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反日/日本人

 
 非/国民の続き。↓

  その人の名は中村輝夫。
 彼は日本軍兵士として、1972年まで「戦った」横井庄一、1974年3月まで「戦った」小野田寛郎よりも長く、1974年(昭和49年)12月までインドネシアのモロタイ島で「戦った」。
 だが、最後まで「戦った」彼は横井・小野田ほど知られていない。
 なぜか。
 もちろん、それは彼が日本人ではなかったからだ。
 中村は発見時、捜索隊の「君が代」に直立不動するも「愛国行進曲」を聴くと捜索隊が日本人ではないことに気づき銃を手に戦おうとした。説得に応じたあと、所属部隊・階級・姓名・本籍地を標準語でハッキリと述べこういった。
 “「日本はまだ負けてはおりません。自分は日本に帰りたい」”

 最後まで「日本人」として「戦った」中村輝夫は、日本人だったのだろうか。

 1899年、国籍法が当時に日本全領土へ施行される。
 1895年の領有時、講和条約により2年の猶予をもって台湾住民は不動産を処分し島外退去か国籍付与かの選択をせまられた。結果、わずか0.16%しか退去者はおらず、圧倒的多数の台湾住民は日本国籍を持つことになった。
 つまり、法制的には台湾住民は日本国民(帝国臣民)になったのだと解釈される、はずだった。

 しかし、そうとはいえない根本的な事情が存在した。
 すでに述べたように、台湾領有は軍による抵抗鎮圧が長く続いた。
 その混乱から台湾総督府は軍組織に位置づけられ、軍人が責任者・台湾総督として事実上の法律となった命令を下し、裁判抜きで即決処刑が行われた。1889年の平定宣言、民政移行後も武官が総督に就いた。
 そして、組織や権力者は、一度手に入れた権益・権利権力を手放そうとしない。
 議会(立法)を必要とせず、裁判所(司法)の介入も受けない、武官総督(行政)による支配という権益・権力を総督府(軍)は当然手放そうとしない。
 だが、近代憲法を持ったまともな国家として三権分立を犯す事態を放置すること、台湾を条約の適用除外地域にすることは、条約改正を考慮する欧米の手前、できなかった。
 また、台湾を日本国とは別法体系が支配する植民地と位置づけることも、国防上できないし(植民地では取られやすい、独立の口実を与えやすい)、国力的にも困難(植民地は経済・工業技術などが大きく進んだ国が遅れた国を支配する場合に正当化しやすいが、日本は西欧に追いつこうとする段階にあったにすぎず、文化的にも儒仏は中国が本場で勝ち目がなかった)だった。
 そこで1896年に帝国議会に提出されたのが明治29年法律第63号案:通称63法。
 同法では総督に“法律の効力を有する命令を発すること”ができると定め、行政に実質的な立法権を与え、台湾評議会と拓殖務大臣の承認を必要とするが、緊急時は事後承認、日本の法律は天皇勅命で施行を可能とした。
 つまり、台湾は天皇大権が及ぶことでは大日本帝国憲法の適用下にあるが、国民の権利義務の点では適用されない、憲法の「部分施行」状態だとされた。
 同法案は実質的な改憲だとして議会から猛反発を受け、例外措置として、3年の期限をつけて成立した。これにより、児玉・後藤の総督・民生局長のコンビは(日本内地にはない)相互監視と連座制を伴った治安立法(保甲制度)、日本内地では禁止されているアヘン専売制(アヘン収入は歳入の15~30%を占めた)を実施することができた。
 もちろん63法は3年の期限後、再延長・再々延長され、1906年には評議会規定を削除した5年の期限を持つ明治39年法律第31号:通称31法が可決。
 この法律を審議する際、政府は台湾や台湾人が日本や日本人とは違うことを主張した。
 しかし、違っているからといって植民地にはできないし、桂太郎首相が誤って台湾を植民地だと答弁した例を除いて政府は一貫して植民地ではないと答えてきた。
 そして、31法の二回の延長を経て、1921年には諮問機関としての評議会を復活させ総督立法権を維持した恒久法、大正十年法律第三号:通称法三号が成立した。
 これによって、台湾が日本から法制的に区別される総督府の独裁状態維持が確固としたものとなった。

