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好きなだけ検便容器を壊せばいい/藤原正彦と特攻の精神


はじめに)
反近代。
論理より情緒。
民主主義より武士道。
家族→地域→郷土→国家への“愛”
世界からの尊敬への欲求、世界を導く日本(の私)。

 その全てがあった。
 その時代の実相と結末を忘れ、「父」「母」の喪失を受容できない固着した想いという私情の産物を“国家”の名で包装した書籍が受け入れられる。(参照:新田次郎によろしく/『国家の品格』への道
 その時代の結末が民衆に示したはずの教訓を忘れて、もうすぐ、“国と郷土を愛する”義務教育が始まろうとしている。

         ********
 以下の冗長な私の文章にウンザリという方、つまらなそうだと感じた方へ。
 書いている本人が申すのも何ですが、読まなくて結構です。


 『ねじ曲げられた桜』大貫恵美子著(岩波書店)定価4200円を読んでください。(⇒ライフログへ追加しておきました)
  書店にお勤めの方は、『国家の品格』の平積みはトイレの個室に入れて置いて、『ねじ曲げられた桜』を空いた場所へ置いてください。
  
 値段は『国家の品格』の約6倍です。ページ数は約3倍です。
 『国家の品格』は39字×14行、『ねじ曲げられた桜』は46字×18行です。
 『国家の品格』は藤原正彦さんが専門外のことについて過去のエッセイで定型句化するまで書き連ねたものを講演で話し、さらに書籍にした「楽して儲ける」「出涸らし」です。
 『ねじ曲げられた桜』は、150ページ近い注と付録が示すとおり、大貫恵美子さんが専門の象徴人類学に基づいて膨大な資料、特攻隊員たちの手記・日記を読み解いた作品です。
 
 本物と偽者の文章・作品を比べてみてください。
 本文は450ページありますので、丸一日はかかるでしょう。
 しかし、各章に要約がついています。
 また、文章は簡明であり、専門用語も多くはありません。
 桜という一つの象徴を通じで、日本の近代と敗戦の歴史が語られています。
 価格は書籍としては手が出しにくいという方もいらっしゃるでしょう。
 しかし、一回飲みに行くのを止めるだけの価値はあります。
 (ソープへ行け! こちらのほうが、ソープよりも安いでしょう)
 
 来年の花見でお酒を召し上がるとき、それ以前とは桜を見る想いが違っているでしょう。
 花見で繰り返される刹那的な享楽の虚しさではない、桜の美しさを感じることができると思います。
 おまけに、藤原さんの妄想ではなく、まともな薀蓄も身につくでしょう。

 グーグルで“国家の品格”は約200万件ヒットします。
 “ねじ曲げられた桜”は約360件ヒットします。
 “藤原正彦”は約150万件ヒットします。
 “大貫恵美子”は約800件ヒットします。

 人物の価値は分かりませんが、少なくとも、書籍の価値は全く逆です。
 新書と単行本の違いではなく、それは、文字の書かれた物質としての価値という次元において違います

 以下、余力のある方はどうぞ。

(1)統率の外道

 “「ご承知のとおり、最近の敵空母部隊は、レーダーを活用して空中待機の戦闘機を配備し、わが攻撃機隊に対し三段がまえでそなえている。この警戒幕によって、わが攻撃機を発見補足し、これを阻止撃退することがひじょうに巧妙になってきた。その結果、敵の警戒幕を突破、または回避してめざす攻撃目標に到達することが困難となり、しかも、いたずらに犠牲が大きく、敵に有効な攻撃をくわえることができない。この窮境を打開するためには、第一線級将兵の殉国精神と犠牲的雌性にうったえて、必死必殺の体当たり攻撃を刊行するほかに良策はないと思う。これが大儀に徹するところであると考えるので、これを大本営としても、了解していただきたい。」”

 ミッドウェー海戦を境にして壊滅的な劣勢へと進む中、体当たりによる攻撃が考案され、実行された。
 1944年10月25日、敷島隊の関行男大尉が第一号として軍は公報したが、実際はその4日前に大和隊の久能好孚中尉が出撃して未帰還だった。
 さらに、それ以前の台湾沖航空戦で第二十六航空司令官有馬正文少将が空母へ体当たり攻撃をしている。

 そもそも、特攻作戦が誰によって考案され、決定されたのかが分かっていない。
 上記引用は、一般的に特攻の生みの親とされる大西龍次郎中将が1944年10月初旬に軍需局総務局長から第一航空艦隊司令長官へ転任する前に海軍軍令部の首脳へ向かって述べたもの。
 しかし、その年の初旬に海軍軍令部から回天(人間魚雷)の製作を指示、陸軍参謀本部でも特攻攻撃の検討がされている。
 遡れば、陸軍の主兵と言われた歩兵は“突撃”を華とし、海軍は兵学校で楠正成を手本とする天皇への死を省みない忠義と“人間が測り知ることのできないものに対する謙虚な随順”という諦念の美徳が教え込まれていた。
 あらゆる面での戦況の悪化を前に、下士官から首脳まで、体当たり攻撃という発想を持った人々が存在した。

 大西中将の言葉に、軍令部の及川古志郎大将は“「あくまでも本人の自由意志によってやってください。けっして命令してくださるなよ」”と答え、特攻は自発的という形式を与えられた。
 しかし、公報で第一号とされた関行男大尉でさえ、実質的な命令だった。
 士官学校出身のエリートたちは、この作戦の無効性(敵の防御網、重すぎる爆弾と高速による操縦難、軽機体衝突の無力)を理解しており、志願者が出なかった(兵学校卒の関大尉は特攻に正統性を与えるために「志願」させられた)。
 だから、予科練生などの下士官や短期間で養成されるための教育素養を持つと考えられた学徒兵たちが特攻の主体を担わされた。
 陸海軍で約4000名が「志願」し、死んでいった。

