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「諦め」と蛸が足を食べる覚悟。


(1)あきらめてください。
 95歳男性、認知症、肺炎で入院。
 不足している輸血製剤のオーダーを取り消し、それを家族に話す。
 “娘は泣き崩れた。
 「お願いです。できるだけのことをしてください。」”
      ↓ (対する感想)
 “不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。”
 “「老いたら死ぬ」そんなことがこの国では当たり前のことではなくてってる。”
 “日本人の死生観は明らかにおかしくなっている。”

http://blog.m3.com/Visa/20071227/1より

(2)できるがために
 “技術が発達するということは、つねに新しい「選択」ができるようになるということだ。奇妙なことに、技術は私たちに新たな選択を与えるかもしれないが、必ずしも選択の幅をひろげはなしい。”
 “技術を使うのを「選択」するとき、私たちは女は何よりも母親であるという社会の見方を認め、正当化していることになる。そしてこの選択をするとき、「あきらめる」「自分なりの人生を生きる」という選択の扉が、うしろで閉まってしまうのだ。”

 女性の不妊に対して、現代技術は大きな力を発揮している。
 体外受精はもちろん、代理母という手段まで現実的な「選択」肢を提供している。
 すでに国内でも、産婦人科学会の反対を押し切って閉経後の母親にホルモン療法を受けて娘の子を出産した事例まであり、不妊に悩む人々にとっては希望となっているのかもしれない。
 しかし同時に、技術の発達は、それまで「できなかった」たために「諦める」ほかなかったことを、「できる」のに「諦める」ことへ変えた。「諦める」を事実から理由を必要とする行為に変えてしまったことを意味する。
 不妊であっても子供のいない人生や養子を迎えることで解決すればいいと当人たちは思っていたとしても、周囲は「諦めた」のだとみなしたり、「諦め」ないように励ましたりするために、肩身の狭い・罪悪感めいたものまで押し付けられたりすることが起きる。また、「できる」とされるがために、経済的・時間的・精神的な労力を過度の消費する人々もいる。

(3)死生観?
 死生観:死あるいは生死に対する考え方。また、それに基づいた人生観。

 死生観には死亡ということのみならず、死後の世界観も関係する。死後の世界の有無、死後の世界の様相によっていかに生を決める・評価する。
 
 まず、日本人の死生観を伝統という点から言えば、死んだら何もなくなるとはならない。『古事記』では地下の黄泉の国があるが、民族宗教(そして仏教の葬儀・盆・正月のような循環的儀礼に組み込まれて)では山中や海上に他界があると想定され、魂は仏壇の位牌にもしずまっていると想定され、現在では墓にも存在すると考えられている。
 死者は生者と同様に、死んで時間が間もないときは落ち着かず、時間とともに生者の供養を受けて静まり、やがて個性を失い代々の先祖(年神)と一体化し、生者を守る働きをする。
 死者と生者の世界は異質・逆な性質をもつ部分もあるが、同じ構成要素を持ち、二つの世界は相互に関連しあい、力・影響を及ぼしあっていると考えられている。
 そして、基本的には、生きているうちの倫理・戒律の遵守程度による地獄極楽といった厳しい選別になじまない。本覚思想に代表されるような全員が救われることを好む傾向がみられる。
 
 確かに、This is Christmas,so what?でも述べたように明治以来の大きな社会変化・人口移動で先祖観は変化をこうむってきた。仏壇・位牌、神棚といった先祖崇拝の設備を持たない家は都市部に顕著に増加していることは調査からも明らかになっている。
 葬儀もかつては村や近所が仕事を休んで行われてが、火葬場・公営斎場や葬儀業者の進出で大きく変化した。土葬や野辺送りがなくなり、納棺などが省かれ葬儀時間は著しく減少し、葬儀と埋葬は分離した。波平恵美子(御茶ノ水大教授・人類学)さんはこの変化を“「葬送」から「葬儀」”への変化を呼ぶ。

