<   2007年 05月 ( 1 )   > この月の画像一覧

すること・しないこと、愛すること・正しいこと、欺くこと・捧げること。

 “私は、ナチの強制収容所をめぐる「仕方がなかった」を、可能な限り集めました。そして、読者の皆さんに望みたいことがあります。それは、その一つひとつの事例で「仕方がなかった」ではなく、「私がそう欲したのだ」と呟いてみて欲しいのです。そう呟いてみると、「仕方がなかった」という時に、あるいは、誰かの「仕方がなかった」に、「そう、仕方がなかったよね」と頷く時に掻き消されようとしていた、ある「居心地の悪さ」の感触に襲われるのではないでしょうか。
 「仕方がなかった」と呟き、あるいは誰かのその言葉に頷く時に、私たちが掻き消そうとする居心地の悪さとは、何なのでしょうか。こんなことを考えてみて欲しいのです。私たちの誰もが、どういう仕方であれ、一度ならず、人によっては長年にわたって経験したことがあるはずのできごとです。”
           『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』柿本昭人著(春秋社)

“マザーは言った。
「オキ、もしかりに<孤児の家>がなかったら、子供たちはみんな路上にほうっておかれるのよ。それをそのままにしておくか、それとも私にできることをするか、私にはそのどちらかを選ぶしかないし、だから、私は自分にできるわずかのことを選んだだけなのよ。」
「でも」と、僕はいった。「それが、ふつうの人にはなかなかむつかしいことで…」
「そうじゃないのよ、オキ。あなたは、もちろん違うと思いますけどね、ふうつうの人びとは貧しい人間をみくだしているのよ。貧しい人間は、自分と同じ人間ではないと思っているというのが現実じゃないかしら」”
           『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘著(講談社文庫)

“しかし、もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、人間はみずからあるところのものにたいして責任がある。したがって実存主義の最初の手続きは、各人をしてみずからあるところのものを把握せしめ、みずからの実存について全責任を彼に負わしめることである。人間はみずからについて責任をもつという場合、それは、人間は厳密な意味の彼個人について責任をもつということではなく、全人類にたいして責任をもつという意味である。”“人はつねに「もしみんながそうしたらどうなるか」と自問すべきであり、一種の欺瞞によってしか、人はこの不安をのがれることはできない。”
       『実存主義とはなにか』J・P・サルトル著 伊吹武彦訳(人文書院)

“だがそのとき軍医が言った。「子どものうち1人は残してよろしい」
「えっ?」
「子供のうち1人は残してよろしい」と軍医は繰り返した。「もう1人は連れて行かなきゃならん。どちらをのこす?」
「選ぶんですか、あたしが?」
「おまえはポラ公だ、ユダ公じゃない。だから特権を与えてやる。選択の特権をな」
 ソフィーの思考過程がしぼみ、停止した。それから、脚がへなへなと崩れるのを感じた。
「選べません!あたし、選べません!」ソフィーは泣き叫び始めた。”
        『ソフィーの選択』ウィリアム・スタイロン著 大浦暁生訳(新潮文庫)
           
                 *

(1)すること・しないこと
 ①天才外科医は路面電車に乗って
 
例1:ある天才外科医Aがそれぞれ別の臓器移植を緊急に必要とする(しなければ死んでしまう)BCDEF5人の患者を持っている。たまたまAの近くを通りかかったGは5人の患者に適合する臓器の持ち主だったので、AはGを誘拐して手術し、G1人の命と引き換えに5人の患者の命を救った。
 この例1のようなことを実際に行えば、天才外科医Aの行為は通常非難されるし、殺人で逮捕される。
 だが、Aは1人を犠牲にしては5人の命を救った、5-1で4人の命を余計に助けることができたのだから、非難されるより賞賛に値するのではないか?
 しかし、Aは5人の患者を助けられなくとも「死なせた」にすぎないので非難されず、対してGを「殺した」ことは非難されると考えられる。
 