 宇垣纒中将は、敗戦の放送後、部下数人と最後の特攻に出て死亡。
 大西中将は、敗戦の翌日、割腹自殺した。 
 上級将校たちの多数は生き残り、ある者は慰霊事業幹部、ある者は議員、ある者は企業幹部となっていった。形式上の「志願」を楯にとり、“崇高な犠牲”と特攻隊員を祭り上げ・美化し、作戦の実効性や責任を問うことのできない感情の領域を設定することで保身した。

(2)特攻の精神
① 学徒兵の死の「志願」

 当時、高等教育機関である旧制高校・大学への進学率は10%程度だった。
 学徒兵たちはこの僅かな進学者、つまり、エリートたちだった。
 旧制高校では、「デカンショ」(デカルト、カント、ショウペンハウエル)に代表されるような西洋ハイカルチャーの影響下にあり、エリートとしての余裕と教養教育から東西の古典を数百冊、中には原語で読破していた。知識人の間で流行したマルクス主義の思想は、恵まれたものとしての引け目とエリートとしての社会正義にマッチして、基本的な知識として認識されていた。同じく、明治以来の知識人に受け入れられていたキリスト教に関しても聖書は古典として、あるいは信者として受け入れられていた。
 エリート集団の聖域として反軍的な思想・主張さえ見られた旧制高校・大学にいた彼らが、いかにして、特攻という最も日本軍的で、非理性的な選択に「志願」していったのか。

② 『ねじ曲げられた桜』/美意識とメコネサンス
 “美的価値を自分たちの理想主義と愛国心に投影することによって、自らの犠牲を気高く美しい目的のためと正当化する上で、「一役買うことになった」”
 当時最高の知性と教養にあった彼らが、明らかに悪化する戦況とそれに対する無力・不合理な選択への「志願」を自らに納得させた源泉は美意識だった。
 “理想主義と人生における美の探究”と職業軍人への幻滅、エリート意識が彼らの「志願」を導き出した。
 “隊員たちは皆、行動においては「天皇即国家への犠牲」のイデオロギーを再生産していた、しかし、思考においてそれをそのまま再生産していた者は一人としていなかった。彼らは皆、最後の時まで、心から生きたいと願っていたのである。”
 “特攻作戦を武士道の完全なる再生産とするステレオタイプとはまったく対照的に、彼らの愛国心は、複雑に交叉する世界的思潮、西洋の政治的・軍事的脅威、そしてそれ自体がローカルとグローバルの相互作用の結果である日本の知的伝統、こうしたものの結実であった。”

 キリスト者であり、リベラリストであり、マルキストであった学徒たちは「国のために死ぬ」(プロ・パトリア・モリ)選択をしたが、「天皇と国のために死ぬ」(プロ・レゲ・エ・パトリア・モリ)ことはしなかった。
 しかし、明治以降、徹底された文化的戦略の影響を受けていたことも事実だった。
 その戦略において重要な位置を占めたのが“桜”だった。
 文化的ナショナリズムの象徴としては勿論。
 桜は生命・生・若さ・生殖のシンボルであるのと同時に死と再生をも象徴する。
 武士、男性的な潔さ・秩序と同時に女性的あるいは幼童的・中性的な美や脱規範的な狂気をも象徴する。
 “象徴の美的価値のもっとも重要な点は、象徴にその広いフィールドを横切らせ、「無垢の」文化的な空間から「危険な」政治的空間へと移動させる、その美的価値の能力に関するものである。中略。自然の理想化された美が、人々の猜疑心を和らげ、国家イデオロギーにおける「自然」であっても、人々に今までどおりの「自然」であると解釈させてしまう。”
 特攻に「志願」した学徒兵も、家族も、桜の喩えを多様した。
 しかし、それは“意味のフィールドから違う意味(ミーニング)を引き出しながら、自分たちが同一の意味(シグニフィケーション)を共有していないことにほとんど気付いていない”メコネサンス(象徴的誤認)によって成立したコミュニケーションだった。
 それこそが、明治以降に、大日本帝国の首脳達が目指したものだった。
 不条理・不合理を受苦させるための武器こそが、美だった。
 
 敷島の大和心を人問はば 朝日にによう山桜花

 本居宣長のこの歌は、新渡戸の『武士道』でも紹介されている。
 第一号特攻とされた隊、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊はこの歌から名づけられている。
 生命を意味(シクニファイ)していた本居の歌が、意味のフィールドを横切らせて、特攻隊員の死を美化するのに使われた。
 他の特攻隊命名の多くも桜から採られ、写真などでも有名なように特攻隊員たちは桜を胸に挿し、見送る人々の手にも桜があった。
 靖国の桜には、いつのまにか彼らの再生の意味を込められるようになった。

 “毎年桜の季節になると、大勢の若者が靖国神社の境内(第一鳥居から第二鳥居まで)で飲めや歌えの花見をにぎやかに繰り広げる。彼らは、自分たちの行動の悲惨なアイロニーに気づいていない。”

③ロマン主義、日本浪漫派
 特攻に「志願」した学徒兵の美意識に表現を与えたのが、当時、世界的潮流でもあったロマン主義、日本においては雑誌『日本浪漫派』。
 ロマン主義は、産業社会、資本主義が発展して伝統や自然が失われてゆく中で、過去や異国、神秘への憧れ、逃避、想像などの主観的要素を持つ。
 
 戦後、橋川文三は日本浪漫派を“耽美的パトリオティズム”“産土のパトリオティズム”と呼び、その典型を保田與重郎に見た。
“日本人の生活と思想において、あたかも神の観念のように、普遍的に包括するものが「美」に他ならなかった”
 “政治が政治として意識される以前に、政治の作用が日常的な生活意識の次元で、その美意識の内容として受け取られる”“政治意識の美意識への還元”が行われ、自然である政治が作り出す結果が“絶対に変更することのできない現実━歴史━美の一体的観念が、耽美的現実主義の聖三位一体を形成する。”
 “保田や小林が「戦争イデオローグ」としてもっとも成功することのできたのは、戦争と言う戦時的極限状態の苛酷さに対して、日本の伝統思想のうち、唯一つ、上述の意味での「美意識」のみがこれを耐え忍ぶことを可能なら閉めたからである。いかなる現実もそれが「昨日」となり「思い出」となるときは美しい。”