 だが、この儀礼の変化は死生観の変化を意味するのだろうか。
 “「葬送」から「葬儀」”になったこと、また神話・伝説・昔話などの伝承が途絶えつつあることを考えれば、死者との関係やそれに基づく行為に変化はあったのだろう。
 しかし、根本的なところでは変化がないように思える。
 人は死んだら終わりで、死後の世界へ生者が影響を行使できないから、先祖供養は必要ないとという風潮は見られない。仏壇や位牌といった形を取らなくなっても、死んだ祖・父母などが身近に感じられない・隔絶した世界に存在すると考える人が増えたとも思えない。
 戦後に発展した水子供養や先祖崇拝を重視する新宗教、近年のマス・メディアで流される「霊能者」たちの存在、を見る限り基本的・根本的な死生観(死後観)は変化していないようにしか見えない。

(ただ、自分の命/自殺という過酷な自由を考えるためにで述べたようにアリエスや小松美彦さんの指摘する“死の死亡への還元”は否定できないが)

(4)QALYという発想
 したがって、“日本人の死生観は明らかにおかしくなっている。”のではなく、(2)でみた不妊治療における反作用と同様に、「できる」ようになったために「諦め」られなくなったと評価するのが妥当だと考えられる。

(また、医療にたいする人々の態度の変化も考慮に入れる必要がある。かつては、医者にかかるとを忌避する人がいたこと、かなり重症でも往診だけですませて入院を拒んだ人々がいたことを考えなくてはならない。さらに、インフォームド・コンセントをはじめとする患者側の姿勢の変化も見過ごして考えることはできない。)

(追記:死生観のうち、死亡という出来事のみに対する感情、便宜的に「対死感」と呼ぶ、は確かに変化しただろう。それは、(3)で述べた死後の世界の有無やその在り様に基づく生き方や死への態度とは関係が無い・僅かであり、変化の原因は医療・衛生の向上に伴う期待水準の上昇と近代家族の要件のひとつ「家族内の強い情緒関係=外部者の排除」によると考えられる。つまり、「年をとったら死ぬ」のはわかるとしても、現代医学はその事態にできることがある、しかも、死ぬのは大切な家族。だから、厳密には「死亡感」一般の変化というより、家族などの親密な他者や自分の「対死感」の変化と考えるのが妥当だろう)

 では、「諦める」べきなのだろうか。
 医療資源の有限性を前提にした分配問題に対して、功利主義の観点からQALY(quality-adjusted-life-year)という考え・解決法が提唱されている。
 これは、完全に健康な状態を1、死を0として、ある特定の医学的状態が持つ効用を1~0であらわし、それに生存年数を掛けた値(QALY値)を用いることで最も効率的な医療資源の分配を可能にするという考え。
 たとえば具体的には、腎不全の40歳男性の場合。人工透析の場合、しなければ死んでしまう0から透析を受けること生存できるが活動が大きく制約されるので0.6までしかQALYは上昇しないが、移植が成功すれば0.9まで上昇するとする。70歳までいきるとして、それぞれのQALY値は、透析0.6×30=18、移植0.9×30=27ということになる。
透析には月に40万かかるとして、70歳まで生きるとして30年で約1億5千万かかる、移植には約1千万かかるとすると、それぞれQALY値1を上昇させるのに、透析は約800万かかり、移植は約40万かかる。
 このように数値化できることで、同じ1000万なら、一人を0から7までを上昇させるよりも、三人を6から9まで上昇させるのにかけたほうがよいなど、判断でき、社会全体の医療分配に応用できる。
 ただし問題点として、QOLや選好(何をよしとして選択するか)を評価・測定するのが困難・曖昧であること、医療介入によって得られるQALYのみしか考慮に入れないことで個人から選択を奪ってしまうこと、命のかかわらない場合でのQALY値の上昇が多人数集まると命にかかわる場合のQALY値を超えてしまうこと、などが指摘される。
 浅井篤(熊本大・生命倫理・一般内科)さんはこられの疑問にたいして乱用・過剰使用を阻止する仕組みを前提とした上で“医療と「効果」「利益」「効率」「結果」「費用」などの概念を切り離すわけにはいかない。そしてQALYはそれらの概念を組み入れが唯一の理論で恣意的でない分配方法論である。”と支持する。
 そして救急かQOL上昇のためかを区別した上で少数への高額医療の制限と「ライフサイクル伝統主義」の視点から“若年者が高齢者よりも医療資源分配において優先”されることを許容するとしている。

