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教育を、もっと教育を!


 “今こそ徹底的な教育を施して、一から叩き直さなければ。
  誰をって?決まっているじゃない。大人を、だ。”

 “特に「心の教育」みたいなものを強化したいなら、明らかに大人のほうが順番として先だろう。”
    H-Yamaguchi.net 
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 基本的には賛成です。

 “教育とは、社会を映す鏡であり、またその反映にすぎない。教育は社会を模倣し、それを縮図的に再現しているのであって、社会を創造するものではない。国民自身が健全な状態にあるとき、はじめて教育も健全なものとなるが、それはまた国民と共に腐敗するものであって、自力で変化することはできないのである。もし道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、かれらにもそれが浸透しないわけにはいかない。”とE・ディルケムも述べたのと同じことです。

 問題は子供ではなく、大人であり、大人の社会にあると考えるべきでしょう。

 しかし

 “子供たちの「幹」を作り上げるものの多くが由来するのは、学校教育ではない。子供たちが最も多くのことを学ぶのは、学校ではない。
 家庭だ。
 なにをいまさら、と言う人も多いだろうが、この点は何度強調しても強調しすぎることはないと思う。”
 “特に「心の教育」みたいなものを強化したいなら、明らかに大人のほうが順番としても先だろう。”

 この部分を「トンデモな精神主義とスポ根政策をまず言いだしっぺがやってみせろよ」や「大人が教育を受けられる余裕ある社会をつくれよ」といった話の導入ではなく、文字通りに受け取ってしまうとかなり危険だと考えます。

 
 第一に、徴農・強制ボランティアで若者を鍛えたがっている人たち自身に実際やらせてみた時に、「イキイキ」してしまう危険性です。
 つまり、農業・その他の肉体労働でも、決められた短期間でかつ、その後にそれに見合う利益が受け取れるポジションが維持・用意されているなら「苦しくても楽しい思い出」になってしまい、自分たち自らが経験したという想いが込められて暴走する可能性が考えられるのです。
 もちろん、彼ら・彼女らが想定するような効果-自発的で従順な若者たちの育成-は上がりません。
 “それに見合う利益が受け取れるポジション”が用意されていないからです。
 しかし、彼ら・彼女らは「自分たちはこんなにも素晴らしいのに」との想い(込み)から、「教育を、もっと教育を!」と方向性自体の誤りを考えずに突き進んでしまう(徴兵)でしょう。

 第二に、“学校ではない。家庭だ。”はこれ以上ないほど、(彼ら・彼女らにとって)おいしそうなフレーズです。狙いの本丸、大人たち(つまり、有権者たち)の自発的服従訓練を行えます。 
 “美しい国”とは、与党自民党の言うことに従順な「男らしい」男と「女らしい」女が結婚して子供を2.08人以上生み、自発的に与党自民党に票と金と命を美しく捧げる「子供らしい」子どもを育て、世襲議員たちがそれらに美しい涙を流す国です。
 “学校ではない。家庭だ”
 学校教育への微細な介入で飽き足らなくなった後に、この素敵なフレーズが使われてしまうでしょう。なにせ、育児・教育の中心が家庭であることは間違いが無いのですから、学校から家庭へという流れは非常に説得的になされてしまう、子供をネタにして学校を通じた大人(親)への行政的(与党的)教育ができます。
 夢のような「有権者教育」です。

 第三に、第一・第二と関連して、そもそも問題とする「家庭」の「教育」がある(在り得る)位置を考え直さないまま、脅迫的になっている現状を悪化させる危険があります。

 “そもそも、現代の青少年のしつけが問題視される際に、しばしば持ち出されるレトリックは、「昔はしつけがしっかりしていた」というものである。しかし、はたして昔はそんなにハッピーな状態だったのだろうか。”
       『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)
 
