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救う会の救われない救い


 フィクションです。

    * 

 AB夫妻の娘C(3歳)は先天性の重い心臓疾患を持っている。
 治療手段は移植以外になく、余命1年だといわれている。
 移植は日本ではおこなうことができず、渡航移植にはAB夫妻の預貯金と処分できる財産を合計した金額より一億円必要。
 そこで、Cを救う会を組織し、友人や親戚などの力も借りて募金活動を行うことにした。
 繁華街で活動しているところに、関係はないが関心があるD、E、F、G、が通りかかり、Aと会話する。

 D:「こんにちは」
 A:「こんにちは」
 D:「寄付を考えいますが、その前に、お話を聞かせてもらえませんか」
 A:「ええ、どうぞ」
 D:「さっそくですが、寄付に頼って海外で移植することに問題はないとお考えですか」
 A:「どのような問題が考えられますか」
 D:「まず、純粋に理論的な問題ではなく、現実的な問題について考えて見ますと、平等の問題があると思います。」
 A:「はい、Cは何らの帰責性もなく心臓疾患を持ち、皆がもつ生きる権利を奪われようとしています。平等という観点から寄付によってでも権利を実現させるべきではないでしょうか」
 D:「仰るとおりです。結果の平等ではなく、Cは生きるという参加する権利が奪われようとしています。しかし、やはり平等から二つの問題を指摘させていただきます。一つは、海外で移植することに関して。つまり、海外での医療資源を消費すること、特に医療保険や為替の問題で有利に立つこと、で提供元の国の人々との不平等があると考えられます。もう一つは、寄付で移植することに関して。つまり、Aのような活動できる能力のある親の下に生まれてきた子供とそうではない子供とに不平等があると考えられます」
 A:「一つ目については、医療は人間の生命にかかわりどこの国にいても命は変わらないのですから、国境を問題にするべきではないと考えます。必要な技術や資源は必要な人に開かれるべきだと考えます。もう一つにつていは、私も同意します。そういったお子さんたちのためにも、統一的な支援機関が必要だと考えます」
 D「一つ目のお応えについてですが、生命の平等をおっしゃるならば、Cに有利に働く国家間の経済格差はどのようにお考えになりますか。技術や資源が開かれて必要な人が手に入れられることは賛成です。しかし、現実の不平等がCに有利に働いており、それを利用して生命の平等を害していませんか」

Eが話しに入ってきた。

 E:「お話のところすいません。お二人のお話を伺っていて効率の観点から考えてみてはどうかと考えたのですが、どうでしょうか」
 D:「はい、効率の観点、功利主義からの話はAとの話の続きにもなりますね」
 A:「功利主義ですか。具体的にどのような問題が考えられますか」
 E:「AD間でなされた平等の話は、有限な医療資源を、経済的に有利な立場の人間が優先的に利用していることだと言い換えられると考えます。そうすると、どう利用することが功利的には善いのか、経済的に有利な立場の人間が優先的に利用して(功利的に)よいのかが問題だと考えられます。この問題は、海外での移植の問題と寄付での移植の問題どちらにも問われるのではないでしょうか」
 A:「海外での移植と関係するのは分かりましたが、寄付でのとはどう関係しますか」
 E:「寄付での移植の話とは、Aがおっしゃったように、統一的な支援機関の設立の問題です。Cを救うのには一億円が必要とのことですが、この一億円が統一的な支援機関の元でより効率的な利用ができるのではないかということです」
 A:「効率的なというのは、どういうことですか」
 E:「二つ考えられます。一つは、一億円でC一人を救うのはお金を掛けすぎるということです。一億円でより確実に多くの命が救えることを考えれば、量的に、寄付を使って海外で一人の手術をするのは非効率で、功利的にはよくありません。もう一つは、質です。はたして、Cはこの社会に一億円をかけるほどの貢献をする人間なのかということです。Cの代わりに天才的な知能を持つと推計された子供たちに一億円を掛ければ、社会はより多くの快や福利を得ることができて功利的に善いのです」
 A:「量的なほうは分かりました。しかし、質的な問題は、社会を不安にさせてかえって社会を支える基盤をおびやかしてしましませんか」
 E:「確かに、質的な優劣を徹底して検査した上で、序列をつけて救済するというのはやりすぎかもしれません。しかし、一定の質があるかどうかを検査することは必要ですし、受け入れられるのではないでしょうか」
 D:「質という観点を私の言った平等と組み合わせてみれば、質の低い人間と高等な生物の間の不平等ということも考えなくなりますね」


Fが話しに入ってきた。

 F:「DもEも、他の人とのことを考えすぎていないか。だって、ABはCのために心臓がほしい。どこの誰かわからないけれど、心臓が要らなくなったからあげると言っている。お互いに合意がある。ABは金が足りない。ABに金をあげたい人がいる。お互いに合意がある。確かに、気持ち悪い感覚や容れがたいと思おう人もいるかもしれないけれど、それは人それぞれなのだから、具体的で直接的な侵害がされていない人たちがどうこう言うべきではないのではないか。むしろ、お金で臓器を買っていけないとしてる現状がおかしい」
 E:「Fの意見にも同意できるところがあります。いま臓器が足りないのは、臓器を提供する側はあげ損で、受ける側も待つしかないという現状があるからだと考えられます。臓器の売買が認められれば、あげ損はなくなりますし、需給関係が活発化して流通量は増えるでしょう。功利的には善い考えだと言えます」
 A:「待ってください。Fのおっしゃるような売買構造で移植を受けるのではありません。手術費はかかりますが、提供者にはお金を払いません」
 D:「私は経済による不平等についてお聞きしましたが、その点から開き直って言えば、お金を払ってしまったほうが、払わない現状よりも平等の観点から是認できるかもしれませんが、どうでしょうか」