 医療資源の有限性は否定できない現実であり、(2)のような技術の発達がコストダウンを可能にするかもしれないが、同時に先端技術開発は膨大な費用を必要とすることから、医療資源の有限性を無視してよい時代がくるとも想定できない。
 とすると、国家や社会の政策としてはQALYは有効なアイデアだといえる。
 だが、浅井敦さんがオランダ・日本・アメリカ・オーストラリアの調査を引いて述べている、人々の医療にたいする平等主義的嗜好は無視できないだろう。
 この調査について“「無差別に全員に平等な医療を提供し続け医療制度を崩壊させるか、それとも何らかの選別方法を用いて医療制度を維持しつつその範囲で可能な限りの人々に医療を提供するか」と問うべき”と指摘しているが、この問いに制限肯定と答えた人も、目の前で困難な状態に置かれた肉親・親しい人を前に煩悶するだろう。そして、そのような体験が、目の前に置かれた人だけでも助けてほしい、例外扱いしてほしいと本音をいだかせるだろうし、それこそが制度に立ちふさがるだろう。

(5)誰が言うか。
 曹洞宗の檀徒意識調査によると「なんのために『お坊さん』を尋ねますか」の問いに対し「葬式・法事をお願いするとき」が約66%、「仏教の教えを説いてもらうとき」が約3%、「困ったときや悩んでいるとき」が約1.5%。

 “現在の仏教のいちばん悲惨なところは、人々から何も期待されていないとろこだ。期待するに足る存在だとすら思われていない。”
             『がんばれ仏教!』上田紀行著(NHKブックス)

 “彼(高橋秀利)はなぜ自分がオウム真理教に魅力を感じたかを説明したが、その中で、既成仏教教団は、自分にとって「風景」でしかなかったという趣旨のことを述べた。”
             『若者と現代宗教』井上順孝著(ちくま新書)

 この状況を考えれば、仏教の僧侶に期待することは無理だろうし、期待されてもそれにこたえられるだけの僧侶がどれほどいるのかが疑問だ。
 だとすれば、一番、死の近くにいることになる医者・看護師ということになるのだろうか。
 しかし、それは患者から見て納得しづらい構造、医療行為を停止する当人に説得される、し医者や看護師に宗教領域に入る事項まで面倒をみさせるのは明らかに酷だろう。
 では、誰がいるのだろう。
 可能性としては、移植時のコーディネーターのような存在を病院に配置することが考えられる。
 ある程度の医療知識を備えることで医者・看護師と患者・家族を繋ぐことができる第三者を存在させる。これは、アメリカの保険制度と同じ危険、医療が患者の担当医ではない人間に支配される可能性もあるが、第三者性を担保できる仕組みを整備できれば低減できるだろう。
 だが、この第三者の言葉が、どれだけの説得力を持てるか、それも大いに疑問だ。(それに人件費もかかる。)

(6基盤を自ら壊す覚悟
 また、「諦めろ」が社会的に説得的なこととなった場合、社会は医療技術にたいする費用支出に合意しなくなると考えられる。
 功利主義的社会は利己主義的な人々によっては維持できないのと同様に、医療も利己的(発達はしたいので全員から金を集めたいが、その成果は一部にしか与えない)になれば社会から功利主義的な存在根拠を失うだろう。
 医療従事者が「諦めろ」と求めるならば、自分の足(基盤)を食べる(壊す)覚悟が必要だ、と思う。
 

補論→「できるのにやらない」ことについて語るときに、僕の語ること。

関連エントリ
すること・しないこと、愛すること・正しいこと、欺くこと・捧げること。救う会の救われない救い



引用・参照)
『不妊』レナーテ・クライン編 「フィンレージの会」訳(晶文社)
「QALYと医療資源分配」浅井篤著(ナカニシヤ出版『生命倫理と功利主義』収録)
『日本の民族宗教』宮家準著(講談社学術文庫)
『日本人の死のかたち』波平恵美子著(朝日新聞社)
『葬儀と墓の現在』国立歴史民俗博物館編(吉川弘文堂)
『仏と霊の人類学』佐々木宏幹著(春秋社)
 
 
 
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by sleepless_night | 2007-12-27 22:52 | 倫理

This is Christmas,so what?

