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“「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ。」と鳥はいった。「個人的な体験のうちにも、一人でその体験の洞窟をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般に関わる真実の展望の開ける抜け道にでることのできる、そういう体験はある筈だろう?その場合、とにかく苦しむ個人には苦しみのあとの果実が与えられているわけだ。暗闇の洞窟で辛い思いはしたが地表に出ることができると同時に金貨の袋も手にいれていたトム・ソウヤーみたいに!ところがいまぼくの個人的体験している苦役としたら、ほかのあらゆる人間の世界から独立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいることにすぎない。おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛ではずかしいだけの厭らしい穴掘りだ。ぼくのトム・ソウヤーはやたらに深い竪穴の底で気が狂ってしまうのかもしれないや」。”
                『個人的な体験』(新潮文庫)大江健三郎著

 人間の人生は、この“個人的な体験”というものによって形成されてはおらず、かといって“人間一般にかかわる真実”によって形成されているわけでもない、まったく中途半端なもののように思えます。
 なにによって形成されているかに関わらず、大江さんのような才能によってならば、“人間一般にかかわる真実”を表すこともできるでしょう。
 しかし、世の大多数の人間はそうではないと思います。
 少なくとも、私がそうではないことは確かです。
 
 エキサイトのブログだけでも約40万人、そのほかを含めると約300万人がブログという媒体を通じて何かを表現している。
 その中には、今までなら公に出ることはなかったであろう優れた書き手、知られることがなかったであろう情報があり、そして今までにはありえなかった影響力があります。
 しかし、ブログの相当数はそうではないと思います。
 少なくとも、このブログはそうではありません。

 そうではない人間の、そうではないブログとは何なのか。

 このブログは私的なまとめを主な目的としています。
 公の可能的読者の存在から得られる緊張感によって、最低限の内容を維持する意図でブログという媒体を利用しています。
 いわば、中途半端な“不毛ではずかしいだけの厭らしい穴”です。
 
 表題に関係する時事についても随時に触れています。
 公に表現している以上、“ほかのあらゆる人間の世界から独立している自分一人の竪穴”とはなれないからです。
 特にブログという媒体は、繋がることで完成されるというネットの特性がTB機能によって明確に構造化されているものだと考えられます。
 今回の大峰山の件は、表題の性・宗教・メディア・倫理の全てに、これ以上ないほど関係しています。
 そこで、“不毛ではずかしいだけの厭らしい穴”から砂粒を投げるような記事大峰山「炎上」についてを書き、検索でヒットしたブログにTBさせていただきました。
 
 いかなる意図であれ、公に表現していることを忘れて書いたことはありません。
 “許された危険”とネットの匿名性で述べたように、匿名であれ、責任は問われます。
  
 
 マスコミを揶揄してマスゴミと呼ぶ人々がいます。
 そうではない人間の、そうではないブログは、マスではないゴミ、ゴミのゴミとなる可能性が多分にあるでしょう。
 
 この中途半端な“不毛ではずかしいだけの厭らしい穴”がゴミのゴミで埋まらないよう、そうではない人間の、そうではないブログとしての分を尽くして“穴掘り”を続けたいと思います。
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by sleepless_night | 2005-11-20 08:14 | 倫理

区別と差別

 今回の大峰山の件に限らず、ジェンダー・フリーに関係した内容を含むブログの中に、「差別ではなく区別だ」という言葉を見ることがあります。
 「差別ではなく区別だ」という言葉が、何らかの差異的な取り扱いを肯定する理由に使われているのです。
 そこで、引っ掛かりを覚えるのが、「差別ではなく区別だ」との言葉を用いられているのに、差別と区別の関係が示されておらず、何をもって差別と区別を判断しているのかがわからない点です。
 正直、それを言えば済むと思い込んでいるようにも感じ取れる用い方をしている方いらっしゃいます。


区別がないところに、差別はありません。
正確には、違いがあるから、区別され、区別されるから差別されることがあります。

ただ違いがあれば区別がある(区別される)かと言うと、そうではありません。
例えば、血液型です。
「血液型、なに型?」と質問されると通常は、A型なり、B型なりとABO式で回答するでしょう。
しかし、血液型占いに反論するモテないのか?で述べたように血液型は公式でも40種、非公式では約400種あります。
つまり、血液にはそれだけの違いがあるということです。
ではなぜ、一般には、ABO式という違いだけが、区別として認識されているのか。
それは、既述したように、ABO式血液型が輸血において重視される血液型の一つだからだと考えれます。
つまり、違いがあれば、常に(区別を認識され)区別されるとは限らず、(その人にとって)認識されることを必要とする重要な違いがある場合に、区別されると言えます。

ABO式血液型は確かに区別です。
それならば、ABO式血液型によって、例えば、通ってよい道を指定された場合はどうでしょうか?
「それはABO式血液型という区別によるのだから、差別ではない」のでしょうか?


 
 まず、区別が差別となる基準を考えてみます。
 区別とは違いがあることを前提にしていると、上述しました。
 違いがあるものを同じく扱うことは、不合理であり、有害性も生じます。
 ABO式血液型という区別も、輸血による危険を少なくするためです。
 そこで、合理性がある場合を区別、ない場合を差別と考えます。

 では、ABO式血液型という区別によって、通る道を指定することは合理的なのか? 
 まず、なぜ通る道をABO式血液型によって指定するのか、目的を知る必要があります。
 単純に好き嫌いなのか、A型の人の生命には危険な病原体があるのか、O型の人は通さない習慣なのか?
 さらに、ABO式血液型によって通る道を指定する、その指定の態様を知る必要があります。
 指定はどの程度の強制で行われるのか、指定に他の条件はあるのか?