 そもそも、日本浪漫派というグループは“マルキシズムの陣営で政治と闘って闘い敗れた人か、戦わずに敗れた人か、乃至はてんで闘う意志も経験も持たない人の集団”(江口渙)“雑然たる諸傾向がレアリズムに反対するという意味で合流したに過ぎないものであったから。浪漫主義を欠如したロマンチストの集団、反レアリズムのみを共同座標軸とする消極的なエスプリ”“浪漫主義としての積極性を築き上げることができなかった”(伊豆公夫)という評価を戦前から受けていた。

 しかし、“「都会」の「近代」に傷ついた無垢な地方青年の「故郷」奪還の運動であった、といえるので、それがけっして現実に所有できぬものであることを知悉していたればこそ、彼らにおいて「イロニー」が唯一の時代的現実へのアプローチの方法たりえた”(大久保典夫)のであり、死を「志願」することしか現実にはなかった学徒兵にとって“死ぬことが必然であるとき、戦争のあるべからざることを説いたところで、リアリティをもちえ”(松本健一)ずに、保田與重郎自身が当時の戦争の意味づけには無関心に“憧憬の純潔を守ろうとする心情現実と夢とに強いられた反抗の身振り”(桶谷秀昭)が「イロニー」であっても、「散華の美学」の経典となった。

 “「ヱルテル」は既に云った如く対象の描写より、専ら主体の分析を描いた。つまり近代である。これは先験哲学と共通の発想である。そうしてそのことによって、批判はなんらの存在の確保でないといふことをたしかめてくれた。批判は不安の増大に他ならなかった。宗教の神に代わった愛情の不定と、その不安を克服するための観念論は、ついに愛情の不安と、その不安の増大確保者という、反対の結果を生んだ。中略。主体の分析の無力、この新時代の獲得した価値のもつ泥沼がはつきりとここに示されたのである。中略。ロッテのために、ロッテのために、私はその犠牲になります。とヱルテルは 遺書のなかでくりかえした。この純情の言葉は、残忍な復讐とみえないだろうか。一等美しい言葉ばかりでかかれた遺書は、断末魔の呪言よりも怖ろしくなかろうか。”
           『ヱルテルは何故死んだか』保田與重郎(新学社)

④近代の超克 
“近代の超克ということは、政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克を意味する”(鈴木成高)

 雑誌『文学界』昭和17年10月号に掲載された座談会「文化総合会議シンポジウム」で、京都学派・日本浪漫派・文学界の三派の論客によって“近代の超克”が論じられた。
 京都学派とは、旧制高校生の三大必読書の一つ『善の研究』の著者であり、その名を関して哲学が語られる数少ない日本人哲学者、西田幾多郎を中心とした哲学者のグループ。
 その代表的な論客であった高坂正顕(国際政治学者 高坂正堯京大教授の父)は、“近代の超克”についてこのように考えた。
 中世が古代ギリシア的な世界をキリスト教会の内面の支配(外的世界の否定)によって変化させたが、外的世界の否定によって外的世界を支配することの矛盾から結局は自己否定されて、近代へと変化せざるをえなかった。近代は、中世の神の中心から人間中心へ、そして人間が機械を利用して世界を支配する時代、自由と合理性の世界、だが、機械による支配が実現した後で逆に人間自身が機械として利用され、否定されてしまった。
 “近代の超克”が過去の歴史と同様に必然的に求められ、それを担うのが日本である。
 “東洋の原理はまさに無であるのである。西洋的実在は、自然にせよ神にせよ人間にせよ、要するに有の原理である。ここに無を原理とする東洋の特殊な意義がある。中略。そして日本はかかる世界秩序の主要契機であるべき課題を負わされているのである。”

 また京都学派の哲学者 高山岩男(京大教授、戦後公職追放)は時代的要請としての大日本帝国の役割、第二次大戦の意義をこう述べている。
 “自由主義の根本原理は、かくて無内容な倫理的理想と権力横行の事実と結びつかぬ並存を帰結し、なんら世界の恒久平和をもたらすべき実質的な道義的力を有し得なかったのであって、大戦はこの原理の含む矛盾を如実に示し、従って当然この原理に代わるべき新しい根本原理を産むべき機会に直面した”
 “西欧的な近代資本主義、西欧的な機械技術、西欧的な近代科学、西欧的な個人主義法制、西欧的な政党的議会主義、等々のヨーロッパ文化の世界的普及、中略、このような観念の破れつつのが、まさしく現代の世界史的事実に他ならない。そしてこの世界史の転換に最も重大な役割を演じているのがわが日本である。”
 
 さらに、このシンポジウムには参加していないが、西田と並んで京都学派を代表する田辺元(京都帝大教授)の学徒兵に対する影響も大きかった。
 田辺は出征する予定の学生たちに向かってこう演説した。
 “我々凡夫が身をささげるのは直接に神のためだとは考えられない。国のためである。今日おかれている国家の危急と言うときは、もはや国と自己はくっついている”

 “近代の超克”を唱えた中で最も理論性を持っていたはずの京都学派でさえ、その“超克”された先の像はまったく抽象的なものとしか言えなかった。
 
 したがって、結局、“近代の超克”が示しえたのは“「超克」というこのことばがうかべる表情の美”“稀薄さにもかかわらず、どこか深長な意味を蔵するかのように巧に粧いえたという、この語のもった、まさに表情”が“人を強いて「近代の超克」という発想を産ましめた”(谷崎昭男)ということなのかもしれない。
 これは、『国家の品格』の“品格”にも全く同じことが当てはまと思える。