 例2:ある休日、乗り鉄・天才外科医Aが路面電車に乗っていると、運転手が「ブレーキが効かない」と叫んで死んでしまった。Aは天才外科医なのですぐ手当てしようと運転手のもとに駆けつけると、電車の前方にBCDEFがいることに気づいた。このままでは5人を撥ねてしまうが、ブレーキが効かないし、警笛まで鳴らない。5人のいる場所に行くまで右に支線があり、支線に入れば5人を死なせずに済む。しかし、支線の先にはGがおり、支線に入ればGを殺すことになる。Aは右の支線に切り替えてもらうように通信して、G1人の命と引き換えに5人の命を救った。
 この例2のようなことを行えば、天才外科医Aの行為は通常賞賛されるし、逮捕されることもない(事情聴取はされるが)。
 Aが行ったことはG1人を犠牲にして5人の命を救った、5-1で4人の命を余計に助けたこと。
 もし支線に1人いたことを理由に5人を「死なせた」とAが語ったら、Aは非難される可能性がある(少なくともトリアージは任せたくないと職業能力を疑われる)。
 だが、例1で示したように「殺す」ことは許されず、「死なせる」ことは許容されるなら、1人を「殺す」ことより、5人を「死なせる」べきだったと非難されるべきではないか?「殺す」ことを選んだAは例1同様に逮捕されるべきではないか?

②溺れるものは
 “最初の事例。スミスは、もし彼の6歳の従弟の身に何かがあった場合、莫大な財産を得る立場にある。ある晩、その子が風呂に入っているところに彼は忍び込み、その子を溺死させ、それからあたかも事故であるかのごとくとりつくろった。
 2番目の事例。ジョーンズもまた、もし彼の6歳の従弟の身に何かがあった場合、莫大な財産を得る立場にある。スミスと同じようにジョーンズは入浴中の従弟を溺死させようと風呂場に忍び込んだ。ところが、風呂場に入った途端ジョーンズは、その子がすべって頭を打ち、頭から水の中に落ち込んでしまうのを見た。ジョーンズはよろこんだ。そして、必要とあらばその従弟の頭を押し込もうと、かたわらに立つ…が、その必要はない。ジョーンズが何もしないで見ているうちに、その子はほんのすこし手足をバタバタさせただけで、ひとりでに“事故で”溺れ死んだ。
 さて、スミスは子供を殺したが、ジョーンズは“単に”子供を死ぬにまかせただけである。それが、スミスとジョーンズの唯一の違いなのである。道徳的に見て、どちらがましな振る舞いをしたのであろうか。”
        『積極的安楽死と消極的安楽死』J・レイチェルズ著 小谷野加奈恵訳
                (『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会 収録)

(2)愛すること・正しいこと
①間違いのもと

 “一つの固有物を選ぶとき、人は自ずから、他のものを排除している。もし人をモノ化するのが罪ならば、恋愛や結婚といった形で、一人の他人と排他的に親密な関係を結ぶこと自体が罪なのである。これはずっと昔に、お釈迦様が発見したことだ。だから私は、男女間の感情のことを「愛」と呼ぶのはやめるべきだ、と最近おもっている。「恋愛」とか「愛情」とか、「愛」の入った語で、排他的な関係をさすのは、間違いのもとだ。「愛」というのは、人類愛とか博愛とか、そいういう場合にのみ使ったほうが、間違いがなくていい。”
            『帰ってきたもてない男』小谷野敦著(ちくま新書)
 
②愛が地球を滅ぼす 
①の猫猫先生の指摘のような「愛」が表す内容についての議論は必要だが、「愛」の指示する内容を何とするのが正しいのか(正当なのか)はここでは重要ではないので、専断的に「愛」を親密・排他的な関係を求める心情としておく(また、日常用語としても「愛」はそうした意味に使われている。尚、「それは本当の愛ではない」といった話も上述したように省く)。
 さて、①では排他的・親密な関係(個別的な関係)と人類といった広い関係(普遍的な関係)を対照として扱い、「愛」は後者に相応しいと述べている。
 ここでは前者を「愛」と呼ぶが、そうすると後者を当然に害する場合が現れる。
 例えば、「愛」する男女・家族などのメンバーはそれ以外の人間と同じ扱いをしない。むしろ究極的に差別的な取り扱いをするし、望む。
 「愛」する男女・家族などのメンバーはお互いに、メンバー以外の人間にはしないような馴れ馴れしさと境界侵犯を行い、時に拘束的な関係をするし、望む。
 つまり、人類や隣人などの一般社会・市民社会では通じないどころが、それらを支配する自由・平等の原則(正しさ)を「愛」は積極的に害する。
 「愛」する家族を養うための仕事は他人たちを苦しめ・搾取しているかもしれない、「愛」する家族が快適であるために使う資源は採取や運搬に携わる他人たちの寒さと飢えをもたらしているかもしれない、「愛」する人のために買う嗜好品・贅沢品が生産の現場で血みどろの争いを引き起こしているかもしれない。
 「愛」は地球の半分を飢えさせ、自由と平等、正しさを破壊している。

