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血液型占いに反論するとモテないのか? part3

 ここまで血液型占いに反論するモテないのか?血液型占いに反論するとモテないのか? part2で、必要とされる一応の知識の整理が終わりましたので、冒頭の問題へと移ります。
 「いんちき」心理学研究所(http://psychology.jugem.cc/?eid=41)で“浅野教授”は“血液型占い”(血液型を“占う”、ABO式血液型の当てっこ。広義の“血液型占い”に含まれる)に対して、日本人のABO式血液型の比率に則った発言をし、女子短大生が“「だからあんたはモテないのよ」”と応じた会話の流れを整理してみますと、こうです。

 女子短大生:血液型性格判断を念頭に置いた、ABO式血液型の当てっこ=「~型でしょ?」等の発言…発言①
             ↓
 “浅野教授”:「『A型』って言えば40%の確率で当たるし、『A型かO型』って言えば70%の確率で当たるよ。」=日本人のABO式血液型の分布に則った応答。…発言②
             ↓
 女子短大生:「だからあんたはモテないのよ」…発言③


 この発言①~③までの、①②間の会話は順当です。
 ①で女子短大生はABO式血液型の当てっこをすることで、その念頭にある血液型性格判断の助けを借りて、会話を通じた相互理解を進めようという意図を持っていたと考えられます。
 対して、②で“浅野教授”は、血液型性格判断という非科学的な人物判断・偏見を用いるという手法へ疑義を、確率の数字を出すことで表明しています。
 つまり、①②とは、血液型性格判断についての双方の意見の違い述べあった会話として成立しています。

 そこに突如、③で“モテない”という女子短大生の印象・意見が表明され、①②で成立していた血液型性格判断をめぐる会話を全く異なった(それまでの会話と整合しない)内容へと飛ばしてしまっています。

 このように③は、会話として大変に奇妙で乱暴な発言です。
 会話として順当な応答は以下が考えられます。
 ③-α:血液型性格判断についての自分の知識からの擁護発言。
 ③-β:“浅野教授”が血液型性格判断について否定的な態度を表明したことをうけて、“浅野教授”の持つ知識や意見につての質問。
 ③-γ:血液型性格判断が非科学的なものであることの認識を表明をした上で、一般的な会話での利用の是非に関する肯定的な意見。
 
 少なくとも“浅野教授”は確率の点で間違ったことを言ってはいないにもかかわらず、③α~γを採らずに、どうして全く筋から外れた感想の表明をしようと思ったのか・できたのか?さらに、私がこの①~③を一読して(“だから”という理由を表す接続詞が使われていることに)違和感を感じさせないのはなぜか?について考えてみます。

 まず、女子短大生が③の応答をした理由は以下が考えられます。

 ⅰ:経験。過去に血液型性格判断について“浅野教授”と同様の応答をした人間を知っており、その人物が異性(若しくは同性)にモテなかったことを想起したから。
 ⅱ:ごまかし。血液型性格判断が非科学であることを知っており、非科学なことを持ち出してしまった自己の恥ずかしさが露呈することを避けるために、会話を逸脱させようとしたから。
 ⅲ:応酬。血液型性格判断が非科学であることを知っており、非科学なことを持ち出してしまったことを他の知人達のいる場所で指摘されて貶められたと感じ、相手も同じように貶めてバランスを取ろうとしたから。
 ⅳ:一般化。自分が会話のために血液型正確判断を持ち出した意図を“浅野教授”が受け入れなかった(肯定しなかった)ことを、自分が女性であることから、女性一般の意図を受容できる能力がないと解釈したから。
 ⅴ:空気。異性を交えて飲酒をする場、つまり、遊興性の高い場において確率のような細かい話をすることが野暮であることを咎めようとしたから。

 以上のうち、ⅰについては、“だから”という接続詞を女子短大生が用いていることから省いて考えてよいでしょう。
 もし、理由ⅰならば、「モテなかったでしょ?」という確認・疑問の形で発言されると考えられるからです。
 
 とうことで、ⅱ~ⅴの4つの理由が考えられます。
 この4つの理由は、共立可能なもの、もっと言えば、相互の理由が支えあった構造を持つことで、会話の筋を違えた発言がなされたと考えられます。
 理由ⅲはり理由ⅱを強化した形ですし、理由ⅳと理由ⅴは女子短大生自身を拡大させて、女性一般や空気を支配する場(やその背景にある世間の秩序)を利用したものです。
 そして、理由ⅳとⅴだけでは会話の筋を外して発言させるだけの契機となるとは考えられず、理由ⅱとⅲという情動がなければ発されなかったと考えられます
 
 では、女子短大生の発言③の理由が解釈できたとして、私が③の“だから”に違和感を感じなかったのはなぜかを考えて見ます。
 引用したブログの内容から、発言③以降がどうなったのか、発言③に対して周囲の人間はどのような反応をしたのかは不明ですので、全く根拠のない推測ですが、周囲の人間も発言③を乱暴だと感じても奇妙な説得感を感じたのではと想像します。

 実際にいた周囲の人の反応がどうだったのかはさておき、私が違和感を感じなかった、発言③が会話としての筋を外しているのに不適当だと感じなかった、“浅野教授”が「モテない」という指摘が外れていないように感じたのはなぜか?

 それは、理由ⅴに挙げた「空気」です。
 「空気」が読めない、場が読めないこと、その力についての重要な考察をした二人の人物のうち、一人はすでに「性」を語ること、「いき」を語ること。で紹介した九鬼周造です。
 九鬼が分析した日本文化における「いき」という概念の三要素のうちの「意気(意気地)」が文字通りに「空気」に当てはまり、飲酒空間の遊興性が「媚態」に当ります。
 そして、「いき」に必要な「諦め」の観点からすれば、血液型性格判断が科学的に考えてどうであれ、ここまで浸透していることに疑義を持ち出すことは(無駄な抵抗であり、「諦め」の悪い)野暮とみなされ、野暮ということはまさしくモテないことになります。
 したがって、女子短大生が用いた“だから”は「いき」を考慮に入れて解釈すると順当なものとも考えられます。
 
 しかし、それはとるべき態度なのでしょうか。
 前回、前々回と述べてきたように、血液型性格判断は科学的な支持を持ちません。
 さらに、科学的な支持不支持以前の問題として、血液型という生得的な要素で人を判断する・決め付けようとすることを遊びで(あっても)してよいのでしょうか。
 その場における「いき」という“無上の権威”“至大の魅力”の前に唯々諾々と屈する以外にないのでしょうか。
 また、「いき」の要素である「諦め」とは「明らかにする」という前提を必要とするので、もし女子短大生が既述したような血液型性格判断についての前提知識を欠いて“血液型占い”で遊ぼうとしたならば、「いき」ではなく、「粋がっている」だけでもあります。
 「いき」ですらない、その場の「空気」とは血液型性格判断の非科学性や不当性を上回る価値を持ち、守るべきものなのでしょうか。


 とはいっても、発言③が「空気」を乱したことには変わりなく、乱された「空気」の気持ち悪さを考えると、面倒な科学だの倫理だのに目をつぶりたくなります。
 問題だと思っていても、実際にはどうしたらよいのかわからないこと。
 正しいと思っていても、それを口にできないこと。
 その思いをどうしたら、会話に実効性を持たせることができるのか?
 「空気」によって問題意識や正しいと思っている考えを圧殺されないで、どうしたら活かすことができるのか?