(3)浪漫的滑走
 “「既に開化と云うものが如何に進歩しても、案外其開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争其他からいらいらしなければならない心配を入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変わりはなさそうである事は前御話した通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされる為にただ上皮を滑って行き、又滑るまいと思って踏ん張る為に神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言はんか憐れと言はんか、真に言語道断の窮地に陥つたものであります、私の結論は夫丈に過ぎない、アァなさいとか、こうしなければならぬとか云うのではない、どうすることも出来ない、実に困つたと嘆息する丈できわめて悲観的の結論であります」” 
                            夏目漱石講演「日本の開化」

 保田與重郎は、近代文明に疲れ、近代文明に敗れて還るべき過去も失った人々、特に若い人々を結果として浪漫的な“上皮を滑”りへと誘ってしまった。
 特攻とはその典型だと言える。 
 
(4)『菊と刀』の絶望と希望
 “日本人の恒久普遍の目標は名誉である。他人の尊敬を博するということが必要欠くべからざる 要件である。その目的のために用いる手段は、その場の事情の命ずるままに、取り上げかつ捨て去る道具である。事情が変化すれば、日本人は態度を一変し、新しい進路に向かって歩みだすことができる。”

 敗戦後の占領統治のために、アメリカ合衆国が始めて日本を分析した書、『菊と刀』はこう結んでいる。

“日本人は、侵略戦争を「誤謬」とみなし、敗れた主張とみなすことによって、社会変革への最初の大きな一歩を踏み出した。彼らはなんとかして再び平和な国々のあいだで尊敬される地位を回復したいと希望している。が、そのためには世界平和が実現されなければならない。中略。日本の行動の動機は機会主義的である。日本はもし事情が許せば、平和な世界の中にその位置を求めるであろう。もしそうでなければ、武装した陣営として組織された世界の中に、その位置を求めるであろう。現在、日本人は、軍国主義を失敗に終わった光明と考えている。彼らは、軍国主義は果たして世界のほかの国々においてもまた失敗したのであろうか、ということを知るために、他国の動静を注視するであろう。もし失敗しなかったとすれば、日本は自らの好戦的な情熱を再び燃やし、日本がいかに戦争に貢献しうるかということを示すことであろう。もし他の国々においても失敗したということになれば、日本は、帝国主義的な侵略企図は、決して名誉に到る道ではないという教訓を、いかに見に体したかということを証明する。”
 
 皮肉なことに、日本に関する「古典」のうち、新渡戸の『武士道』より『菊と刀』の方が藤原正彦さんと件の本が受け入れられた現状を示すのには適していると言わざるを得ない。(新渡戸武士道について:とりあえず、武士道)

 私が怒りを感じるのは、ここまで述べてきたような見事なまでの戦前との一致を何故、年長者までもが知った話だと気付かないのかということ、なぜ諌める側へ回らないのかということ、何万歩か譲って“品格”云々を認めたとして、そこで槍玉に挙げる現状を作り出してきた(おまけに、現状への道で散々利益に踊った)加害者としての自覚の無さです。
 過去から学ぶのはいつなのか。
 また、繰り返したいのか。
 
 一つ言えるのか、その結果を蒙るのはこれからの世代だと言うこと。
 いつの時代でも、決定に参与できなかった世代が、最も悲惨な責任を負わされること。
 特攻へ「志願」した学徒兵の様に。
 「玉砕」した兵士たち、餓死した兵士たち、「自決」した人々の様に。
 
 藤原正彦さんがどこに突っ込もうと構いません。
 好きなだけ検便容器を壊せばいい。(※)
 しかし、彼の妄想と無知によって、再び美意識しか逃げ場の無い状況へ後の世代を追い込むことになるかもしれない。
 だから、彼の態度・姿勢を本気で批判しなければならない。

 最後に⇒『国家の品格』を超えて/ゆきよふれ

追記) ここまで読んで頂いた方で「ナショナリズムはダメだけど、パトリオティズムはいいんだよ!」と寝言を仰る方はいらっしゃらないと思いますが、念のため。9・11の後、アメリカ合衆国で成立した連邦政府の調査権限を強大化させた法律の通称名が何かを思い出していただけると、寝言が寝言でしかないことは理解されると思います。

※)『父の威厳 数学者の意地』(新潮文庫)
 長男が小学校の修学旅行にあたって検便をすることを聞いて
 “「こんなものは提出する必要がない。絶対に提出してはいかん」私はそう叫ぶが早いか、容器を袋ごとつかんで二つに折り、くずばこに投げ捨ててしまった。”(p266)  

主参照)
『特攻』森本忠夫著(文芸春秋)
『「特攻」と日本人』保坂正康著(講談社現代新書)
『日本浪漫派』日本文学研究資料刊行会編(有精堂)
『保田與重郎』桶谷秀昭著(講談社学術文庫)
『浪漫的滑走』桶谷秀昭著(新潮社)
『日本浪漫派批判序説』橋川文三著(講談社文芸文庫)
『<近代の超克>論』広松渉著(講談社学芸文庫)
『菊と刀』ルース・ベネディクト著 長谷川松治訳(社会思想社)
 
 

 
 


 
 
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by sleepless_night | 2006-05-17 20:50 | 藤原正彦関連

「麻原だけは許せません、ではお知らせです」/普通のオウムと2億1千万の普通

 平成12年度、文化庁によると、日本の人口は2億1千万人を超えている。 

 “わかりにくいかもしれないけど、オウム以外のことについては、全くごく普通の人達ですよ。麻原さんやオウムの宗教観の話をしなければまったく普通の人たちですよ。たとえば私の友人が実はオウム信者だったとしても、何の不思議も思わない。そういうものです。そういう大前提は結構知られていない。”
 “松永さんだけじゃなくて、サリン撒いた人達もいい人なんですよ。これは烏山の講義なんかでも言って嫌がられたけど、それが極めて大切であって、サリンを撒いた人たちもいい人たちなんです。オウム事件の本質で一番こわいところは、いい人達がとんでもないことをやったということ。救済のためにサリンを撒くまでした、坂本一家も殺した、滝本・私も殺そうとしたというところが恐ろしいんで、「悪意の殺人は限度があるけど、善意の殺人は限度がない」、そこが一番の恐い本質ですね。”
     滝本太郎 (弁護士・日本脱カルト協会事務局理事)
     http://gripblog.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_b52b.html#more より