 “私はクリスマスの夜は必ずミサに行く。乃木坂に近いある女子修道院にクリスマス・イブを送るチャペルがある。
 家族だけでなく“キリスト教”に関心のない友人たちも連れて行く。その友人たちが隅の席で困ったような、しかし満更でもない表情をして座っているのを見るとおかしい。
 ミサがすむと、その由修道院では修道女たちが熱い紅茶やケーキをご馳走してくれる。
 「どうだった」
 と無宗教の友人にケーキを食べながら問うと、彼等の何人かは、
 「一年に一度ぐらい、こんな夜があっていい」 
 という意味のことを答える。”
       『心の航海図』遠藤周作著(文春文庫)

 “この国のクリスマス・イブは“ファックの日”。“イブなんだからして当たり前”。この日にSEXしないほうが恥ずかしいという、キリスト教の人からすれば、なんともうらやましい日になっているのでした。”
       『女子の生きざま』リリー・フランキー著(新潮OH!文庫)

              *

(1)ファースト・クリスマス 
“切支丹の夢が覚め切れない日本では兎角に基督教が異端扱ひされて、耶蘇というと舶来の穢多のように毛嫌ひされる。其の中でクリスマスだけは不思議に人気を集めて信者でない方面にまでも流行してきた。パパさんママさんと児供に呼ばせる家庭では聖誕を祝して忙しい歳暮にノンビリした春の魁けを味はせる。…今は片山里の児供迄もクリスマスが待たれてをる。俳句の季語となつたほど日本の生活化して、銀座や日本橋の商店がクリスマスの装飾を年中行事はおろか、郊外の淋しい町の玩具屋の店先にまでクリスマス御進物の建札を見掛ける。夫程クリスマスは年々盛んになりて、教会へ行く者が一人も無い家庭でも聖樹を飾って児供と共に無邪気な一夜を面白く遊ぶ風俗が次第に殖えて来た。”
 と、明治中期のクリスマスを評論家・内田魯庵は描写した
 明治7年に裃姿のサンタクロースを登場させ、初めて日本人がクリスマスを主催してからすぐ、キリスト教会や学校を拠点に、商店街を通じ、クリスマスは日本の年中行事へ浸透した。
 
(2)
①1%

 リリー・フランキーさんに指摘されるまでもなく、クリスマスは多くのキリスト教にとってイエス・キリストの誕生を祝う宗教上の祭儀だ。
 だが、明治に内田魯庵が言ったように、平成にリリーさんが言うように、そして文化庁も言うように、日本人にキリスト教徒は全国諸宗教団体申告の信者総数でも約1%しかいない。(ただ81年のNHKの宗教意識調査ではキリスト教徒を自認する人は若干多く約2%で、12%が何らかの親しみを感じている)
 明治6年(1873年)にキリスト教禁教の高札が撤去されてから、既に140年近くが立とうとし、その間に膨大な人的・物的資源が投じられたのにもかかわらず、キリスト教は「1%の壁」を破れない。
 その間、新宗教の中には一団体で公称1千万人の信者を抱えるまでに成長したものまで有る。