 合理性の観点から、目的と態様は相関関係にあると考えられます。
 重要で必要不可欠な目的があるのなら、それだけ厳しい態様の指定が許されます。
 目的の重要性が低く、根拠薄弱ならば、それだけ軽い態様の指定しか許されません。
 (許される=差別ではないといえる)

 仮に、その道を通って人に病気が頻発していて、調べてみると、ABO式血液型と事故にあうリスクが関係していることが分かったため、勧告と誘導によって指定した場合だとします。
 
 そうすると、目的は重要だと考えられます。
 そして、態様は勧告・誘導で巣から、強制力もそれほど強くありません。
 重要な目的のためですから、この態様は許される範囲として合理性があると考えられます。
 つまり、これは差別ではないと考えられます。

 ところが、さらに続けて調べてみると、ABO式血液型と発病のリスクの関係に疑いが出て、ABO式血液型ではなく出身地域と関係があることの調査結果が出てきた場合はどうなるでしょう?

 目的は変わりませんが、ABO式血液型という区別によって道を指定することの根拠が非常に弱まっています。
 ということは、勧告・誘導とう態様に合理性が認められるか疑問が生じることになります。
 そこで、ABO式血液型と病気の関係が少しでも残っているのならその旨の情報を提供して、あとは通行者の判断に任せ、代わりに出身地によって勧告・誘導することが合理的だと考えられます。
 もし、ABO式血液型とは関係がない・極めて薄いと証明されたのにもかかわらず、道路の指定をとかなければ、差別となると考えられます。


 このように、区別だから差別ではないというのは、それだけでは、何も言っていないことが理解されると思います。
 区別は、差別かどうかを考えるスタートでしかないと言えます。


 大峰山の女人禁制に限らず、「差別ではなく区別」と口にして済ませる前に考えてみるべきだと、私は考えます。



追加) 
 なお、合理性ということについて、なにを「理」とするかには争いがあります。
 しかし、特定宗教の観点から女人を「穢れ」とすること、1300年続いてきたことに「理(ことわり)」があるということで、この件の女人禁制は片付けられません。
 多様な思想・宗教のある社会で、どうすれば人々がそれぞれの「理」を実現できるのか、なにが確実な「理」かが分からないなかで、一応の回答として、日本社会は自由主義を採っています。
 その価値観に則って憲法があり、法律があります。
 
 ですから、私は法的にはどうか?を考えました。
 それは、伝統や宗教がどうでもいいから、法律が全てだから、という考えからではありません。
 多様な伝統・習慣や思想・宗教をもつ社会では、私を含めこのようなことにあうかもしれません。
 明日は、わが身です。
 わが身を守り、わが身がある社会を考えて、法律を使うことを考えます。
 女人の「穢れ」という思想を持つこととは別に、そのような思想を持つ人も含めての多様性をどう成立させるのか。
 私がその思想に反対するとしても、その思想を持つ人と、同じ社会で暮らす、お互いができるだけ幸せであるためにはどうするべきか、どこを譲り、なにを得るのか、止まることのない時間と社会の中で、どこに一応の解決を見出して進むべきか。
 それを考えたつもりです。

 伊田さんや今回の「プロジェクト」の方のやり方には大峰山「炎上」についてで述べたように、下手な・おかしな点が多々あります。
 しかし、少なくとも、お互いの考える「理」の内容とは何で、どうしたら上手く両立や止揚できるかを考えようとしている姿勢はあると思います。
 伊田さんの質問書の内容は、相手の「理」を正確に把握するためのものだと解釈できます。
 それをするまでに必要だと考えられる手順をすっ飛ばしているのですが、内容はふざけているものでも、無意味でも、ないと私は解釈します。


合理性についての関連記事⇒「心の闇」も占うのか?

一般ということについて。
「性」の世界へなどで既に触れているのですが、軽く私見を述べます。
 一般用語というのは便利で簡明なものを意味するものではなく、むしろ一般という抽象的な言葉に覆われた恣意と錯綜に議論や対話が犯されるリスクを宿した言葉だと考えます。
 科学、平等、伝統、性、これらは確かに一般用語、日常に語義を限定されずに用いられる言葉です。
 日常会話でそれを突き詰めて話を進めることはまれかもしれません。
 しかし、もし、自分が重要だと思ったり、何かを自らの表現で伝えたいと考えるなら、一般用語が胎するリスクは看過されるべきではないでしょう。

 小学生には、小学生に分かるように話されなくてはなりません。
 しかし、小学生ならぬ身なら、小学生ならぬ身として話すべきというのも同様です。

 例えば、今回の「差別」ということに関して述べてみますと。
 義務教育で最低2回は憲法について学ぶ機会が保障されています。
 一般、日常で「差別」だと思うことに出会った時、司法という国家権力による裁定が私達の日常にはあることも学びます。
 つまり、私達が「差別」という言葉を使えば、そこには憲法が不可避的に存します。
 同じく義務教育で最低3年間は英語を学習します。
 同じ物体・現象に囲まれても、どう切り取るか、切り取ったものをどう体系化して理解しているかというのは違うという言語学の初歩的な知識を学びます。
 憲法学、言語学に限らず、専門的な学問は一般や日常と隔絶して存在しません。
 学問は一般や日常を精確に理解し、考えるために(も)あります。
 最低でも義務教育の9年間、そして9割の進学率がある高校の3年間は、専門となる学問への準備に向けられたものです。
 小学生ならぬ身ならば、それを分かっていることになります。
  
 一般用語を一般用語として(を分かって)用いるのは当然宜しいでしょう。
 むしろ、一般に用いられる言葉をあえて語ることでの精確な理解は、このブログで試みていることでもあります。
 しかし、一般用語というのが、無知や怠惰を意味するならば、それを用いることは首肯できません。
 「性」を語ること、「いき」を語ること。で述べたように、「いき」と「いきがる」は違います。
 
 ジェンダー・フリーの結果として男女同室での着替えがあるというのはデマである可能性があること,本当だとしてもそれはジェンダー・フリーという観点からも批判されていることも当然知っておいて然るべきです。
 http://blog.livedoor.jp/suruke/archives/17335186.html#trackback


感情ということについて。
 区別と差別の違いを掘り下げても、当事者の気持ちは理解できない。
 それは当然です。
 私は当事者ではありません。
 皆が当事者になる必要もないし、なれもしないでしょう。
 明日はわが身ということは、わが身である前提に踏みとどまり想像し・考えるということです。
 それは、現にこの当事者ではない人間が当事者のように振舞うことではないと、私は考えます。