(3)欺くこと・捧げること/『自己欺瞞と自己犠牲』(勁草書房)
①欺くこと
 
矛盾する信念は一主体の中で共存できるのか。
 柏端達也(千葉大助教授・哲学)さんは、願望的思考による認知バイアスで同時に矛盾する信念は共存しない(一方の信念が他方の存在時点で無くなっている)のではなく、“長期にわたる一連の複合的な行為”の中で矛盾する信念は共存し、自己欺瞞が成立すると考える。
 それは単に人間が理想的に合理的ではないために生じる非合理性ではなく、論理能力以前に“自分の信念や意図や欲求にある意味で気づいているが、しかし系統的に(当人の目からさえも)隠蔽”し、“真実を述べることを系統的に拒絶”すること、そして“自己欺瞞によって否定される事柄にどこかで気づいているのと同じように、自分が自己欺瞞であることにも気づいている”ので“自己欺瞞的であるためには、自らの自己欺瞞を認めてはならない”と自動的(自発的)な繰り返しによって成立すると分析する。 

②捧げること
 マザー・テレサに「あなたほど自己犠牲の精神にあふれた人はいない」と言ったら、彼女は否定し、「自分ほど自分が心から望むことの実行を許された人間はいない」と言うだろう。
 周囲から最も自己犠牲的とみなされる人間が自分の行為を自己犠牲とは思っていないパラドクス。
 いったい自己犠牲とは何か、自分が自分を犠牲にすることは可能なのか。自分の意思で自分の判断と違うことをするなど、合理的にありうるのか。
 柏端さんはこの問いに対して、共同行為という視点を持ち込むことで答える。
 私を部分として持つ共同行為主体「われわれ」は、その構成員個々の信念・欲求に還元できない「われわれ」としての信念・欲求を持ち、「われわれ」の行為が私の身体を通じて実現される場合がある。その時、「われわれ」の信念(判断)と私の信念(判断)が一致しない・対立する可能性があり、私は「われわれ」の行為を実現するために私(自己)を犠牲にする。
 これは、「あなたはなぜ?」という問いに対して「私はしたくない」と答える不合理を生じさせるが、「あなたたちはなぜ?」という問いに対して(行為者である私が問われたら)「われわれは~と判断したから」と答えることができ、合理性を保つことを可能にする。
 自己犠牲をする私に生じるジレンマは「私」と「われわれ」という“別々のテーブルにあるため、それらの評価が統合されることはない。にもかかわらずそれらのテーブルは、「私」の身体という共通のアウトプットをもつ”ことによって生じたもので、自己欺瞞のジレンマのように「私」という一つの場において生じるものとは異なる。
 さらに、「私」は「われわれ」の一部であるので、二つの判断を評価できる視座も存在しない。
 自己犠牲では、ジレンマを解決し「われわれ」を選択する十分な理由を持てないままに、「私」に対立・不一致な「われわれ」の判断を「私」が行うことになる。

(4)ハインツが通りかかったら
 「ハインツは病気の妻のために薬を買おうとしたが、薬屋が強欲でその薬に法外な値を付けている。ハインツは金をかき集め、できるところからは借金もしたが、薬の値段に届かない。薬屋に事情を話して後払いを頼んだが断られた。ハインツは薬を盗むことにした。」
 コールバーグが道徳能力の発達を調べるために用いたこのジレンマで、もし、ハインツの妻ではなく通りがかりの人が病気だったらどうだろう。
 一般に借金をするまで考えない、ましてや盗みに入るなど考えないだろう(自分を破滅させてまで、通りがかりの人を助けないだろう)。
 つまり、たいしたジレンマにならなくなる。