Gが話しに入ってきた。

 G:「皆さんのお話を伺っていて、そもそも移植をしないという選択肢はないのですか」
 A:「それでは、Cは死にますが」
 G:「逆に考えてはどうですか。Cは誰かが心臓を要らなくなる、つまり死ぬことが必要なのですが、他の子供に死ねということですか」
 A:「いえ、そんなことはありません。不幸にして死んでしまった子供の心臓をもらいたいのです。そのまま使わなければ無駄になるだけですから」
 E:「無駄ということでしたら、私がお聞きしたように、功利性の観点から、一人に一億円を使うのは無駄が多いことは、どうお考えになるのですか」
 G:「ですから、人間の命や身体を利用すること自体をやめた方がよいのです」


一同沈黙。


 テレビ:「さきほどビック・ニュースがはいりました。南部レオズの竹坂選手がメジャーリーグのケンブリッジ・レッドアックスと5年推定総額60億の大型契約を結んだとのことです。今日は後ほど特集でも、たっぷり竹坂選手についてお伝えしますが、さっそく現地の特派員に様子を聞いてみましょう…」
 

 D:「今日はどこも、こればっかりでしょうね…。では、少ないですがこれを」
 Dに続いて、E、F、G、もそれぞれ小額ずつ寄付して去ってゆく。


 テレビ画面には、現地人とおぼしき人達と用意よく日本の竹坂のユニフォームを来た日本人数人のはしゃぎに揉まれながら、楽しそうな声で話し続けてる男が映っていた。



  それを見ていた、渡航移植にも渡航野球にも関係も感心もないHは思った。
 なぜ、Aの論理を否定したのにDEFGは寄付できたのか。
 なぜ、テレビに映る人間たちは自分たちに一銭も入らない契約にはしゃげるのか。
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by sleepless_night | 2006-12-31 11:36 | 倫理

自分が決める命/自殺という過酷な自由を考えるために

 
自分の命/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き

(10)所有と決定
 (8)②で紹介した小松美彦さんの議論でも述べたように、自己決定権はパターナリズムへの異議や弱者の権利奪還としてここ数十年に現れた話であり、自己決定権の(暗黙・無意識化されるほどに当然視される)基礎である自己所有権の発想が正面に押し出されるようになったのは(7)②で述べたようなミルら啓蒙思想家の出現によってである。
 (8)①で述べたように(自己所有を含む)所有の概念は通歴史的であるとしても、近代の自己所有概念はそれ以前のものと比較して、外部からの侵略への抵抗意識であると同時に新しい社会の非関与を通じた介入戦略の道具でもある点で特徴的な変化があったと考えられる。
 つまり、「私のもとにあるもの・作ったものは私のものだ」という所有概念は、封建的権力からの恣意的侵略への抵抗を強く正当化すると同時に、新しい経済・社会では、個人の所有意識に訴えかけることで市場の活性化・増大に自発的に寄与させる生き方へと導くことに成功した。私は私の所有者として、私自身を価値あるものにするために教育し訓練し、失敗すれば自分のものとして自分を処分する(放置される)。
 このように、自己所有権は抵抗や奪還としての意味合いと同時に介入と廃棄の可能性をも含む。
 自己決定権によって中絶や治療選択を主張した医療での弱者が、同じ自己決定でも自発的積極的安楽死に反対する矛盾は、この自己所有権の二面性にあるといえる。
 そこで、(死の)自己所有権に反対する小松美彦さんの異議や、自己所有権を認めずに自己決定権を認める立岩真也さんの議論が起きる。
 とすると、自己所有権への抵抗とは、自己所有権の介入と廃棄の可能性に対する抵抗だと言える。
 これを言い換えれば、人が在ること・他者が在ることよりも、自分(たち)が増大すること・自分のもとにあるものが奪われないことを大切だと感じるか否かという問題(自分の知らない場所の1000人を餓死から救うために、自分が新車を買うために貯めた金を寄付できるか?)だといえる。

(11)「在る私」から自己所有権/<他者>と≪他者≫の倫理
①第一にあるもの

 人(他者)が在ることが大切だ。私たちの社会にある感覚をもとに自己所有権を否定(解体)して自己決定権を認める立岩真也さんの主張は確かに理解できる。
 しかし、森村進さんが訴えかけた私自身の犯されがたい感覚(所有感)もある。
 どちらかが優越する、第一の原理であるというのではなく、もし社会や私たちに第一にあるものを記述するとしたら両者が対立しあう構造なのではないか。

