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日本のブスは美しい。

“ブスは悪いことではない。仕方のないことだ。”
      『ブスの瞳に恋してる』(マガジンハウス)鈴木おさむ著


ブスに関する考え方)
 『ブスの壁』(新潮社)高須克弥著の記述を材料とした分類。
①ブス本質主義
“生物はよりよい子孫を残すため、本能的に自分のもっていない優れた遺伝子を持った配偶者を選ぼうとします。”(p105)
 生物的本能による選別、あるいは、美のイデアのような本質があり、生物的・本質的なブスは存在するとの考え。
 
②ブス相対主義
 “美の基準は常に変わっています。昨日の美人は今日のブスです。”(p105)
 ブスとは地域と時代の基準によって判別されるものであって、本質的な要素はないとする考え。
 時代の権力を握ったものによって決められた基準によってブスは認定されている。
 北朝鮮でもっともいい男は将軍様、となる。  

③バランス相対主義
 “平均的なのが美人で、そこから突出したのがブスと呼ばれてる”(p218)
 時代や地域によって好みはあるが、バランスのよさが美人には必要、ブスはバランスが悪いことが必要。
 バランスという点では本質主義的だが、結果的に現れる美人やブスは相対的な基準によるという点で相対主義。
 美術で言う黄金比率などと同じ考え方。
 “目鼻立ちのバランスがととのう。この感覚には、時代を超えた普遍性がありはしないか。確証はないが、あんがい美人の目鼻立ちには、昔から一定の基準があるように思う。”
 『美人コンテスト百年史』(新潮社)井上章一著
 にも同様の思想がみられる。

④技術的相対主義
 “美の基準を自分の好みにしてしまうことです。中略。一般人からいったん高い評価を受けてしまえば、あとはなんでもありが美の世界のおもしろさです。”(p21)
 “ブスと言われようが「私は美しい。いまにみておれ」と頑張るあなたを高須クリニックは応援しています。信念はいずれ現実化します。美の基準はいくつもあるんです。”(p110)
 本質主義的なものがあろうがなかろうが、技術的に顔を変えることが可能なのだから関係ない。現実の顔を変えることができるし、基準に合わせることも、基準を合わせることもできるという点で相対主義の一つと考えられる。


非対称性) 
 美人とは、美しい女性の人という意味を指し、社会的に男性に関しては用いられない。
 美人の対応呼称としては美男子。これは成人男性にも用いられるが、「男子」という文言が示すように、男性の容貌の美を問うに当たっては正面から想定されているものではないと言える。
 つまり、容貌の美とは女性にとって意味(重要性)を持つが、男性にとってはそれほどの意味を持つものではないと考えられる。
 近年、美男子ではなく「イケメン」という言葉が多用されている。
 これは容貌の好ましい男性を指すものだといえるが、「イケメン:行けている男性」という言葉を見れば、単純に容貌の問題で判別されるものではない。
 つまり、「行けている」とは、「いかす」から派生しており、「いかす:気が利く」というように外観ではなく機能的な要素を基準としているものであるため、「イケメン」とは容貌以外の機能的(能力的)な要素によっても認定されうるのだといえる。


もうひとつの相対主義)
 上記で『ブスの壁』を用いた分類を試みたが、もうひとつの分類がありうると思われる。
 相対主義として②に含まれるのだが、メディアの(利益関係などの)上で「美人」として扱われることを通じての美人が存在している・しうると思われる。
 それは「美人」だと本当に思っている集団に支えられている場合もあれば、本当に思っていないがメディア上のポジションとして「美人」であるとされている場合もあると思われる。
 メディア上で「美人」と認定され、ラベリングされて、流通している。そのポジショニングについて大衆はたいした関心を持っていないために、流通状況に変化は起きない。
 これは能力と関係する「イケメン」の方がわかりやすいかもしれない。
 「イケメン」は外貌以外の要素を持つので、「美人」以上に相対的なものとなりうる。