 広田照幸(東大院教授・教育社会学)は、「昔は…」と語られるものは実際にどうだったのかを検証しこの以下のように述べます。

 まず、江戸から明治時代の人口の八割を占めた農民では、家庭で意識的に教育されるのは家業である農業についてであって、それ以外の基本的生活習慣や公衆道徳についてはされなかった。家庭(親)の関心は生産に向いていて、子供が関心の上位にはなかった。農村の子供たちは子供組・若者組といった年代別の集団に属することによって村内の道徳やしきたりをみにつけていた。
 明治時代に始まった学校制度に対しては、金を払って働き手を奪われ、役に立たないことを教えられる場所というネガティブな反応があったが、それ以前に、親は子供が何をしようと関心の中心にはなかったし、子ども自身も自分の将来に学校が関係するとは認識されていなかった。
 都市部でも、人口の多数を占める下層労働者は夫婦共に働いていたので、子供は小遣いを渡しされて外に出しおかれた。またそれ以前に、農村に「家庭」がなかったように、長屋なども外界との仕切りが弱い住居で、「家庭」という区切りが意識されなかった。
 大正時代に入り、既婚女性の出生数が一気に減少(約5人→約3人)になり、都市部で官僚や医師などの教育を受けた富裕層が出現すると、教育の対象としての子供が意識されるようになる。
 都市部で、夫の給料で生活する人々は、それ以前・以外の人々と異なり、「家庭」の外からのしきたりや規範(村や親族のしばり)から隔離された自由な教育をするようになる。
 つまり、ここで教育の主体としての「家庭」が生まれた。
 夫の給料によって生活できる「家庭」は大正中期から昭和初期には会社員、教員、工場労働者へと徐々に(だいたい人口の二割弱まで。同時期に出生数も約3人→約2人と減少)広まっていった。
 ただし、昭和初期でも人口の半数は農民であり、都市部でも下層の生活者は共稼ぎであったので、子供の教育が関心の中心とはならなかった(学校で習うことは役に立たない)。
 この二層構造が崩れたのは戦後高度成長。
 農家の長男以外が都市部で働ける、しかも農家をやるよりも安定して高給を取れる時代。
 そこで、それまで「学校=役に立たない場所」だったのが、「学校=村の外、都会の職場への入り口」となった。この時期の学校は、「人生の決定機関」として絶大な権力と権威を持った。
 農業人口は20年間で一千万人減り、専業農家はそれまでの三分の一以下に減った。
 70年代、高校進学率が9割に達する。
 すると、学校の意味が変化する。それまで、生活(人生)の上昇手段、(都会に適合する)啓蒙的な知識の伝え手だった学校が、時代に遅れた場所、受験敗者の生産場へと変化した。
 戦前まで約2割程度しかなかった教育主体としての「家庭」は、高度成長を経て、ほぼ全ての「家庭」に及んだ。
 
 現代日本は、歴史上初めて、「家庭」が教育の中心的で唯一の担い手・責任者となった時代。

 そこでは、大正時代、教育の主体としての「家庭」が出現して以来続いている、矛盾した三つの教育方針(童心主義:教育以前の生来の純真無垢さ、厳格主義:未教育な子供の野放図さを否定、学歴主義:教育は立身出世の手段)が葛藤する。
子供らしい自由な発想や感情を大切にしたいし、かといって、それが自分(親)の望む範囲を外れられては困る。なんだかんだ言っても、勉強や一芸に秀でて出世してもらいたい、と。
 「家庭」(夫が働いている給料で暮らせるため、要は専業主婦たる母親)が教育の中心で唯一の責任を持っているため、子供の全ての管理を期待され、その結果を帰される。
 しかも、高度成長時代の中流幻想で覆い隠されて存続している階層や地域の違いを無視されて、「最近の親・子供は…、昔は…」と時代で語られる。

 広田照幸さんの教育する主体としての「家庭」分析に加えて述べれば、今私たちが思い浮かべる「家庭」自体が大正時代以降の一部で始まった特殊な存在であるのにもかかわらず、それが普遍的な「家庭」であるかのような言説。
 さらには、その「家庭」が昔は大家族(複数世代が同居)だったという誤解との複合。
 実際は、江戸中期から家族の中心は核家族(だいたいは5人以下の家族)であり、家という意識よりも一族や一村という意識が強く(繰り返しますが人口の大半が苗字の無い農民)、そこに家父長といった指導的で厳格な存在はいなかったし、堅固だと想像される武家でも離婚率は10%と流動的だった。
 明治時代に、それまでの一族・一村といった意識にはそぐわない一家という存在を民法で規定し、地縁血縁からバラバラ(になれるよう)にして行政の統治と直接に結びつけ、さらに家の移動性から産業社会へ対応しやすくした。
 その歴史的な事実を忘れて、一億総武士意識、日本人=サムライ・武士道と夢想する。 
 「家庭」・「教育」の内容を問わず、公定ナショナリズムの夢想に浸った頭でありもしなかった昔を規準に「家庭」「教育」を語られる。
 
 それに煽動・脅迫されて作り出された流れに飲み込まれてしまう。
 教育への熱心さ・専心さが、教育への不安を作っているのに、気付かずに不安の自家発電を続け・増加してしまう。



 ともあれ、今日、この三つの(特に第二と第三)を現実化する危険性が最も高い時代が始まったわけです。


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追記:KawazuKiyoshiさんのコメントを受け、「教育」と「しつけ」という言葉に関して。

