなくても、その一票では、選挙結果は変わりません。
 だから、投票に行かなくたっていいのです。

 一億人以上の有権者の中の一票に「意味」を感じることが出来ないのは、とても合理的な感想です。

 無「意味」なことをしないのは当然です。

 でも、その無「意味」さを感じた人は、何を望んでいるのでしょう。
 どうだったら、「意味」があると感じられるのでしょう。

 自分の一票で、どこかの政党に政権を取らせること?
 自分の一票で、候補者の誰かを当選させること?
 自分の一票で、政治を変えること?

 一票を投じること、一票しか投じられないこと。
 その一票が無「意味」だと感じた時、人は一人の人間以上であることを望んでいるのです。
 一人の人間である、一人の人間でしかあれないことに我慢できないでいるのです。

 無「意味」な一票を投じることで、無数の人間の中の無力な一人であること認めなくてはならない。
 面倒で、興味がなくて、他に用事があるかもしれない時、苦い思いをしに行くなど、そっちの方がおかしいでしょう。

 
 それなら、なぜこんな仕組みが作られたのか。
 なぜ、こんな仕組みが過去の人々によって選ばれたのか。

 それは、私達が結果を負わされるからです。
 何かをしても、何かをしなくても、必ず、結果を負わされます。
 為政者が、何をしようと、その結果は支配される側が必ず負わされます。
 失敗した為政者がギロチンにかけられようとも、火あぶりにされようとも、磔にされても、泣いて謝っても、切腹しても、為政者の行った結果を負うのは民衆です。
 結果を負うことが逃れられないから、せめて、その結果を作り出すことに参加する権利を持つことを過去の人々は望み、得ようと戦ったのです。
 つまり、納得したかったのです。
 参加することのなかったことによって、結果を負わされることがないように
 一人一人の人間に、その権利が与えられるように。
 一票を投じることで納得できなければ、選ばれる立場になれるように。

 もし、為政者が何をしようと、どんな結果になろうと、その結果を負うことに納得できるなら、一票を入れに行かなければいい。
 一票を入れるだけで納得できるなら、選ばれる立場になろうとしないことと同じように。

 
 思いつきでも、寝ずに考えても、候補者の名前を知らなくても、政党の政策を熟知していても、それぞれに過去から与えられた権利があり、その権利をどうするかは委ねられている。

 一人一人が納得できるように。







補足:投票しただけで満足で、それで自分が責任を果たしているかのような人を見ることがあります。しかし、私は単に投票しただけで、為すべきことをしたと言わんばかりに無邪気に政治を語るべきではないと思っています。正確には、語っている底に「引け目」を持って語るべきだと思います(だからと言って、議員の側が開き直ったりすることは許されません。選挙民が批判することは自由・権利であり、議員が批判されることは義務だからです)。なぜなら、私達は被選挙権を持っているからです。カバンも看板も地盤もないと圧倒的に不利ですが、現実に権利を与えられていることは間違いありません。ですから、本当に政治に不満があるなら、自分が議員になればいいのです。「それは・・」と言うなら、その人はその程度だと言うことです。もちろん、私もその程度の一人です。だから、その程度の人間が出来ること、納得できることはしようと思っています。

 
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by sleepless_night | 2005-09-10 15:35 | メディア

146条の迷走の迷走の整理

 前回の記事、公選法とブログについての迷走を整理します。
 メモのような形ですので、文体が硬く、断定的な観がありますが、容赦ください。
 
 以下、私見です。(全文を読むのが面倒でしたら、(2)の太線になっている想定問答だけでも、公選法のインターネットへの適用の奇妙さは理解できると思います)

1)世耕議員のブログ(http://blog.goo.ne.jp/newseko/)について

前回述べたとおり、9月3日のブログ記事に示された基準自体について、二つの点で疑問。
 世耕議員の示した基準は、整理すると下記①~③となると考えられる。
 ①公示後
 ②政党公式HPで候補者や政党の選挙運動を告知する行為と候補者でない人間の選挙運動や特定候補への投票の呼びかけにならないブログを区別する。
 ③前者は違法、後者は合法。

 疑問の第一は、②の“候補者でない人間”の範囲が広すぎる点。
 小選挙区・比例代表ともに候補者を擁している政党の国会議員、しかも、幹事長補佐という重要な役職に就いている人物と、何の政党にも属さない一般人とを同じカテゴリーに入れることは基準として妥当ではない。既に見られる批判の一つとして挙げられているように、政党公式HPと国会議員の公式HP・ブログの間に認められる差異と、政党公式HPと一般人のHP・ブログとの間に認められる差異は、政党ともう一方との関係性が両者では、あまりに違い過ぎるために同一視できる範疇にないと考える。
 また、同一視すれば、国会議員に対する要求基準に引きずられて、一般人への基準まで厳しくなる。