 ここで、「空気」に関するもう一人の人物である山本七平(※)の考察を紹介します。
 評論家だった山本は、編集者が思っていても口に出せないことを「そんな話を持ち出せる空気じゃありませんよ」と表現したことに興味を持ち、第二次大戦の戦略決定や公害問題を参考に、非論理的だと分かっているのになぜだか逆らえない状態を“「精神的な空気」”の拘束状態だと捉え、「空気」とその対概念としての「水」というキーワードよって日本人の意識を解釈しました。
 “教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯が立たない何かである。”
 “非常に強固でほお絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに対抗するものを異端として「空気抗命罪」で社会的に葬るほろの力をもつ超能力”であり“論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれている”
 「空気」とは何かを、山本は、その発生状況から以下のように考えます。
 「空気」の醸成には、“物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状況”即ち、“臨在感”があり、この“臨在感”に対して“感じても感じなことにし、感じないふりをすることが科学的と考え”る近代後発国の啓蒙主義が重要な役割を果たしている。そして、科学的な探求を免れた“臨在感”は、“臨在感”を感じさせたものに対する感情移入の絶対化によって、「空気」となり、人々を支配すようになる。
 血液型性格判断に当てはめると、血液型という物質が人間の性格に影響を与えているという“臨在感”を持っているが、それが科学的支持を失っていることもわかっているものの、啓蒙的ではあっても科学的でないために、科学的支持を失った内容や意味を問わずに、非科学故に潜在化させて温存された“臨在感”が血液型と人間の性格との関係性についての感情移入が絶対化されたと解釈されます。
 山本はこの「空気」が生じる土壌が「水」という日本人の日常性だと指摘します。 「水」とは、盛り上がって他が目に入らないくらい熱した状況を一気に冷ます際に用いられる表現「水を差す」から採ったもので、「空気」の絶対的拘束を解消するきっかけとなるのが日常的という卑近で不便で非力な事実の想起(例:酒の席で、嫌いな上司についての話が盛り上がり、失脚させようという話まで出た時に「やっちゃうか?」と問われた瞬間に、「いや…家のローンが…」のように現実を想起させて、場の盛り上がりを一瞬で現実に引き戻す)だと考えたところから用いられています。
 矛盾しているようですが、この日常性である「水」が「空気」を醸成する土壌だとされているのです。
 なぜ「空気」の拘束を解消するはずの「水」が「空気」の土壌かというと、「水」即ち日本人の日常を支える意識が“状況倫理”に則っているからだと考えられています。
 つまり、日本では“「状況への対応」だけが「正当化の基準」とされ”るために、“西欧が固定倫理の修正を状況倫理に求めたのとちょうど逆の方向をとり、状況倫理の集約を支店的に固定倫理の基準として求め、それを権威としてそれに従うことを規範”とされている。状況に対応することで正当化される状況倫理を維持するためには、基準が状況にあわせて伸縮自在でなくてはならないが、その伸縮自在の基準も、無基準となることを避けるにはどこかに固定点を持たなくてはならない。状況やその状況に置かれた人間を尺度に伸縮する必要から、固定点は“状況を超越した一人間もしくは一集団”という虚構に求めなくてはならない。そして、固定点が虚構であることから、虚構であることを暴露することは許されなく、虚構が作り出した(虚構を作り出した)状況の“臨在感”に従うことしかできなくなり、“空気と水の相互的呪縛”の中で一つの虚構で自滅しても別の虚構へと移る。虚構だと知りつつ、それを表に出さないように思い合う気持ちの「真きこと」を求る、“知っていたが、それを口にしないことに正義と信実があり、それを口にすれば、正義と信実がないことになる、ということも知って”いることで“虚構の中に真実を求める社会”となっていると山本は述べているのです。
 これを血液型性格判断に適応して考えると、もともと血液型性格判断が正しいのかまちがっているのかというのは重要なことではなく、会話の材料として便利だと言う程度の認識しかないが、その会話で持ち出された以上は、その状況を維持することに正当化の基準が定められる。
 その状況に適用される基準は虚構によって固定されているだけなので、科学が目指すような統一性は考慮されない。つまり、血液型性格判断が自分の持っているほかの知識と整合しようがしまいが関係なく、その場に適用されている基準に従うことだけに焦点が向けられる。そして血液型性格判断に従って状況を円満におさめなくてなならない「空気」が醸成される。この「空気」を覚ますのも、日常性という「水」(例えば、同じ血液型で性格が全く異なる友人がいることを想起する)であるが、「空気」を醸成したのも「水」即ち、状況に適応された基準に従うことが、統一性や内心に持っている規範性に優先するという日常性である。


 九鬼周造の「いき」の観点からは、血液型性格判断に対して「粋がっているんじゃない」と言うことや、「諦め」て遊ぶことが対応として考えられます。
 後者は、山本七平の「空気」から言えば、「水」に流されるだけのことです。

 山本も分析で終わって、「空気」への具体的な対応は出せていません。結局は、文化の習いということです。

 しかし、この両者の考察を参照すると、一つの大まかな回答は導けます。
 九鬼は「いき」を“無上の権威”としていますので、相手が「粋がっている」としても現実に正面切って「粋がっている」とぶつけるわけにも行きません。それは「空気」の力を考えれば無謀です。故に、正論を単純にぶつけることはするべきではないし、逆効果となりうると考えます。
 では、どうするかといえば、 「空気」を生み出す「水」の流れを理解したうえで、その流れを利用し、流れの力を借りて自分の目指す場所へと向かい、「空気」を「いき(媚態)」を損なわないように解消させる知恵を探るべきです。

 続けて、「水」の流れについて、社会心理学の実験として有名なS・アッシュの同調実験について述べることで理解の助けとし、具体的な対処法を考えて見ます。 

 続き⇒血液型占いにどう対処するか?

※)『「空気」の研究』(文春文庫)山本七平著
 
 
 

 
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by sleepless_night | 2005-10-30 22:31 | 血液型関連

血液型占いに反論するとモテないのか? part2

 前回血液型占いに反論するモテないのか?に引き続き“血液型性格判断”を代表する古川竹二と能見正比古の説に対する評価について述べます。

 ④-2 古川竹二と能見正比古の説にたいする評価(※)
 古川竹二は前回述べたように、最初は勤務先の同僚や生徒を対象にしてデータを集めていました。
 そこで注目するべきは、古川が血液型と気質の関係、ABO式血液型のそれぞれについて気質が異なること、それぞれの気質がどのようなものかを、データを集めた結果から仮説を立てたのではなく、それ以前に自分の親族11人の行動を見て仮説を立ててしまった点です。
 そしてその自分の親族を見た結果で、B型O型=進取的・積極的、A型=保守的・消極的との2分法を立てて、その2分法をもとにアンケート票を作り、生徒や同僚を対象にしてデータを取ってしまいました。
 さらに、古川は異なるアンケート票で得た結果を混ぜて、2分法からABO式血液型に対応できる4分法へと発展させてしまいました。
 そして、4分法用のアンケート票では、ABO式血液型がアンケート票に記載されてしまっています。

 このように、古川は血液型と気質の関係を探ろうとした行為にはいくつもの看過できない間違いがあります。
 
 性格を測ること、調べることは大変にむずかしいことです。
 自省票のような形式をとった場合には、自分のことを自分が判断した結果が正しいと言えるのか、また、例えば「小さなことは気にならない」と聞かれて「小さなこと」とは何かが明確ではなかったりと安定的で信頼できる結論が出ないのではないかと言う疑問や、他者が評価するような場合には、その評価者が被評価者をどれだけわかっているのかが疑問とされます。
 ですから、自省にしても他者評価にしても、その不安定をできる限り抑えるために厳密な条件を測定者に課しています。

 まず、対象が無作為に抽出されていること。
 国勢調査のような全員を対象にした調査は莫大な金額がかかり不可能なので、無作為抽出したサンプルによって全体を推計できるようにする。偏った対象の調査をどれだけ多くしても、それは統計的には意味が無い(サンプルによって全体を推測できない)。
 また、調査に際して、それが血液型と性格の関連を調査するものだということを知らせてはならない。知らせてしまうと、その人が持っている血液型と性格の関係についての情報が現れてしまい、検証する内容を先取りされてしまう。
 調査の前に、調査の内容や結果の解釈基準を設定しておくこと。結果が出た後に解釈基準を決めると、自分の都合の良いように解釈をする危険性がある。

 このような基本的な調査の原則を古川は踏まえいませんでした。

 古川は論文として発表していたため、他の心理学者などが古川のデータや解釈を検証することが可能だった。そして、論理性や不適当な解釈手法について批判がなされ、さらに統計学の手法に則ったより大きなデータによって反論され、1933年(昭和八年)の第18回に本法医学学会総会で否定されました。
 このとき、古川は発言せずに田中秀雄が代わりに論争で肯定派に立ったのですが、最終的には反論できなくなり、気質検査は量的な表示になじまず“本質直感”による必要があるとまで言ってしまい(つまり、直感に優れた人物が調べないと気質はわからないので、アンケートのような調査は無理。だから、データが間違ったのであって、理論が間違っているのでは無いと言ってしまった。これは占いや予言が外れた時に、占いや予言が間違ったのではなく、占われた者の心がけが悪かったからというのと同じ。)、古川説は科学の支持を失いました。

 その否定された古川説をリバイバルさせたのが能見正比古。
 能見が挙げたABO式血液型に対応した性格は、古川が挙げたものに極めて近似している。
 能見は一万人以上のデータに基づく統計学の結果として自説を主張するものの、そのデータが公開されていません
 また、自著や血液型性格判断を支持する組織の会員を標本としているので、無作為性がない上に、調べるべき内容をすでに知っていたり、信じていたりする人間を対象にしているので、統計的には意味がありません。
 政治家や作家やスポーツ選手などの著名人の血液型を調べて、「~型の性格は…だから」との解説は、比率だけに着目しているもの、後付でどうとでも説明できるものだと考えられます。
 比率だけに着目しているというのは、日本人はA:O:B:AB=4:3:2:1の割合なので、~型がその割合よりも多く現れたら、「~型が…である」との説を裏付けるものだと考える目分量のことです。
 では、目分量と統計学の違いは何かというと、それは部分だけを比べるのか、全体を比べるのかという違いです。
 