ブスである意味)
 映画『愛しのローズマリー』は、美人に固着的な嗜好をもつ男性が催眠術をかけられて外見ではなく内面の美しさを見ることができるようになる話。
 「人はやっぱり、外見ではなく、内面が大切だよね」という教訓を与えたかったと思われるこの映画は、結局、内面の美しさを外見の美しさへと表した点で教訓とはならず、さらに、外見も内面も美しい人を探せば済むという点(映画では外見も内面も変わらない美人が出てくる)で終わっていると言えます。
 『ブスの瞳に恋してる』の著者、鈴木おさむさんは美人を振って“リスペクト”できる現在の“100人中101人がブスだと答える鳴り物入りのブス”である奥さんと交際0日で結婚しましたが、鈴木さんもリスペクトできる美人を探せばよかったのではないかとも思えます。
 しかし、映画の話は措くとして、鈴木さんと大島美幸さんの二者関係にしぼれば、ブスであるということはどのような意味を持つのか。
 大島さんにとってブスであることは、「芸人」として必要であり、その「芸人」であることへの“リスペクト”が鈴木さんには必要である。
 とするならば、ブスであることは二者の間においては間接的なもの、二次的なことであると考えられます。つまり、「芸人」という対社会的な側面としてブスであることは重要であるが、二者間だけを見るとそれは二次的(「芸人」への尊敬をささえるための材料)でしかない。
 

日本のブスは美しい)
 大島美幸さんはメディア上のポジションとしてブスであることは確かでしょう。
 しかし、ブスに関する上記の分類を通して考えると、どうなるのか。
 ブスと言えるのか。
 ブスという言葉が語源であるトリカブトの毒を飲んだ際の無表情から考えれば、その毒々しさが大島さんからは私は感じられず、ブスと呼びづらい感覚があります。
 同書の著者近影にある鈴木さんと大島さんのお二人は「似たもの夫婦」と思え、男女の美の非対称性を強く感じさせるものです。

 人に目があり、視識がある限り、人は美醜を判別し続ける。
 「外見ではなく、内面が大切」という教訓を伝えるために『愛しのローズマリー』が美人であるグウィネス・パルトローを使わざるをえなかったように、それは不可避である。
 外見の美は、やがて衰える。
 人の外見が移ろい易いことを伝えるときに持ち出されることです。
 だが、外見が衰えるのは美醜に関係なく、むしろ、醜がより衰えるなら、美が衰えたものよりも大問題ではないかとも言えます。
 しかし、外見以上に、人の心は移ろい易く、規格品のような安定した一般的なありかたをしない。
 それは、心変わりという悲しみを生むが、反面、人と違うことがその個人や二者関係では直接的に重大性を持たないことをも意味する。
 だから、ブスは美しい、と言える。



追記)『ブスの壁』は、高須クリニックの院長高須克弥さんの著作です。この本を読むと、あのテレビCMが理解できるような気がします。何を言おうが、部分部分がつながっていようがなかろうが、最終的に表したいことは「YES,高須クリニック!」ということなのだなと、納得させられました。


補論)
上の記述は結局、相対主義を採っていることになるでしょう。
私見を述べれば、最も近いのはバランス相対主義です。
ただし、「美」という言葉を取り上げてみればバランス相対主義にもあてはまらない部分が確かにあるとも思います。
言葉内部の問題に過ぎないのかもしれませんが、「~は美しい」との表現には、バランスの良さを表すこと以外に、人間の感受容量を超えた圧倒的な事象を表すことがあります。
美醜という相対的な比較可能性を超えて圧倒され、形容を絶するような場合に「美」があてはめられるのです。
具体的には、神秘的な崇高さを「美」と呼ぶ場合や意図的な特徴の誇張(アンバランス)で構成された作品の「美」です。
前者の場合、一般的な「美」の基準では該当しない、むしろ極めて外れたものにもかかわらず「美」といわれます。そしてその美は、生きていることにとても身近にあるようなものだと思います。「愛しさ」と言ったほうが一般的に適切なものかもしれませんが、「愛しさ」という心が対象に密着する以前に、対象から直感的に与えられるものがあり、それが「美」と言われるのでしょう。
密着する以前のものですので、セクシュアリティとの関係は薄いものとなります。
ですので、この観点から「ブスは美しい」と言うことは、バランス相対主義を利用した「ブスは美しい」とはことなります。
 

 
 
 
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by sleepless_night | 2006-10-29 11:44 |