 実家のある地元で神前、今住んでいる都市のプロテスタントの教会で式を挙げる。
 子供が生まれるとお宮参り。
 町内会の会費から神社へ寄付。
 子供が受験をするときは、密教系の寺院で護摩祈願、有名な神社で御札。
 受かった学校が新宗教系。
 マイ・ホームを建てるときは地鎮祭。
 実家が檀家になっている浄土系の寺院で法事。
 厄年に神社でお祓い。
 近くに買った墓地は禅系の寺院が運営。
 保険のつもりで戒名。 
 
 墓地を持つ寺院は、墓地を守らなくてはならない。
 寺院を守るために、墓地を守らなくてはならない。
 守るために、妻と子の存在が有利になる。
 寺務の手伝い、檀家の対応、安定的な後継者。
 宗教から家業へ。
 門を閉ざし、墓地管理、斎場経営、さらに駐車場経営に勤しむ。

 江戸時代の寺請制度、明治時代の廃仏毀釈、神社合祀。
 統治権力が宗教組織を組み込むことで民衆支配を徹底する。
 組み込まれた宗教組織は権力から保護を与えられる。
 対象としていたはずの民衆を置き去りに、統治権力と宗教組織のもたれあい構造内部の富と力だけが肥満する。
 肥満した組織は内部で窒息し、内実が腐敗し、無力化し、構造だけが残った。

 残存する過去の構造が、新しい構造を生み出す意欲も余裕も無くす。
 2億1千万人の普通が、民衆への意欲も余裕もない家業を支え続けている。

 家業でしかない寺院は、「風景」と化する。
 存在は知っているが、そこが自分に関係する場所だとは認識されない。
 
 “「一つだけいえるのは、どんな意地悪な質問にも尊師は逃げないんですよ。きちんと正面から答えていて、ああ、この人は本物かもしれないと思ったんです」”
 2億1千万人が支える「風景」を通り過ぎて、荒木浩さんは入信してしまった。

 ごく普通のいい人たちが「風景」を通り過ぎて、入信し、数々の犯罪を実行・加担し、今も“真理”を信じ続けている。

 サリン事件から10年以上が過ぎ、「風景」は変わらない。
 
 “(ワイドショーの)下ぶくれの司会者が「彼女には勇気をもって現実を見つめ、オウムの悪夢から一日も早く目覚めることを願っています」と目元を潤ませながらまとめ、「それにしても麻原だけは許せません、ではお知らせです」と通信販売のCMが流れ始める。”

 ほんの一時期、「オカルト」ものの番組が「自主規制」されただけで、CMの間に流れる番組には“いい人達がとんでもないことをやったということ”の理解・思索の影すら見えない。
 “「ではお知らせです」”と言うことで躊躇いなく全てが切り替わる。

 
  宗教に寛容なのではない。
 “日本人は宗教を軽蔑しているくせに、無知です。滑稽なことです。”(橋爪大三郎・東工大教授 社会学)

 “私たちの内なる宗教を認めず、宗教は私たちの外に存在するかのように振舞う、その主体性のなさは危険だ。”
                                 (上田紀行・東工大助教授 文化人類学)

 誰でもなくするための「みんな」の問題ではない。
 2億1千万人の1人である、私の問題であり、あなたの問題。
 宗教という、1分の1の問題。
 
 それが理解されない限り、きっとまた、何があってもいい続ける。
 “「ではお知らせです」”と。
 
 そして、2億1千万人の「風景」は変わらない。
 
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by sleepless_night | 2006-05-11 23:44 | 宗教

とりあえず、武士道

 “「武士道」という言葉を聞いて、今日多くの人が思い浮かべるのは、新渡戸稲造の著書『武士道』(現代はBushido,the Soul of Japan)であろう。学問的な研究者を除く一般の人々、とりわけ「武士道精神」を好んで口にする評論家、政治家といった人たち、の持つ武士道イメージは、その大きな部分を新渡戸の著書によっているように思われる。”
 “新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係も無いということである。”
 “新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳のひとつである。”
  『武士道の逆襲』菅野覚明(東大助教授・日本倫理思想史)著(講談社現代新書)


 新渡戸稲造の『武士道』は、おそらく、鍋島藩士山本常朝の語を浪人田代陣基が筆録した『葉隠』と並んで現代人が想像する武士道の源泉となっている。
 と言いたいところですが、時代劇や時代小説の武士イメージを格好付けて表現する際に用いられると言ったほうが正確なところかもしれません。
 
 以下、幾つかの書籍から簡単にまとめて置きます。

                      *

 “武士とくに上級武士は、算術を賎しいものと考える傾向があり、算術に熱心ではなかった。熱心ではないどころか「学ばないほうがよい」とさえ考えていた。上級武士の子弟には藩校で算術を学ばせないようにしていた藩がかなりある。(中略)ソロバン勘定などは「徳」を失わせる小人の技であると考えられていたからである。”
 “ところが、幕藩社会が崩壊し、近代社会になると、この「賎しい技術」こそが枯渇され重視されるようになった。由緒や家柄は藩内でのみ通用する価値である。藩という組織が消滅すれば、もう意味がなくなる。”

 “かつて家柄を誇った士族たちの多くは、過去を懐かしみ、現状に不平をいい、そして将来を不安がった。彼らに未来はきていない。栄光の加賀藩とともに美しく沈んでいったのである。”
                    『武士の家計簿』磯田道史著(新潮新書)