 台湾住民は日本国籍をもった、しかし、日本国憲法(帝国憲法)の下には置かれなかった。
 日本人であって、日本人ではない。
 教育においては、すでに述べたように領有初期から「一視同仁」の同化政策(少なくとも理念的には)が実施されてきた。1922年には法文上の民族差別もなくなった。
 これは、「自分たちは欧米帝国主義の植民地支配とは違う。赤字覚悟で文明をもたらす義挙なのだ」と欧米への劣等感を埋め合わせるナルシズムを日本国民に提供した(している)。
 だが、憲法という法制的な次元の話になると、総督府立法を維持しようとしたときに見られるように、言を翻して、台湾は「日本とは違う」という話を持ち出した。
 同化政策を主導した台湾総督府初代学務部長・伊沢修二も“「帝国憲法は新版図の人民にまで及ぶべきものと謂ふにあらず」”と言明している。
 つまり、同化主義者にとって日本人(国民)とは権力に従うものを指すのであって、国民としての権利を得て主張するものではなかった。
 同じ言葉-日本人-を使いながら意味することが違う事態は、台湾議会請願運動での蔡培火らとそれに対する日本人の反応にも同じく現れた。
 蔡は請願運動で日本に行ったとき、20年以上台湾での教育に携わった公学校日本人校長にこういわれた。
 “君等は常に自由々々と乱叫するが、一体世には自由なるもののあるべき筈がない。若しあるとせばそれは浅薄な西洋被れの考えである。…大和魂は即ち献身服従の大精神であって自由を許すわけがない。(中略)君等は既に日本臣民となった以上はそれを改めねばならぬ。”

 だが、この憲法「部分施行」による台湾統治には二つの抜け穴があった。
 ひとつは、台湾住民が日本国籍を離脱する可能性があったこと。
 もうひとつは、台湾住民が日本人となって権利を獲得する可能性があったこと。

 まず、国籍離脱については、国際慣習上国籍法に離脱規定を設けいないことはできなかったが、兵役義務を離脱条件に付けることで解決した。つまり、台湾には憲法の「部分施行」しかなされておらず、台湾住民に兵役義務がない以上、離脱条件をクリアすることがないので、離脱できなくすることができた。
 もうひとつの可能性は、台湾住民も日本国籍を持っている以上、日本内地へ移住することができるために生じる。つまり、日本内地へ移住した台湾住民は、国籍上は同じであるため日本人か台湾住民であったかどうかを把握されなくなる。移住によって、日本へ台湾住民が紛れてしまうことが考えられた。
 そこで、政府は日本の戸籍法を台湾に施行せず、台湾から日本内地への移籍をできなくしておくことで、台湾住民が日本内地へ紛れてしまうことを阻止した。つまり、仮に台湾住民が日本内地に移住しても本籍が台湾から日本に移らないので、日本人と区別することができる。これは、法文上に差別を明記せずに、差別することを可能にした。
 だがこの戸籍法不施行でも、日本人に紛れてしまう可能性があった。それは日本人との養子・結婚によって、台湾住民が日本の戸籍に入った場合だ。
 これは1917年に共通法によりあっさり認められた。
 日本人の戸籍に入ることが認められたのは、総督府特権を侵さないうえに、国内兵員の流出もなく、おまけに「一視同仁」の建前をアピールできたためだった。
 ただし、台湾には戸籍制度がなく(代用として戸籍調査簿があった)転籍手続き自体ができなかったので、日本人が台湾住民の戸籍に入るはできず、効果は台湾住民が日本人の籍に入る場合にしかなかった。1920年に婚姻受理が総督通達で許可されたが、婚姻合法化は1933年に勅令で台湾に戸籍制度を認めるまでできなかった。
  