 例えば、日本人のABO式血液型の比率をA:O:B:AB=4:3:2:1として、ある予備校の渋谷校に偏差値65以上の生徒125人、そのABO式血液型の人数が、A=43人(約34%)、O=44人(約35%)、B型=29人(約23%)・AB型=9人(約7%)、いたとします。目分量の判断では、この生徒達はO型B型が多く、A型AB型が少ないと言え、O型B型の生徒が優秀だと言えることになります。
 しかし、日本人の血液型比率よりも、A型は6%、AB型は3%少なく、O型は5%、B型は3%多いと比率の差がバラバラであり、当然、実数もバラバラで、はたしてデータ全体を見た時にこの生徒達の血液型比率でO型とB型が多いと言えるのかがわかりません(折れ線グラフにしてみると、両者のグラフはそれぞれデコボコになりますが、そのデコボコのどこかが高いとか少ないとか言っても、全体として違いがあるかは分からない)。
 そこで、この生徒達の比率は日本人の血液型の比率と比較して意味のあるものか(ズレがあるのか)を計る必要があります。
 このズレが意味があるほどのものかを調べるのが、統計学のカイ二乗検定です。
 カイ二乗検定は、観察値(この場合は、生徒の各血液型の人数)から期待値(この場合は、日本人の各血液型の割合通りだったら、生徒の各血液型は何人ずついるか)を引いたものを二乗し、それを期待値で割り、カイ二乗値を出し、カイ二乗値がカイ二乗分布表の示す数値(有意水準)よりも大きいか否かを調べるもの。大きければ、帰無仮説(この場合は、生徒の血液型比率は、日本人の血液型比率と変わらない)が棄却される、即ち、生徒の血液型比率でO型とB型は日本人の血液型比率よりも多いと言える。
 (この説明を読んでも、わからないと思いますので、詳しくはこのサイト
などを参照してください。)
 さて、この生徒の血液型のカイ二乗値は5.85とでます。
自由度3で危険度5%(間違って帰無仮説を棄却してしまう確率が5%ある場合)の有意水準は9.35ですので、この帰無仮説は棄却できません。
 つまり、この生徒の血液型比率と日本人の血液型比率のズレは有意ではないので、生徒のO型B型が日本人の血液型比率よりも多いというのは意味のない誤差だとなります。
 
 このように、統計学では、目分量で多い少ないというのを判断せずに、データ全体で考えることを可能にします。
 この統計学の視点は、著名人の血液型など、興味を惹きかつ共感をよぶものの解釈には非常に有効です。
 特に、少ない人数の血液型比率を見る場合、数値が極端になりやすいこと(※1)や、調査対象をより大きな集団や小さな集団に入れたりと比較してみることで全く違う数値が現れることを認識しておくと、都合のよい主張の裏づけに惑わされなくて済みます。

 さらに、重要なことは、ここで仮に生徒の血液型比率と日本人の血液型比率に有意差があると出たとしても、だからといってB型O型が多いことと、生徒の偏差値が65以上であることに因果関係があるということは全く言えません。統計的に有意だとされる違いが各血液型にいえるとしても、他の要素が原因だという可能性や、もし血液型との関係が有力視されるなら、なぜABO式だけなのかといった点を検討する必要が出ます。有意差があっても言えることは、125人の生徒の血液型比率が日本人の血液型比率よりも偏っているということだけで、その偏りの原因が何なのかを教えるものではないのです。


 さて、このように代表的な二人の“血液型性格診断”は難点が多く、否定されておりますが、性格と血液型の関係をより厳密な形で調査した学者もいます。(※2)

 JNNデータバンクが全国都市部の13歳~59歳の男女を無作為抽出で3100名に対して年二回調査した結果のうち、1980年~1988年にかけての4回を松井豊(筑波大心理学系教授)が分析しています。
 結果、24項目の調査項目で4回共通して一項目(物事にこだわらない)だけ有意差があったものの、その有意差が現れるABO式血液型は毎年異なっていました
 他にも、対象を大学生にした調査などが行われているものの、ABO式血液型と性格の関係は否定する結果しかでていません。

 このように、広義の“血液型占い”も科学的に否定されています。
 つまり、血液型“占い”は、単に占いだから非科学だ(狭義の“血液型占い”が非科学だ)というのにとどまらず、非科学だと言えます。

 以上で、ABO式血液型分類という科学的区別と、広義・狭義の“占い”という非科学が合わさっていることが確認されたと思います。
 
 “血液型占い”が二つの要素を備えていることは、他の占いにはない特異性であり、強みだと考えられます。
 つまり、占いは通常の科学的手法では知ることのできないことへの回答を得ることができるという期待感や願望がありますが、それは非科学だということも認識されている。
 ところが、“血液型占い”の場合、ABO式血液型というまがうことなき科学的区別があるために、科学という私達の社会を支える不可避の知識への信頼を向けることができるのです。
 もちろん、上述してきたように“血液型占い”の“占い”にも科学性はありません。
 しかし、もし「“血液型占い”は科学的な根拠が無い」と反論されたとしても、そこで、占いを擁護する際の「科学を妄信している」「科学にはわからないことがある」という発言がもちだせるのです。なぜなら、“血液型占い”は占いだからです。
 “血液型占い”を持ち出したいときは、ABO式血液型という科学への信頼を、“血液型占い”への科学的な反論を持ち出されたときは、占いである言い訳が可能なのです。
 この科学への信頼と、占いへの関心(惹かれる気持ち)の両方を満足させている“血液型占い”は、報道番組(つまり、メディアが取材によって裏づけを取っている社会的信頼のある事実を伝える番組)で占い(社会的信頼がない・裏づけのない言葉)を流している・受け入れているメンタリティと合致している、日本的な占いだと考えます。

 以上を前提に、前回の冒頭に出した女子短大生の“「だからあんたはもてないのよ」”の“だから”について続けて考えてみたいと思います。
 というのは、“血液型占い”について科学的な発言に対して、異性(若しくは同性)に“モテない”という判断の発言は、会話の論理として奇妙にもかかわらず、「なるほど」と思わせる説得力があるのはなぜかと言う疑問があるからです。
 その疑問を解明した上で、だからどうするべきか、“血液型占い”への適切な対処指針を提示しておきたいと思います。

続き⇒血液型占いに反論するとモテないのか? part3
 


※)『血液型と性格』(福村出版)大村政男著
 『昭和初頭の「血液型気質相関説」論争』溝口元(『血液型と性格』至文堂 収録)
※1)少人数の比率が極端になりやすいのは、少数であるほど、その中の一人一人が比率に与える影響を大きくすることから理解されると思います。 例えば、10人の中の5人から6人に変われば、50%から60%になりますが、100人いる場合には50%から60%まで変化するのに10人増えなければなりません。
※3)『分析手法からみた「血液型性格学」』松井豊(『血液型と性格』至文堂 収録)
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by sleepless_night | 2005-10-28 22:05 | 血液型関連

血液型占いに反論するモテないのか?

 “この間、女子短大生数人と酒を飲んでいたら血液型の話題がでました。まあ、よくある血液型の当てっことかしていたわけなんですが、その時に教授が「『A型』って言えば40%の確立で当たるし、『A型かO型』って聞けば70%の確率で当たるよな」と発言したら、「だからあんたはモテないのよ」とか言われました。いや、モテないのは事実ですが血液型ごときで正面きって『モテない』と断言される教授っていったい…”
(http://psychology.jugem.cc/?eid=41 「いんちき」心理学研究所より)
 上記引用のブログの管理人“浅野教授”がどういった方なのかは判然としませんが、この女子短大生の「だからあんたはモテないのよ」という一言は非常に興味深いものに思えます。

木村剛さんのブログ(http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/6340865)で血液型性格判断がかなり素朴に取り上げられており、そこに当然のことながら幾つも否定説が述べられたブログがTBされていました。
 情報としても特別に詳しいものを持っているわけでもないので、このブログで書くものでもないと思ったのですが、先にあげた引用部の一言に惹かれて「血液型占いに反論するともてないのか?」という視点でまとめてみたいと思います。
 つまり、この血液型占いというものは、素直な反論では片つかないものが“だからあんたはモテないのよ”の“だから”に秘められているように感じ、その“だから”を解明した上で、有効な対応を考えると言う2段構えで望む必要があるのではないか、その対応法はこのブログで述べていく「性」の問題(特に所謂恋愛について)にも共通するのではないかと考えるのです。


 まず、前提知識を整理してみます。
①:血液型とは何か?(※)
 ABO式血液型は1901年にウィーン大学のカール・ラントスタナーによって発見された、血液の型の中でも最初のもの。血液型はABO式以外にも公式に認めていられているものだけでも40種以上、非公式を含めると400種以上ある。そして、厳密に言えば同じ血液型の人間は一卵性双生児以外にはない。
 ABO式以外にも有名なのはRh式血液型。
1939年にライントスタイナーがアカゲザルの血液にある抗原が人間にも共通していることを発見したことでRh式は発見された。

 ABO式による区別も、Rh式による区別も血液の抗原の違いによる。
 ABO式は赤血球表面の抗原の違い。Rh式は赤血球の抗原の違いを支配する3対の遺伝子のうちで最も抗原性の強いD遺伝子の有無。
 この二つは輸血時に最も重視される血液型。
 異なる抗原を持つ血液を輸血すると、赤血球が破壊されて死亡する可能性がある。
 但し、通常の輸血時には適合性試験によって、ABO式やRh式のみでは見逃される不適合を確認する。緊急時には、ABO式とRh式の検査のみで輸血したり、その時間も無い時はABO式のO型を、Rh式の陰性を輸血する。 
 このように、血液型はそれが解明された経緯から、同じものを集めたと言った積極的な意味を持つものではなく、混ぜたら危険な違いがないという消極的なものと言える。
 ちなみに、ABO式血液型を決定する物質(型物質)は血液中に存在するが、脳の血管は酸素、ブドウ糖、アミノ酸、水などのごく一部の物質しか通過させない(血液・脳関門)ので、型物質は脳細胞に触れない

 このように、血液型は消極的な意味のものである点、ABO式だけではなくRh式も輸血では重視されれる点、ABO式を決定する型物質は脳細胞に触れない点、を考えてみると血液型性格判断は医学的には否定されていると考えられる。

 では、血液型性格判断はどうして世間に浸透しているのか?
 血液型性格判断が持ち出す統計はどう考えるのか?