 第二に、②で“特定候補への投票の呼びかけにならない”として、政党への投票呼びかけが、なぜ外されているのか疑問。
 この点、たしかに選挙管理委員会の選挙運動の定義には特定政党への投票が含まれていない。
 しかし、政党名で投票される比例代表制に加え、小選挙区制という党の公認が極めて重要な意味を持つ選挙システムを採っている。
 その上、今回の選挙は政党の政策と候補者の政策の一致が、これまでの選挙と比較して非常に注視されている。そのため、特定選挙区が明示されてなくとも、特定政党への投票の呼びかけは、閲読者の在住する小選挙区の当該正統候補者への呼びかけと同一に解釈され得る
 また、公選法146条は政党名を除いていない。
 上記したような選挙システムを採用している以上、特定政党の呼びかけ(と取られる行為)も含めるのが適当と考える。

議員のブログ自体を考えると
 上述したように、政党公式HPでなければ一般人と同じ範疇に属すると言う論には無理がある。幹事長補佐という選挙事務・候補者支援について重要な役割を果たしている人物が、選挙期間中の活動内容をブログに書けば、政党を支持を呼びかける内容の文書図画を掲示していると解釈される相当の可能性があり(直接的に投票を呼びかけなくとも、議員であり、党の要職にあることを考えれば、かなり限られた内容にしなければ、投票の呼びかけに類する行為と解されると考える)、それは同時に、143条の禁止を免れるための行為とも解釈され(党公式HPの代わりになっている)、146条違反と認めれる可能性はあると考える。 
 但し、世耕議員のブログは、広い意味での選挙関連情報を含むと判断されるが、それが特定政党や特定候補者への投票の呼びかけと判断される様相・程度とは認め難く、③の合法との判断は妥当と考える。(一方、山本一太議員のHPは選挙応援や討論についてかなり踏み込んでいるため、違法の可能性が高いと考えられる。本人も承知の上のよう。)

 しかし、世耕議員が違法と指摘する側についても、前々回の記事で述べたとおり、“文章図画”の解釈が分かれ、司法判断が出ていない段階で違法とは断定できないと考える

 尚、基準自体についての疑問第一の“候補者でないもの”の範囲が広すぎる点に関連する、政党公式HPと政党所属国会議員公式ブログとの違いによる、取り扱いの差異の是非について補足する。
 公選法適用の差異という観点から考えて、差異がない(議員の公式ブログと政党公式HPは同じだ)とするのは乱暴に過ぎるが、同時に、当該政党所属であることや政党の役職に就いていることが表記してあれば(党名を明記せずとも、その政党が一般に十分認知されており、文面から所属政党が容易に判別される場合を含むと解する)、当該政党に対して持っている閲覧者の知識・記憶・期待などが想起・投影されると考えられ、政党所属国会議員公式ブログと政党公式HPとは極めて近似したものと認め得ると考える。
 したがって、政党公式HPではないことをもって、政党公式HPに対する公選法の制限を回避できると判断することは妥当ではなく、その記載内容が選挙運動か否かに重点を置き、総合して判断されるべきだと考える。(世耕議員自身もどこに書いたかのみを問題にしていないと解される。又、議員のブログの内容は、前述したように選挙運動といったレヴェルではないと考えられるので、どこに書いたかというのはそれほどの影響をもたないと考えられる。逆に、そうなると政党公式HPでも内容によっては更新可能だということにもなると考えれる。党公式HPを避けることは、党公式HPと議員公式ブログとの間にあると考えられる差異が与える、さほど大きくもない公選法適用の差異を得ることしかできないと考える。)

  
2)ブログと公選法について。

 特定の政党にも、特定の候補者にも関係を持たないブログ開設者が、政党名や候補者名を出してその政策や行動について比較・論評をする行為と公選法について。

 考察を進める上で、二つの前提を確認しておく。
 一つは、政治運動も選挙運動も、その主体についての限定はないこと。政党に属していようがいまいが、“特定の選挙に、特定の候補者の当選を図ること又は当選させないことを目的に投票行為を勧めること”が選挙運動、“政治上の目的を持って行われる一切の行為から、選挙運動に渡る行為を除いたもの”が政治運動。
 もう一つは、(行政の解釈では)インターネットの表示画面は“視覚に訴えるもの”であり、公選法上の“文書図画”に該当すること。

参照:公選法
142条一項:衆議院(比例代表選出)議員の選挙以外の選挙においては、選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する通常葉書及び第1号から第2号までに規定するビラのほかは、頒布することができない。
143条一項:選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号のいずれかに該当するもののほかは、掲示することができない。
146条一項:何人も、選挙運動の期間中は、著述、演芸等の広告その他いかなる名義をもつてするを問わず、第142条(文書図画の頒布)又は第143条(文書図画の掲示)の禁止を免れる行為として、公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する文書図画を頒布し又は掲示することができない