                     *
 

(1)武士
 “ヨーロッパと同様に日本では、封建制が主流となったとき、職業階級としての武士がおのずから台頭してきた。”
 “この階級は、長い年月にわたり絶え間なくつづいた戦乱の世にあって、もっとも男らしく、もっとも勇猛な人々の間からごく自然にえりぬかれたものであった。その時代の選別の過程を通じて、臆病な者、ひよわな者たちは、自然に取り除かれていった。”
        『武士道』新渡戸稲造著・奈良本辰也訳(三笠書房)

 近世(江戸)へと続く武士は、古代王朝の兵士・武官と異なり、地方領主や貴族の私兵を起源とするので、新渡戸の認識どおり。
 ただし、自然淘汰によって云々と言うのは、世襲による統治を役割とした近世の武士には当てはめ難い。

(2)武士道の要
 “義は、もうひとつの勇敢という徳行と並ぶ武士道の双生児である。”
 “これは文字通り「正義の道理」なのである。”
 “「勇気とは正しいこをすること」となる。”(『武士道』新渡戸著)
 
 新渡戸武士道の評価でポイントとなる発想。
 つまり、武士を普遍的な価値観を体現・実現するべき存在と位置づけていると解される。

 たしかに、家法や家訓には仏教や儒教の思想表現、「天道」といった普遍的な世界観を示すような言葉も散見される。
 しかし、大前提は、それが家法であり家訓であること。
 つまり、何かの普遍的価値を実現することではなく、まずもって自分たちの一族集団が存続繁栄するための知恵を自分の子孫に伝えるものである。
 たとえば、北条氏綱(早雲の息子)は“大将だけでなく、およそ侍たるものは、義をもっぱら守るべきである。義に違ったのでは、たとい一国二国切り取ったとしても、後の世の恥辱はどれほどかわからない。”と述べているが、最後に“右の訓戒を護ったなら、当家は繁盛すること疑いない”と締めている。
 さらに、この意識の痛烈な表現として毛利元就が長男に贈った遺訓が挙げられる。
 “この毛利家の繁栄を願うものは、他国においてはもちろんのこと、当国においても一人としていないのである”
 また、「天道」も、孟子の思想と同様に、統治の正当化と下克上の正当化に使われており、使う側の都合によって良いほうに内容を解釈できるようになっている。(孟子について⇒惻隠の情が堀江貴文に向けられる時
 

(3)ねじれ
 新渡戸の武士道が実際の武士の思想と異なっていると言われるにもかかわらず、奇妙に武士の言行と重なって見えるのは、見る側の認識にねじれがあるからだと考えられる。
 つまり、(1)で述べたように近世へと続く武士と言うのは私兵であり、(2)で述べたように自分の家(一族)の存続発展を目的とする家訓がある。これを、見る側、私たちが近代の発想で見てしまうことでねじれが生まれる。
 武士たちは自分たち一家一族の問題を語っているにもかかわらず、それを、近代の国民国家のまなざしで見ている。
 歴史的に見れば、見ている側がねじっているために線のように見える伝統を、まっすぐに伸びた一本の線のような伝統だと誤認している。

(4)私兵としての武士
 ①中世
 軍事化した貴族の末裔である平家の世から、初の武士政権である鎌倉、続く室町、戦国と見て分かるように、武力にる領地の奪い合いの時代。
 この時代、武士の倫理は「弓矢取るものの習い」として表現される。
 内容とは名利(名誉と利益)の重視。
“弓矢よるものは、仮にも名こそ惜しめ候へ”(平家物語) 
“古より今に至るまで、人の望むところは、名と利の二つ也”(太平記)
 そして、特に「名を惜しむ」として名誉を重んじた。
 
 “名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼時のころから教え込まれる侍の特色をなすものである。”
 “その高潔さに多雨するいかなる侵害も恥とされた。そして「廉恥心」という感性を大切にすることは、彼らの幼少のころの教育においても、まずはじめに行われたことである。”
                         (『武士道』新渡戸著)
 と、新渡戸が述べているのと違いがないとも思える。
 しかし、(3)で述べたように、それは見る側の認識による。

 なぜ中世の武士が「名を惜しんだ」のかと言えば、それは、私兵だから。
 つまり、戦乱の世で、自分と一族が生き残り発展するためには、固定した主従関係以上に自分の固有名をアピールしておかなくてはならない。
 何よりも、戦での活躍によって、自分の名前を広めておく。
 そうすれば、現在の主従関係が崩れたり、敗れても新しい主を見つけることができる。
 武士の世界は狭く、さらに、現代のようなマス・メディアがないので、噂が命取りとなる。
 “他人の家へ行った際には、どこかに穴があいていて、そこから人がいつもながめていると思って挙動をつつしみなさるがよい”(北条重時)
 “天下の情勢が平穏なように見えるときでも、遠近の諸国へ間者を出しておいて、つねにようすを密告させるがよい”(朝倉敏景)
 “不穏の考えをいだくものがあったらならば、決して容赦せずに取り調べるが良い。ただし、その際には外聞をはばかって行うことが大切である。”(武田信繁)
 などと、常に見られているという意識を持っていた。
 したがって、日常生活においても自分の名前に悪い情報が着かないように気をつけなくてはならなかった。

 関連して
 “礼は武人特有のものとして賞賛され”
 “礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人と共に喜ぶことである。”
 “嘘をつくこと、あるいはごまかしは、等しく臆病とみなされた。”(『武士道』新渡戸著)
 などの「礼」や「誠」という徳目も、上記の視点から評価すれば、それは自分の名前というブランドを維持するために必要なものだと解される。
 特に、嘘をつくなというのは多くの家訓でも述べられている。
 戦場や、戦闘という生死がかかった状況で、嘘をつくかもしれない(若しくは嘘をつくと言う評判)というのは致命的な傷であることを考えれば当然と言える。
 だから、真実ではないことへの倫理的な忌避ではないので、計略は許されている。
 また、礼ということ、広げて思いやりについても家訓ではかなり細かくふれてあるものが見られる。
 勿論、それも統率の術と解される。
 ちなみに、引用した新渡戸の文章は明確に新約聖書の文言(ローマの信徒への手紙12章15節)。