猫を殺す悲しみが、私を充実させる。 続編

猫を殺す悲しみが、私を充実させる。の続き。


(4)生命の功利主義 
 以上まで述べてきたことは措いて、坂東眞砂子さんの一連の「問題提起」には考えるべき論点が二つあります。
 一つは、(1)で指摘した「他生物所有権否定」の問題。
 もう一つは、生命の功利主義の問題、特に<イシュー2>で述べてある「未受精卵子=新生児猫」の問題(“生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。”)です。
 
 “「平等の原理が、我々人間の種に属する他の人々との関係のための確固とした道徳上の基礎であることを認めた以上、この原理が我々自身の種に属さないもの‐つまり人間以外の動物との関係のための確固とした道徳上の基礎であることも認めることになる」。”
 “動物の平等のために時間を費やすことなどどうしてできようか。 この態度は、動物の利益を真剣に考えようとしないは世間一般の偏見を反映している‐この偏見には、自分のアフリカ人奴隷の利益を真剣に考えようとしない白人の奴隷所有者の偏見と同じ程度の根拠しかない。”     『実践の倫理 新版』(昭和堂)ピーター・シンガー著

 功利主義倫理学を代表する哲学者ピーター・シンガーは、倫理に必要な要素としての普遍化から要請される平等原則を“利益に対する平等な配慮”であると考え、平等を問うにあたって“誰の利益をはかっているのかについては、全く考慮しない”のです。
 それは、平等を問題にされる際に暗黙の前提となっている「人間の平等」を突き破るものです。 

 “どのような本性の存在であれ、その苦しみは、ほかのどんな存在の同様の苦しみとも‐おおよその比較ができる限りにおいてであるが‐同等に計算されるべきだということである。”と、その存在のもつ利益のみを注目し、ホモ・サピエンス(人間)という種であることに特権的な地位を認る態度を“キリスト教の到達以降のものである”として退けます。
 そして、功利主義の立場から、ホモ・サピエンスという種であることからではなく、人格という“理性的で自意識をもった存在”“存続的存在と言う概念”を持つことのできる存在が、自身の安全やの将来への期待に対する利益を持つことから、“感覚することができ快苦を経験することはできるが、理性的でもなければ自意識も持ってはおらずそれゆえ人格ではないような存在”よりも多くの配慮される利益を持つと主張します。
 ですので、“「生命擁護」運動とか、「生きる権利(生命への権利)」運動という名称が間違って与えられた名称であることは今やあきらかである。中絶には抗議するものの、習慣的に鶏や豚や子牛を食べている人たちは、すべての生命に対して配慮を払っているというにはほど遠く、また、当の生命の性質だけに基づいた公平な配慮の尺度を持っているわけでもない。彼らはただ我々自身の種の成員の生命に偏った配慮を示しているに過ぎない。理性、自意識、感知、自立性、快苦など、道徳的に意味のある特性を公平に比較検討してみれば、子牛や豚やそれらにはるかに劣るとされる鶏が、どの妊娠期間にある胎児よりも進んでいることがわかるであろう。また、妊娠三ヶ月未満の胎児と比較すれば、魚のほうが意識の兆候をより多く示すであろう。”と考え。
 これは“チンパンジーを殺すのは、生まれつきの知的障害のために、人格ではないし、決して人格でありえない人間を殺すのに比べて、より悪い”し、“豚やチンパンジーなど人間以外の動物の生命がそれらの動物自身のとって価値を持っているほど、新生児の命は新生児自身にとって価値は持っていない”という結論を導きます。

 人間に特権的な立場を認めない立場を貫徹するのなら、このような結論に耐えなければなりません。
 その覚悟もない人間が、飼い猫に過剰な自己投影をして自己慰撫しているだけの話を、倫理問題として語るのは許されるべきではないと私は考え、非難します。
 

 シンガーの功利主義によれば、新生児猫は未受精卵子よりも利益(苦痛から逃れる利益)がありますので、これらを同等とみなすことはできません。
 ただし、一匹の成猫の「生」の充実のために、その一匹をかわいがることで得られる人間の「生」の充実のために、複数の新生児猫を殺すことは正当化できる可能性はあります。
 しかし、(坂東さん自身が述べたように)猫の本来の幸せが野生で自由に生きることであるならば、それを人間が飼うことはできなくなります。人間と動物を平等に考えたとき、人間の娯楽・愛玩のために動物を飼う利益は、動物が本質的な「生」を生きる幸せ(利益)に劣るからです。