 まず、インターネットが普及する以前の選挙での公選法142条143条と146条の関係を考える。
 選挙運動を含む政治運動をするには、膨大な人的・物的・時間的なコストを必要とする。
 142条143条は、そのような選挙において、指定されている以外のポスターや看板などが頒布・掲示されることを禁じている。具体的に想定されるのは、候補者・政党・選挙事務所・後援組織などが指定外のビラやポスターなどを頒布・掲示した場合や、それ以外の人が特定の政党や候補者を推薦・批判したビラやポスターを頒布・掲示した場合と考えられる。
 そして、146条は、“142条又は143条の禁止を免れるため”とあることから、候補者・政党・選挙事務所・後援組織が142条143条を免れるために、別の人物や組織によって、特定政党や候補を推薦・批判するビラ・ポスターの頒布・掲示をさせることを防ぐためにあると解される。

 つぎに、インターネット普及以後、つまり、現在について考えてみる。
 インターネットの普及によって、普及以前のビラ・ポスターの頒布・掲示と同じ行為が、比較にならないほどの(人的・物的・時間的・動機的)低コストで可能となる。
 政治運動・選挙運動は主体について限定はない。
 したがって、現在、インターネット上には多数の政治運動が展開されていると考えられ、当然、そこには選挙運動と認めれれるものも多数含まれる。
 142条も143条も、“選挙運動のため”としか規定されておらず、“文章図画”を“視覚に訴えるもの”と解釈されるため、それらインターネット上の政治に関する論評は同条の適用対象とすることが可能だと考える。
 しかし、そうすると146条との解釈に齟齬が生じる。
 それは、146条は“何人も”とわざわざ主体の無限定を明記している以上、142条や143条は主体について限定がないと整合しないと考えられること。
 つまり、142条143条を“選挙運動するため”でその主体を無限定とだと解釈すると、146条は“演芸等の広告その他いかなる名義をもってするを問わず”というように文書図画の頒布・掲示の手法・形式を制限する条文だと解される。法定外文書図画の頒布・掲示もそのほかの手段も主体を問わずに禁止するのに、一方だけの条文にどうして“何人も”とつけてあるのか整合しない
 この齟齬を回避するには、やはり、インターネット普及以前と同様に、限定された143条142条の対象となる人物・組織(候補者・政党・事務所・後援組織)からの委託等を受けた人物・組織による法定外文書の頒布・掲示とその他手法・形式による宣伝・批判文書図画を146条は禁止していると考えるしかない。
 しかし、そうすると、インターネット上での特定政党や特定候補についての論評をする場合は、142条143条の対象になる人物・組織からの委託がない限りは146条の対象とならなくなる。
 それでは、総務省の解釈とは整合しなくなる
 総務省は、“各党や候補者の政策を収集して比較するなどのページを作ることは許されるだろうけれども、それに論評を加えるなどすれば、それが選挙運動と見なされるおそれが生じるという”との見解を示したとされている。(この解釈は146条148条に関する南山大院の町村教授からの照会状にたいする総務省の回答によるが146条から出ているのか、はっきりしたことは不明)
 ページの作成について、委託などの有無は問題にしていない。
 142条や143条を適用しようとすれば、146条との解釈に齟齬をきたす。146条を適用しようとすれば、“142条又は143条の禁止を免れる”という文言を無視することになる。 

 ここまでの私の理解が大筋で間違っていなければ、この法律(の総務省解釈)で、法律としての整合性を保ちつつ、一般の人がブログで政党や候補者についての論評をすることについて、規制することは不可能だと考える。
したがって、木村剛さんのブログ(http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/)のように148条を持ち出さなくてもよいはず。

 つまり、最初に出した例で考えると
 委託関係のない一般ブロガーが政党や候補者について選挙期間中にブログで論評をした。
 ある日、警察官がやってきて「あなたのブログは公選法に反します。」と言った。
 そこで、ブロガーが聞く。「公選法のどの条文に反するのですか?」
 警官は答える。「公選法146条にです」
 ブロガーはそれを聞いて「146条は“142条又は143条の禁止を免れるため”と条件がついてますけれども、私は候補者・政党・選挙事務所・後援組織・政治団体などの誰からも委託を受けてブログを開設しているのではないので、“142条又は143条の禁止を免れるため”という要件を満たしていませんよ。」
 警官は答える。「それならば、143条違反です。」
 ブロガーは聞く。「たしかに、選挙運動はだれでもできますし、143条は“選挙運動のため”としか規定されていませんので、政党や候補者の比較・論評をした“文書図画”をインターネットで掲示した私は143条違反かもしれませんね。でも、それならどうして146条はわざわざ“何人も”としてあるのですか?私の様な誰からも頼まれていないブロガーに142条や143条を適用するということは、142条143条と146条の違いは法定外文書の掲示・頒布とその他の手法・形式による文書図画掲示・頒布という行為面の違いでしかないと言うことですよね?それなら146条に142条143条と違って“何人も”とわざわざつけてあるのはなぜでしょうね?やったことの違いだけで、誰がやるのかが違わないなら、どうして条文で一方だけ“何人も”とついたりつかなかったりしているんですか?
 警官は答えられない。「・・・」