 “(当事者)の気持ちを本当に共有して悲嘆にくれる人が、日本全国で何人いるのだろう?殆どの人は悲しみや苦痛などを共有していない。憎悪だけだ。肉を買ったと申告さえすればあぶく銭をもらえると期待した市民達がスーパー側に拒絶されて、「ふざけんなよこの野郎」と罵倒する程度の憎悪だ。明確な射程などない。冷静になれば自分が何に対していきどおっているのかさえわからない、その程度の憎悪だ。でも、その程度だから怖いのだ。”※
  
 「差別ではなく区別だ」という言葉を目にして、その使われ方の幾つかに疑問を持ち、それを整理しておこうと意図してこの記事を書きました。
 もし、同じ疑問や判然としない感をお持ちの方がいらして、この記事をお読み頂き、何らかの参考にしていただければ嬉しく思います。
 また、「差別ではなく区別だ」とお考えになり、その旨を公(※1)で述べる折、「『差別ではなく区別だ』と言えば済むと思っている人いる」と思う人間もいることをお心にとめていただき、いかに判断したかを論述するお手間を掛けていただけますと、「区別ではなく差別だ」と判断する人間にも説得的な言となりうると思われます。
 同時にそれは、「『差別ではなく区別だ』といえば済む」という安易な態度に、外観の類似性によって不本意に与する形となることを防ぐことにもなるかと思います。
 

 感情なき論理は空虚です。
 しかし、論理なき感情は暴力を導きかねません。

 

※引用部。カッコ内は原文を変更。 
※1特定の多数人、若しくは不特定の人間に対して。
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by sleepless_night | 2005-11-13 20:30 | 倫理

大峰山「炎上」について

 世界遺産に含まれ、修験道の修行場として女人禁制を現在でも維持している大峰山に、伊田広行(大阪経済大学教授訂正:立命館大非常勤講師)とトランスジェンダーなどの性的マイノリティの人々が登ろうとした(以下「大峰山に登ろうプロジェクト」)件について、気になった点を述べておきます。

 参照 伊田広行さんのブログ http://www.tcn.zaq.ne.jp/akckd603/page5.html
     内田樹さんのブログ http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1355
朝日新聞http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200511040017.html

 「大峰山に登ろうプロジェクト」の概略。
 大峰山が女人禁制を維持していることに対し、禁制の開放やそのための問題提起を目的として、性別を問わずに様々な人々との大峰山登山を企画した。企画意図を理解してもらうために予め31項目の質問・提案書を大峰山の寺院に送付したが、寺院は登山中止を求める以外の回答をしなかった。登山予定日の11月3日に企画参加者35名が登山口に集まった。地元住民で信徒の男女約100人も集まり、35名に対して伝統や信仰を根拠に入山をしないように要請した。信徒男女100人いたが応対したのは総代で区長の桝谷源逸さん一人で、他の人とは話ができなかった。質問・提案書も住民へは渡せなかった。議論が成立しないまま信徒側が解散。企画参加者のうち3人が入山した。

(1)個人的領域と自由主義の問題。
 ① 大峰山には公道が通っており、その道を女性であることを理由に通行することを制限することは許されるのか。
 寺院敷地内や寺院や信徒所有の土地内に、女性が入ることを伝統や信仰によって制限することならば、憲法20条と22条1項の対立、14条違反の問題と解釈することができる(正確には、私人間の紛争なので不法行為の内容として違憲性を考える)。
 しかし、「大峰山に登ろうプロジェクト」は公道がある大峰山を登ろうという企画。
 したがって、法的には住民信徒側には女性の入山を制限する権利は認められない。
 よって、もし法的に争うことを考えるならば、寺院や信徒住民には、所有敷地周囲についてまで自己の伝統や信仰を根拠とする権利を主張できか否かが問題となる。
 ここでそのような権利として、村落などの地域共同体が伝統的・慣習的に河川や漁場や山林を利用することを法的に認めた入会権が考えられる。
 しかし、入会権は財産的な権利であって、伝統や信仰などの思想・感情をもって所有権のない財産の排他的な利用を保障するものではない。
② 仮に信仰や伝統の類似的入会権が認められたとしても、その権利をもって女性であることを理由に一律の入山禁止を主張できるか。
 信仰は憲法20条1項によって保障され、その権利は憲法上きわめて尊重される地位にある。
 そして、信仰の内容、是非については法律が関与するものではない。
 しかし、信仰の権利といえども、多様な思想信条を持つ多数人が構成する社会にあっては無制限なものではなく、対立する権利との間で制約を受ける。
 さらに、既述したように、問題となっている場所は大峰山の寺院・住民信徒の所有地ではなく、信仰や伝統を根拠とする類似的入会権によって保護されるにすぎない。
 また、伝統についても、伝統を伝統であることのみに以って擁護することはできない。
 結論を理由に用いては、理由を述べたことにはならない。問われるべきは伝統か否かではなく保護されるべき伝統か否かという内容についてであり、これは多くの伝統は伝統となり維持される過程で変化をしてきていることでも理解される。
 つまり、類似的入会権という権利を認めた上でも、権利の性質から考えて、同権利の行使には多分に制約があると考えられる。
 制約の基準としては、類似的入会権の維持に不可欠か、権利の行使が他の権利を相当程度以上に制約するものではないか、の2点が考えられる。
 女性を一律に入山禁止とすることが信仰や伝統の核心から見て不可欠かについては、大峰山の寺院・住民信徒側はその理由を可能な限り提示する必要がある。
 その際に、男性であれば娯楽目的でも入山できている現状をいかに考えるのかも示される必要がある。
 また、過去に部落出身者の入山を禁止していた伝統があったなら、その点について現在は開放しているにもかかわらず、女性の禁止を解かないこととの関係も示される必要がある。
 これらを示せた上でも、世界遺産・国立公園としての公共性、公道(入山)の一律の通行禁止という措置が類似的入会権の保護を超えていないかは疑問といわざるを得ない。公道を女性が通行することを一律に通年で禁止する権利を一宗教法人やその信徒に認めることまで法的に認めることは、憲法20条1項の「特権」を与えることに該当する可能性がある。
 類似的入会権の行使として相当程度に入るのは、女性が露出の多い格好をしないことや、時期・時間帯を制限すること、みだりに声を出してはいけない場所を定めること、が限度だと考えられる。
 14条については、(3)で述べておきます。