 坂東眞砂子さんの話は、自分の都合に甘く、表明した自身の思想に不誠実です。
 他の生物に関して権利が無いとするなら、そもそも飼うことを自らに許してはなりません。
 本来権利が無いが避けられないというのなら、いっそう最小の犠牲にとどめるように配慮するべきであって、全力で子猫の貰い手を探せばいいのです(現実として血統証つきでないと難しいというのなら、著名な作家という自分のブランドを着けてやればいい)。
 
 坂東さんの結論(生ませて殺す)では、「どうせ権利が無いことをやるのだから、後は何してもいいでしょ」という他棄的なスタンスであって、倫理的に正当化することは(坂東さんが神であったり、神託を受けてるような場合を除いて)できません。
複数の新生児猫たちには「生」の本質を味わうことは認めずに、「生」の本質=セックス・出産を理由として新生児猫を殺すことが、いかなる理屈で可能なのかが全く理解できません。「神の選択」をしているのは、ほかならぬ彼女自身であることに、どうして気付けないのか。(この部分、倫理の普遍化要請については補論を述べます)
 
 自分で自分の考えに反することを行っている居心地の悪さを、他人や社会を批判することで紛らわすのは無意味です。悲しむ資格すら疑わしい。
 
(5)南泉斬猫(なんぜんざんみょう)
 “南泉和尚、東西の両堂の猫児を争うに因んで、泉、乃ち提起して云く、「大衆道い得ば即ち救わん。道い得ずんば即ち斬却せん」。衆対無し。泉、遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に拳似す。州、乃ち履を脱いで頭上に安じて出ず。泉云く、「子、若し在らば即ち猫児を救い得ん。」”(『無門関』岩波文庫)
(意訳:座禅の修行道場で一匹の猫について論争をしていたところに、南泉和尚が来て、猫を取り上げ「この猫について、自分が掴み取ったものを表現してみろ。できなければこの猫を殺す」と言った。誰も表現できなかったので、南泉和尚は猫を切り殺した。夕方、弟子の趙州が道場へ帰ってきたとき、南泉和尚はこのことを話すと、趙州はすぐさま履物を脱いで頭上に載せた。南泉和尚は「もし、君があの場にいたら猫を救えたのに」と言った。)


 南泉和尚のこの猫を取り上げての問いかけに対する趙州の応え、それぞれが何を表しているのか。 
 そもそも禅の公案は頭で解くクイズではないので、“言句に滞って解会を求むるをや。棒をふるって月を打ち、靴を隔てて痒がりを爬く、甚んの交渉か有らん。(意訳:言葉によって悟りを得ようとしても、棒を振り回して月を打ち、靴を履いたまま痒い場所を掻こうとするのと同じ様に、求めていたものに近づくことはできない。)”のです。
 「道う(いう)」とは、言語表現に囚われない分別のはからいを超えた自己表現をすることを意味します。
 しかし、ここではとりあえず、無謀と僭越を承知で私の考えを分別知上で述べてみます。

 南泉に対して趙州は頭上に履物を載せます。
 この行為に表現の意味(特定の行為を選択した意図)を読み取ることは間違いだという見解もあります。
 ジャスチャーと言う言語表現の一種だと捉えることになり、言語表現に囚われない自己表現としての「道う」に反するからです。
 しかし、私はこの趙州の行為がとっさの行き当たりばったりなものとは考えられないのです。
 帰ってきたから履物を脱ぐのはよいとして、それを頭上に載せるというのは、あまりに大掛かりではないか。
 ですので私は、この履物を頭上に載せた行為は、“下座”の表現であると採ります。
 自らの頭上に全ての生命を頂いて礼拝することです。
 目の前にあった生命について問われたので、帰り来て脱がれた履物を載せた。
 勿論、それを明瞭に意識して行ったのではなく、日常の行いとして無心に合掌することと同じ姿勢でです。
 目の前にある猫という一個の具体的な生命を問われ、頭でのみ働く思想や概念を持ち出して論じ解明しようとしていた修行者たちは「道う」ことができなかった。
 それは、眼前の具体的な生命と言う、抽象的な観念や言葉で表現することなどできないものを、頭で考えていた中で「道う」ことを求められたからではないか。
 趙州は、生命を問われたら、ただ礼拝する。生命は頭で掴めるものではないからです。