 といったことになると考えられる。
 
 本気で逮捕・起訴をするつもりなら、整合性を無視するだろうし、逮捕・起訴も可能となる。さらに言えば、総務省と実際の検挙をする警察・検察は別組織だから、違う解釈を採ることも可能になる。
 おそらく最後の部分で警察官は「そういうのは裁判所で言ってくださいよ。こっちは令状もっていますから。」と言って逮捕するでしょう(実際、逮捕令状は裁判官が判断して発行される)。

 142条143条と146条は、どう考えてもインターネット普及後の選挙には対応できていない。
 インターネットの普及に対処できないというよりも、普及の結果、選挙運動(繰り返しますが、候補者とも政党とも関係のない一般人がブログで特定政党や候補者について論評することは、総務省解釈では法定外文書を配っているのと同じく、選挙運動となる可能性がある)をこれほど多くの人ができるようになった社会に対処できないといったほうが正確だろう。以前なら、選挙期間中に法定外のビラを勝手に作って勝手に配っている(つまり、勝手に選挙運動をしている)人など滅多にいなかったし、その人はまさに“選挙運動のため”にしているので問題がなかった。つまり、“何人も”が選挙運動をするなど現実的でもなかったので、わざわざ“選挙運動について”“何人も”の規定を用意しなくてよかった。選挙運動として通常想定される概念自体が“何人も”ではない、“選挙運動について”という文言が限られた人に主体を絞る機能を果たしえていた(多くの普通の人が選挙運動に該当する・できることを想定していなかった)。
 それは現在の投票が投票日に投票所まで行ってなされるために、有権者全員が投票するとは想定しておらず(現在の投票概念自体に、現実的な投票率の限定が含まれている)、全員分の投票用紙を用意する必要がないと言うのと似ている。投票ですら全員がするとは想定していないのに、選挙運動を“何人も”するとは想定しているはずもない。
 その法律をかえずに、“文書図画”にネットの表示画面を含めたことで、ネット上で特定の政党や候補者の名前を挙げて比較・論評することが、選挙運動と見做されるおそれを生じさせている。
 そのような法律の下で、インターネット上で、普段から、正面からの政治的な評論などできるはずがない。なにせ、(総務省の見解では)法律上は、勝手に法定外文書を撒いていると評価されるというのだから。事前運動だと評価される可能性を考えれば、普段から政治について、真面目に考えていればいるほど書けなくなる。
 
 これは、民主主義に対する犯罪とまで言える法律だと思う。

 
 もちろん、現状から考えて、これほど厳しい解釈がそのまま適用されるとは考えられない(町村教授のご指摘の通り、政策論議ができないなどおかしすぎます)。
 
 しかし、これは法律上は可能な、ありうるものです。
 
  一般のブロガーが、もし逮捕・起訴されたら、きっと日本は凄い言論統制のある国なのだと世界中から思われるでしょう。一瞬、いつの時代のどこの話をしているのかわからなくなるはずです。日本と言うのは経済大国で技術力の高い国だけど、それはきっと、強固な言論統制下でものを言えず、統治権力の命令に従って黙々と国民が働かざるを得なかったからだと思われるでしょう。
 悪名高い記者クラブの比ではないです。
 普通の人間が、政策について真面目に考えて、それをネットで表明したら逮捕される国、その可能性がある国が、自由主義国家だと表明しているなど言語を絶しています。
カナダ大使館あたりに亡命申請すれば受理されるのではないでしょうか。

追記:http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/senkyo/news/20050908k0000m010120000c.html
毎日新聞の記事『インターネット普及、公選法の問題浮き彫りに』では、あいかわらず、議員のネット利用制限について述べられています。 148条で自分達が守られているから、一般の人がネットで政党や候補者について論じると違法とされるおそれがあると気づかないのでしょうか。
それとも、マス・メディア以外の人間は選挙情報を受け取れれば十分だと思っているのか。 この記事を書いた人の想定している有権者は公選法の想定しているレヴェルと同じだと思われます。
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by sleepless_night | 2005-09-07 21:18 | メディア

146条についての二人の迷走についての迷走

 インターネット選挙運動とは別に、ブログで選挙に関する話題、特に特定候補者や政党の名前を出している場合に公選法146条に反しているため、禁固や罰金の罰を受ける可能性があるということを記事にしている人が見られます。
 木村剛さんのブログhttp://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post_03d3.html#moreではこう述べられています。
 “つまり、どのような立場の人であっても、そして、著述や演芸等いかなる表現方法によっても、候補者や政党を応援したり批判したりできないというのですから、ブログで誰かを推したり批判したりできないということになります。政党についても、コメントできないという風に解釈されかねません。”