②温暖湿潤気候 
 キリスト教布教はなぜ失敗したのか。
 “キリスト教の土着化をめざすいくつかの方向がすでに明治期に現れ、あるものは孤立におちいり、あるものは埋没に堕するなど、土着化は多難な道程を辿った。政治的には禁圧→黙認→公認という過程の中で土着化の阻止条件は後退したが、他方、文化的には、さまざまな文化機関の発達により教会が西洋の思想と文明の橋頭堡である性格を薄めていくに従い、日本社会一派の文化レヴェルとの落差も縮まり、落差から小慈雨べきエネルギーも乏しくなって、土着化の推進条件はその力を弱めた。こうして、キリスト教の種が落ちた日本の土壌は、土の薄い石地、いばらのふさぐ地であって、所詮、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ良い地ではなかったのではないか、との感を深くせざるを得ない。”
 森岡清美(東京教育大名誉教授・社会学)さんは、キリスト教の日本における受容・土着化についてそう述べる。
 これは、遠藤周作が中期の代表作『沈黙』で“「たずさえてきた苗はこの日本と呼ぶ泥沼でいつの間にか根も腐っていった。」と棄教した宣教師フェレイラに言わせ、切支丹を取り締まる井上筑前守に“「土の違い、水の違い」”と言わせたもの。初期の作品『白い人』で妻帯した元神父デュランに“「腐った国、黄ばんだ人種」”と呼ばせたもの、そして晩期の代表作『深い川』で大津に“「ぼくはこの国の考え方に疲れました。彼等が手でこね、彼等の心にあうように作った考え方が…東洋人の僕には重いんです」”といわせ、遠藤が作品で一貫して描き・追求してきた、日本の湿潤な土壌と西洋の乾堅な文化(キリスト教)、といった視点と重なる。
 日本の「風土」に西洋のキリスト教は育たない。この140年は無駄な努力だったという解釈。
 
③歴史と展開
 1549年のフランシスコ・ザビエルの来日から約1世紀、中世日本にはキリスト教の世紀があった。
 大名の庇護の元で70万の信徒が生まれ、セミナリヨ(神学校)やコレジオ(大神学校)が作られ、日本人司祭が養成された。
 1614年の徳川幕府の禁教令から30年後、最後の司祭マンショ小西の死後、日本のキリスト教徒は各地で潜伏し、200年後の宣教師再来日を待つことになった。
 1873年のキリスト教禁教の高札撤去以前、1865年にカトリックの司祭プチジャンは隠れキリシタンと出会い、プロテスタントの宣教師バラから日本語教師・矢野元隆は洗礼を受けた。
日本における近代キリスト教の出発点だといえる。
 プロテスタントは禁教の高札撤去以前から宣教師を60人投入し、宣教準備に当たらせていた。すでに布教が行われていた中国語のテキストを使い、日本人の協力を得て日本人用の書籍を作成し、言葉を習得し、医療奉仕や教育活動を始めた。
 72年には日本人による初のプロテスタント教会も生まれ、禁教下でも信者が増加した。
 73年後も、キリスト教は公認されたわけではなく、1884年まで神仏以外の葬儀が禁じられ(自葬禁止)、1899年の内務省令まで宗教としても公認されていなかった。公認後も国家神道の整備により制約を受け、結局、1945年の敗戦後までキリスト教は政治的に抑圧されていた。
 壬申戸籍から戸籍には所属神社が記載され、1906年には神社へ公費から供進され、生徒の神社強制参拝が行われるようになる。
内村鑑三の不敬事件に代表されるようなキリスト教信者の教員の辞職や免職や1899年の訓令12号でキリスト教主義の学校から徴兵猶予と上級学校関進学の特権が剥奪された。
 文化的には、講演会の妨害など、反論本の配布が仏教側から行われたり、祭りのときに教会や信徒の家が壊されたりした。特に真宗の強い北陸ではキリスト教排除運動が行われ、門徒が地域から布教を締め出す盟約を結んだり、法的根拠なく埋葬を拒んだりが行われた。
 その政治的・文化的逆風のなかプロテスタントは当初、教派の垣根を越えて布教に当たろうと超教派団体・日本基督公会が設立された。だが、禁教高札撤去後、各教派は各自の宣教会へと動き、50個の公会は大きく3つに分かれていった。
 明治末までにプロテスタント信徒数は全体として8万人を、教会は600を超えた。発展は単調ではなく、18 72年ごろに少数増加軌道に乗り、83年~89年ごろに横浜発の大リバイバルにより爆発的に増加し、90年ごろからリバイバルの反動と初期指導者の死、反欧化主義・国粋主義の中で停滞し、93年ごろには甚だしい停滞、1899年ごろからキリスト教圧迫に対抗してリバイバル運動が起き再び急増し、沈静安定期へと向かった。(カトリックは明治末までに4万5千、正教は2万5千まで増加)
 昭和初期にはプロテスタント約20万、カトリック9万まで増加した。 
 1930年代末、戦争へ突入するなか、キリスト教は成長を止められる。
 1939年宗教団体法により40年にプロテスタント諸派は明治の初めに実現し損ねた超教派の統一組織・日本基督教団が結成される。明治神宮を参拝し、礼拝で宮城遥拝し、君が代を歌った。1月25日のクリスマスは、大正天皇の誕生日・天長節のために、他日に移して祝われた。
 戦後、GHQの協力もあり、宣教が再び力を入れられ、急増、1960年までにカトリック32万、プロテスタント40万まで増加。
 そして、「1%の壁」で現在まで立ち止まっている。