 (2)「大峰山に登ろうプロジェクト」の疑問点。
 ①目的と手段。
 大峰山の寺院や信徒住民に向けての質問・提案書の内容には、やはり問題がある。
 何が問題かというと、質問・提案書を読む側が理解・受け入れられる知識・情報を考えて書かれたものだとは、とても思えない点です。
 まず、妥当だと言えるのは以下。
 質問1(女人禁制の理由、伝統となった理由の質問)
 質問13(過去の部落出身者の入山禁止を解除した理由)
 質問15(登山やハイキングなどの男性入山と女性の一律禁止との整合性)
 質問28(一部公道である登山道の交通を制限することの問題)
 質問29(女人禁制に関する関係者の意識把握)
 質問30(禁制解除の条件)
 質問31(意見交換・勉強会の提案)
 
 これ以外がなぜ妥当ではないと考えるのか。
 質問2~12で性別変更・性自認・女装男装・閉経に関係した質問。
 質問14で犯罪者・異教徒・障碍者に関係した質問。
 質問16~18で修行者のセクシュアリティに関係した質問。
 質問23で人間以外の生物のメスについての質問。
 質問24~26で宗教と差別に関係した質問。
 は、問う者と問われる者との間に一定の信頼関係や友好関係ができて、表面的な言葉尻を捉えあうことがない段階でなければ、質問の実りはないと考えるからです。

 質問2~12について、性別変更や性自認の問題を持った人がいて、その人と信徒住民や寺院の関係者が接して、話ができた上で為されなければ、問われた相手は言葉や思考の遊びやいやがらせにしか思えない可能性が大きいことは想像に難くないはずです。
 信徒住民も寺院関係者も人情はあるし、人が人と話せば情は湧くでしょう。
 どうみても女性だと思い、女性と話していると思ったのに、実は男性だったと言われれば驚いて事情を知りたいと思い、問いかけるでしょう。手術もして、戸籍も変更したといった話や、その過程の苦労を知れば共感や理解への動機もおきる人は少なくないはずです。
 しかし、そういった手順を抜かして、いきなり自分の事情に立った質問をいくつもぶつけられれば、理解できない部外者としか受け取らないのは無理もないことだと思います。
 相手にしているのは、大学で社会学を学んだ人間ではなく、変化が穏やかで慣習が残る地域で父祖の代からの知り合いに囲まれて生活してきた人たちではないでしょうか。周りには、性別変更をした人や、自分の性自認に苦しんでいる(それを表明している)人はいなかったでしょうし、ジェンダーという言葉さえも知らないかもしれません。
 
 質問16~18で修行者の性生活や山内での性行動についての質問も、会話もできない相手にしても実効的なものだとは考えられません。
 いくら質問する側がセックスやマスターベーションを恥ずかしいことでもないと考え、真面目に問いかけても普通に答えが返ってくる可能性は低いことは想像に難くないでしょう。
 相手は、社会学を勉強した人間ではないのです。
 セックスやマスターベーションの話は、飲酒でもしてふざけてはなす程度でしょう。
 普通の人と、しらふで性の話ができる関係になるまでに、どれだけの時間が必要かを考えているとは思えません。質問23は、補足説明が無ければ馬鹿にしているのかと、多くは受け取るでしょう。 
 質問24~26は、大峰山に限らず、宗教にとっては厳しい問題です。
 寺院の関係者にそれをぶつけるのはよいとして、一般の信徒へぶつけることで何ができるのでしょうか。地域の伝統と深く結びついている(宗教というよりも宗俗に近い)だけに、信仰を選び取った場合と同様に自覚的に宗教問題を考え・学んでいる割合は少ないのではないでしょうか。
 一般の信徒もこれらの諸問題を知る必要・考える必要はあります。
 しかし、話もしたことがない人から聞かれて直ぐに答えられるものでも、考えようと動機付けられるものでもないでしょう。

  達成したい大切な目的があるなら、どうして、目的の重要さに比例した慎重さを手順にかけなかったのか疑問です。
 話がしたい、対話のきっかけとしたいというのなら、どうして時間をかけて融和的な状況を作らなかったのか。現状がいかに「間違った」ものであっても、それを直ぐに変えることはできないし、現状に生きている人たちにはそれなりの居心地のよさや安心感があります。「大峰山に登ろうプロジェクト」の考えはそれらを脅かす内容なのですから、せめて手段や手順は安心感を与えるようなものであるべきだったのではないでしょうか。
 この質問・提案書の内容では、踏み込みすぎて、相手を萎縮させてしまう、考える精神的余裕を与えずに退却させてしまうとは予想しなかったか。 
 あせらなくてはならない問題があったのか。