 ②近世
 近世、つまり江戸時代。
 言うまでもなく、最後にして最強の戦国武将である徳川家康が開いた時代。
 有名な「人の一生は重き荷を…」は過去の創作。

 三大将軍家光の治世(家光の代で、神格化された豊臣である豊国大明神の神位を朝廷に取り消させている)に現れるように、この頃までに江戸幕府は安定期に入る。
 つまり、それぞれの武士の身分・階級が固定化する。
 ただし、完全に動かないということはなく、名家も跡継ぎがなければ養子を迎えなくてはならず、なければ廃絶される。また、長い忠勤によって徐々に役目や石高が上昇することもあった。
 
 この時代に、儒教道徳によって整理された武士の思想が「士道」と呼ばれる。

 近世の武士は非常に厳しい状況におかれる。
 ①で述べたように、武士は自分と一族の名利をかけて戦ってきた。
 近世には、この点に二つの大きな変更が加えられる。

 一つは、戦闘を存在理由にしていた武士が、戦闘を否定される。
 つまり、戦闘による秩序の再編可能性を否定される。
 しかし同時に、武士が武士であることをやめることもできない。
 武士は、中世の価値観を否定せずに、実態を変化させなくてはならないジレンマに陥る。
 戦士として生きる現実を奪われて、戦士としての生き方を捨てることができない。
 端的な、例として、道端での喧嘩や無礼打ちがある。
 可能な限りの争いを避ける義務を課されながら、喧嘩する時にする・無礼打ちするときにすることをしないと、咎められる。自分が当事者でなくとも、そこにいただけで問題になる。
 しかも、その基準が殆どない。ありとあらゆる方向からどうすることが適切だったかの究明を受ける。中世同様に噂という強力なメディアが存在していたので、噂によって藩が動いたり、噂があっただけで切り合いを挑んで死者を出したりした。
 だから、対処法としてみて見ぬ振りをする、人が歩かない悪路を行く、見ている人がいなかったら互いになかったことにする、とりあえず言訳ができるだけのアリバイを作っておく等が考えられ、伝えられた。
 
 もう一つは、家の独立性の基盤を奪われて、自分の家以上に君主を優先させる滅私奉公が求められるようになる。
 武士が君主の官僚となったため、それまで、いざとなったら自分の家・一族が独立できた基盤となる土地(財政基盤)が失われ、代わりに身分に応じて俸禄をもらい生活する。
 官僚機構として番方と役方に分かれ、評価基準も変化する。

 結果として、中世に存在したような自分の家・一族と主君の家・一族との緊張関係が薄れた。

 中世、江戸幕府を創始した徳川家康は“上を見るな”“身の程を知れ”と家臣に教え、忍従を説いた。しかし、家康自身の生涯を見れば分かるとおり、その忍従は決して盲目的な隷従を説くものではない。耐え忍ぶのは、力を保ち、機を見て自らが権力を握るため。
 大黒天が頭巾をかぶるのは上を見ないで分を弁えて身を守ることもあるが、その本質は、頭巾を脱いだときにある。頭巾だけをみて、それを脱いだときを考えないのは間違いだと家康が説いた。
 この考えからすれば、中世の武士は次第に、頭巾を脱ぐ発想を無くした存在。
 皮肉なことに、武士の中の武士だった家康を基準とすると、当の家康の社会設計によって、武士のあり方が劣化されたと言える。


(5)間違いと美化
 ①感情
 “侍にとっては感情を顔にあらわすことは男らしくないと考えられていた。”
                  (『武士道』新渡戸著)
しかし
 “たけき武士は いずれも涙もろし”(甲陽軍艦:武田信玄の軍書)

 ②切腹
 切腹は、平安時代の袴垂れの切腹が最初。
 鎌倉以降に武士の自死手段として定着、刑罰としての切腹は江戸時代に定着。
 江戸以前は、例外を除いて、斬首が刑罰として一般的だった。
 刑罰としての切腹を定着させた一因が江戸初期の殉死ブーム。
 主君が死亡すると、家臣が追い腹を切った。
 家臣の誰が追い腹を切るかといえば、衆道(男色)の相手をしていた小姓。
 (小姓の殉死は自発的という以上に、武士社会の暗黙的な強制事項だった)
 それが徐々に、側近に広がり、さらにはほとんど関係のない下士まで切るようになる。
 ブームが過ぎるので、綱吉の代に禁令が出る。(だから、『葉隠』の山本常朝は出家で済ませた。)
  
 “中世に発明された切腹とは、武士が自らの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を逃れ、朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法であった”(『武士道』新渡戸著)

 たしかに、切腹は名誉の死という側面がある。
 しかし、刑罰として定着した江戸初期まで、切腹を命じられても武士は従わなかった。
 それは(4)①で述べたように、武士は独立性があったために、他の主君の下へ移ることができたから。
 だから、初期は切腹を命じると同時に討手を遣わして、従わないものを切らせた。
 (映画『たそがれ清兵衛』は幕末を舞台にしていますが、同様のもの)
 つまり、切腹が定着したことは、武士が武士らしくなったというよりも、武士として弱体化した証拠と言える。

(6)武士道の誕生
 明治維新を経て、武士は否定される。
 武士は江戸という終わった時代の象徴として一度捨てられる。
 そして、「武士道」が生まれる。
 武士の思想である「士道」に代わって、明治中期ごろから「武士道」が広まった。
 “忠節”“礼儀”“武勇”“信義”“質素”の徳目を大元帥である天皇が“股肱”の兵に与える。(軍人勅諭)
  私兵としての独立性を基礎にして、「私(わたくし)」の名利を追求する過程で生まれたものを、「私」なき臣民へ与えて、“義は山岳よりも重く死は鴻毛よりも軽し”とする。
 明治政府は、政権の正統性を歴史に求め(“古の制度に復しぬ”)、武士が政権を担った時代を例外とした(“我が祖宗の御制に背き奉りて浅間しき”)。
 正統性を明確にするために江戸時代までは使われていなかった古語を復活させると同時に、利用できる資源として「士道」の生み出した思想表現も使った。
 新渡戸の『武士道』はその一つの作品と言える。
 