 そこで
 前提②:血液型性格判断の整理。
 気付いている方もいるかもしれませんが、ここまでわざと“血液型性格判断”と“血液型占い”の二つの言葉を混用してあります。
 この二つは厳密には異なります。
 血液型性格診断とは、アンケートの結果などによってABO式血液型の違いで性格が異なることを示そうという考えです。
 血液型占いとは、ABO式血液型の違いと占いの結果を対照させる占いです。

 しかし、やっかいなのは“占い”という言葉の多義性です。
 つまり、“占い”という言葉は第一に、通常の科学的手法では予測・解明できないことに回答することを意味しますが、“日本経済の未来を占う”のように通常の科学的手法に含まれる経済学(社会科学)によっても一律に解が出ない問題についての意見を述べる場合にも使われるのです。
 そして、この“占い”の多義性によって、“血液型占い”には“血液型性格判断”やその知識に基づいた血液型当てっこ(つまり血液型“占う”)こと、さらには血液型“占う”こと(“血液型占い”)までも含んだ総称のように使われる事態が導かれているのです。
 この総称のように使われる“血液型占い”を広義の“血液型占い”とし、血液型で“占う”ことを狭義の“血液型占い”とします。

 つまり、冒頭の女子短大生と“浅野教授”の対話は広義の“血液型占い”をめぐる会話となります。

 この広義の“血液型占い”で特異的なのは、“血液型”という科学と“占い”という非科学が融合されている点です。

 ③:では、科学と非科学の区別について振り返ってみましょう。
 勘違いする男と女/「マザコン」問題の前提で述べたように、この厳密な区別基準は見つかっていません。
 科学とされる薬学では、その研究の成果として出された薬品が後に致命的な欠陥をもたらしたり、科学とされる工学で安全だと考えられた建材が想定されていた重量内にもかかわらず耐えられなかったり、科学とされる気象学による天気予報ははずれることがめずらしくなく、科学とされる理論物理学では堂々と荒唐無稽な仮説が展開されていたりしています。
 では、なぜ科学と非科学が区別されるのか、される必要があるのか?
 それは科学の要件として提起されているものを見れば分かります。
 要件として以下が挙げられます。
・論理性
・仮説と実験・観察による理論構築、修正、否定
・応用性、操作性
・追試可能性、公開性
・制度
 論理に従わなければ「俺が正しいと言ってるんだから正しい」がまかり通ってしまうので論理性がなくてはならない。実験や観察を通して仮説を考えたり、修正したり、否定することでより間違いのない理論へ近づき、その理論を使うことで現在よりも広範で整合した説明ができ、現実や特定の環境下で実験結果を操作できる。そして、それらは他の研究者が追試できるように詳細な手順を示した論文や実験自体が公開されることによる審査に耐えられなくてはならない。さらに研究成果を効率的に同じ分野の研究者に知らせるたり、審査機能を維持するために学会や学会誌などの制度が必要とされる。
 このように、科学と言えるために考えられた要件は、現在非科学とされるものが主張している理論や内容が間違いだと言うためのものというよりも、科学として社会で用いることができるか、社会に適用させるだけの信頼があるかというものです。
 例えば、ある占い師が「来年の12月に富士山が噴火する」と予言したり、「あなたは来年に結婚相手と出会う」と占ったりしても、それは非科学だとは言えても間違いとは言えない(言い切れない)のです。
 しかし、科学が非科学に優越することは同意しなくてはなりません。
 科学は、公開性や応用性や再現性があり、それゆえに科学によって現代社会は営まれているのです。
 非論理的で、非公開で再現不可能で追試不可能なことや主張を信頼(trust:信頼する・身をゆだねる)することはできないし、それで現代社会を営めないから、科学と非科学は厳密ではなくとも区別されなくてはならないのです。
 ある霊能者が「この鉄筋で100トンを支えられる」と言ったのを信じてビルを建設したり、「来年は米が大凶作になる」と言ったのを信じてを輸入量を増やしたり、「この食べ物を食べていれば癌はなおる」と言ったのを信じて手術を保険適用外にしたり、「この人間は良い日銀総裁になる」と言ったのを信じて経済を全く知らない人間を就任さたら、日常生活は確実に崩壊します。
 科学によって多大な恩恵を受けて生きているのですから、「なんでも科学でわかるものではない」や「科学を妄信している」と“占い”などの非科学を擁護したい方は、まず科学で分かっていることや科学とは何かを理解してから発言した方がいいでしょう。(さらに、たとえ科学に間違いがあったり、分からないことがあっても、それによって占いの確かさを増加させるものでもないこことも認識しておくべきでしょう。)

 さて、確かに、ABO式血液型は①で述べたように、厳然たる科学的な分類です。
 
 さらに、科学と非科学の区別で考えると、狭義の“血液型占い”は非科学だと言えても④:広義の“血液型占い”に含まれる“血液型性格判断”は客観的なデータに基づいたものなのだから、科学なのではないか?との疑問が挙げられます。(※1)

 “血液型性格判断”の起源としては、大正5年に原来復と小林栄が発表した『血液の類属的構造について』が先行論文としてあるものの、昭和2年に古川竹二の『血液型と気質の関係について』が挙げられている。
 そして、古川竹二の説を今日程に浸透させたのは昭和46年に能見正比古『血液型でわかる相性』と以降で展開された“血液型人間学”だと考えられている。
 つまり、冒頭の女子短大生はこの流れの結果にあると考えられます。

 “血液型性格判断”の巨匠二人、古川竹二と能見正比古について、その説の概略と評価を述べます。
 ④-1 古川竹二と能見正比古の説の概略
 古川竹二は1891年(明治24年)に医者の家系の家に生まれ、兄と弟は医者になったが、竹二は東大哲学科教育学専修を卒業し、同大学大学院修士課程を経て(女子教育の研究が専門)、東京女子高等師範学校(現・御茶ノ水女子大)の教授となった人物。
 古川説は、論文の題が示す通り、血液型と性格ではなく、血液型と気質の関係を研究しようとしたもの。
 気質とは、生得的な要素と強く関係し、感情的な特性を生み出す素質のことで、性格や人格とは異なる。
 古川は親兄弟が医者であることから当時発見されて間もない血液型や遺伝についての情報を聞いたことで、教育者として東京女子高等師範の入試に関わってたことなどから、気質の差異による効果的な教育法を探ることを目的に血液型にアプローチしたと推測される。
 古川は東京女子高等師範学校の同僚や生徒や卒業生を自省票というアンケート調査をすることでB型とO型が積極的・進取的気質、A型が消極・保守的気質とする仮説を得た。
 さらに改変を加えた自省票によるアンケート調査の結果を踏まえて
 A型=温厚、慎重、謙虚、同情的、融和的、優柔不断、内気 など
 O型=意志強固、自信家、理知的、強情、頑固、個人主義  など
 B型=快活、活動的、社交的、楽天的、派手、移り気、意志弱い など
 AB型=内面はA型、外面はB型
 とのABO式血液型に対応する4分法を考案して、以降、主に軍人を対象にした調査や血液型による組織、団体気質という優生学に関わっていく。
 1940年(昭和14年)没。

 能見正比古は1925年(大正14年)に生まれ、東京大学工学部を卒業、大宅壮一門下の作家で1971年(昭和46年)に『血液型でわかる相性』出版以降、『血液型人間学』などを次々に出版し、古川竹二以降の“血液型人間学”を支えた。
 能見が血液型と性格に着目した明確な原因はわかっていないが、能見正比古の姉が古川が教授をつとめていた東京女子高等師範学校の学生だったために姉から話を聞いた、若しくは師匠である大宅壮一から古川説を聞いたかしたと推測されている。
 古川とは違い、政治家や作家やスポーツ選手の血液型など、世間の関心事と上手く関連して血液型と性格についての自説を科学として主張した。
 