 坂東眞砂子さんは、猫の生命の本質をセックスと出産にあると考え、その結果である子猫を殺したといいます。
 私には、彼女の行いは何も「道う」ことができなかった修行者たちが、趙州をまねて履物を頭上にのせているように思えます。
 履物を頭上にのせて、「猫は死んだけど、私の頭は汚れたよ」と得意になって、自分の頭上の汚れを喧伝しているのです。
 頭がどれほど汚れようが「道う」こととは全く関係がないのと同じく、猫が何回セックスして出産しても彼女の言う「生」の本質はつかめないでしょう。
 もし「生」の本質がセックスと出産にあるのなら、彼女自身が見当識を失うまでセックスし続け、子宮が破れるまで子供を生み続ければいいのです。
 そちらのほうが、子猫を殺す悲しみでつかめるはずも無い、自分の「生」を掴めるはずです。
 


(6)非難への非難
 仮に、坂東さんが「猫を殺す痛みが、私の「生」を充実させる。だから、生ませて殺すのだ」といったのなら。
 私は彼女を擁護したでしょう。
 私は人間による(人間を主体・中心とした)倫理を考える、シンガーの言うところの“種差別”主義者です。
 それには、人間だからという諦め(甘受)の部分と人間だからという意志・希望の部分があります。
 甘受する部分として動物の所有権を認めることを前提として、意志・希望の部分によって動物の(人間による・人間のための)保護や虐待防止を訴えます。
 そして、新生児猫を投げ捨てて殺すことは、不快感を催すものの、おかれた環境によっては認められるものであり、可罰的な行為だとは考えません。
 それぞれが飼っている犬や猫を「うちの子」と呼んで(私の価値観から)過剰な保育をする、人間の子供と同様の扱いをし、それを他者に求める(犬を犬と呼んで怒られる)のと同じ程度に不快なだけです。
 それは、「保守」的な家族論者が非難することとは違います。
 何を家族だと感じ・家族と認識したいかは、それぞれの勝手とすることであって、「一緒に住んでない祖父より、一緒にすんでいる犬を家族だと思うとはけしからん」と怒ってみても無意味であり、それは歴史的に変化してきた家族定義の変化の一つだと捉える(外部からの隔離と内部での親密性は、近代家族の特徴ですので、一緒に住んでいなければ家族と認識されなくても仕方が無い)からです。機能的に考えれば、現代において子供もペットも耐久消費財です(だからこそ、逆に、社会制度としては人間と動物の区別・線引きをしておくべき)。
 それぞれの飼い主サークル内部での認識や感情は問題とするべきではないし、できないと考えます。
 
 猫を殺すこと自体は些事です。
 可愛い猫を殺したからという感情で坂東さんを非難する人を、猫と人間の区別を都合よく使い分けて自己欺瞞に浸ろうとする坂東さんと同じ程度、私は非難します。
 
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by sleepless_night | 2006-10-06 21:59 | 倫理

猫を殺す悲しみが、私を充実させる。

はじめに)
 作家の坂東眞砂子さんが、子猫を投げ捨てて殺していることについて。
 私は、猫が何匹死のうが、特別な感傷を持ちません。
 猫を殺していること自体を非難する意欲もありません。
 しかし、彼女が語る思想と行いの無節操さについては、強い批判をしたいと思います。
 
 
(1)基本分析
 日経新聞8月18日夕刊  猫殺し告白初出 全文

“こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
 世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
 動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
 そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。”
  →<イントロ>

 “家の隣のがけの下がちょうど空き地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。
 タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
 草ぼうぼうの空き地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。
 子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
 自然に変えるだけだ。”
 →<エクスキューズ1>:生活環境へ実質的無害であることによる言い訳。

 “子猫殺しを犯すにいた多野は、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。
 みんな雌だ。
 雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
 残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
 当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
 タヒチでは野良猫はわんさかいる。
 これは犬も同様だが、血統付きの犬猫でもないと、もらってくれるところなんかない。”
 →<エクスキューズ2>:実際問題としての出産と子猫貰い手のなさによる言い訳。

 “避妊手術を、まず考えた。
 しかし、どうも決心がつかない。
 獣の雌にとっての「生」とは、盛りの付いた時にセックスして、子供を生むことではないか。
 その本質的な生を、人間の都合で奪い取っていいものだろうか。”
 →<イシュー1>:「生」の本質=セックス&出産 説、本文の中心思想。 