 信徒層も一律ではなく、初期は殆どが没落士族であり、僧侶や上昇的豊商も加わった。明治中期から社会解体が進み、小資本家や豊農などのブルジョアが加わり、やがて都市のホワイトカラーが加わっていった。信徒層の変化にかかわらず、キリスト教は一貫して新しい文化への関心が高い知識人によって支えられてきた。

④メイド・イン・ジャパン
 “キリスト教そのものは受け入れても、教えの運び手は拒絶したということ”
 “土着運動の信者にとって、キリスト教はいまや日本の宗教なのである。”
  マーク・マリンズ(上智大教授・宗教社会学)は、「主流派」キリスト教やその研究者たちから無視されてきたカリスマ的準教祖に指導され、日本文化と聖書の双方の多元性の中から生まれた小規模なキリスト教土着運動・教団の分析を通じて日本人のキリスト教に対する姿勢をこう述べる。
 “独立したキリスト教運動の創始者にとって、宣教師が移植した伝統は利用価値のある情報源ではあっても絶対的真理とはほど遠いものだった。”
 近代日本キリスト教の草分けの一人内村鑑三は清教徒主義とクエーカーの影響を受けながらも、日本在来の伝統とキリスト教を断絶したものとせず「過去のキリスト教化」を通じ西洋人宣教師と対立し、士族階級の倫理観をキリスト教に適用し、宣教師の教会を中心とした布教形態ではなく、講堂などでの非聖職者による講義・雑誌・学術研究での布教という無教会運動を創始した。
 横浜バンドの宣教師から洗礼を受けた村松介石は儒教や新神学や高等批判の影響を受け原罪や三位一体や処女懐胎などを否定した万教帰一の立場にたつ道会を明治末期に開いた、メソジスト派の教会で受洗しドイツ改革派の東北学院で教育を受けた河合信水も儒仏の教えをキリスト教に統合することで豊かさを増すと考え、研究と瞑想の末に、救済者としてのキリストを信じるのみならずその遺志を実践するための修行の必要を訴え、昭和初期に郡是製糸株式会社(現:グンゼ株式会社)敷地内に基督心宗教団を開き、教育部長を務めた。
 第一期土着運動の主体は士族的出身者であり、儒教的な知識と自己修養をキリスト教に持ち込み土着化させた。
 第二期土着運動は第一期と大きく異なる。
 メソジスト教会の牧師の次男に生まれた村井じゅん(「屯」のした二「二」)は青山学院中退後自殺を試みたときに聖霊の存在を感じ異言を発し、キリスト教宣教に向かい、天啓史観とペンテコステ(個々聖霊の働きを強調し、その証拠としての異言や奇跡・癒しを重視するキリスト教)的、現世利益的な特徴、聖職者と信徒の役割分離した組織を持つイエス之御霊教会を開いた。ホーリネス教会の宣教師だった大槻武二は満州で「キリストと出会い」、「御名を呼ぶ」ことで生ける神と出会い奇跡と神癒を得られるとする信仰、イスラエル再生のために祈りと援助活動、聖職者育成にも力をいれる聖イエス会を開いた。無教会運動に影響をうけるも、主知主義的な姿勢に不満をもった手島郁郎はそのペンテコステ版ともいえる原始復員運動・キリストの幕屋を開き、原始キリスト教再興の観点からユダヤ教・イスラエルの伝統を重視し、同時に日本文化とのつながりをもとめ記紀なども高く評価し国家主義的傾向をもった。
 第二期土着運動は、西洋の教会・行政組織に類似した形態を採る一方、主流教派が軽視した日本人の民族宗教的な関心からの聖書を解釈を取り入れ、先祖崇拝・生者死者との相互影響を配慮した(死者の救済など)。
 これら土着化がなされた運動・教団は、ほとんど衰退してしまい、“日本においてきり巣今日への反応がみられないことと、キリスト教が土着化に失敗したことに関連があるという説明は、観察された事実と一致しない”し、“土着化が成長に対する「治療法」”であるとも言えない。
 一方でキリスト教布教が「成功」した韓国の事例をみると、土着化した韓国キリスト教は日本の第二期土着化運動と同様にペンテコステ派で、“キリスト教化した坐堂の宗教”といわれる。
 同じように、仏教儒教の伝統を持ちシャーマニズムが強く残る国でキリスト教が成否を分けたのには、韓国にとってキリスト教は植民地支配の抵抗・解放者として受け入れられ、日本にとってキリスト教は西洋というアイデンティティを脅かすものと結びついて受け入れられるという“どんな布教戦略家の手にも負えない状況”が隠れた次元としてあったのではないかと指摘する。
 