(追記:142条143条と146条の関係について、非常に混乱した考察になっています。
   後日に書き直しをする予定ですが、元文として残しておきます。
   最後の部分で記しましたが、146条の解釈の混乱が、142条143条の解釈についての混乱を私見内で生じさせています。146条にある“142条又は143条の禁止を免れるため”という文言を無視するのなら、委託関係のないブログが選挙運動と認められる行為した場合を142条143条で対象にしたほうが妥当なのではないか?142条143条は“選挙運動のために”としか条件が付けられておらず、選挙運動の定義にも主体について限定は付けられていませんので、条文上は適用可能であると考えられます。但しそう解釈すると、146条の意味が何の為にあるのか分からなくなると考えられます。   
 142条143条と146条の関係を解説できるかたいらしたら、お願いします。 例えば、「候補者・政党・後援組織と何の委託関係等の関係がないブログ開設者が、公示期間以前から各党や候補者の政策や行動について比較し論評した場合」にはどうなるのでしょう?できましたら、条文の適用要件とあてはめ、その他の条文との整合性についても触れていただけると助かります。)
 


 (以下、私見です。)

 しかし、この解釈を146条の法文から導くことは考えられません。

 146条はこう定めます。
 “何人も、選挙運動の期間中は、著述、演芸等の広告その他いかなる名義をもつてするを問わず、第142条(文書図画の頒布)又は第143条(文書図画の掲示)の禁止を免れる行為として、公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する文書図画を頒布し又は掲示することができない。”

 つまり、146条は確かに“何人も”が対象なのですが、同時に“142条又は143条の禁止を免れる行為として”という目的に関する限定が明確に規定されているのです。
 そして“142条又は143条”はどちらも、選挙事務所や候補者や政党のポスターなどについての規定ですから、その対象になるのは実際にそれらに関わる候補者本人や事務所の正規・非正規の職員や後援会の実働者だと考えられ、その他の一般人は含まれないと解釈されます(※)。

 ですから、わざわざ148条をもちださなくても問題はないと考えられるのです。
 ⇒追記:但し、選挙運動だと見做される危険性をさけるためなら、148条をもちだすのは妥当だと考えられます。また、146条の解釈で“142条又は143条の禁止を免れる”という目的についての限定がなくてもよいと解釈されるなら、146条の問題と考えることは理解できます。その場合は、上記追記で述べた142条143条と146条の関係が、理解できません。

 そこで無理が現れて迷走しているもう一人が、自民党の世耕参議院議員です。
 世耕議員はご自身のブログでこう述べています。
 http://blog.goo.ne.jp/newseko
 “選挙の公示後に、候補者個人あるいは、比例区で党名を書いてもらう立場である政党の公式ホームページ(あるいはメルマガ)でその候補者や政党の選挙運動を告知する行為と、候補者ではない者(私も含む)が選挙運動や特定候補への投票の呼びかけにならないよう留意しながら個人的に作成しているブログとでは全く意味が異なる。
 前者は総務省も見解を示しているように、残念ながら公職選挙法上認められていない。(私は個人的には公選法を改正し、きちんと利用できるようにすべきだと考えているが、現在のところ認められていないのが現実である。)
 後者については特定の候補者名を表記せず、選挙運動になっていなければ問題はない。
 一部にこれらを同一視する見解があるが、そのような見解を認めてしまっては、今ネット上で展開されているこの選挙に関する自由な意見表明を制限することになる。私は候補者でない人物が、選挙運動や特定候補への投票の呼びかけにならないよう留意しながら作成するブログ等については、最大限自由が尊重されるべきだと考える。”
 
 整理すると、こうです。
 ・“候補者個人、政党の公式ホームページ”と“候補者でないもの”は別。
 ・前者での選挙運動の告知はダメ。後者の場合は候補者名を出さず、選挙運動になっていないらないい。
 ・よって、私のブログはOK。民主のHPはダメ。

 この理屈の無理がでるの一つは、“候補者でないもの”があまりにも広くとられていることです。
 つまり、前述したように、 公選法146条は“142条又は143条の禁止する行為を免れるため”という限定から考えて、142条や143条の記載するような行為を行う立場の人、候補者本人はもとより選挙事務所関係者が対象ですので、そこには当然、候補者本人の所属する政党の人間が含まれます
 特に、世耕議員は自民党の役職についている方です。
 選挙の候補者を擁する政党の役職にある人間が、選挙期間中にその政党の候補者の当選を目指し・支援する活動をしていないと評価できることは考えられません。
 現に、世耕議員のブログには討論会やメディア戦略の事務を行っていることが書かれています。これが、現在、選挙運動をしている候補者本人を支援する政党の活動ではないということはできるのでしょうか
 世耕議員は146条の対象となる人物であることは否定のしようがありません。
 その人間と、政党に所属する人間でも、特定候補者の事務所関係者でも後援者でもない人間(即ち146条の対象外の人間)を同じカテゴリーで考えることこそ適切ではありません