 “猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。
 猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
 だが私は、猫が飼い主に甘える根源には、えさをもらえるからと言うことがあると思う。
 生きるための手段だ。”
 →<カウンター1>:予想反論に対し、坂東さんの猫観に基づく事前反論。

 “もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
 しかし、それは飼い主の都合でもある。
 子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
 だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。
 私はこれに異をとなえるものではない。”
 →<カウンター2>:同上。

 “ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。
 子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
 避妊手術のほうが、殺しと言ういやなことに手を染めずにすむ。
 そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
 どっちがいいとか、悪いとか、言えるものではない。”
 →<イシュー2>:「生」の本質=セックス&出産 説
          未受精卵子=新生児猫

 “愛玩動物として獣を買うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
 獣にとっての「生」とは、人間の干渉無く、自然の中で生きることだ。”
 →<イシュー3>:「生」の本質=セックス・出産説。

 “生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといって生死に関わることでない限り、ひとが他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
 人は神ではない。
 他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
 どこかで矛盾や不都合が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
 生まれた子を殺す権利も無い。”
 →<イシュー4>:他生物所有権否定。

 “それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。”
 →<イシュー5>:一匹の成猫の「生」>複数の新生児猫の命

 “もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。”
 →<エクスキューズ3>:自己憐憫。


 以上のように幾つかの部分に分類して、見えてくる特徴は三つ。
 一つ目は、<イシュー1~3>に現れる根本思想、「生」の本質=セックス・出産説
 これは、“生殖機能とは、ただ身体器官のみのことではないと思います。それは生き物として、生きる意欲、活力、発展、成長といった豊穣性に通じる源”(週刊朝日)
 “不毛とは、豊穣の反対を指す。 種無し、不妊、生殖活動の枯渇である。”(週刊現代)
 “陰のうと子宮は、新たな命を生み出す源だ。 それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を絶つことにもつながる。”(毎日新聞9/22)でも繰り返されている。
 二つ目は、<イシュー3・4>や<カウンター1>に現れる、他生物所有権否定、他生物を飼うこと=人のわがまま との認識。
 これは、“哀願動物として生き物を「所有」する人間の傲慢さです。”(週刊朝日)で端的に表されている。
  三つ目は、<エクスキューズ2・3>に現れる、自分への甘さ。これは指摘した部分以外に、理論構成自体の甘さ(酷さ)にも現れている。
 これについては、他の文章で端的に現れているものを用いて以下で述べる。

(2)オニババの無痛文明論
 ①『オニバ化する女たち』(光文社新書)三砂ちづる著

 “女性として生まれてきたからには、自分の性、つまり月経や、性経験、出産といった自らの女性性に向き合うことが大切にされないと、ある時期に人としてとてもつらいことになるのではないか、ということです。 表現は怖いのですが、オニババ化への道です。”
 “このままほうっておけば、女性の性と生殖に関わるエネルギーは行き場を失い、日本は何年かあとに「総オニババ化」するのではないか”
 “性と生殖に関わるエネルギー”を使わずに軽視してきた「オニババ」化が進みつつある戦後の女性は、月経血をコントロールできなくなり、病院出産で子育てが下手になった。
 それを改善するには、“しっかりとからだに向き合って自分が変わっていけるような、「原身体体験」としての出産経験“(「変革に関わるような出産経験」)や、“魂の行き交う場、霊的な経験”“自分の境界がなくなるような、宇宙を感じる経験”であるセックスが必要である。
 セックスと出産をすれば女性の問題は解決するという話、身体論の一種。 
  