②自己所有権の肯定
 他者(制御できない・しないもの)が快を、私たちが世界を生きることの享受に欠かせないものであるということと同時に、他者(制御できないもの)を制御することも生きるこの享受には欠かせない第一のものとしてある。
 立岩真也さんは「私の身体は私のもの」であるという認識を論理的に正当化できないことから、他者を介して自己決定を認める。
 しかし、立岩真也さんの設定した問いは「魂‐肉体」の二元論を前提にしないと成り立たないのではないか。
 私たちは存在するとは、肉体によって生まれなければならない。つまり、私とは身体であり、そのほかの物とは異なり私に問うためには私が肉体として存在しなければならない。
 肉体によって生まれ・存在している私に「あなたの身体はなぜあなたのものなのか?」と問うことは、そもそも、私へ問いの回答を求めることから、身体によって存在している私を認めることにはならないか。
 肉体によって存在する私は「意識‐肉体」「脳‐肉体」「魂‐肉体」という二元的なあり方を認識する以前に「在る私」であって、その私に対する侵害に「私だ」と反応する。その反応こそが、森村進さんの訴えた通歴史的な所有意識と言い表せられると考える(他者をわざわざ介さなくとも「在る私」はある)。
 したがって、やはり自己所有権は肯定される。
 特に自己決定では「在る」という占有性を表すことができない。
 ただし、立岩真也さんが他者の承認によって自己所有権を解体して限定したように、「在る私」によっても自己所有権の限定はされる(特に、自己所有権の延長から正当化する所有権について。また、自己所有権の介入と放置の危険性を防ぐためにも)。

③<他者>と≪他者≫の倫理
 私が私にとって他者である場合を<他者>、他の人やものの場合を≪他者≫とする。
 ≪他者≫の制御はもちろん、<他者>の制御でさえしつくすことは不可能なのではないか。
 私たちは生まれようとして生まれたのではない。私であろうとしたから私であるのではない。つまり、私が在ること自体ですでに<他者>は否定できない事実としてある。
  
 倫理と道徳は、ethicsとmoralsにあてられる。
 英語はどちらも、ギリシア語(とそのラテン語訳)に由来し、慣習や習俗の意味と、慣習や習俗の大本にあるべき目的(善・真理)の探求の意味がある。
 アリストテレスのような国家観から離れて、人間の生きるべき真理と単純化するならば、後者は慣習や習俗と敵対する場合もある(倫理をたんなる共生の作法であり、歴史的文化的な相対的規則だと考えるのか、そうではなく永遠普遍の人間が従うべき・目指すべき目的や法則だと考えるのかという対立、最低の倫理と最高の倫理の対立とも言える。勿論、この問いは倫理とは何かという疑問であり、確固とした答えはない。実践哲学としてはじめて倫理学を独立させたアリストテレスならば、理想的な人間の生が国家と不可欠に結びついている国家観から、両者は敵対しない)。
 その意味からすれば、<他者>との関係で問題になる倫理(私の生き方)と≪他者≫との関係で問題になる倫理(世界のあり方)が対立しうることと重なる。
 それは、(10)で述べた私の所有増大と他者の生存との対立とも重なりうる。

(12)自殺の倫理的評価/所有による存在の危機
“今日の西洋社会において、自殺は、自ら手を下した意識的行為によってもたらされた死とされる。その行為は、死ぬことが最良の解決法と認識された出来事に直面し、窮地を脱することを願った人物の、多くの次元をもった苦痛によってもたらされる、と考えるともっとも理解しやすい”
 E・S・シュナイドマン(UCLA名誉教授)の自殺定義から考えて、自殺はどう評価するべきなのか。
 まず、倫理を生きている人間の倫理と考えれば、自殺に積極的な評価を与えることはできない。自殺することに積極的評価を与えれば、倫理の適応する場がなくなってしまう(もちろん、死後の生といった宗教の裏づけあればそうはいえないが)。
 それを踏まえて、上述した自己所有権の観点から、シュナイドマンの定義する自殺を倫理的に承認することはできる。
 承認せざるを得ない。
 ただし、自己所有権を「在る私」によって肯定したことからの制限がつく。
 その制限とは、“多くの次元をもった苦痛”がいかなる苦痛なのかによる。
 その点に関して、所有・生産の意味づけが存在を危機においやる現状、過労自殺と労働の正義を述べた上で示す。
 これは結局、(10)(11)で述べてきた対立、命の尊厳とは何か?生命はなぜ尊厳あるとされるのか?所有し生産できなければ死ぬことを持って人間の尊厳とするのか、人間の存在そのものに尊厳を認めるのかという問いを考えることにつながる。(生命倫理でのsanctity of lifeは特定の要素に還元することのできない無限の価値を認めることなので、所有・生産すること、達成できることをもって尊厳とするという言い方は妥当ではない。ここでは、この社会で私たちは人間の尊厳とはなにであると認めているのかを問いたいので、あえて生命倫理学からは不適切な用法を使う。sanctityも言葉の定義としてquality やconditionと切り離すことができないことを考えれば、holinessから外れるもののひとまず許容されるのではないかと考える。)