(3)余暇の消費
 “人間が本当の「余暇」を持つことができるのは、彼自身の力をふりしぼることによってではなく、むしろ恵みによって、いわば忘我の状態においてである、といいましたが、秘蹟が人間に対して及ぼす影響力がまさにそれです。
 人々はまさしく秘蹟によって「魅了され、魂を奪われて」神へと心をささげるのです。このことはクリスマスのミサのなかの一説で明らかに言い表されています。「私たちはいまこの目で神をうち眺めることができました。願わくは私たちが目に見えないものを愛することできるように高めてください」”

 ヨゼフ・ピーパー(ミュンスター大名誉教授・哲学的人間学)は現代と古代ギリシア・中世スコラ学の労働と余暇の概念を通じて、現代社会は労働(理性)に支配され余暇を喪失し、それが人間の尊厳や安らぎを奪っていると訴える。
 これは通俗的な「余裕有る暮らし」を訴えるものではない。
 ピーパーは古代・中世の哲学で、認識が、探求・比較・証明などの緊張を伴う「理性」とその基礎の上で直感的受動的な観察を得る「知性」、訓練によって断片的な認識を得る働きとそれを超えて全体を認識する働き、に分かれており、近現代は労働(=「理性」)を偏重し人々から真の自由(それ自体に目的を含む完全な自由)を奪っている。そして、労働(=「理性」)偏重は、苦労・困難を自己目的化して、休息までも労働への回復に位置づけられ、安らぎを奪っていると考えている。
 “人間が彼固有の尊厳にふさわしい生き方を放棄してしまうこと、それが「怠惰」の意味でした。言い換えると、それは神の意思に従った生き方をしないこと、人間が真実の、そして究極的な意味での自分自身であろうとしない、ということです。”
 現代人が労働の支配から余暇を守り・実現するためには、ヒューマニズムのみでは不十分であり、余暇の本質である解放・一体感による安らぎ・肯定感をもたらす祝祭、それに不可避に含まれる礼拝を持つことだとピーパーは述べている。
 
 遠藤周作は、冒頭の引用の続きでこう述べている。
 “「こんな夜」というのはどういう意味だろう。
 推定するに毎日、生活ために働かねばならぬ我々が、生活を超えた「心を清められたい」願望を充たしてくれるような夜のことを言うのだろう。(中略)そういう日が人間に一年に一日ぐらいあっていいのではないか。それは別にキリスト教でなくてもいい。昔の日本人にとって元旦のような日が。”(遠藤は「生活」と「人生」を分けて考えている。)
 
 ピーパーも遠藤も、宗教学で言うところの世俗化を嘆き、聖性の必要性を述べているが、その宗教(社会)学では「近代=世俗化の進展」という予想(P・バーガー)は既に外れたものとされている。
 島薗進(東大院教授・宗教学)さんはそれを“社会の個人化と、個人の宗教化”と表現し、宗教(性・的なもの)は教団といった組織を通じてではなく、個人化した形で現れていると指摘する。(スピリチュアリティ、新霊性運動)
 