(5)法律と関係
 ①法律
 (1)の②の二つ目の例で、ジョーンズは従弟が勝手に溺死するのを見ていただけだが、法律という観点から言えば、ジョーンズは保護責任者遺棄致死罪か殺人罪に問われると考えられる。
 保護責任者遺棄罪(218条):老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしなかったときは、3月以上5年以下の懲役に処する。
 同致死傷罪(219条)前2条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、障害の罪と比較して、重い刑により処断する。
 従弟は6歳なので“幼年者”に該当し、ジョーンズは同従弟と相続関係のある相当に近しい年長の親族であることを考えると“保護する責任のある者”と言え、保護義務を認められる。そして、ジョーンズは溺れる従弟の傍らにありながら“生存に必要な保護”をしなかった。よって、保護責任者遺棄致死罪に該当する。
 ただし、ジョーンズは従弟の死を願い・殺人の意図(故意)を持っていたことを考えると、不作為による殺人罪(199条)の実行と考えた方が妥当。
 殺人罪は「すること(殺すこと)」という作為によって実現されることを想定するものだが、一定の場合には「しないこと」によって実現されることも認められる。
 つまり、「すること」と同視できる「しないこと」についても殺人の実行行為として認められる。
 具体的には、法律・契約・慣習・先行行為などが被害者と加害者の間に存在することによって「すること」(この場合助けること)が義務と言え、「しないこと」が義務違反となる場合に、「しないこと」が殺人の実行行為と認められる。
 この事例では、加害者と被害者は従弟関係であり、相続関係もあること、加えてジョーンズが年長であり従弟は6歳と幼少であることを考えると、慣習上の作為義務があると考えられる。
 したがって、ジョーンズには殺人罪が成立する。

②関係
 ①の話は(4)のハインツのジレンマの話と同じことになる(当たり前だが)。
 つまり、同じ「すること」と「しないこと」でも、行為者と相手方との関係によって評価が変わる(ジレンマの程度が変わる)ということ。
 (1)②の2つ例を無関係の2人とすると、最初の例では他人を溺死させた殺人で、2番目は他人が溺死するのを見ていた人の話になる。これについて“道徳的に見て、どちらがましな振る舞いをしたのであろうか。”と聞かれたら、多くはさほど躊躇なく2番目と答えるだろう。
 しかし、そうした考え(関係によって判断を変える)ことが倫理的に正しいのだろうか。

(6)「われわれ」の倫理
 (1)①の例2で、天才外科医Aは運転手の近くに行き、運転手が死んでおり、電車の進路のいずれにも人がいることを知る。このとき、他の乗客も同じ認識を持ち、進路をこのままにして5人を死なせるか、進路を変えて1人を殺すかの選択をしなくてはならないことの認識もあったとする。
 この場合、Aを含む乗客は進路選択という行為の共同行為主体となっていると考えられる。
 Aは医者として運転手の傍に駆けつけた。Aは例1の教訓から「殺すことはできない!」と叫んだが、他の乗客が一斉に「5対1だ!支線に入れ!」と答えたので、Aは支線に切り替えたとする。このとき(3)②から、Aの行いは自己犠牲的だったと言える。
 Aは自分の判断である「殺すことはできない」と「われわれ」の判断である「1人の命より5人の命」との対立の間で、それを解決する視座も十分な理由も持てずに、断絶を跳躍するように「われわれ」の判断を実行した。
 しかし、殺されたGにしてみたら自己犠牲どころの話ではない。
 GはAを含む乗客ではないので共同行為主体ではない、つまり、「われわれ」ではない。
 Gは「われわれ」に殺されたのだ。