 続き⇒血液型占いに反論するとモテないのか? part2


※)『血液型学から見た血液型と性格の関係への疑義』高田明和著(『血液型と性格』至文堂 収録)
 適合検査:メルクマニュアルより
http://merckmanual.banyu.co.jp/cgi-bin/disphtml.cgi?c=%B7%EC%B1%D5%B7%BF&url=11/s129.html#x03
 交差適合検査:ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%B7%AE%E9%81%A9%E5%90%88%E8%A9%A6%E9%A8%93
※1)古川竹二、能見正比古の経歴について、『血液型と性格』(福村出版)大村政男著、『古川竹二』佐藤達哉著(『血液型と性格』至文堂 収録)より
 
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by sleepless_night | 2005-10-27 20:35 | 血液型関連

「性」の世界へ

 「なんで、彼のことを好きになったの?」
 そう聞かれても、好きになろうと思って好きになったわけじゃないのだから答えようが無く、どうしてそんなことを不思議そうに聞かれ、答えなくてはならないのか。
 「じゃあ、あなたはどうして彼女を好きになったの?」
  逆に聞き返しても、納得する様子も無い。
 自分にとって同性を好きになることは、なんの意識もなく起きる感情であるにもかかわらず、それを不思議そうに質問され、むしろ説明を求める権利があると言わんばかりの態度で接される。

 同性愛者であることを公言し、活動の一つとして同性愛者のためのサイトを運営している伊藤悟さんは“私たちはパーフェクトな説明をいつも求められるんです。”(※)と述べています。
 同性愛者の多くは、上記したような問答と感想を経験する様です。 
 
 性同一性障害を持つ人の場合は、同性愛者よりも、この点では楽なのかもしれません。
 体の性別と心の(自分で思っている)性別とが違っている、乱暴に言えば、間違って男や女に生まれてしまったのですから、接する側は「この人は、男(女)に見えるけど、それは体が男(女)なのであって、本当は女(男)なのだ。この人は間違ってしまった人、それを分かっている人。本当は女(男)なのだから、男(女)を好きになるのは正しい。」と思うことができるからです。

 しかし、同性愛者は違います。
 「この人は男(女)なのに、男(女)を好きになっている。自分でも男(女)だと思っている。なのに、男(女)と性交をしたいと思っている。」
 そして
 「私は男(女)で女(男)を好きになり、女(男)と性交したいと思っている人間だ。だから、男(女)なのに男(女)と性交したいと思っている人間とは違うのだ。」
 と思われる。
 だから
なぜ、男(女)なのに男(女)を好きになったのかを聞きたい、不思議に思って当然だ、と考えて質問される。不思議なことを質問するのは当たり前のこと。当たり前のことをする自分は当たり前の人間だ,と思われる。
どちらも、当たり前、自然だと思っているのだけれど、一方にしかそれを持ち出せる資格がない。

「どうして、あなたは女(男)を好きになり、性交したいと思うのですか?」
 そう質問され、自分がどうしてそうなのかを考えてみた時、「どうしてだろうね」とニヤリと笑えるなら、これからこのブログで述べてゆく様々なことを楽しく思ってもらえるかもしれません。
「男(女)が女(男)とヤリたいと思うのは自然じゃないか。何を馬鹿なことを言ってんだ。」
と思うなら。思うというよりも反射的に発するなら、その人こそ、これから述べるようなことを知る必要はあるでしょうが、楽しめはしないと思います。

 キンゼイ・リポートで有名なA・キンゼイの共同研究者であったW・ポムロイは
 “あらゆる人間一人一人が他人にとっては未探検の暗黒大陸である。それは暗黒ではあるが豊穣な大陸である。未知であるが故にそれは神秘的な豊穣である。”
 と人々のセクシュアリティ(人が持つ性的欲求・欲望)の世界を表現しました。
 
 “「あの人はこういう性格だ」と判断を下せる相手を、誰でも百人程度はもっているだろうが、「あの人の性生活はこんな風だ」ということができる相手は誰でも指折り数えるくらいしかもっていない。この自分の外なる性の世界に対する実見聞できない貧しさが、こと性に関しては独断的で偏狭なものの見方を多くの人に当てはめてしまう。”(※1)

 セクシュアリティは、「性」の世界の一片に過ぎません。
(「性」と「」をつけているのは、性交のみではなく、交際・恋愛(恋・愛)や結婚など、その考察に必要なジェンダーやセクシュアリティなどを広く含めるためです)

 しかし、おそらく、それが一番「性」の世界の面白さを感じさせる部分でしょう。
 いつも一緒に働き・学んでいるあの人はどんな性交をしているのだろう。
 今日、電車で正面にすわったあの人は、帰宅してどんな性生活を持つのだろう。 
 その人と性交をする機会がなければ、それを知ることはできない。
 経験的に、それは、いつも見せいているその人と同じではないだろうことは予測できる。
 積極的でいかにも激しい性交をすると思える人が、まったく消極的で禁欲的な性生活を持っているかもしれないし、普段は全くおとなしくて冴えないあの人が果敢な性の開拓者となっているかもしれない。
 何十年と付き合いのある友人がどんな性交をするのか。
 会って一時間しか経過していなくとも、性交経験を共有した人間の方が、それについては知ることができる。

 私達は、その海がどんな海底構造をしているのか、海流はどう流れているのか、深さはどのくらいか、何が・どのように生息しているのかを知らずとも、海を泳ぐことができ、知らずとも海を楽しんでいます。
 では、海を泳いでいる時、「その場所は1万メートルの深さがあるよ」と言われたらどう感じるでしょうか。
 ゾッとする、自分の下に1万メートルもある、何がいるのか分からない、そこに自分が浮いている、そう一瞬恐怖が沸き起こるかもしれません。
 しかし、海で泳ぐことは楽しい。そして、怖いけれども、自分の下にある一万メートルを知りたい。
 「性」とは、そのような海のようなものだと、私は考えています。
 知らなくても楽しめる、知ったらかえって面倒かもしれない、でも知りたい。
 
 「性」は、海を知らずとも・考えずとも、浮いていられる・泳ぐことを楽しめるのと同様に、知らずとも・考えずとも、生きている世界です。
 現に、なぜ、自分が男性・女性なのかを考えなくとも、生きています。
 そして、人を好きになったり、性交したり、さらには子供が生まれます。
 
 性は、なぜ語られなくてはならないのか?で述べたように、その世界は“特殊な経験”ではないのです。
 しかし、海に浮いている・泳ぐことは“特殊な経験”ではないけれども、それで海が何であるかを知ることが簡単なことではないのと同様に、「性」は“特殊な経験”ではないけれども、知ること・考えることが簡単なものではないのです。
 「性」を語ること、「いき」を語ること。で述べた無粋であるという点もそうですが、それは複数の要素が切り離せずに絡み合い相互に影響しあう、地底構造や海流・海水の性質が生息する生物の様相と密接に関係するように、複雑なものであることも困難さの原因です。
 おそらく、無粋である点、は本来的なそれらの困難さをカバーするための擬制の困難です。
 「性」は、私達の生命に直接に関係します。私達は「性」抜きには存在できなかったのです。だから、「性」は一人一人の実存的な問題(倫理の問題)を不可避的に含みます。そして、私達が作る社会は、社会として存続するために「性」を管理しようとします。管理といっても法律などの公権力(のみ)ではなく、それ以上に文化や社会構造などの見えない力が大きな役割を担います(いつ・どこで・だれと・どのような性交をすることが文化的に普通だとされるのか、男性や女性は、どう振る舞い・どう生きることが普通だとされているのか、明文化されていなくても、教育や雇用の形態や選別で、どのような誘導がなされているのか等)。「性」は扱いを間違えれば、個々人、社会の存在を脅かすだけの力を持つ問題なのです。
 そのために、「性」の持つ本来的な困難さを覆い隠す、仮の困難さが設置されているのでしょう。
 また、いちいち、困難さに付き合っていれば、日常は平穏には営めないのです。

 「その下に一万メートルあるよ」
 と言われたときの、恐怖、ゾッとした感覚。
 それの持つ意味を考えることを避けるために、“自然な・当たり前の”感覚はあるのでしょう。
 でも、怖がって反射的な拒絶をとる必要があるのでしょうか。
 
 海底構造や海流について知ったところで、海を上手く泳げるようになるわけではない。
 しかし、知ることは楽しいと思う。
 知りたい、知って苦しい・面倒くさくなるかもしれない、それでも知りたい。

 人生の意味と目的で述べたことを敷衍すれば、知ろうとすることは、用法②の「意味」を求めることでしょう。
 自分が生まれたこと、していること、生きていること、の情報を求め・考える、それで何がどうなるということもないけれども、知らない・考えないよりも、「意味」があることをできるかもしれない、少なくとも納得はできるかもしれない。