広田照幸著『日本人のしつけは衰退したか』では 
 “基本的生活習慣がきちんとみについていること”や“挨拶ができたり、電車でお年寄りに関を譲ったりするするなどの、公の場での社交技術、すなわち礼儀作法や公衆道徳”を“狭義の意味での「しつけ」”。
 “「望ましい(とされる)人間をつくろうとする、子供に対する外部からの作用全体」を広義の意味”の「しつけ」と定義しています。
 広義の「しつけ」は、近現代において学校教育・塾やおけいこなどを当然含みますし、同著でも「しつけ」ではなく教育と同意で使ってある(近現代に関しては「しつけ」ではなく「教育」が用いられる)と解されます。
 
 私は上記記事で現代の教育言説に対するものとして、「しつけ」はなく「教育」と意図的に統一しました。
 それは、近現代に関しては置き換えても問題ないと判断したのに加えて、「しつけ」と使ってしまうと狭義のみを指していると誤認されるおそれがあると考えたからです。
 




 

 
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by sleepless_night | 2006-09-27 01:25 | その他

新総裁へ、総統から。



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安倍晋三 総裁へ

 君の本を立ち読みさせてもらった。
 松岡洋右・岸信介という偉大な政治家につながる君が、民族の誇りを取り戻すためにヴェルサイユ体制と闘った私のように、闘うことを心強く思っている。
 私への評価を「歴史家に任せる」べきだと訴え、ドイツで私の著書解禁を働きかけて欲しい。
 美しい国のために、汚らわしい者達を抹殺した私の感性を君なら共感してくれるだろう。
 印税が入ったら君の本を買おう(eブックオフで)。

 私たちの思想を確認しよう。

 
 “民族主義国家においては、このように軍隊はもはや各人に進めや、とまれを伝えるのではなく、祖国的教育の最後、最高の学校とみなされる。”
 “兵役を終えた後に、かれには二種類の証書を交付すべきである。すなわち、かれに爾後、公的な活動を許す権利許可証としての国家市民証と、結婚のため肉体的に健全たることを確認する健康証明書がそれである。
 少年の教育と同じように、民族主義的国家は少女の教育を同じ視点から行うことができる。そこでも、まず第一に肉体的訓練に重点を置くべきである。女子教育の不動の目標は、将来の母たるべきとこである。”

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 “民族主義国家は学問においても、国民の誇りを助長するための手段を認識しなければならない。世界史のみならず、全文化史もこの視点から教えられねばならない。発明者は発明者として偉大に思われるだけではなく、また民族同胞としてさらにもっと偉大に思われなければならないのだ。すべての偉大な行為への賛美の念は、自分の民族の一員としてのその幸福な完成者への誇りに鋳直されなければならない。だがドイツ史の偉大な多数の名前の中から最も偉大なものを選択し、そして青少年にそれらがゆるぎなき国民感情の柱石となるようう印象深くうつしだすべきである。
 教材はこの観点にしたがって、計画的に組織されねばならず、教育は、若人が学校を卒業するときに、なまはんかな平和主義者や民主主義者、あるいはその他いいかげんなものではなく、一人の完全なドイツ人であるよう計画的に形成されなければならない。
 この国民感情がはじめから純粋であって、単に空虚なみせかけでないようにするために、青少年のころに、鉄のような原則が、まだ教育を受け付ける能力のあるあたまにたたきこまれなければならない。すなわち、自分の民族を愛するものは、民族のために喜んで身をささげる犠牲によってのみ、それを実証するのである。”
 

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 “世界大戦に対する政治的準備や技術的軍備は、わが民族の教養のすくない頭脳の持ち主が統治していたからで無く、むしろ知識と精神はいっぱいつめられているが、健全な本能に欠け、エネルギーと大胆さにかけていた、教育のありすぎる人が統治者であったため、不足していたのだ。”

 
 君に教育がありすぎるか心配することだけはなさそうだ。
 困ったら、彼もいるしね。
 
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追伸

 君は発音が不明瞭なのに早口で、その上、言葉の間を空けすぎている。
 ゆっくり話すことを、間を空けることだとを誤解しているのだろう。
 “重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人になるまで思い浮かべることができるように継続して行われなければならない”
 “すべての問題に対する原則的に主観的一方的な態度”
 という重要な宣伝の原則が、君のメリハリの無い話方では維持できない。
 かえって、語彙の貧弱さと内容の無さが強調されてしまう。
 もちろん、テレビならば編集を使ってどうにでもできるが。
 
 私のような演説の天才でさえ、訓練を重ねたのだ。
 君も「国民的人気」を維持できるように頑張れ。


 好きなだけ検便容器を壊せばいい/藤原正彦と特攻の精神

 
 
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by sleepless_night | 2006-09-20 22:44 | その他