(4)ラブホのチカラ
 “裏通りにこっそりとあるならともかく、真昼の光を浴びて町の中に立ち並んで言うラブホテル群や、堂々と幹線道路の脇に並びサーチライトでその存在を誇示し、盛り場の夜をネオンサインで彩っている。(中略)自分たちのセクシャルな行為については、日常生活では切り離して考えたいと思う一方で、これほどストレートにセックスと結びついたハコモノが日常的な風景の中に点在している(場所によっては群生している)ことを、意識しないでいるのはとても不思議なことだ。”
 鈴木由加里(東洋大非常勤講師・現代文化論)さんはラブホテルという日本独特の存在を通じて日本人のセクシュアリティに働く力を“射精重視の風潮やアダルトビデオなどの影響を受けた定式化された性行為を、恋愛の公式にあてはめてしまうことに、疑問を抱かせな”くし“<わたしたち>にそこで演じるべき恋愛役割や行うべき行為を割り振ってくれる”ものと分析する。
 ラブホテルは江戸時代の出会い茶屋、料理屋、明治の待合(娼婦と性交場所)、戦後の連れ込み(温泉マーク)を経て昭和30年代に郊外のモーテル・都心のアベックホテルから昭和45年以降(1970年代)に確立したもので、昭和55年以降(80年代)のディズニーランドの影響を受け現代のラブホテル観(過剰な概観装飾・鏡・回転ベット)を生み出した。
80年代は、射精産業やAVとともに「物語消費」に適応する身体を生み出し、その「物語」の典型が恋愛だった。そして、「物語」だから初体験をラブホテルですることに抵抗感がある。

(5)クリスマスの宿題
 “新霊性文化が個人主義的な考え方を尊んで共同体の形成を好まず、商業主義や消費主義に適合的であることはたしかである。”
 
 70年代以降のラブホテル確立と新霊性運動は一致する(恋愛と宗教という「物語消費」)。
 クリスマスがラブラブな(運命の)彼・彼女とのイベントだと(まで)認識するなら、それはクリスマスのラブホテル版といってもよい。運命とまでいかずとも、大切な・特別な日として利用するならば、そう言えるだろう。
 (“一年三六五日が恋人たちのためのクリスマスというコンセプトで作られているラブホテルも存在している”)
 
だが、(1)の内田魯庵が描いた明治のクリスマスはいったい何なのだろう。
祭りには聖俗交歓・公式的な祭儀と聖俗融合・非公式な祝祭があり、時間がたつにつれ後者が強調されて残る。日本の祭りは大きく、先祖祭祀・農耕儀礼に別れ年中行事として続いてきたが、特に先祖祭祀については(2)④で述べたように日本人の宗教にたいする姿勢として強く存在してキリスト教土着化に影響を与えてきた。
ただ、明治・戦後の人口移動は農業人口を減少させ、都市部に移った人々を先祖(父系の代々の集合)から切り離したことで、日本の年中行事を大きく変質させたことも確か(先祖観の変化:父系代々の集合→双系の曽・祖・父母)だ。
しかし、移植文化は移植先とまったく異質・逸脱したものならば、移植・土着化ができないこともキリスト教土着化からも示されている。
とするなら、日本はクリスマスを受け入れる素地を持っていたと考えられる。
 これがいったい何なのか、今晩暇な人は考えて、わかったら教えてください。
 
 キリスト教徒の人々へ Mrry Christmas.
 それ以外の人々へ、Safe sex.




引用・参照)
 『日本の近代社会とキリスト教』森岡清美著(評論社)
 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』マーク・R・マリンズ著 高橋恵訳
                          (トランス・ビュー)
 『余暇と祝祭』ヨゼフ・ピーパー著 稲垣良典訳(講談社学術文庫)
 『ラブホテルの力』鈴木由加里著(廣済堂出版)
 『スピリチュアリティの興隆』島薗進著(岩波書店)
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by sleepless_night | 2007-12-24 10:15 | 宗教

年金問題について、先生から一言。







 
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 「カネ、カネ、カネ、カネ、って。もっと大切なものがあるんじゃなかったの」
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by sleepless_night | 2007-12-23 13:32 | その他