 力不足ではあっても、この“豊穣な暗黒大陸”を進んでいきたいと思います。


 性は、なぜ語られなくてはならないのか?の冒頭で出した、スタンダールの対話文には続きがあります。
 
 “若者:恋をすれば誰でもよくやることですからね。しかし、『恋愛論』はそれを防ぐ術もおしえてくれます。
 老人:いや、君の本が私にもう一度あんな目にあわせてくれるほうがずっといいよ。”

 スタンダールの『恋愛論』を読んでも、そして、このブログを読んでも、“あんな目”にもう一度あわせることはできないでしょう。
 その手の話は、膨大なハウ・ツー本がありますし、それらの本でさえ、はたして効果的なものなのか、私には分かりません。
 
 性交やそれに密接に関連する「恋愛」「結婚」、それについての情報や考察に触れることで、今まで見えなかった・整理できずに混乱し放置されてきた自分の中の思考や感情に取り組む助けにはなるでしょう。
 自分にとってそれらが何なのか、どんな位置づけで、自分はどうしたいのか、を認識する助けとはなるでしょう。

 しかし、それが“あんな目”をもたらすものでも、上手くなるものでもないでしょう。

 それでも、私はそれを知り、考え、述べてみたいと思います。
 なぜなら、それが私には楽しいから。

 
 
 
 

 


※)『異性愛をめぐる対話』(飛鳥新社)伊藤悟・梁瀬竜太著
 お二人が運営している、すこたん企画 http://www.sukotan.com/
※1)『アメリカ性革命報告』(文春文庫)立花隆著 
 キンゼイについては、キンゼイ研究所HP
http://www.indiana.edu/~kinsey/research/ak-data.html でリポートが読めます。
 ギンゼイの生涯についても
映画『愛についてのキンゼイ・レポート』http://www.kinsey.jp/が公開されています。 
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by sleepless_night | 2005-10-17 20:11 |

「性」を語ること、「いき」を語ること。

 前回に引き続いて、「性」を語ることの困難について話を進めます。
 「性」を語ること、特に「恋愛(恋・愛)」について分析的に論じることの意義と、無粋だと感じられることから来る困難性(忌避感)について述べます。
 
 (前回の性は、なぜ語られなくてはならないのか?で述べたように、ここでの「性」とは性交やその周辺領域のみをさすのではなく、それと密接に関連する「恋愛」「交際」「結婚」など、そしてジェンダーやセクシュアリティなどを意味させています。)

 九鬼周造は『「いき」の構造』(※)で粋(いき)の内容を三点挙げています。
 ①異性に対する「媚態」
媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、事故と異性の間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして、「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張に他ならない>”“「媚態」の要は、距離をできる限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。”“媚態とは、その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたこのでなければならない。
②「意気」すなわち「意気地」
犯すべからざる気品・気格がなければならない。”“媚態でありながらなお異性に対して一緒の反抗を示す強みを持った意識である。”“理想主義の生んだ、「意気地」によって媚態が冷夏されていることが「いき」の特色である。
③「諦め」
運命に対する知見の基づいて執着を離脱した無関心”“世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒とした未練の無い恬淡無碍の心

そして、日本文化において“「いき」は無上の権威を恣にし、至大の魅力を振るう”と述べられています。

  この内容から考えると、粋とはなにか?について粋が求められる空間(即ち、所謂恋愛関係が予期される空間)で語る(論じる)ことは無粋(野暮)となります
  理由は以下三点考えられます。
 まず、前回指摘したように私事性の高い空間であるために、分析を含む会話がその私事性(内密さ・個別具体性)を侵し晒してしまう点。つまり、分析とは、内容を全て引き出した上で設定した基準に従って分類し解釈する行為ですから、私事として公にしない領域を全て引き出した上でバラバラに分解することになります。
 また、「意気地」のような感情の勢いと、「媚態」に含まれる緊張感は、自身が場に投げ込まれて一体となること(没入すること)が必要とされますが、分析には、その場から離れた態度が求められます。よって、分析的な態度は無粋となります。
 さらに、「諦め」の観点からは、分析とは対象に対して集中する態度ですから、反することになり、無粋となります。

 「性」特に「恋愛(恋・愛)」について語る(論じる)ことも同様に言えます。
 やはり、「恋愛」について語ることは「恋愛」(の予期される空間)を害する態度だと考えられ、無粋だと言えます。
 したがって、「恋愛」について語ることには忌避感が生じます。

 では、このように、粋を語ることは無粋であり、粋とは日本文化で“無上の権威”をもった価値基準であることを知りながら、どうして九鬼周造は語った(論じた)のでしょう
 語ることが、その語られる内容を害するという点をどう解消したのでしょう

 九鬼はその点についてこう述べています。
 “意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸かっている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。”

 “意味体験”とは、実際に粋などの意味が読み取れる体験をすること、“概念的自覚”とは意味を概念として理解することです。
 粋な会話をしたり、粋な着物を着たりすることで、粋を体験するのが“意味体験”で、粋とは何かを上述のように分析し概念化することで理解することが“概念的自覚”です。
 つまり、九鬼はただ粋なことを体験していることではなく、その体験していることが何であるのかを概念化して理解できるところに“知的存在者”即ち、人間の“全意義が懸かっている”と述べているのです。
 これはパスカルの有名な断章(※1)“人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体はなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水の一滴も、これを殺すには十分である。しかし、宇宙がこれを押し粒時にも、人間は、人間をころすものよりもいっそう高貴であるであろう。なぜなら人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することをしっているからである。宇宙はそれについて何もしならい。それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれがたちあがらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間やじかんからではない。それゆえ、われわれはよく考えるようにつめよう。そこに道徳の根源がある。”といった、人間についての洞察や価値観と同様のものだと解釈できます。
 この知ること、つまり、人間の核心・本質を“知的”であることに求め、それによる意義を、粋を語ることで生じる無粋に優越させようとする理解は、それなりに有効だと感じられます。
 しかし、この解決の有効性を確保するには、その前提に対する合意をめぐって、それこそ無粋な議論を必要としてしまい、粋のもつ“至大の魅力”を前にしてどれほどの説得力を持つかは疑問(※2)です。

 そこで、この大上段に構える価値論による意義付けではなく、粋の内容から、粋を語ることは粋を害する態度となるのではないか?という疑問を解決することを、私は考えます。
 つまり、粋には「諦め」という内容が挙げられていますが、「諦める」の語源が「明らかにする」ということを根拠に、粋とは何かを「明らかにする」こと(概念的自覚が為されていること)抜きには粋が成立しないことによって、粋を語ることの意義付けをし、疑問の解消を図るのです。
 要は、粋とは何かを理解していないで、外形的に粋なことをしようとしても、粋とは言えない(粋がっているだけ)ということです。

 したがって、粋を語ること、正確には、語れることが粋には必要であると言えますので、「恋愛」について語ること・語れることはむしろ粋にとって必要だと言えます。

 但し、ここで誤解してはならないのは、“概念的自覚”とは粋の必要条件であって十分条件ではない点です。
 九鬼が述べているように、“意味体験と概念的自覚との間に不可通訳的な不尽性”があり、“「いき」の構造を理解する可能性は、客観的表現に接触してquid(英語のwhat)を問う前に、意識現象のうちに没入してquidを問うことに存している。”のです。
 つまり、客観的表現を通じての概念的自覚で粋についてどれほど学んでも、粋を体験したことがなければ、粋を分かった・知ったとは言えないということです。
 これは当然に、「性」、その中の「恋愛(恋・愛)」にも当てはまります。
 概念としてどれほど学んでも、特定の他者に対して強い好意の感情を持ったことがなければ、「恋愛(恋・愛)」を分かる・知ることはできません。
 前回述べたように、具体個別的な「恋愛」しか存在しないのですから、それを通してしか一般名詞としての「恋愛」(そして「性」)の概念的自覚へはたどり着けません。

 概念的自覚は必要条件である、前回に述べたように、一般名詞としてあえて語られなくてはならないのです。
 “あえて”語られなくてはならない、それが現代の状況だと、私は考えます。

 次回は、「性」を語ることの困難さの裏側にある面白さについて述べます。


※)『「いき」の構造』(岩波文庫)九鬼周造著
※1)『パンセ』(筑摩書房)パスカル著 松浪信三郎訳
※2)この点については、血液型占いに反論するともてないのか?という別の記事で詳述する予定です。http://psychology.jugem.cc/?eid=41参照
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by sleepless_night | 2005-10-13 21:06 |

性は、なぜ語られなくてはならないのか?