参照)
森村進著 『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書)
     『財産権の理論』(弘文堂)
小松美彦著『死は共鳴する』(勁草書房) 
     「私が脳死移植に断固反対する理由」
      http://www.videonews.com/on-demand/281290/000904.php
  SOLの立場、人間が在るということに尊厳を認め、功利的な脳死移植議論を批判
立岩真也著『私的所有論』(勁草書房)
     「死の決定について」(ナカニシヤ出版『所有のエチカ』)
 (11)②で述べた立岩さんの『私的所有論』への疑問は、存在論と認知論という大テーマを擬した怪しい内容だと自認する。しかし、どうしても「他者」を介した自己決定には違和感があった。20年近くの蓄積が成した徹底した立岩さんの思索のそこだけは納得がいかず、“禁じ手”を認めることができなかった。だから、その手を使わずに同じような結論、自己決定を認めるが条件を問題にする、という順当な結論を導けるのではないかと考えた。それが成功している(納得させることができる)とはまったく思えないが、今の時点ではこの程度が限界だと記録する。
 
追記:倫理の現れる場としての身体)
 他者があるということは、他者に対する私がなくてはならない。
 したがって、(11)①②でのべたように、第一にあるのは一つの原理ではなく、一つの対立構造、つまり、他者の享受と制御の対立であると考える。
 “光あれ”と言う様に、神の意志は瞬間に実現する、全能であるのだから時間的なズレはないし、摩擦もない。
 だが人間はちがう。思い通りになるはずもない≪他者≫との関係も、<他者>との関係もズレと摩擦の連続だといえる。
 しかし、このズレと摩擦の存在こそが人間に倫理を問うのではないだろうか。
 神は存在自体に倫理があるが、人間は自由意志によって善悪を実現する。
 そして、その善悪の可能性、ズレと摩擦という倫理が現れる場所が、なんらの関与も貢献も無く、都合も一顧だにされずに自分だとされる身体である。
 立岩真也さんの述べたとおり、これは事実であって、私が自由にしてよいという規範ではない。
 しかし、この自分という身体に正当性を認める、排他的に自らのものとすることを他人にも認めさせるということがなければ、倫理はどこに現れればよいのだろう。
 「魂‐肉体」のような二元論によって、肉体なく存在できる倫理的主体を想定しなければならなくなる。
 私はそれこそ認めることはできないと考える。生きた人間の倫理なら、その手はまさに“禁じ手”だ。
 初期割り当て以前を考えることはできない。「在る私」が他のものに出会い・侵害される時の抵抗を所有という通歴史的な概念で認めるほか無い。
 その上で、自己所有に関する近代の戦略がもたらす廃棄や介入の照準を散らす道を考える。
 残された道はそれほど多岐なものではない。
 選んだ道が、人間の尊厳とは何かという問いの答えになるだろう。

さらに追記)
 sanctityの問題。 dignity無しにsanctityはあるのだろうか? 
 
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by sleepless_night | 2006-12-26 21:51 | 自殺

自分の命/自殺という過酷な自由を考えるために

 “フィル、アンリ、ジョルジュの三人が遭難して山小屋にたどり着く。食べ物はなにひとつとしてない。空腹感が募ってくる。
 フィルの片脚は凍傷にかかっていた感覚がない。初めにその計画を思いついたのはアンリだった。ジョルジュは一応反対はしたけれど背に腹は替えられない。
 「三人で食べるんだからいいじゃないか」
 中略。その片脚が尽きてしまうと、なまじ肉を食べたあとだけにさらに空腹感は激しくなる。フィルのもう一本の脚も感覚をなくしているんじゃあるまいか。
 中略。ある日、ついにアンリとジョルジュは決心する。またしてもフィルが眠っているときに、ナイフを取り片脚にかかった毛布をめくって…だが…。
 「糞ッ」
 二人の口からくやしそうな叫び声が漏れた。
 なんと、二本目の足はほとんどなくなっていた。フィルが一人で食べてしまったのだ。”
        『恐怖コレクション』阿刀田高著(新潮文庫)より
     
 “あなたの価値は、「葬儀費用+慰謝料+遺失利益[(自殺前一年間の年収)×(1-生活費控除率)×(67歳-現在の年齢に対応する中間控除率)]+弁護士費用-過失相殺」だ。これがこの貨幣経済を前提とした社会で計算可能なあなたの「価値」だ。”
 “生きていても自分でコントロールできることは、きっと驚くほど少ないだろう。ならば、自殺するその瞬間くらい、自分の命を自分でコントロールできる程度の知識はもっているべきだ。”    『自殺のコスト』雨宮処凛著(大田出版)

      
              *

自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義編自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義 続編死を選ぶ権利/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き

(7)自己所有/自殺で問われる底の思想
①自分の体は自分のものではない

 “その御手に万物を所有したもう方を讃えよ。おまえたちは、そのみもとにこそ帰される。” 
    『コーラン』藤本勝次 伴康哉 池田修 訳(中央公論社)