(3)対応
 寺院や信徒住民側の対応について。
 まず、寺院は(2)で妥当とした質問、さらに宗教者として質問24~26には答えを出さなくてはならなかったはずです。
 宗教の内容も形式も、宗教の定義にいまだ争いがあることを考えれば、独自のものであることはなんら問題がないが、宗教法人としての公的性質や公道の通行を制約していることを考えれば、誠実な専門家としての対応をしなくてはなならなかった。
 現在、さまざまな地域の宗教の現場では、これに類した問題が生じていることは、少なくとも寺院の代表や公報担当は知っていなくてはならないし、それが決してふざけたものではないことも理解していなくてはならないはずです。
 また、観光の資源として女人禁制を維持したいとう気持ちが微塵でもあるのなら、その口から出される「信仰」や「伝統」に、フジテレビ・ニッポン放送が持ち出した「公共性」へと向けられたのと同じ嘲笑が浴びせられて然るべきです。
 信徒住民には、(2)で述べたように、同情を感じる部分もあります。
 しかし、区長のような公職にあるものが、「差別ではなく区別だ」といった程度の認識で「プロジェクト」の訴えを流したのならば是認されるべき態度ではないと考えます。(補足的な説明⇒区別と差別
 「差別」と「区別」の違いを、憲法14条の解釈と重ねて考えると、「差別」とは14条違反の差異的取り扱い、「区別」は合14条の差異的取り扱いだと考えられます。
 つまり、平等原則を定めて「差別」を禁じた14条が示しているのは、一切の差異的取り扱いを禁止ではなく、不合理な差異的取り扱いの禁止です。
 そして、例示された「人種、性別、社会的身分、または門地」による差異的取り扱いは、歴史的に理不尽で苛烈な差別の結果を生み出してきており、これらを基準とした差異的取り扱いは不合理であり「差別」である蓋然性が高いことを示しています。
 大峰山の女人禁制は、男性については条件を課していないことから、性別のみによる一律の通行禁止で、「差別」に該当します。
 それをわかっている、議論をすれば分が悪いとわかっているから、対話をせずに、ひたすら頭をさげて済ませようとしたのでしょうか。
 しかし、それは何も解決しませんし、正面から向かい合って相手の意見とぶつかり合って自分の意見を確認・発展・修正していかなければ、これからも同様の問題で同じように頭を下げ続けることになります。放置は衰退を自ら招くようなものです。
  

(4)反応と誤解
 この件への反応に限らず、フェミニズムやジェンダー論には感情的な反発と曲解が多く見られます。
 事実ではない事例をジェンダー・フリーの結果だとしたり、ジェンダー・フリーを誤解したり都合よくつかう人を見てジェンダー論自体に怒りを転嫁させたり、ラディカルな議論を見てジェンダー論の全てを却下しようとしたり、何を怖がっていのか分かりませんが、落ち着いて情報を集めて考えた形跡なく反射的に否定しようとする人がいます。 
 それは、偽ブランドを見てそのブランド自体を非難したり、間違った着方をして動きずらいと怒ったり、ファッションショーの衣装を見てその非現実さをあざ笑うことに似ています
 その悲惨な状態に、この拙いやり方が加担してしまったのではないか心配です。
 不安定化する経済環境の中、多様な価値観や不透明な人間関係に対して、自分の不安感を慰撫し、強い自分を思い描こうと、幻想によって虚飾された過去の記憶にすがる人。自分が恩恵を受け、都合のよい部分だけを使おうとする人。
 そんな人々に、格好の誤解と曲解の材料を投げ与えてたことにならないか。

 (4)展望
 若い世代の女性の住民の中には、比較的、「プロジェクト」の話を聞こうという意思や興味のあるひともいるのではないでしょうか。
 今回も、一人だけ、区長が解散を発した後も呼び戻しにこられるまで10分ほど残って話をした女性がいたようです。
 時間とやりかたを考えれば、そのような人はすこしずつ現れるはずです。
 その人たちが、少しずつ増え、家族や友人へとゆっくりと広まった時、今回「プロジェクト」側が出したような質問や提案が信徒住民や寺院の主だった人・決定権や影響力のある人にまともに受けられるようになるのではないでしょうか。
 
 それは寺院にも信徒住民にも決して悪いものではなく、信仰の意味を問い直し、より豊かな伝統へとつなげるきっかけとすることができるのではないか。
 
 “世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい”
 
 そう信じたいと、私は願います。



 と長々と書いてみて、この件の要点は公道を制限していることで、結論としては(1)の終わりで示した妥協点を探ることだと思います。
 宗教内部の問題(当該宗教思想としての女人の「穢れ」)は全く別に、教学を中心に宗教学的問題として検討されなくてはなならないので、今回の件とは一応の区切りを設けなくてはならないでしょう
 
 それにしても、どちらかといえば大峰山の寺院や信徒住民の方が「悪い」ことをしている、権利を「振り回している」ように考えられるのですが、逆に、相手方がひどい叩かれ様です。
 「伝統」への造詣と愛着が深い方が多くいらっしゃるのでしょう。
 この方々の熱意によって、大峰山から観光客など不埒な存在はおいはらっていただけるのでしょう。 



追記) 私有か否か。
 問題となっている山上ヶ岳の道の所有権が、どこに属しているのか確実な情報を私も持ちません。
 概略は伊田さんのブログの記述、大峰山女人禁制の開放を求める会のHPの情報を前提にしております。
  なお、公道とは、所有権がなくとも、管理権が行政側にあれば公道となります。
  (会のHPの「開放の歴史」では“2004年6月 奈良県議会で「大峰山女人禁制」問題を女性差別の視点で質問。さらに、禁制区域が公道であり、道路法違反と追及。”とありますので、会は問題の登山道が道路法上の道路として公道だと認識していると考えられます。つまり、所有はどこであれ、管理権は行政側にあると認識していると考えられます。道路法4条は“道路を構成する敷地、支壁その他の物件については、私権を行使することができない”としています。 但し、この点について、道路法が一般法であり、国立公園内については優先される特別規定があるのかもしれません。 )
   
 また、言うまでも無く、国立公園であることから、その管理には、道路補修も含めて、税金が使われています。
 したがって、(1)で述べましたように、私有地の時こそ権利の対立が明確に成立することになると考えられます。
 公道の場合は、(1)②で仮定したような類似の権利を無理やりひねり出さないと、寺院・信徒住民側の主張は法的に通りえないと考えます。
 (伊田さんのブログには“区長が、「私たちはとにかく登らないでほしいということは伝えました。後はあなたたちが登るのを実力でとめるようなことはしません」との旨の発言をして、「さえ、皆さん、引き上げましょう」といったようなことを言って、地元住民みながいっせいに帰り始めた”とあります。なぜ、信徒住民側が口頭要請だけ伝えて、実力を用いようとしなかったのか。邪推ですが、この対応は訴訟を可能にさせてしまわないためとも考えられます。つまり、女性に登山をさせないことを違法だとして訴訟を起そうとしても、登ろうと思えば登れる状態にしておかれると、裁判によって実現される利益がないことになると考えられ、訴えても裁判所は判断をしないことが考えられます。)
 