 ②『無痛文明論』(トランスビュー)森岡正博著 
 “無痛文明とは、「身体の欲望」が「生命のよろこび」を奪い取っていくという仕組みが、社会システムの中に整然と組み込まれ、社会の隅々にまではりめぐらされた文明である。そこでは、快と刺激と快適さを生み出す様々な社会装置が網の目のように整備され、それらに取り囲まれることによって、われわれは「生命のよろこび」をどこまでも果てしなく見失っていく。”
 “無痛文明が、本物の苦しみを内部化し、無化していくやりかたとして、「存在抹消」「目隠し」「解毒」「予定調和」がある。” 
 “苦しみやつらさの原因を消滅”させる「存在抹消」。介護のつらさをなくすために安楽死させ、望まない児を育てる苦しみを無くすために中絶するなど、“今存在する苦しみを消すだけでなく、これからわれわれを襲うであろう苦しみをあらかじめ用意周到に予測しておいて、その苦しみを将来生み出す原因となるであろうものを、いまここで予防的に次々と抹消していく”仕組みへと発達する。
 “苦しみの原因を、自分の見えないところに追いやる”「目隠し」。汚い路上生活者を郊外の施設に収容し、さらには“目の前にそれがあるのだけれども、そんなものはないんだと自分にいいきかせる。それを続けていくと、目の前にほんとうは見えているのだけど、見えていないという心境にいたる”までに洗練されていく。
 “「苦しみ」というものが本来もっている、人間を否応なく巻き込んでいく力”を「解毒」し、“理性によって単に描写されるだけ”のものとする。
 その一方で“苦しむ人々を助けることが、彼らのためにもなるし、それ以上に自分自身のためにもなる”と「予定調和」で援助行動が行われる。
 個人が内面化し、これらが仕組みとして社会に組み込まれることで、無痛文明で人々は“自己を崩壊させることなく、快適な生を維持できるようになる。”
 無痛文明を支える「身体の欲望」とは、“現状維持と安定を図る”“人生・生命・自然を管理する”ことで“快を求め苦痛を避け”、“他人を犠牲にする”までして“すきあらば拡大増殖”しようとする欲望の総称。
 その身体から生じる“どうしても抑えきれない欲望”が、“人々のやりとりや、思考や、制度の中で鍛ええげられ、お互いに織り合わされ、やがて奔流となり、個人の力では統御できないような巨大な力をたくわえて人々を動かし社会を水路付け、人々の身体に流れ込み、流れ出し、人々の思考と行動を貫き通す。”
  無痛文明は私たち自身の「身体の欲望」に根ざして生成し続ける。固定した根を持たず、絶えず流動し、変貌し続ける無痛文明を生み出すのは自分「身体の欲望」である。
 したがって、私たちは自縄自縛の状態、常に自らが求めて縛り付ける状態から問いを発し、闘わなくてはならない、極めて不利な状況にあると言える。

 ③オニババと無痛文明論の野合 
 (1)で述べた特徴の第一、「生」の本質=セックス・出産説は『オニババ化する女たち』と同じ。
 とにかく女性は性向と出産をすることが最重要であり本質との考え方。
 そして、その「生」の本質に対し、好ましさや快適さを求める行為に付随する不都合に予防的な措置をとり(避妊手術)、それが猫のためにもなると考えることは“「存在抹消」「目隠し」「解毒」「予定調和」”という無痛文明の表れに他ならない。「身体の欲望」という面倒を無くそうとする欲望がセックスによる出産という「生命のよろこび」を奪い、生命を生き切ることにはならないという文明論的な発想。

 “避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めず無すむ。”
 “それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。”(日経8/18)
 “存在意義の根幹となっている生殖機能を奪い取り、それが正しいのだ、と晴れ晴れした顔でいってもいいものでしょうか。”(週刊朝日)
 