 無理が出る二点目は、“特定候補者名を表記せず、選挙運動になっていなければ問題ない”という点です。
 146条は、“政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する”とあるように“特定候補者名”のみならず“政党その他の政治団体”をも含んで禁じています。
 どうして、世耕議員は政党名をわざわざ除いて条件をつけているのでしょう
 その論拠が示されていません。
 二大政党制が進んでいること、小選挙区制という政党公認が重要な要素となる選挙システムを採っている以上、政党の名前は候補者の名前と同様に重要であるはずです。
 なのに、どこをどう考えて、政党名を出すのはよしとしているのでしょう?
 日本に住んでいる日本人は原則として、小選挙区での投票権を持っています。
 各人がどこの選挙区に在住しているかを表明してブログを書かなくても、政党名を書いて論評をすることは不可避的に、それを読む人の地区から立候補しているその政党の候補者を論表していることになります。(特に、今回の選挙で自民党は郵政民営化法案という一つの法案に関して反対した議員を公認せずに、その一法案に賛成する殆ど名前を知られていない公認候補を同一選挙区に立てています。彼ら・彼女らにとって自民党に公認されているということが唯一に近い、政党名が自分の名前に冠されていることが、選挙における当選可能性をささえているはずです。その選挙区が注目をあつめている選挙で、特定候補者名前を出さないければOKというのは無理がありすぎる。)
 そして、論評をすることには、その人への投票を呼びかけや忌避の呼びかけを程度の差はあるものの含まざるを得ません。
 ましてや、自民党の国会議員で、役職にまでついている人間(146条の対象となる人間)が自分や自分の周囲の人間(選挙の責任者クラス)の行動とそれについての感想を公にする行為に自党や自党の候補者のアピールを含まないなど考えられません(あからさまな投票の呼びかけ以外はよいと考えているのだろうか?感覚で合法か違法か判断するだろうか?)。
 現在の行政の解釈(そして自民党が従っているとされる解釈)では、これこそ146条違反の可能性があります。 
⇒追記:おそらく、候補者だけなのは、選管による選挙運動の定義が“特定候補者の当選をはかること、又は当選させないことを目的に”とされているためだと考えられます。しかし、述べたように、小選挙区制と比例代表制を採っておいて、特定政党の主張を述べることが選挙運動ではないと考えるのは妥当性を著しく欠くと考えられます。勿論、それを含めると通常の政治運動ができなくなるのではないかとの疑問も生じますが、現在でも候補者本人について判別する基準がある(一応あるらしい)のだから、その疑問を持って致命的とはできないはずです。

 
 この2点をどうクリアするのか?現在の自民党が従っているとされる、総務省の解釈内でどうクリアできるのか?
 いいとこどりはできませんよ。

 さらに言えば、世耕議員の解釈と希望は矛盾しています。

 候補者になっていない議員を一般人と同じカテゴリーにいれておいて、特定候補への呼びかけになっていないならばよいと解釈すると、かえって一般人の発言を抑制しかねません。
 つまり、(候補になっていなくても)議員の発言は所属政党を強く連想させ、その政党の意見を述べていると認識されます。そのレベルで求められる特定候補への呼びかけになっていない表現とは、できてたとしても殆ど内容のない感想めいたものになるはずです。
 望んでいる“最大限の自由”とは、そんな感想を表明する自由ですか? 
  

 いずれにせよ、もともとの公選法の解釈自体に無理をしてインターネット選挙運動を抑制していることが問題なのですから、あっさりと解釈を変えてしまえばいいのだし、その解釈でさえ法律解釈の最終的な決定権を持たない行政のものです。(ただ、解釈を悪い方に変えることも当然にできるわけで、そこを避けるためにも公選法の改正は是非とも必要でしょう。)
 
 

 
※)これは総務省ですら認めています。
“公職選挙立候補者との委託関係が立証されない限り、一般市民がその政治的見解を特定の候補者名・政党と結びつけて表明することは、当然許され、またそれがインターネットのウェブページやブログを通じて公開されることも禁止されるべきでない”

http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2005/08/no_action_lette_3b49.html
 
⇒これは総務省の見解ではなく、南山大院の町村教授から総務省へ送られた照会状に示された解釈でした。ご指摘しただいた、S-Iさんに感謝いたします。
 照会状の回答はこちら
http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2005/08/no_action_lette_3b49.html
“「(1)外形上選挙運動と認められる行為」や、「(2)142条等の禁止を免れる行為とみなされるもの」は、ネットワークを用いてすることができないというのが基本”とのことだそうです。
 総務省は“文章図画”にインターネットの表示画面を含めて解釈しているので、142条や143条で候補者や政党がインターネット選挙運動をできないと牽制している。142条や143条を免れることを防止するためにある146条は“何人も”としている。とすると、146条は一般の人には関係のない規定のはず、まさに町村教授が指摘したように委託関係がある場合に限られるはず。それにもかかわらず、146条の回答で(1)を持ち出されると、法文の“免れるため”というのは無視して総務省は解釈しているのだろうか?
 そうだとすると、本当にネットでまともな政治論評はできなくなりますね。
さらに追記:そもそも、インターネットの普及で、それ以前なら人的・物的・時間的なコストを相当に必要とされる政治運動が極めて容易になったために、政治運動と区別が曖昧な選挙運動についてまで多くの人ができるようになったことに、公選法が対処できていないのが最大の問題であることは論を待つまでもないでしょう。 こんな法律を放置することは、民主主義に対する犯罪とまで言える立法の不作為です。  
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by sleepless_night | 2005-09-06 01:00 | メディア