 しかし、この国籍による包摂・戸籍による区別という苦心の政策は時代の変化によってくずされてゆく。
 1937年に始まった日中戦争、1941年に始まった太平洋戦争によって日本は徐々に「国内」差別を維持している余裕を失っていく。
 日中戦争が始まるとすぐに、それまでの教育における同化路線を一気に加速させ、新聞漢文欄の廃止、神社参拝強制、旧暦正月行事の禁止を行い、台湾人軍夫徴用と志願兵制度を開始した。
 台湾も朝鮮も、日本は国防目的で領有したが、そこで住民を徴兵してこなかったのは、日本人ではないものに武器を渡してしまう不安ゆえだったが、それを上回る必要が出てきた。
 1940年には日本名への変更を「許す」改姓名の措置がとられた。ただし、改姓名したものとしないものに様々な場面で有利不利を付けたが、台湾においては強制措置ではなかった。
 同年にはさらに、皇民奉公会が結成され、総督府と一体となって(総督が会の総裁を勤める)台湾を軍事・警察の支配する戦時体制へと進めていった。学校教育での「忠君愛国」教化は激しくなり、台湾語禁止はいっそう厳しくなっていった(42年には公学校から国民学校へ)。
 1941年に太平洋戦争が始まると日本は軍事負担に逼迫され、財政独立していた台湾が統制経済下に入っていないことが批判され、1942年に大蔵・文部・商工・内務大臣によって台湾内総督府の監督権限が奪われる。
 そして、国外の状況も台湾に大きな影響を与えた。1943年に米英中首脳によるカイロ宣言で、連合国勝利により朝鮮独立・台湾中国返還が基本方針として決定された。つまり、日本は国防上の観点から「植民地ではない。日本だ。」との公式見解を掲げて、汲々と「国内」差別を維持してきたにもかかわらず、敗戦によって「植民地」として奪われてしまう可能性が生じた。44年にはアメリカ軍の攻撃が台湾に及んでいた。
 そこで、日本は「植民地」から一気に日本へと法制的な統一を進めていく。
 保甲制度・アヘン専売という日本内地にはない法制度を廃止し、兵役義務と選挙権、今まで法制上日本から区別するために維持してきた憲法上の義務と権利を台湾にも及ぼすことにする。
 すでに志願兵制度は太平洋戦争開始後に陸軍が1943年には海軍が実施して17000人が「志願」していたが、1945年には徴兵制がとられる。そして最後の切り札、選挙権についても45年に衆議院議員選挙法改正が帝国議会で可決した。ただし、25歳以上男子で直接国税15円以上の納税者のみという制限に加え、日本内地では15万人に一人の割合で議員選出されるに対して100万人に一人の割合での選出という定員を設けた上でだった。貴族院令も改正され、議員選出がなされた(ただし、すでに天皇勅選により1931年に一人貴族院議員がいた)。
 こうして憲法上の義務と権利が及んだ形が整えられたが、総督府は維持され、63法から続く総督府立法権も維持されたため台湾選出議員が帝国議会で立法しても、その法は台湾に施行されないことになっていた。
 衆議院議員選挙は、敗戦まで解散がなかったため、台湾で実施されることはなかった。
 
 
 中村輝夫は、山岳部の平定がほぼ終了し初めて文官が台湾総督に就いた1919年(大正8年)台東に生まれた。公学校(4年制)を優秀な成績で卒業、1942年に陸軍特別志願制度に「血書」をして応募して、日本軍兵士となった。
 1944年、フィリピン・台湾防衛の対米前線となったインドネシアのモロタイ島の戦闘で偵察隊として交戦中に部隊とはぐれ、さらに一緒にいた仲間から「殺す」と脅されて一人逃げ、現地人ひとりから年に数回、塩・砂糖・魚・タバコなどを受け取っていた(戦争は終わったと説得したが、中村は出て行けば殺されると応じなかった)以外、独りジャングルで「戦い」続けた。
 そして、1974年に遺骨収集に来ていた中村の上官が日本人兵生存のうわさを聞き、帰国後に外務省を通じて捜索を要請し、発見される。
 
 中村は知らぬ間に、1951年の日本の台湾領有放棄によって、既に日本人ではなく、中華民国の李光輝と国籍・名前を変えられていた。
 さらに言えば、彼は1899年(日本全領土国籍法施行)以降・1940年(改姓名)以前に生まれたので、日本国籍に生まれたが名前は中村輝夫ではなく、スニヨンという名前だった。
 名前から分かるように、彼は日本の台湾領有でもっとも激しくしぶとく抵抗を続けた高砂族と呼ばれる台湾原住民だった。
 
 戦前の台湾住民は大きく3つの族群に分かれ、それぞれ使用言語がちがった。最も多くを占めるホーロー語(閩南語・台湾語)を話すホーロー人(閩南人)、二番目の規模で客家語を話す客家人、の2つは漢民族系。そして、もっとも少ない原住民族。原住民族は、漢字文化との接触度合いによって大きく2つに別れ、比較的接触があった平地の原住民を熟蕃、比較的接触の無かった山岳部の原住民を生蕃と呼ばれた。後に、1930年の霧社事件で原住民の反発を和らげるため蔑視表現を改め、熟蕃を平埔族、生蕃を高砂族と呼んだ。どちらもそれぞれ一つの部族ではなく、10程度の部族に分かれており言語も違う、さらにひとつの部族内でも部落が違うだけで言語が違うなど複雑多様な文化を持っていた。
 中村輝夫、スニヨンは高砂族のアミ族出身だった。
 