 自分は、「生命のよろこび」を奪う無痛文明と戦っている。
 “痛み、悲しみも引き受けて”いるのだ、と。
  
 無痛文明を指弾する文明論とオニババ化を唱える身体論が野合するとき、坂東眞砂子さんの上記転載した思想が生まれる。

(3)耐え難いまでの自己憐憫
 ①野合の醜さ

 野合は野合でしかなく、一人の学者が主著として世に問うた思想とは違う。
 坂東眞砂子さんが『無痛文明論』を引いているわけではないので、そこから彼女を批判することは適切なものではない。
 しかし、言葉を生業とする人間としての二人を比較すると、立ち位置・問題意識のありかたは同じ場所なのに、坂東眞砂子さんが行き着いた場所はあまりにも自分に甘い。
 無痛文明論でも、避妊を苦痛の予防的な排除として非難しています。問題を人間の目に触れなくして、快適さを保つという無痛文明の表れだと考えるからです。
 しかしそもそも、ペットについて飼うこと自体が人間社会や自分の孤独から逃避する無痛文明の所産であると考えられ、無痛文明論の観点からは、坂東さんの出した結論(ペットを飼って自由に交尾・出産させるが、増える子猫を飼うのも貰い手を捜すのも負担だから殺す)を支持できないと考えられます。
 無痛文明論は自分自身を棚上げにしないことを旨として、議論を一貫させています。
無痛文明を基礎付けるのは自分も持つ「身体の欲望」であり、無痛文明と戦うとは他者や社会と闘う以前の自分との戦い、自分の欲望を棚上げにして社会や文明を問題にすることではないというのが『無痛文明論』に現れる森岡正博さんの一貫した姿勢です。
 ですから、仮に森岡さんの立場に反対するとしても、その意見は尊重でき、議論をするに値するものだと言えます。
 対して、坂東さんの話は、酷く甘い、恣意的に選んだペットの「生」の本質を守ることで癒される自分の「身体の欲望」の棚上げ、引け目を解消するための身体論と文明論の都合のよい利用、オニババと無痛文明の野合であり、ひとつの尊重に値する議論とは評価できる水準にありません。
 
 ②意味の分からない話。
 簡単な事実の確認をしておきますと、坂東眞砂子さんは猫ではないと言うこと。
 彼女は猫を殺す人間であること。
 彼女が涙枯れ、体中の水分を出しつくし、餓死したとしても、「だから何?」とうこと。
 殺される猫にとっては「その悲しみは、だから何になるの?」。

 “ペットを溺愛する行為の中には、人間との関係は砂漠化しているが、心の中までも愛の不妊状態にはしたくないと言う思いもある。飼い猫に手術を施し、不妊状態にさせるのは、その希求をも踏みにじり、殺してしまうことになる。それは自分自身に不妊手術を施すのと同じ気分だ。”
 “不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穽を前にする気分になる。”(週刊現代)

 繰り返し確認しますが、坂東眞砂子さんは殺される猫ではない。
 坂東眞砂子さんは、自分の“心の中までも愛の不妊状態にしたくない”ために猫を殺すのである。
 猫に強烈な自己投影をしたうえで、区別が付かなくなって、人間である自分の“愛の不毛”を嘆いている話から、なぜか猫の“愛の不毛”を防ぐ話になります
 
 「ペットの猫を不妊にする→自分が不妊=不毛になった気分になる」
 これを避けるために彼女は猫を殺している。それだけの話です。


 だから、坂東眞砂子さんはすぐさま、今飼っている成猫も崖に投げ捨てて、セックスしてればいいだけの話になるはずです。
 鏡を見て「私は猫ではない」と十回となえて、セックスすれば終わりです。

   
 ③「敏感な私」に酔える鈍感さ
 彼女の猫殺しは、「生」の本質=性交・出産論が基礎にあります。
 それが、自分がセックスして出産することの代わりに、猫にセックスして出産させている意味の分からない話を、社会の問題として語らせます。
 “心の荒廃した小学生を含む青少年の犯罪は増加の一方だ。”(週刊現代)と嘆いてまで見せます(実際は少年犯罪は減っているか横ばい状態)。

 “人を愛するのが難しい。だから、猫を飼っている”(毎日新聞)
 のは、まずもって坂東眞砂子さん本人の話であって、社会を主語に語って、自分の問題を希釈するのは自己欺瞞に過ぎない。 
 彼女は自分の内心の問題を癒すために猫を飼い、そして、独自の思想に基づく判断によって新生児猫を殺している。 
 子猫を崖に放り投げ殺すとき“痛み、悲しみ”があるかもしれない。
 しかし、それは甘美な“痛み、悲しみ”であり、彼女自身の「生」を充たすために行われているものに過ぎない。
 作家として、どうして最後まで「私」を主語に語らないのか。
 それとも、社会を主語に語ることで受ける非難の“痛み、悲しみ”も自身の「生」の充実させる手段としているのか。

 作家として、「子猫を殺す痛みと悲しみが、私を充実させるのだ」と言えばいいのです。
 世間は今よりも激しく罵るかもしれません。
 しかし、そのほうがよほど誠実で、整合しています。
 さらにいえば、その反社会性は芸術家としての特権ですらあるかもしれません。


 続き⇒猫を殺す悲しみが、私を充実させる。 続編
 




 
 
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by sleepless_night | 2006-10-06 21:58