(7)通り過ぎる私
 私(達)が日常通り過ぎているのは、「5人の命」だ。
 私達が「われわれ」の「5人の命」を選んでいるからだ。
 正確に言えば、私(達)が選んでいるのは「5対1」で多くの命を救うのではなく、世界的には少数派である「われわれ」の命と快適さなのだが。
 だから、「われわれ」の自己犠牲があるとしたら(6)のAよりも酷いものだ。
 自己犠牲のジレンマを感じるとしても、私(達)は「われわれ」の中で「仕方がなかった」と語り合う、若しくは「愛」を語り、それを甘美な疼きへと変えてしまう。「私が欲した」のは「愛」なのだと。
 もしかしたら、“ふうつうの人びとは貧しい人間をみくだしているのよ。貧しい人間は、自分と同じ人間ではないと思っているというのが現実”なので、自己を犠牲になどしていない「自分がしたいことをすることが許されている」幸福を感じるのみかもしれない。
 死んでゆくのは同じ人間であるという“真実を述べることを系統的に拒絶”して。

                    *
 
場所によるのだろうけれども、路上で人が生活していることは普通だし、それ自体に驚きを感じることは、私にはない。
 ただ、道の真ん中、車道で人が寝ていることに出くわしたときはさすがに驚く。
 放置しておくと車に轢かれるので、声を掛けてみる。
 しかし、幾度かの経験で声に反応(応答)した人はいない。
 なので、声を掛けて、とりあえず抱えて移動させる。
 抱えると酒の臭いがする。
 持ち上げられた相手はさすがに反応をする。
 歩道の脇などまで運んでおろし、「どこか送りましょうか?」と聞くと首を振るか、「ここでいい」といった答えがある。
 
 もちろん、一見して身なりがひどく悪臭漂う人なら、私はしなかっただろうし、これからもしないと思う。
 私が出会った倒れていた人々は、老年の男性で身なりは普通で小さな手提げ鞄を持っていた。その小さな手提げ鞄は、何も入ってないと思えるほど、非常に軽かった。
 だから、「家に送りましょうか?」と聞くことができなかった。
  
 そして、その人がこれからどこに帰るのか、帰る場所があるのか、分からないまま私は置いて行った。

 これは車道ではないけれど、やはり歩道の中央に倒れている男性がいたとき、近くに交番があったので、そこの警察官に「あそこで人が倒れていますよ」と言ったことがある。
 警察官は座ったまま「それで?」と言って、動かなかった。
 「それで?」と言われた私がなんと答えたのかは覚えていないが、「それで?」という答えに呆然として、男性を放置していった。
 
 私が倒れている人を移動させたとしてどうなのだろう。
 「それで?」
 私は彼らを移動させ、やはり、置いて行ったのだ。

 
 
 
 
 


参照)
(1)は『意義あり!生命・環境倫理学』岡本裕一郎著(ナカニシヤ出版)を参照。
 ①の第一の例はフィリッパ・フットの例を岡本さんがアレンジしたものをさらにアレンジしたもの。第二の例はジュディス・トムソンの例の引用からアレンジしたもの。
 ②のレイチェルズの論文も引用の長さが異なるが同書3章に引用がある。
(2)②は『家族と所有』藤野寛著(『所有のエチカ』ナカニシヤ出版 収録)を参照
 「愛」が究極の差別・えこひいきを導くこと、自他を侵食することについて。
 藤野さんは、猫猫先生同様に、普遍的な「愛」は「正義感」と呼んだほうがよいとしている。
(3)は『自己欺瞞と自己犠牲』柏端達也著(勁草書房)を引用・参照。
 上記では同書の結論をかなり乱暴に利用している。
 実際の同書では、結論に至るまで、また結論自体を綿密に論証してある。
 なので、(3)を読むだけで同書の内容を判断するのは、鯛焼きの外殻を食べて済ませるようなもので、おいしいところを捨てることになる。
 全体の4分の3が自己犠牲についてだが、その中でも人間の行動の合理性について述べた部分は、自己欺瞞・犠牲に限らず参考になる。漠然とした感覚がしっかりと言語(論理)化されて気持ちがよい。
 また、結論部で述べられる、自己犠牲を論究した意味も、居眠りとキハン好きな方々の跋扈する今日に必要とされるものだと思う。
 税込み3150円。
(5)②の最後の問いは、ロールズやマッキーやヘアの倫理の普遍化問題と重なり、当然、倫理とは何かという問いにもなる。

 
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by sleepless_night | 2007-05-18 21:18 | 倫理