 高砂族は山岳地帯に生活に熟達していたために、日本領有に最もゲリラ的に抵抗することができ、その戦闘能力が日本軍に着目される。
 そして志願兵制度が始まると結成されたのが、高砂義勇兵だった。台湾住民から21万の兵士が出され(3万が戦死。軍属は名簿がなく正確な人数は不明)、高砂族は3000~8000人の犠牲を出した。
 どうして台湾領有に抵抗していた高砂族が日本軍に義勇兵として加わったのかには、だいたい3つの理由がある。
 まず、高砂族の人々が素直で忠誠心が強いため、一度抵抗を止めれば新しい「主人」に忠誠を誓ったこと。
 次に、日本の同化教育に対して、複雑多様な高砂族の文化が弱かったこと。高砂族は多様な言語を持つが、文字を持たない部族もあったため、それを口承してきた。したがって、日本が同化教育を推し進め、台湾語禁止を厳しく行い、生活で限定された場面でしか使われなくなり、子どもたちが使われなくなれば直ぐに廃れ・滅んでしまった。
 そして、高砂族は漢民族系の多数派に差別されていたこと。加えて、日本の台湾領有によって、台湾住民全体は日本の少数派になり、高砂族はそのさらに少数派に、いわば二重のマイノリティになった。二重のマイノリティはマイノリティ以上にマジョリティに同化する傾向がある。もともとマイノリティであったために自文化が相対化されて認識されており(つまり、自文化を唯一のものとした執着に薄い)、しかもマジョリティに同化することで、自分たちを抑圧してきたかつてのマジョリティに対して優位に立つことができるからだ。
 
 中村輝夫ことスニヨンも、その一人だった。

 彼は「日本人」ゆえに生き残り、日本人でないがゆえに国から放置された。
 日本人兵発見を受け、日本のインドネシア防衛駐在官が駆けつけたが、確認の結果直ぐに日本人ではないことが分かる。
 すると、日本大使館員としては亡命を受け入れるほかは、日本に還す事はできなかったし、日本国民ではない以上、できることは台湾に還すこと以外になかった。
 何より、既に中村が“帰りたい”言う「日本(大日本帝国)」は無くなっていた。
 そしてちょうど、日中国交正常化後で関係修復に敏感になっている時期でもあり、日本側は国として手を出すことをしなかった。台湾では、日本占領時代に軍に協力した住民がいたことが蒸し返されると国民党政府にとって不都合だった。
 だから、中村哲夫・スニヨンは、帰る国を失い、帰った国からも無視された。
 彼は日本人になるように教育を受け、日本人として軍人となった、にもかかわらず日本は最後まで法制上日本人とは認めず、戦後は台湾領有放棄の後に放置した。
 
 戦後、台湾に入ってきた国民党政府は人々に北京語を使うように強制し、教育も北京語で行われるようになった。
 そのため、戦前の教育で育った中村は北京語を話す孫と直接話すこともでなかった。
 日本国民ではないため国家からの支援を受けられなかったが、寄付が寄せられた。彼は、その(当時の現地にとっては)大金で暮らし、タバコとビンロウに浸り、呑めない酒を飲み、暴食する荒れた生活の果てに1979年に死去した。


               *
 台湾は親日だと言われる。
 日本の植民地支配を経験した世代の人々が日本語で「あのころは良かった」「自分は日本人だ」「大和魂を持っている」と語る。李統輝のような親日家も有名だ。
 八田與一のように台湾のインフラ整備に貢献した戦前の日本人は有名だし、教科書でも日本の植民地統治によるインフラ・産業への貢献は評価されている。
 日本は日本への同化教育(日本化)を進める政策を採ったが、同時に文明化・近代教育の普及にもなった。
 それは間違いなく、あったのだろう。
 そして戦後の国民党軍の2・28事件を代表とする暴政への反発が、さらに美化させたのだろう。戦前に日本語を忌み嫌った人々でさえ、戦後に国民党の押し付けた北京語への反発から日本語を使った。

 だが、「日本は良かった」の日本は、今の日本、今の私達日本人ではない。
 そして、過去の日本、過去の日本人たちでもない。
 過去に発した、遠い、再び触れることの無い、彼ら・彼女らの時間の中で「日本」と名づけられた想いが良かったと言っているのだ。だから、個々の問題については「親日」のはずの彼ら・彼女らも不満や批判を言うし、差別されていた実態も覚えている。歴史は事実として、日本の採ってきた道-包括と排除の領有、そして放置-を語る。
 もし、「日本は良かった」と語る彼ら・彼女らを今の私たちがただ「親日」と呼び、喜んでみせれば、田川大吉郎が蔡培火の著作へ寄せた、かみ締められることのなかった嘆きが、同じ言葉を使いながら通じ合わない日本と台湾との間に放置された中村輝夫の躯から響いてくるだろう。