 クルァーンの記述からもわかるように、イスラームでは人間に自身の所有を認めない。
 正確に言えば、この世にあるもの・生きるものは唯一絶対の神アッラーのものであり、人間が自分たちの判断でものとして勝手に処分することは許されない(ピーター・シンガーの主張する動物の権利、人間の恩恵としてのものではない権利、という点ではイスラームの思想は偽装された人間中心主義よりも主張する内容に即したものだと言える)。
 イスラームほど明確に表現されない(聖書に記述がない)が、キリスト教(カトリック)でも同様に人間が自分の判断で処分することは許されていない。
 日本では“身体髪膚、これを父母に受く。あえて毀傷せざるは、孝の始めなり”という『孝経』のフレーズに代表されるような自分の血脈による所属意識から、自分のものとして処分することを否定する発想がある。
 もちろん、『孝経』は日本の書物ではないので、アニミスティックな意識の表現として借用されてきたと捉えるのが相当だと考えられる。
 「自分の体・命は自分のものなのに」といった自殺肯定をした際に返される決まり文句「体・命は自分のものではない」という際に想定される(発言者が自分の発言の歴史的正当性を)裏づけは『孝経』にあると推測しても外れてはいないと思える。

②自分の体は自分のもの
 “大地と人間以下のすべての被造物はすべて人々の共有物であるが、しかしすべての人間は、自分自身の身体に対する所有権をもっている。これに対しては、本人以外のだれもどんな権利ももっていない。”
        『統治論』J・S・ミル著 宮川透訳(中央公論社)

 宗教からの主張を基本とする①の立場とは反対に、自分の体・命は自分のものであると考える立場。今日の常識的な立場であり、自明の前提となって、現代社会を支えているのがこの自己所有権という考え。

 以下、自己所有権を擁護する森村進(一ツ橋大教授・法哲学)さんの論述を用いて整理すると。
 “自分の身体への所有権”を狭義の自己所有権とよび、この権利は干渉されない道徳敵領域としての身体を守り、社会的な諸々の権利の起点となると考えられる。
 自己所有権を否定する立場への反論であり、肯定する自説の根拠として哲学者ジョン・ハリスの思考実験「生存のくじ」を援用する。
 「生存のくじ」とは臓器移植が発達した未来に健康な全員を対象にくじを設置し、くじに当たった人から強制的に臓器を摘出し病人(ただし、不養生ゆえの病人は除く)に移植することで、一人の命の代わりに複数の命を救うことができるようになる・全体としての生存権を拡大できる、という功利主義の発想。
 くじの当選者の理不尽さは病人が病気に罹る理不尽さと同じであり、臓器移植の受益者から外れることを避けるために人々は自己の健康を気遣うようになる。社会全体としての利益を考えたとき「生存のくじ」導入は望ましいものとなるし、平等主義の視点からも肯定される。
 この思考実験に反論する最も説得的な理論は自己所有権(自己所有権テーゼ)にある。
 現代社会で最有力な倫理思想のひとつである功利主義に立ったときに「生存のくじ」がいかに肯定されようとも、わたしたちはこれを直感的に拒否するだろう。
 “われわれが自己所有権テーゼを全面的に廃棄して自分の身体や能力や資質を共有財産とみなすことは論理的には想像できる。しかしそれは実際的に不可能である。自己所有権テーゼはそれほど吹く核人間心理に根をおろしているものだから。そのテーゼを認めないような道徳を強調しようとする試みは、よくて無駄であり、悪ければ人々の協力関係を損なってしまうであろう。”
 自己所有権、自分の体を自分の所有とする考えが、功利主義では正当化しきれず、さらに自分がなんら努力せずに手に入れているものであるにもかかわらず個人差が大きいことから恣意的で不公正な権利だと言われても、それ以上遡りえない直感に支えられた思想だと言える。
  また、仮に自己所有権を否定してしまえば、善意による臓器提供(献血を含む)もできなくなる(現に善意の提供が認められているということは、自己所有が前提とされていると言える)。
 “所有権テーゼは議論の相手が現に持っている信念に訴えかけることによって正当化できる”。

(8)所有の意味と死からの問い
①所有の意味

 所有の意味を確定させずに、「自分の体を所有する、自分の体を処分できる」と上述してきましたが、ここで「所有」の意味をおさえておきます。
 民法206条は「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分する権利を有する」と定めてる。
 つまり、「使用・収益・処分」が所有の基本にあると民法は考えているといえる。
 ただし、206条の文言上にはない、前提の条件が二つある。
 ひとつはそれが法律であることから、他者(社会)の承認があること、もうひとつは所有権が物権であることから排他性をもつこと。
 整理すると、「所有」には「使用・収益・処分」「排他性」「他者の承認」の三つが必要だと考えらる。
 このような「所有」権は法律的・近代的な概念であり、日常的・歴史的にいう「所有」とは異なるとの反論があるが、森村進さんはトニー・オレノの分析を用いて、二つは完全に一致することはないが、核心としては一致しており、通歴史的であると述べる。
 オレノは時代場所を通じて共通する要素として占有・使用・管理・収益・資本・安全・相続の権利、加害防止義務・強制執行の責任財産などだと分析し、森村進さんはこのうち占有・使用・安全への権利が「所有」権の核心的要素であり、「所有」を表す動詞がなくとも、国家による制度的保障がなくとも、成立する普遍性を有する日常的な正義感覚が法的な所有権にも重要な役割を果たしていると述べている。
 これは、民法から整理した三つの要素とも合致する。
 上記のような「所有」の意味からすれば、自己所有(自分の体・命は自分のものだ、自分は自分の命の所有者である)は「所有」で表すことが認められる。
 対して、二つの異議があげられる。
 まず、自分の命を「所有」するとしても処分(売る)することは完全にはできないのではないかという点。
 しかし、この不完全性からの異議を認めると自己所有以外にも「所有」できないものが現れる。たとえば、土地や治水は完全に「処分」することは物理的に不可能である。
 もうひとつには、「所有」には上記の三つの要件以外にも隠れた要件、「所有」する主体は「所有」する客体の外部になくてはならない、という点から。
 たしかに、右手は右手自身を把持することはできない。つまり、物理的に「持つ」ことができない。
 しかし、「所有」とは上述したように物理的に実現している必要はない。むしろ、物理的に実現していないにもかかわらず「収益・処分」ができたり、安全への権利が確保されている点に「所有」権の権利性はあるともいえる。
 したがって、物理的な不現実性を理由とする異議は認められない。
 