自民と民主、ネット選挙運動の法解釈/拡大と類推の静かな戦い

 インターネット選挙運動をめぐって、自民党の総務省への通報と民主党の質問状という、静かな戦いは、法律上で見ると、拡大解釈と類推解釈の戦いだと考えることができ、別の面白さが感じられます。

 拡大解釈と類推解釈は、法律を解釈する時に使われる手法として非常にメジャーです。
 拡大解釈とは、法律の言葉や文章から通常読み取れる意味から拡大して意味を取ることで、直接的には規定されていない事例にも法律を適用するために使われる解釈手法です。
 類推解釈とは、直接的に規定されていない事例に対処するために、同じようなことを規定してある別の条文を使うことで法律を具体的事例に適用をするために使われる解釈手法です。
 両方とも、全ての具体的な事例に直接的な法律(条文)を作っていると、膨大な量になってしまうし、事実上そのようなことが出来ない、そのようなことでは法律の存在自体の意義が失われてしまうので、法律を現実社会のルールとして通用させるための解釈手法です。
 
 以下、私見です。

 インターネット選挙が報道などでは「公選法で禁止されている」となっている場合がありますが、前回も述べたように、インターネットを明確・直接に規定している条文はなく、公選法142条等について行政が示した解釈を通じて、禁止しているというよりも控えさせているというのが正確です。
 
 さて、拡大解釈と類推解釈の戦いということを述べますと
 自民党は、一政党として立法の立場にあると同時に、自民党政府つまり行政の立場もあります。結局、政府・行政の解釈に従うといっても、解釈をするのが自分達ですので、政府の解釈に従っているというのは、単に自分で言って自分で従っていることになります。
 前述したように、行政(総務省)は公選法142条の“文章図画”を“視覚的に訴えるもの”・“頒布”に“不特定または多数の人の利用を期待してインターネットを利用すること”を含める解釈をしています。
 これは拡大解釈の意図でしていると考えられます。
 つまり、法律の条文にある文言“文章図画”“頒布”の通常の意味を拡大させているのです。特に、“頒布”とは通常読み取ることのできる意味は「配ること」で、インターネットのサイトにアクセスすることは「取りに行く」とこですので、サイトを開設して「取りに来る」ことを許すことは含まれません。総務省(行政)は“頒布”という条文にある言葉の意味を拡大して“不特定または多数の人の利用を期待”している場合、つまり「取りに来る」ことができるようにすることを“頒布”の意味を拡大させて含めているのです。
 
 対して民主党は公選法142条はインターネット選挙運動についての規定ではない(公選法にインターネットを規制する条文がない)として、142条の“文章図画”にインターネットの画面を、“頒布”に“特定または多数の人の利用を期待”して「取りに来る」ことができるようにしておくことを行政が類推して含めることによって規制していると考えていると見ることができます。

 非常に単純化して言えば、両者のとる前提が違うのです。
 自民党は142条を拡大解釈すればインターネット選挙運動を規制する法律があると言っているのに対して、民主党はインターネット選挙活動を規制する法律はない、142条をインターネット選挙活動に適応するのは条文の類推だと言っているのです。

 類推解釈によってでも規制できるならいいのでは?法律でいちいちなんでも決めていたら限がないからいいのではないか?と思うかもしれません。
 しかし、類推解釈は、本人の不利益になる形で使うことが、特に刑法のような国家権力によって刑罰を科せられるような場合には採ることができません。一方、拡大解釈は法律の現実適応の必要から許されています。
 これは、近代法が、国王などの権力が国民に税金を課することに対する国民の反発から始まったことから導かれるのです。つまり、国家などの強制権をもった主体が被行使者の不利益になる形で強制権を行使する場合には、予め明確に規定しておかないと、何でもできるようになってしまい法律が権力者の恣意的な道具になってしまいます。これを防ぐために憲法を定め、その憲法の下の法律によって権力者が何をできるのか国民の同意に基づいて予め定め、権力者によって秩序を守らせると同時に、その権力から国民を守ることができるようにするのが近代法なのです。
 ですから、公選法のような罰則があり、かつ、それが国民の代表を選出するという民主主義の根幹に関わるような事項について、類推解釈しているならば許すことはできないのです。

 行政の立場にも立つ自民党はあくまでも拡大解釈を採っている姿勢を見せている(実際にある条文の文言を拡大した結果でインターネットで選挙活動はできないとしている)のですから、この不利益な類推解釈の禁止という原則には該当しないとも言い得ます。
 しかし、同時に、民主党のようにインターネット選挙活動の禁止は規定してある条文がないのだから、規定してないことについて、別の規定を持ち出して禁止することは類推解釈であり、許されないということも言えます。