老人:何をそんなにむきになって読んでいるんだね。
 若者:『恋愛論』という本です。
 老人:なんだって?恋愛についてだって、むろん小説だろうね。
 若者:違います。あなたは恋をしたことがおありですか?
 老人:恋?女を持ったことならある。
 若者:そんなことじゃなんです。あなたは恋に夢中になったことがありますか、眠れなくなったことがありますか。
 老人:一度も無い。
 若者:やれやれ。つまりね、あなたは誰か一人の女の人のために社交界でもの笑いになったことがあるかっていうんですよ。
 老人:ちょっと待って、そうだなん、古いことで思い出せないが…そうだ、一七八九年だった。ある朝友達が来て、かわいいデルヴィルの奥さんがサロンへ入ってくると、みんなが私の顔を見ると注意してくれたことがあった。私の深刻な顔がひどくおかしいんだそうだ。
 若者:それですよ。今僕がおすすめする大好きな本は、つまりそのおかしさを分析しているんですよ。
 老人:あまりいい趣味じゃないね
。”(※)

 スタンダールが自著『恋愛論』の宣伝の為に書いたこの対話文で老人に言わせているように、恋愛を論じるなど、“あまりいい趣味”ではないと私も感じます。
 “恋愛は論じられるものでなく、するものだ”(※1)といわれる通り、黙ってしていればよいのです。

 では、なぜ、論じようというのか
 
 勘違いする男と女/「頼りがい」と共依存で述べたように、このブログのタイトルには「性」とありますが、それは性交やその周辺域のみを語るためではなく、それを含んだ「恋愛」「交際」「結婚」といったことについて述べるためです。
 そして、それを述べるためには「性」、つまり、ジェンダーであったりセックス(生物学的性別)についても触れなくてはなりません。
 つまり、多義的な概念を担わされている「性」という言葉に代表させることで、スタンダールを含む多くの論考が持つ領域の限定を広げ、広範で多角的にある一つ一つを統合し、必要な基盤(地面)の提示を目指す意図です。

 なぜ、語られなくてはならないのか。
 
 それは、「性」(つまり、所謂、恋愛・交際・結婚、ジェンダーやセックスやセクシュアリティといった「性」という言葉に関連し、担われる概念)が「性」だからです。
 もしこの世に、一人の人間、一つの「性」、しか存在しなければ、語られる必要はありません。
それは、この世が赤色のみで彩られていれば、色がこの世に存在するとは言えないし、色について語ろうとする人はいないだろうということと同じです。

 一人の人間、一つの「性」、でしか在れないから、語られる必要があるのです。
 一人の人間、一つの「性」、でしか在れない人間が、別の一人の人間、一つの「性」、と出会うことで「性」が存在する。
 だから、私達は「性」を語り、伝え、受け取り、理解しようという営みを避けることができないのです。

 「性」を語ることは困難です。
 
 それは、“すべて愛というものは最も人間的なものだし、それを語るために特殊の経験が必要だということはない”(※2)という言葉に代表されるように、誰でもしている・できると思われるものであることが、困難の一因、論じることを忌まわれる(“あまりいい趣味じゃない”と思われる)一因と考えます。
 確かに、この感覚・感想は、個別具体的な「性」、つまり、固有名詞的な「性」については適当なものです。
 しかし、一般名詞としての「性」については違うと、私は考えます。
 
 もちろん、一般名詞としての「性」は実際には存在しません。あるのは、常に個別具体の固有名詞的な「性」です。したがって、固有名詞的な「性」しか語りえないというのも首肯される主張です。
 しかし、一般名詞としての「性」は、あえて語られなくてはならないと考えます。
 それは、個別具体的な・固有名詞的な「性」は十分に語られているし、自然に生じているので、“あえて”の必要がないからであると同時に、そこでの恣意性を一定の枠内に収める必要がある(意思疎通の道具としての言語の機能性を保持する必要がある)からです。
 日常語られる「性」、恋話(コイバナ)に代表される、とは「~の恋愛」であったり、「~の結婚」「~の性交」である(即ち、固有名詞的)にもかかわらず、それを意識されていない、言わば越権的な言論になっていることが見られます。
 言語は恣意的なもの(※3)ですが、「性」(特に、恋、愛、恋愛)にはそれが上記の引用文のような理由で横行の余地が多分にあります。
 
 それでもいいではないか、固有名詞的な「性」があり、それに何の文句があろうか、とも言えますが、無自覚な恣意性は齟齬や弊害を導きます。
 自覚の上での恣意を遊ぶのならば、恣意のリスクを予測・管理できますが、無自覚な恣意は不意打ちの悲劇(こんなはずじゃなかった)を招きます。
 特に、社会を構成する人間のバックグラウンドが多様化する現代ではその傾向が強まります。単一的なバックグラウンドや価値観が強固な社会ならば、無自覚な言葉の恣意性は、社会構造によって(良くも悪くも)安定性が担保される(そして、一時期の日本はそうだった)のですが、多様化すれば担保できません。
 
 極端な例ですが、ストーカーの被害者になったら。でも挙げたドメスティック・ヴァイオレンス(配偶者・交際相手間での暴力)があるにも関わらず継続している関係はその典型です。
 「愛」故に夫は妻を殴り、妻は殴られたあとの夫の優しさを「愛」だと言う。
 もし、一般的名詞としての「性」が語られなくては、どうしてこの二者に合意された「愛」に異議を唱え、法の介入を要請できるでしょうか。
 そこまでいかずとも、「愛」しているという言葉で、あまりにも多様で・両立しない感情や願望や欲求が言い表され(覆い隠され)、少なからずの人間が「こんなはずじゃなかった」との感想を持っているはずです。
 前回(『電波男』は「答え」となりうるのか?)述べた『電波男』と『負け犬の遠吠え』(※4)とは、その一つの例に他なりません。
 『電波男』はこう述べています。
 “ああ…、心は、愛は、どこへいったのだろう。男の収入をアテにして贅沢しようとする女。これでは、結婚なのか売春なのかわからない。”“全ての恋愛が、相手の何らかの見返りを要求する売春行為になってしまった”“金や欲得から開放された純粋な愛、永遠の愛、そいういうものを求めているわけなのだ”“たまきたんのビジュアルに萌え萌え”“二次元彼女にはまだ、「部屋のごみをすててくれない」「飯を作ってくれない」という弱点が残っている。
 『負け犬の遠吠え』はこう述べています。
 “恋愛体質者も、結婚を望んでいないわけではないのです。が、次々と男は現れるし、もう少しまっていればもっと良い男が現れそう。”“一人の異性から愛され、大切にされ、性的快感も得られ、しかし基本的には何ものにも縛られずに自由”“負け犬はごく普通の「自分よりちょっと頼りがいがあって、自分の仕事を認めてくれる男性」ってやつを求めてるわけです”“一人の異性にとても深く愛されたという証拠が欲しい>”“「一生愛し続けることができる人とだけ、セックスする」”“精神性の勝った恋愛相手を求めているのです。

 同じ言葉を使いながら、どうしてこうも現象として隔絶した存在になり、排斥しあうのか(さらに、自論のなかでも矛盾できるのか)。
 それは、一般名詞としての「性」が語られていないからだと私は考えるのです。

 そして、なぜ語られていないかといえば、それが困難だから、単に難しいばかりではなく、感覚として忌避される(自分が語ることも、他者が語ることも)から、面白(fun)くないからだと考えるのです。
 
 「性」は最も私事性の高い場所に存在します。
 それを、論じる、分析し、一般化することは、冒涜とまではいかずとも、嫌悪感や醜悪感が漂います。
 無粋なのです。
 
 ここで、“粋(いき)”とは何か、「性」を語ることの困難性と意義を“粋”を語ることは無粋ではないのかと言うことに重ねて、次回に続けます。


※)『恋愛論』(新潮文庫)スタンダール著/大岡昇平訳
※1)『対幻想』(春秋社)岡本隆明著
※2)『愛の試み』(新潮文庫)福永武彦著
※3)恣意的:例えば、田中という人を中田と呼んでも、田中という人間の実態はなんとも変わりません。ですから、ものの名前とは実態とは関係なく存在できる、いわばいい加減(恣意的)なものです。しかし、それに甘えて、自分が好きなように呼ぶことを多くの人がしてしまうと、言語は意思疎通の機能を果たせなくなります。目に見えない「恋愛」にはとくにこの恣意性が発揮され、「本当の恋愛とは~」のような言論が為されている、つまり、不当な一般化と裁定が見られます。
※4)『電波男』(三才ブックス)本田透著 『負け犬の遠吠え』(講談社)酒井順子著
 この二つの書籍の引用を見ると分かりますが、恋愛や結婚といった言葉よりも、「性」について、つまり、性交(を結点としての恋愛・結婚)についての考え方、女性・男性のあり方について焦点を合わせたほうが、問題が明確化できます。
 その視点からの分析をせずに、「恋愛(恋・愛)とは~」としても、乱暴な先入観や願望の押し付け合いに終わってしまうでしょう。
 
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by sleepless_night | 2005-10-10 09:53 |

『電波男』は「答え」となりうるのか?