 確認しておくと、
 私たちは自分の体・命を占有しており「使用・収益・処分」している(例:体・命を働かせて利益を得て、その利益を自分の体・命に帰属させている)。
 私たちは、「生存のくじ」でみたように自分の体・命に関して「排他性」の要求を持つ。
 私たちは、上記二つのことを他者へ、または社会へ認めさせている。
 よって、私たちは、自分の体・命を「所有」している、自己所有権を有すると言える。

②死から生の「所有」への問い
 “生命や死が当然のごとく「所有格つきの生命・死」として語られるところに、生命や死に対するわれわれのある種の把握のしかたが隠されているのではないか。そしてそれこそが「死の自己決定権」という思想の不動性の謎を解く鍵なのかもしれない。”
 小松美彦(東京海洋大教授・科学史・生命倫理)さんは、死の側から自己所有への疑問を呈します。
 脳死移植法によって移植の場合に脳死を死とすることが選択できること、脳死を死と認めることへの反論が「死の自己決定」という擁護推進側の主張に不思議と歯が立たないのはなぜか。
 その源を探る中で小松美彦さんは“死の死亡への還元”へと辿り着く。
 18世紀ころまで死は単なる個人の生理的変化の不可逆点ではなく、時間的にも現象的にも幅と広がりをもって存在していた。
 しかし「早すぎた埋葬」(まだ生きているのに死んだと誤認されて埋葬される)の恐怖が医学を死の判定の厳密化・探求へと駆り立てた。結果、死が死にゆく個人の体内の生理現象に求められ、得られた死の医学的判定基準が、それまであった死と溶け合い不可分だった逝く者と看取る者達との間の時間や関係を消却してしまった。
 “死者と看取る者との関係のもとに成立する非知覚的な差異化的統一態”である死が“ある一定の状態、ないしある状態からある状態への移行過程を指す知覚的なもの”である死亡へと還元されてしまい、「共鳴する死」が「個人閉塞した死」へと、死者と周囲の人々との「こと」だった死が死者個人内の「もの」であると認識されるようになった。
 1960年代に医療のパターナリズムを批判し、患者個人の権利を奪還するための旗印として持ち出された「自己決定」という概念は、現代医療自体の設定した知的枠組みに基づくものであり、自らの立つ場の批判へ繋がることから根底的な批判とはなりえていない。
 逆に、生命を自分の「もの」とした前提の「自己決定」は、死(そして生)を無人称化し、平板な貧しい状態へと導いてしまう。 

③所有できない「こと」の内在性 
 死が「こと」である(あった)のに、個人の体内での生理現象である死亡へと還元され、あたかも「もの」のような所有対象となったことへの小松美彦さんの疑問。
 確かに「もの」ではないが、「こと」が個人の体内にあることは否定できない。
 共鳴する「こと」に豊かさはあるかもしれないが、だからといって共鳴性(共同性)が死者個人内で生じている生理現象(「こと」)に対して、当の個人に起きる「こと」を優越する根拠とはなりえないと考える。
 つまり、関係性を所有することはできないが、かといって、一方の当事者内の生理現象をきっかけとしている関係において、その関係の優越を理由に当人に主張することは本末転倒させることになり、(8)①で述べた自己所有概念を覆すことはできない。

(9)抵抗と抵抗/快を巡る争い
①快からの抵抗

 “生命に対する自己決定が肯定されるべきだと思う。ここからは、ほとんどすべてが許容されることになるのだが、ではそれに全面的に賛成かというとそうでもない。ここにも矛盾がある。少なくともあるように思える。これは場合によって言うことをたがえるご都合主義ではないか。しかし、私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。引き裂かれているように思われる(とりあえず私の)立場は、実は一貫しているはずだと感じる。両方を成り立たせるような感覚があるはずである。”
 (8)①で述べたように所分権は所有権の内容を占める重要な要素であることを考えれば、自己所有を認めることは自己決定の基礎であり、内容的には同じことである。
 とすると、自己所有を認める、それが私たちの社会の第一の原理となる考えだとするならば、売春や臓器売買や積極的安楽死などに反対することはできない(それを拒む最終的な正当性がない)。
 私は私の体で労働し、利益を得、生活をしている。身体・生命をどう生きるか決定することで生きている。
 なのに、臓器売買などの身体・生命にかかわる交換や売買には他者の場合でも抵抗感がある。
 所有とそれへの抵抗、この矛盾する二つを一貫させるものがあると考察を重ねた立岩真也(信州大学助教授・社会学)さんは“他者を認める、あるいは他者から快楽を得ようとする感覚”に求める。
 他者とは制御できないものであり、他の人間が他者であると同時に、私の生命・身体も私が生産したものでもない・思うままにならない他者である。
 それが第一原理であり、「私の体は私のものだ」という私的所有の発想は、私の身体が私のもとにあるという事実を規範と捉えた信仰にすぎない。
 そして、私の生命・身体については「他者をみとめる」観点から、自己決定を認められる。なぜなら、他者としての私は制御しないことで世界を享受する基盤だからであり、自分(意識)が身体・生命を所有(制御)するからではない。
 