 どちらが正しいかは、司法判断を待たないと分かりません。

 言えるのは、三権分立の大原則のもとでは、行政が最終的な法律の解釈権を持たないということ(憲法81条)
 そして、これほど解釈で争いが生じる重大で繊細なことについて、報道する際に、「法律で禁止されている」と表現することは許されないということです(「禁止されてる」とあたかも定められているかのような言説を繰り返すのは、彼ら・彼女らが三権分立を理解していないからなのか、選挙時の情報独占体制の瓦解を恐れているのか、権益を守ってもらってる総務省への服従のポーズなのか)。


追記:143条「文章図画の掲示」についても、同様の解釈の戦いがあると見れます。
 143条の規定の列挙は全てインターネット外についてです(つまり、インターネットの存在を想定した上での規定ではない)ので、これをもって規制する際に、143条を拡大解釈した上でネット選挙運動を規制する条文となる(規制する条文がある)と解釈するか、143条はインターネットについては想定されていない条文だからこれをインターネット選挙運動に適応するのは類推解釈(規制条文がないために、143を類推解釈して適用している)と捉えるかです。
 目的論的解釈(何の為にその法律や条文があるのかから考える)をすると、143条は一つは経済的な力で伝達力に差異を付けさせないため、もう一つは中傷ポスターのようなものを防ぐためだと考えられるので、前者を重視すればインターネット選挙運動に143条は適用できない方向に、後者を重視すればインターネット選挙運動に143条は適用できる方向にいくと考えれます。
 いずれにしても、これ程解釈によって重大な変化があることについて、なんの断りもなく「公選法はインターネットでの選挙活動を禁止している」と表現することは許される範疇に入るとは考えれません。
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by sleepless_night | 2005-09-02 20:37 | メディア

知らせないことの方が大事なの?

 気にはなっていたのですけど、民主党が公示後にホームページを更新したこと・選挙関連の情報を載せていること・メルマガを発行したことを自民党が総務省に通報したという日経新聞の記事でもやはり同じでした。
 “公選法は選挙活動でのインターネット利用を禁止している”です。
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050901STXKE023301092005.html

 公選法142条は“選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する通常葉書及び第1号から第2号までに規定するビラのほかは、頒布することができない”と定めていますが、読んでの通り、インターネット上の選挙活動を明確に指摘して禁止をしているものではありません
 つまり、“文章図画”を“人の視覚に訴えるもの”、“頒布”を“不特定または多数の人の利用を期待してホームページを利用すること”を含めると解釈をすることで禁止しようとしてるのです。
 ここで最も重要なのは、これを解釈したのは司法ではなく、行政だということです。
 そして、行政は法律の最終的な解釈権を持つ主体ではないことが、三権分立という憲法の大原則が内容とするものです。
 
 ですから、正確には「公選法は選挙活動でのインターネット利用を禁止していると総務省は解釈している」としないとおかしいのです。(確かに法律は様々な解釈によって不明確な点を補われることがあるし、全てが司法によって判断されているわけでもないのですが、以下のように、その解釈に無理があることや、民主主義の根幹に関わる選挙での情報提供方法であることを考えれば、「禁止されている」と断りなく書くことは適切さを欠く)

 もともと、“選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする”公職選挙法の趣旨から言えば、安価で伝達力が高く、表現のために物理的な制約が問題にならないインターネットを選挙活動で利用することは認められないとおかしい、最も情報を必要とされる時期に最も情報の提供を阻害するというおよそ理解しがたい現状があるにもかかわらず、あたかも法律で明確に禁止されているかのような書き方が多く見られるのは、書く人に何らかの意図があるのだと勘ぐりたくなりますし、そうとられても仕方がないと思います。

 さらに、どうも総務省に通報した側の自民党の議員にも、通報した内容と同じこと(選挙関連の情報を掲示)をしている議員がいたようで、ここまでくると何がしたいのか理解に苦しみますね。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=285
 ここでまとめられています。
 指摘されている議員のブログを(http://blog.goo.ne.jp/tbinterface.php/c4b04da135f83db3aa01d4d9ca20e19d/04 )を見てみると確かに選挙情報と言えることが掲載されています。自分が候補者ではないから続けるけど、特定の候補者を連想させることは控えると述べていますが、党の役職についている国会議員が選挙活動の内容を日記風につけておいて、その言い訳は無理でしょう。

 インターネットで選挙活動ができるようになると、選挙期間のテレビや新聞の情報収集の独占的な権益が崩れる大きな要因になるのはわかりますが、知らせることより知らせないことの方が重要だと考えているのではない限り、インターネット選挙活動が阻害されている奇妙で理不尽な現状を正確に伝えるべきでしょう。
 
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by sleepless_night | 2005-09-02 00:30 | メディア