一山の本を前にして、どこから語り始めるべきか決めあぐねています。
 どの本も、本という体裁を備えている以上、それぞれの著書の一貫性がある論旨が展開されているので、それら全てを纏め上げるのは、当然に無理があります。
 
 出だしは道筋を示してしまうので、下手に出すと触れるべきものに触れられなくなってしまいます。
 
 そんな中、逃避的に『電波男』本田透著(三才ブックス)を読みましたので、そのザットした感想でお茶を濁します(細かい本や用語の説明は本論でしますので、省きます)。

 『電波男』は、書き手の持つ才能の鋭さを乱暴に(表出的な力を殺がずに)表現として成立させた優れた作品だと思いますが、論理背景にはとりたてて目新しいものはありません。
 1・2章の資本主義を用いた解説のベースは岸田秀や金塚貞文と同じですし、現状認識も『結婚の条件』小倉千加子著(朝日新聞社)でぶちあけたものや山田晶弘などの家族社会者が通常指摘するものと同じです。
 この作品の真価は新しく突き抜けた価値観が提示されていることです。
 つまり、三次元の世界を見切り(認識により解体し)、二次元の世界で価値を追求することです。
 それは読むものの立場によって大きく感想を分かつもの、一般的には単純な退却のように認識されるかもしれないものです。しかし、論理背景がしっかりとしているので説得力があり、暴論とは言わせないだけの力があります(但し、各論的な記述には一貫性を欠く部分が見られます)。
 同じような語り口で優れた作品である『もてない男』小谷野敦著(ちくま新書)も新しい価値観を示しており、スマッシュヒットをした作品ですが、その提示された価値観は『電波男』のように新しい地平を展開させるのではなく、現在ある地平を降りてしまっただけ(できないなら諦めろ)で終わらせたために『電波男』程のインパクトに欠けるもの(つまり、『電波男』にまで行き着く前段階の提示に留まった)だと思います。
 『電波男』でも槍玉に挙げられている『負け犬の遠吠え』酒井順子著(講談社)とは、言うまでもなく比較になりません。比較すべきではないし、できるほどのレベルに『負け犬の遠吠え』という作品は内容・完成度が達していません(『負け犬の遠吠え』はそもそも、雑誌の連載ですから、一冊の本として掲載紙の読者以外に読ませるだけの質を確保していません。ですから、単品の本としての文脈で読まれるべきでも、比較されるべきでもありません)。
 『電波男』はオタクを自認する著者によって書かれていますが、オタクとして教壇に立った岡田斗司夫の思想(現実を見極め、見合ったレヴェルで、欲望を消化する)を突き抜けてしまいました。
 これは恋愛における構築主義を現実に突き詰めてしまった思想です。
 対極にある、恋愛における本質主義を否定するのではなく、その思想対立を止揚してしまった(構築主義的な社会認識を突き詰めることで、本質主義的な恋愛を受容可能にしている)ものだとも言えるかも知れません。
 
 それが希望の地なのか分かりませんが、一つの大きな「答え」であることは間違いないでしょう。
 今までは、ジェンダー論を通した「答え」がオーソドックスなものでしたが、『電波男』はそれに対抗できる新しい「答え」を出してしまったとも言えます。
 但し、それにもオーソドックスな「答え」と同様に本質主義的な視点からの疑義は成り立ちます。
 そして、それこそが最大とも言える難問です。
 ますます、難しくなりました。


追記:酒井順子さんと本田透さんは鏡面のような存在に思えます。どちらも、非常に自己評価が低い(そして、両者ともその自己認識がある)のですが、酒井さんは補償的に他者の視線による承認を過剰に求めると同時に安全策としての自己慰撫的思考を保ち、本田さんは他者の作る社会から十分に痛手を受けたので社会自体を解体し脳内で価値を保存しようとしていると解釈できます。お互いに理解しあえれば理想なのでしょうが、それには、酒井さんが安全策を放棄するか、本田さんが価値を放棄するかしなければならないので、不可能に近いでしょう。現状では、お互いに鏡に向かって「こっちに来いよ」と叫びあっているように見えます。どちらも、実際の他者に向かわせるべき視線が鏡に跳ね返り、自らに向かっている。酒井さんは言うまでもなく、その鏡に映る(反射によって他者化した自分の視線で)自分の姿(~を身につけ・~の価値が分かっている自分)に萌え、本田さんは反射した視線がそのまま頭蓋骨を貫通して脳内に達して萌えている。

それでも両者は基本的には異質な人間ではなく、“負け犬形成に欠かせないもう一つのエッセンス、それが「含羞」です。中略。負け犬からすると価値犬というのは人生のある時点で一回、結婚という目標を達成するために、恥を捨てた人間です。中略。負け犬には、それらの行為がはずかしくてできません。”と“「何か知らんが、生きているからには恋愛しなくてはならない。目の前に異性がいる。全く持って愛情のかけらも感じないが、異性であるからには口説いてセックスしなければならないのだろう」という強迫観念によって発生したとしか思えないYO。中略。俺は夜空に誓った。俺はこんな「恋愛しているふりをするための恋愛はしない」”と言った生真面目な(自分へのこだわり)点や、“一見なんの変哲もない黒のニットは極上のカシミヤで、えりぐりの開き方は、他人の視線を少し惹くものの扇情的過ぎないという絶妙さ。パンツの裾丈は、靴のヒールの高さにぴったりあっていて、おっと時計はフランク・ミューラー(それも本物)だし、パンツもブラジャーも、デートの予定がない時だって上下そろいの色(ピーチ・ジョンではない!)。中略。ジミー・チューの靴を履いた負け犬のセンスのよさにぐっと来るような気の利いた男性は、日本には(そして多分アメリカにも)殆ど存在しないのです。”と“この沢村優羽ちゃんってのは俺の脳内でのピッチャーで、父親がロシア人か何かのハーフで背が170センチくらいあって、手足は小林繁みたく補損だけど、耳がでかくて、デコがかわいくて、かわいんだYO。母子家庭で育って幼い頃に母親も亡くして、以来ずっと学園の寮で一人ぼっちで生きてきた、・・性格は弱気でおどおどしているんだけど、実は大ボケをかますタイプで、意外とシニカルで、とか。”と言った詳細にイメージを追求しようとする点から、気質的には同じだと思えるのです(そのイメージを、酒井さんの場合は自分の外面に投影させ、本田さんは脳内に影像を映している。場所の違いはあっても、行動・姿勢は同じ)。
 ただ、繰り返しますが、作品のとしての完成度は、『電波男』がはるかに高いです。『負け犬の遠吠え』が詐欺的なのか、『電波男』が安すぎるのか分かりませんが、その差が30円というのは信じ難いものがあります(おそらく『電波男』が安すぎるのだと思いますが、これが400ページというヴォリュームに見合った2500円~の値段にすれば、作品への読者への姿勢を自ずから正してしまい、単なる重苦しいルサンチマンに催された男の告白だと感じさせてしまうでしょう)。
 難点を言えば、本田さんの思想にはまだ「萌え道」となるだけの静謐さ・美しさが感じられません。しかし、それは戦わなくてはならない革命思想ですので仕方のないことです。もし、「道」となるだけの美しさが文書に備わっていれば、古典となるうるものだと感じます。
 また、このような作品は著者の人生・生活に、作品としての力が大きく依拠しているので、所謂「アガリ」のようなことをしてしまうと、作品がはしごを外された形で放置されしまう惧れがありますので、今後の展開によっても作品の評価が変化するでしょう。 

さらに追記:この本のおかげで、DQN(ドキュン)や毒男や喪男の意味が分かったのですが、「蛇っ」とののしるのはなぜなのかがまだ分かりません。
 
 『電波男』の問題点は、問われるべき(求められている)「愛」の内容や定義についての吟味がなされていないことですね。構築主義的な態度を貫徹しようとするなら、そここそ問題にされなければならないにもかかわらず、流されています。もちろん、そこを論じると本のバランスや趣旨から外れてしまいますのでダメだとは言えませんが、欠如感は否めないです。

 酒井さんの提示した「負け犬」は、本田さんの言う恋愛資本主義という構造で敗北をしながらも、その構造を支える価値を放棄できない、むしろ、その価値に殉じているために構造に囚われてしまっていると考えられます。そこを上手く解決できれば、「萌え」の共同戦線を作れるのではないでしょうか。
 さらに、本田さんの言う「オタク」は、「負け犬」萌えとはならないのでしょうか。
 確かに、妄想の材料としての現実の制約から「妹萌え」を開発したことを考えれば、「負け犬」に萌えることはできないのでしょうが、“萌えの超回復理論”と“弁証法的発展”を組み合わせれば、「負け犬」萌えこそが要請されると考えられます。
 「オタク」と「負け犬」の上記した親和性、共通の価値追求の姿勢を考えれば、両者が結びつかない(共同戦線を形成しない)というのはもったいないことだと思います。

 日本の社会には深刻な思想の対立構造がないことが、政党政治、政策による政党の峻別を阻んできた一因と考えられますが、「オタク」と「負け犬」が共同戦線を形成できれば、現在の主流から阻害され、新たな社会像を描く集団として機能できるのではないでしょうか。
 
 
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by sleepless_night | 2005-10-03 23:26 |