 

 
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by sleepless_night | 2005-11-10 21:19 | 宗教

血液型占いが無くなる日

 前回、“血液型占い”が話題として出された場合に、どういった対処をすることが適切で有効なものかを述べました。
 しかし、このような対処法を考えるまでも無く、社会の変化によって広義の“血液型占い”に含まれる血液型性格判断は廃れる可能性が高いと私は考えます。
 
 推測の理由は、血液型性格判断が日本や韓国などのごく一部の国でしか広まっていないことと関係します。
 日本などのごく一部でしか血液型性格判断が浸透していないのは、他の多くの国・地域では、血液型という調べなくてはわからない程度の差異よりも見てすぐにわかる外見の差異(皮膚・目・髪など)や、性格の差異以上に深刻で歴史的な信仰による差異があるからだと考えれます。
   
 血液型占いに反論するモテないのか?で述べたように現在の血液型性格判断の発信源である能見は古川竹二のリバイバルを行ったのですが、これが成功し、血液型と性格の関係が広く受け入れられた(ている)のは、血液型占いに反論するとモテないのか? part2血液型占いに反論するとモテないのか? part3で述べたのとは別に、時期的な要素が大きく寄与したと推測します。
 つまり、能見がリバイバルを起こした1970年とは、日本の第二次郊外化が進んだ年だということが寄与したと考えるのです。(※)

 第二次郊外化とは、1950年代から始まった日本住宅公団が発売した団地を生活の場とし、男性がサラリーマンとして稼ぎ、女性が専業主婦として家事育児を担い、電化された家財を消費し、「文化的生活」を営むことを理想とした第一次郊外化の後に来た現象を指します。
 第二次は第一次が「文化的生活」を目指した夢やそれに向かう充実感があったのに比べて、それらがある程度達成され風化した状態を指し、団地のような雑多さが無くなり均一化したニュータウンに象徴されます。
 均一化したニュータウンでは、隣と自分には目立った違いはなく、そのためにかえって小さな差異をつけることに集中する傾向が生じたと指摘されます。
表面上の均一の下で、隣よりもいい車、いい家財を揃えること、隣の夫よりも自分の夫が出世すること、子供を偏差値の高い学校へ入れることに集中する、それも突出しない程度の優位差をつけようとする努力がなされる(突出する違いは叩かれる)。

 血液型性格判断が日本やごく一部でしか浸透していないことが、差異への欲望を消化できる目だった目標の無さに大きく依拠するならば、日本の1970年代は血液型性格判断の発展にとって絶好機だったと言えます。(※1)

 そして、現在、社会が大きく変わろうとしています。
一つは、社会の階層化。もう一つは、人口減少です。

 一つ目、社会が階層化すれば、その階層は目立った差異として、人々の差異への欲望を消化する端的な目標となるでしょう。
上層の人間と下層の人間がはっきりと分化したとして、上層の人間の~型と下層の人間の~型が同じだとされるメンタリティには相当の抵抗が生じるはずです。

 もう一つ、人口減少ですが、これにより人口規模を維持するためだけにも年間数十万人の移民を受け入れなくてはならなくなります。
どんな意識を日本人がもつのであれ、経済を維持することを考えれば、移民を現在以上に受け入れる必要があります。
 そうすると、殆どの日本人が、外見の違いを持った人々、目に見える差異をもった人々と生活で不可避的に接することになりますので、血液型のような目に見えない差異にわざわざ注目する意欲は低減されると考えられます。

 それぞれの人自体に向き合うことで判断するのではなく、偏見やステレオタイプで判断しようとすることは、血液型性格判断が廃れても、次々に対象を変えて存在するでしょう。

 しかし、私は血液型性格判断に向かう時よりも、人種や国籍や階級による偏見やステレオタイプに対する方が気が楽に感じます。
 もちろん、それらが軽いというのではありません。
 結果としては、それらのほうが苛烈です。
 ただ、血液型性格判断があまりに面倒で、うんざりするような固着の仕方をしているのです。

 社会が上記のような変化を見せたとき、「遊び」で血液型性格判断を受け入れる態度、人を「科学的」な差異で判断しようとする姿勢が、どれほど悲惨で低劣な差別行為をさせるのか・させてきたのか・繋がっているのかを、身をもって学ばなければならないのかもしれません。



E・フロムの機械的画一化による「自由からの逃走」に関して⇒「ばらばらにされた一人一人」にできること。
科学の装いをした根拠による差別に関して⇒殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド


※)『まぼろしの郊外 成熟社会を生きる若者達の行方』(朝日新聞社)宮台真司著
※1)能見正比古が血液型性格判断について出版しようとしたきっかけは、師匠である大宅壮一に「血液型をやると儲かる」といわれたからだという大村政男の指摘もあります。
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by sleepless_night | 2005-11-03 09:00 | 血液型関連

血液型占いにどう対処するか?