 このように見てみると、明治武士道とは、否定しなくてはいけないものとしての武士政権と利用しなければならない近世武士の意識との危うい関係の中で育まれたものだと言える。
 そして、その危うさは現代日本で好んで口にされる「武士道」や「大和魂」が、その内容を少しでも検討してみれば矛盾だらけ(例:日本古来と言いながら漢語表現を好む)であることに引き継がれている。
 (4)②で述べたような近世武士の矛盾と、近代武士道の抱える矛盾をどちらも引き継いでいながら、それに無自覚である人が現代武士道の担い手を称するは、不幸だが、諦めるべきことなのかもしれない。矛盾の重なりを無視できる鈍感さがなければ、武士など称する人はいないであろうし。


(7)武士道のその後
 「武士道」を生んだ新渡戸稲造は、その後の1919年に雑誌『実業之日本』で“武士を理想、あるいは標準とする道徳もこれまた時代遅れであろう。それよりは民を標準とし、根拠とし、これに重きをおいて政治も道徳もおこなう時代が今日来た”と「平民道」を提唱した。
 「平民道」とはデモクラシーの新渡戸訳。



参照)
『武士の家訓』桑田忠親(講談社学術文庫)
『江戸藩邸物語』氏家幹人(中公新書)
『武士と世間』山本博文(中公新書)
『切腹』山本博文(光文社新書)
『江戸武士の日常生活』柴田純(講談社選書メチエ)
『葉隠』松永義弘(教育社)
『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編(角川ソフィア文庫)
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by sleepless_night | 2006-05-07 01:26 | 藤原正彦関連

会話による言葉の解離的消失と共謀罪の憂鬱

 “いま日本では、会話体主義が支配的なモードとなっている。会話体とは、合意の気分にもとづく文体であり、しっかりとした証拠をもとにした反論を伴わない。”
                        大江健三郎
                  (2004年3月5日、外国特派員協会にて)

 “言葉はただ騒音から発生し、騒音の中で消えうせていくだけである。沈黙は今日では単に、まだ騒音がそこまで進入していない場所であるに過ぎない。それはただ騒音のひとつの中断にすぎないのである。”
 “一切は普遍的騒音語の中に存在しており、しかも、存在していない。そこには言葉の現実的存在もなければ、また忘却もないのである。現代の世界においては、もはや人間によって直接に忘却がなされるのではない。忘却はいわば人間の外へ、普遍的騒音語のなかへと押しやられてしまっている。しかし、そのようなものは決して忘却ではない。それは騒音語の中での単なる消失でしかない。だからこそ、そこにはまた寛恕がないのだ。”
           『沈黙の世界』マックス・ピカート著 佐野利勝訳(みすず書房)

  
 “不動の信念に裏打ちされ力強く語られるテクストが、それを支える基盤であるはずのこの書物の形式によって、語られる端からやすやすと、かつ、にべもなく覆されているからである。”
 “『国家の品格』において顕在しているのは、専門家と非専門家のぶつかりあいという真剣勝負の対極であり、植木等=青島幸男ふうにいうならば、「楽して儲けるスタイル」の追求である。”
 “同書においては、テクストの水準において語られる「読書をとおした人格形成の重要性」という言説それ自体が、メディアの水準において、いかなる言説もただ消費の対象としか了解する用意のない、呵責なき「楽して儲けるスタイル」に接合されている。すなわち、同書がぼくたちに教えてくれているのは、もはや「教養」も「教養について語ること」も消費財でしかないということに相違ない。”
             長谷川一 明治学院大助教授(メディア論)
              http://booklog.kinokuniya.co.jp/hasegawa/


 “データベース消費の局面においては、まさにこの矛盾が矛盾だと感じられないのである。作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだとということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情表現し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾と感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。”
             『動物化するポストモダン』東浩紀著(講談社現代新書)



  主張内容自体はスノビズムの典型であり、「大きな物語」への欲望であると解される。
  しかし、それを支えているのは、ポストモダン的な解離と言う態度なのかもしれない。

 だから、歴史的な検証や、主張内容相互の矛盾は問題ではない。
 人間的な欲望を表しているに見えて、内実は動物的な欲求を表している。 
 言葉が力を持って語られているようで、言葉に実がない。

 合意の気分で語られる言葉の形をした心地よい音が鳴り響き、ヒットしたシリーズものの癒し系コンピレーション・アルバムのように、やがて街の雑踏に流されて存在が消失される。
 沈黙が犯罪である会話体で言語空間が埋め尽くされ、言葉は無くなってゆく。

 
 “教養と研鑽を積む必要の無い教養主義”の“甘やかなゆるしと導き”は、どこに人々をつれてゆくのか。                       
            (『ベストセラーの構造』中島梓著 ちくま文庫)



 今までに、予想通り拡大して施行されている幾つかの法律、そして、これから通ろうとする法律。
 役割を果たせないどころか、会話体によって焦点をかき消すマス・メディア。 
  どこかにつれて行ける素振りを見せている後ろで、着実に今いる場所が変化され、気付いたときにはとんでもない状況が作り出されている。
 覆っている会話体が途切れ、沈黙によって言葉を見出したとき、既に言葉では何もできなくなっている。
 本当に、そんな日が、そう遠くなく簡単に来るかもしれない。
 




追記)2つの教養。
 教養番組、教養試験と言われるときの教養、と教養小説や教養学部と言われるときの教養。
 前者はトリビアルな知識を持つこと・雑学、後者は自由学芸(リベラル・アーツ)などを通じての自己の探求や完成を目指す知の営みのこと。      
 「教養として知っておきたい~」の類は、後者を目指しているようで、前者をもたらしている。
 
 
 
         
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by sleepless_night | 2006-05-06 08:09 | 藤原正彦関連