②抵抗と抵抗
 ①で述べた立岩真也さんの考察、つまり、他者という快の源泉が第一としてなくてはならないという考察に対して、(7)②で挙げた森村進さんは“全世界が自分にとって制御可能になってしまったら快楽がなくなるというのは、杞憂の極みである”と反論し、自己所有権への反論として不十分だと退けます。
 この点について、立岩真也さんも、“禁じ手”を使っていることを同意し、その上で、身体所有権とそれに基づく自己決定ではすまない問題(抵抗の存在)があることを、「他者」という言葉を用いて表すほかなかったと述べている。
 つまり、森村進さんはジョン・ハリスの「生存くじ」への抵抗を軸にして人々の内面にある身体所有権の強固さを訴えたのに対して、立岩真也さんは「生存くじ」をもって身体所有の論理的正当性を放棄した上で身体処分への抵抗の存在を「他者」に求めている。両者は何に抵抗感を持つかという次元、これ以上は掘り下げられない場所で争っている(結局何に抵抗があるのか?という素朴な次元での争い)。
 
③存在による所有の分離
 ①で述べたように立岩真也さんも自己決定を認めている。ただ、それが自己所有権から直接にではないという点で森村進さんと異なり、その根拠の違いが結論でも違いを導くことになる。つまり、自己所有権から自己決定権を導けば基本的には排他的・独占的な処分ができるので臓器売買も売春も代理出産もできる(森村進さんは自己所有権を重視すると同時に多元的な価値基準を並存させることを認めるので、これらの無制限を認めてはいない。)のに対して、自己所有権からではなく「他者があること」から自己決定権を認める立岩真也さんの立場からは「自己決定だからよい」とは認められず、「他者があること」に反するような決定の承認はしない方向で制限がかかる(例:生活する金のために臓器を売る、代理出産する。治療費がないから治療を止める)。
 立岩さんの考えは、(8)①でのべた様々な要素の束としてあった所有権の考えからいえば、ひと纏まりだった所有権の要素をバラバラにしたうえで、存在することに必要な限度で認めていくものだと言える。

 続き→自分が決める命/自殺という過酷な自由を考えるために
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by sleepless_night | 2006-12-26 21:50 | 自殺

茶道とゲリラと安倍晋三


 “茶道は日常行為が規範化され様式化された時、それがもつ本来の日常性を形骸化する危険性を有していたといえよう。
 しかし逆に言って、作動におけるそうした形式性を否定してしまうと、茶道はたちまち日常に還元し埋没して、その存在の根拠そのものをみずから否定することになる。つまり茶道とは、日常生活にも続く営為であるがゆえに、その日常性をいったん否定し、そこから乖離しなければ成立しないのである。だからそれは一種の「虚構」といってもよい。”
            『千利休』(講談社学術文庫)村井康彦

 
 ロイター:茶道とゲリラとフランス人 
 http://today.reuters.co.jp/tv/videoChannel.aspx?storyId=3f8feb3cee76d93b3e002964496edd3f0b0fb9f6


 都市の路上から砂漠まで、そこに組み立てられた即席茶室が置かれると、日常と「虚構」の日常が出会う。
 「虚構」の日常に出会うことで、日常は自らの日常性を突きつけられる。
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 日常に出会うことで、「虚構」の日常は、自らの「虚構」性と同時に、日常性をも突きつけられる。
 
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 ただ茶を飲むという行いを芸術とした茶道は、その確立とほぼ同時に権力者たちによる政治資源化と芸術行為としてのあり方により、絶えずその否定し得ない本質である日常性を脅かされてきた。 
 ピエール・セルネの「ゲリラ ティー」は、日常性の反撃にして芸術の挑戦という、茶道内部での二律背反のエネルギーを活かした素晴らしい表現に思える。
 
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 “世間一般の常識によってなにかをやるというのは、あまり個人の責任が追及されません。みんながやっていることで、自分はその他大勢の類なわけです。法が規範になっている場合でも同じで、法に基づくといううしろ盾が行為の安全弁となっています。問題が生じても法に訴えるという切り札をちらつかせることができます。しかし美的行為は、なにかに守られているという保証がどこにもありません。いつも危険と隣り合わせの状態です。”
           『美術の解剖学講義』(ちくま学芸文庫)森村泰昌著

 
 芸術家は一人の感性と創造に賭け、表現によっていかなる強力な他者や異者の思惑を超えゆかなければならない。
 だから、ゲリラ(非正規)は芸術にとっては正統な手法となる。