 “血液型占い”に抗いたい、しかし、抗うことでその場の「空気」を読めない人間だと思われる、野暮な人間だと思われるのが怖い。
 遊びだったり、軽い話題作りなのだから“血液型占い”(当てっこ)をしたっていいじゃないか。
 この場で相手に反論したところで、どうなるわけでもないのだ。
 
 それでも、ABO式血液型で人をどうこう言うことなどナンセンスだし、生得的な要素で根拠もなく人を判断する遊びなどしたくない。
 何か上手い手はないものか。

 そこで戦略のために、前回述べたように、「空気」とその土壌である「水」の流れを理解してみます。

 前回血液型占いに反論するとモテないのか? part3で、山本七平の「空気」と「水」、状況による絶対的精神拘束と日常性の関係を血液型性格判断について当てはめたところで述べたように、血液型性格判断が生き延び得た環境は啓蒙主義と科学の誤解にあると考えられます。
 つまり、ABO式血液型と性格には何か関係があるという“臨在感”を啓蒙主義は単純に否定して「感じるものを感じないと思え」としてしまったために、“臨在感”は実際に何かが存在することで生じているのか、存在していないとすればどうして“臨在感”があるのかということを究明しようとする意識(即ち科学する意識)までも却下してしまったのです。
 そのため、“臨在感”は啓蒙主義が覆う教育課程による侵犯を受けずに温存されました。
 これが血液型性格判断の「空気」を醸成させる「水」の環境原因だと考えます。

 では、その環境因子と組み合わさって実際に「空気」を生じさせるのは何か?
 それは、「水」分子の一部に存在する、つまり血液型性格判断を会話に持ち出したり、血液型性格判断に同調する・受け入れられる人間が持つ認識(認知)という発現原因だと考えます。
 この発現原因である血液型性格判断を肯定的に捉える・用いる人間の認識は、その人間の中でどうして生まれ・維持発展できたのか?
 血液型性格判断が科学から支持を受けていないことは、血液型性格判断(を話題に出す程度)に関心がある人間ならば耳にしたことはあるはずなのに、なぜそれを乗り越えて認識(認知)を維持できるのか?
 考えられている理由は以下あります。
 理由Ⅰ:血液型性格判断は当るから。(※)
 ABO式血液型の日本人の比率は、A:O:B:AB=4:3:2:1です。
 これは「あなたはA型でしょ」と言えば40%の確率で当てることができるということです。もちろん、「A型でしょ」と常にいわなくとも、適当に言っても25%の確率で当てることができます。さらに、上記比率を知った上で言えば30%程度の確率で当てることができます。人の見えないことをこれほどの高確率で当てることができる機会は多くはないはずです。
 相当の確率で当てることができるから、血液型性格判断を肯定できてしまうと考えれてています。つまり、当てることができた経験が、科学から支持を受けていないという(漠然とした)情報を乗り越えさせてしまうということです。
 さらに、性格から血液型を当てること以上に、血液型から性格を当てることが容易(~型と聞いて、例えば「あきっぽい」と指摘した場合、「あきっぽい」部分を程度はあれ多くの人が持っているため血液型比率よりも「あきっぽい」比率が高くなるので、結果として当ててしまうことが多い)であること、その両方の経験の記憶が合わさって、血液型と性格が関係するという認識(認知)を個人の中で維持発展させてしまうことが指摘されています。

 理由Ⅱ:自己成就予言。(※1)
 ABO式血液型と性格は関係するという信念を持つ人間が、様々な人と会って、その血液型と性格を知ることになった時、自己の血液型正確判断の信念に合わせた解釈をしたり、信念に外れる場合を無意識的に忘れたり、信念に合致した場合に重点をおいたりすることで、あらかじめ持っていた信念を「客観的に」証明されたとして成就させてしまうこと。
 さらに、血液型性格判断という信念を知ってしまい・受け入れた結果、その内容に自分が性格をあわせてしまう傾向が生じていることも指摘されています。(自分は~型だから…だ、と自己の行動を意味づけすることを繰り返すことで、性格を先に設定されている血液型正確判断に合わせてしまう)

 理由Ⅲ:FBI効果。(※2)
 血液型性格判断が設定する各ABO式血液型の性格内容が以下のFBIの頭文字に表される特徴を持つこと。
 Freesize(フリーサイズ)、即ち、「神経質な方」「二面性がある」など、多くの人が「そうと言われればそうだ」と言い得る。
 laBeling(ラベリング)、即ち、~型は…だと言われると、それ以外の部分よりも指摘された部分に注目を集めることができる。
 Imprinting(インプリンティング)、即ち、~型は…だといわれると、その情報に従った解釈を通じて人を判断するようになる。
 
 これらが「水」分子、つまり血液型性格判断を肯定的に捉え、その認識を維持発展させて、話題として出すことを可能にしている発現原因として挙げられます。

 以上より、「水」の環境原因、啓蒙主義の下で科学する意識を無視してきたこと、そこに発現原因をもった「水」分子が存在し、二つの原因が合わさることで血液型性格判断の「空気」が発生すると考えられます。

 では、この環境原因と発現原因を持って「水」自体の流れの性質はどうなのか?
 つまり、「水」という言葉で表された私達の日常性・日常の人間(集団)関係の特徴は何か?、その流れに環境原因と発現原因はいかに作用するのか?
ということです。
 
 まず、「水」自体の流れ、私達の日常性・日常の集団関係の特徴について、社会心理学者S・アッシュが行った人間の同調性を調べた実験を紹介します。(※3)
 同調とは、同じ集団にいる他人の行動に自分が合わせることです。同調を強要されるような雰囲気(「空気」)を同調圧力とよびます。
 アッシュの行った実験はこうです。
 一方には一本の線、もう一方には三本の線が書かれた二枚のカード(前者を一本カード、後者を三本カードと呼びます)を用意します。
 三本カードには、一本カードの線と同じ長さ、より短い線、より長い線が書かれています。
 一つの部屋に集めた八人に、まず一本カードを渡し見せ、次に三本カードを私見せて、一本カードに書かれていた線と同じ長さは三本の線のうちのどれかを答えさせます。
 八人のうち、実は一人を除いて答える内容を指示されたサクラです(つまり、被験者は実際は一人)。
 同じことを18回繰り返し、被験者がサクラを疑わないように、内6回は普通に、残りは決められた答え(誤答)をするようにサクラは指示されています。
 被験者は7番目に答えるようにしてあります。
 これを実被験者50人に行いました。
 結果、被験者の誤答率は35%。一人で同じカードを見せた実験では誤答率5%。
 一度もサクラに同調しなかったのは、13人。残りのうち、15人が50%以上の確率で同調。 
 個人の行動は集団の行動に影響されるという当たり前と言えば、当たり前なことをこの実験の結果は示しています。 
 さらに、アッシュは同調の実験を重ねた結果、集団内の同調の性質について二つのことを明らかにしました。
 一つは、同調は3人以上のサクラがいることで、それ以上いるときと同じ程度生じること。
 もう一つは、3人以上のサクラがいても、一人でも被験者と同じ判断をとる人間がいれば同調しない確率が大きく上昇すること。
 
 アッシュの実験はアメリカの大学生を対象に行われましたが、他国の実験でも同程度の同調率を記録しました。
 日本でも行われました。
 結果は、アメリカよりもやや同調率は低く、さらに特徴的なのは一人当たりの同調誤答数が目立って低かった点です。
 つまり、実験の結果からは、日本人は集団の同調圧力に対して比較的強いことがいえます。
 
 これは集団主義、人に合わせやすい、という通念や、ここまで述べてきたような「空気」とは反することになります。
 なぜこのような結果が出たのか、一つの推測として、実験の仕組みがその原因ではないかということが考えられています。
 実験では被験者もサクラも全く面識の無い人間を集めて行われました。
 そこで、面識の無い人間間だから同調が起きにくかったのではないかという推測がなされます。つまり、日本人は知らない人間同士では同調がおきにくいという推測です。
 この推測は、日本人が対他的な人間関係よりも、対内的な人間関係の把握に適応しているという実験結果に合致しています(※4)
 所属集団内での人間関係がどのようかを読み取みとろうとする傾向が他国人と比較して強いということ。つまり、無関係な人間との関係を作り出そうとする傾向(能力)よりも、既に所属している、自分が利害関係を有する集団内で人間関係を知ろうとする傾向が強いということです。
 
 以上を総合して考えますと
 啓蒙主義的であるために科学的な探求を妨げる環境
 当った経験・自己成就予言・FBI効果などで維持された個人の血液型性格判断への肯定感
 それが、所属集団内では同調し、人間関係把握をしようとする日本人の日常性(「水」)の流れに圧されてて血液型正確判断の「空気」に逆らえなくなると考えます。


 この中で
環境を変えることはできない、肯定感を持った他人の過去の経験をなくすこともできないわけですから、有効性をもって行えるのは同調の性質・人間関係把握の傾向を利用することだということが分かります。

では具体的にどうするのかを、再び冒頭の発言①~③までで考えて見ます。
 発言①は、そういった考えをもった人間(「水」分子)が存在するので動かせませんので、対する発言②でどういった応答をすればよいのか?
 まず、すでに発言①によって血液型性格判断の「空気」を作ろうとする「水」が動き出しています。このままでは、「水」(日常性)の状況倫理にしたがって血液型性格判断の話題が進行し、「空気」が醸成されてしまいます。
 この流れは、同調実験の結果から、三人以上が参加してしまうと単独では変えることができなくなります
 したがって、まず積極的に会話の応答を引き受けて、他に存在する血液型性格判断に肯定的な人間(発現原因をもった「水」分子)に応答させてはならないことが分かります。
さらに、応答を引き受けても、そこに血液型性格判断に肯定的な人間が加わってしまう可能性がありますので、自分が知っている(親しい方)の人間に会話を振ることで流れの変化を補強することが考えられます。
 また、血液型性格判断を会話に持ち出した理由が、それを通じて、その場の人間関係を図ろうとする意図であったのならば、別に血液型性格判断でなくてはならないということではないのですから、血液に関係する別の話題の会話を通じても可能だということを行動で示すことにより、持ち出した人間の意図を引き受けることができます。

 但し、ここで血液型性格判断の話をそのまま引き受けても、意味がありません。
 そこで、発言①の「何型?」のような発言を受けて、血液に関する別の話にもっていく必要があります。 
 つまり、発言①に対して正面から血液型性格判断にの話題で向かえば、すでに動き出した「水」の動きを阻んでしまい、かえって血液型性格判断に注目を集めてしまい、「空気」の醸成を一機に加速させてしまう可能性が考えられるので、血液という発言①の会話の主題だけを引き受ける必要があると考えられるのです
 さらに、この血液に関する話において、できれば日常的で多くが経験する些細な話題が出せれば効果的だと考えます。(例えば、採血や献血のときの話、血液検査でわかったコレステロールの話、そこから血液とは関係ない話へ引っ張れるものならなお良い)
なぜなら、血液型性格判断に肯定的な人間(発現原因を持つ「水」分子)は上述したような経験の効果によって血液型性格判断という認識(認知)を維持できているのですから、体験の記憶という共通項があったほうが変化された会話の流れを受け入れやすいと考えれるからです。
 また、なぜ些細な話か、正確には血液に関する細かい話かというと、それだけのことを知っているということを相手に示せるからです。
血液型占いに反論するモテないのか?血液型占いに反論するとモテないのか? part2で挙げたような、血液に関する細かい話になれば血液型性格判断は否定できます。
 もし、血液型性格判断に関する是非を話すとしても、それを発言②で自ら持ち出すのではなく、相手に振らせてから発言したほうが穏当です。
これで相手が変化させた流れに乗らなければ、そこで利益衡量して行動するべきだと考えます。
つまり、もしその場の重要度と血液型性格判断の流通に手を貸す嫌悪感を比べて後者を優越させるのなら、容赦なく論破します。
 そうすると結局、冒頭の発言③「モテないでしょ」が返ってくるでしょう。
 その場合、血液型性格判断に肯定的な人間、それが支持されない科学からの説明を受け入れない人間は、他のステレオタイプや迷信を持つ傾向があること、集団内の人間関係を決め付けないと不安な人間であることを指摘する、若しくは、レイシスト(人種差別主義者)と呼ぶしかないでしょう。

 おまけ⇒血液型占いが無くなる日


※)『血液型当てっこの実際』川野健治著(『血液型と性格』至文堂 収録)
※1)『自己成就する偏見としての血液型ステレオタイプ』池田謙一(同上)
※2)『血液型と性格』(福村出版)大村政男
※3)『集団の心理学』(講談社現代新書)磯貝芳郎著を中心にまとめています。
※4)『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)山岸俊夫著
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by sleepless_night | 2005-11-03 00:19 | 血液型関連