 “ある年、利休の庭に朝顔が花盛りと聞いた秀吉が、それを所望して訪れた。ところが庭に朝顔はひとつも見当たらない。不思議に思って茶室に入ると、床の間にただ一輪、葉をつけていけてあった。”(『千利休』)

 美は一振りの刀も一発の銃弾もなく、後ろ盾も保証もなく、専制的権力者の権威さえ下す。
 それが天才の為した業ならば。
 

 時の為政者が「美」を持ち出したら、問わなければならない。
 彼は天才なのか。

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 「美」は天才の賭け。
 もし天才でなければ、醜態の一人芝居。
 そして為政者の場合、一人芝居では済まない。





ピエール・セルネの作品集
http://www.paulrodgers9w.com/artists/p_sernet/ps_addwork/tseries.html
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by sleepless_night | 2006-12-04 21:07 | その他

悲しいお知らせ。

 いじめには理由がある。

 
 “協力・助け合いの重要性を実感してもらうため体育の時間に「30人31脚」を行うことなどを提唱している”
 朝日新聞:教育再生会議「心の成長」策提唱
 http://www.asahi.com/edu/news/TKY200611290420.html

 30人の生徒が足首を紐で結び合わせて走る競技を取り入れる。
 そのクラスでいじめの種子、たとえば「臭う」「汗っかきでキモイ」などから「なんとなくウザイ」「ノリがわるい」などの認識を特定の一生徒が複数の生徒達から持たれる、があったとする。
 そこで、30人が足首を結び合わせて走ったとき、何が起きるだろう。
 
               *

 “共同体型の学校では、ネズミや鳩を檻の中でむりやりベタベタさせると、通常では考えられないような攻撃性が生じるという、あの過密飼育実験をわざわざ税金をどぶに捨てながらやっているようなものです。”
     『学校が自由になる日』(雲母書房)「学校リベラリスト宣言」内藤朝雄著
                 
 内藤朝雄(明治学院大助教授・社会学)さんは、いじめの発生を以下のように分析します。
 いじめは、全人的関わり合いを強制される聖域化された閉鎖集団内で、その場のノリ(みんなの気持ち)が規範の順拠点とされ、利益につながる場合に機能する。
 聖域化された閉鎖集団であるため、「人を殴ったら逮捕される」という市民社会の常識は通用せずに、集団内部の論理が市民社会の論理に優先される。
 集団内部では対人距離の調整(嫌な人と離れる)が許されず濃密な関わり合いを強制させられ、その「われわれ」が「いま・ここ」でのノリによって集団内部の秩序を作る。
 「生徒らしい生徒に慕われる」権力者たることをアイデンティティとする教師による保身と昇進を賭けた無意味で些末な校則の徹底される学校で生徒同士が全人的な関わり合いを強制される憎悪や鬱屈を、「いま・ここ」でのノリで誰かをいじめる遊びでの解消という利益が得られる。
 こうして、「楽しくて得になる」いじめという“「自分たちなり」のノリの秩序に従いながらノリをうみだす、きわめて重要な祭政一致の営為(カミ事)”が成立する。
 逃げ場なく全人的関係を強制される場所の秩序を創る神聖な行いに逆らうことは許されない。
 だから
 “いじめをやめさせようとして開いた学級会は、おうおうにして、被害者の欠点をあげつらう吊るし上げの祭り”となり、“女子であれば「なかよくできなくてごめんなさい」と泣いたりします。学校の弱者は「みんなとうまくやっていけるように自分の性格を変えなければ」と思います。”

               *

 運悪くその一生徒のリズム感覚が悪かった時、何が起きるのだろう。
 ただでさえつまらない学校・授業・教師が、そろえることすら無茶な30人の挙動の同一化を強制したとき、教師と生徒の苛立ちは、何を引き起こすのだろう。 

 ひとりが足を引っ張る。
 いっしょに引きずられて周りがこける。
 練習がうまくいかずに長引く。
 何度やってもそろわず、集中力は時間とともに低下し、失敗と延長の循環が始まる。
 足を引っ張るのは、ノリが悪い奴だ。
 その人間と紐で繋がれて、何の興味もない疲れることをやらされている。

 
 だれかが死んだとしよう。
 「悲しいお知らせ」を体育館でする校長。 

 “ある生徒が自殺した場合には、親友や恋人などの心理的に強い影響を受ける可能性のある生徒に個別に会って自殺の事実を伝えます。生徒たちの反応をよく把握するためにホームルームなどの小さなグループで伝えるべきで、講堂に全校生徒を集めて一斉に伝えたり、「死ぬな」「命を粗末にするな」などと一方的に檄を飛ばすのはかえって危険です。”
                『自殺の心理学』(講談社現代新書)高橋祥友著


 生徒を守りたいのか、殺したいのか、私には本当に分からない。

 最も教育をいじらせてはならない人間たちにやりたい放題させてしまった、その力を与えてしまったことを、未来の子供たちに何と言い訳できるだろう。
 恥ずかしさを通り越し、悲しみとしか言いようのない知らせが、次々と現れて止め処なく現実を動かそうとしている。




その場のノリが秩序を作る基準となること
   『空気の研究』山本七平著について血液型占いに反論するとモテないのか? part3

 内藤朝雄さんのブログ
 http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/
 
 
 
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by sleepless_night | 2006-12-01 20:37 | その他