 
参照・引用)
『<日本人>の境界』小熊英二著(新曜社)
 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮で行われたコスト削減と同化教育の矛盾について読むと、最近の教育改革で一部が唱えている方向性と重なるように思う。国語と修身(道徳)の強化による同化を目指すことだけははっきりするが、他が曖昧として見えない。とりあえず、その二つを強化することで「自分たちと同じ人間」を作ろうと言うが、その実、「自分たちの言うことを聞く人間」を作りたいという差別感が同化には込められている。権利や自由を嫌い、権利の使い方や自由の意味を考えるなかで自分たちとの利益衝突をどう調整するか考えるのではなく、とにかく否定し・自分たちの言うことを聞くような人間を作ろうとする。この感想が当たっているなら、これからの世代を植民地にしようとしている教育改革だといえる。
『台湾総督府』黄昭堂著(教育社歴史新書)
『ある台湾知識人の悲劇』楊威理著(岩波書店)
「宗教的回心とポリヴァレント・アイデンティティー」寺田喜朗著
(ハーベスト社『ライフヒストリーの宗教社会学』収録)
『帝国主義下の台湾』矢内原忠雄著(岩波書店)
『「君が代少年」を探して』村上政彦著(平凡社新書)
『還ってきた台湾人日本兵』河崎眞澄著(文春文庫)
『台湾入門』酒井亨著(日中出版)
 
 
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by sleepless_night | 2008-02-22 21:04 | その他

非/国民


 “「19年間、日本人だった。」
 「日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない」 
 これらの言葉に私は、日本人以上の日本に対する誇り、愛着を見出すのだが、読者のみなさんはいかがだろうか?
 「仲間内の会話は今も主に日本語」というところにも、「自分たちは国(日本)のために日本国民として尽くした」という強い自負を感じる。
 当時の台湾の人たちが、自分たちを「日本人」だと思っていた。これは投じの日本による統治が公正・公平だったということの証明でもある。そうでなければ、そう思うわけがない。
(中略)
 「反日」日本人たちには、「19年間、日本人だった」「日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない」という李雪峰さんの言葉を、一度、噛みしめてもらいたい。”
      依存症の独り言 「19年間、日本人だった」という台湾人と韓国人の「半日」

                 
 “「僕は思ふ、内地の同胞は、君の期待せられる通りに君を理解することができまい、今それができないのみならず、何年になったらできるか、其の時は遂に来るであらうか」”
                   昭和3年 衆議院議員 田川大吉郎


             *
 (以下で使われる「台湾住民」は日本人植民者を含まない。台湾人と統一して記述しなかったのは、日本統治下の台湾人の法的帰属問題・自覚的帰属意識に触れたため。基本的には「台湾住民」を台湾人と読み替えても構わない)
             *


 田川大吉郎はこの言葉を、日本領有下で台湾議会設立請願運動の中心となった蔡培火の著作『日本々国民に与ふ』へ寄せた。
 1915年(大正4年)に林献堂の要請で板垣退助(板垣は対欧米の大アジア主義の観点から同化主義)を会長に据えて設立された台湾道同化会は、統治の現状と乖離した日本の主張「一視同仁」を逆手にとって総督府の弾圧や低度の教育施設を批判し権利要求するという「親日」を掲げた「抗日」運動を起こした。台湾植民者たちは台湾議会設置に反対・抗議するが、日本側は「親日」「同化」に対して表立って弾圧できず祝辞を送り、すぐに経理乱脈を理由に理事を逮捕し、公安を害するとして半年で解散させた。
 その5年後の1920年、台湾人内地留学生らによって新民会が結成され機関紙『台湾青年』が発行され、編集兼発行人を林献堂の援助で東京高等師範学校に留学していた蔡培火が勤めた。
 当初は台湾文化向上と63法(総督府立法権の根拠法)撤廃を訴え、「一視同仁」を逆手に取った総督府批判を展開したが、当時の殖民政策学の潮流であった非同化・自治主義(の誤解)の影響を受けて台湾住民公選による台湾議会設置へと運動を変化させていった。その背景には、数千年来の文明保持者であった漢民族としてのアイデンティティ(日本への同化拒否)と非文明的・後進的な台湾への不満・批判(文明化への意思)というアンビバレンスがあった。つまり、近代国家日本の権利を欲したが、台湾としての独立性を維持したいという思いが、(国家としての)独立の名を捨てて実を採る台湾議会設立という解に結びついていた。
 そして、その帝国議会への請願の紹介議員となったのが田川大吉郎だった。
 田川は文明による同化・支配の信奉者だったが、イギリスの植民地統治を(誤解の上に)模範としていたために議会請願に賛成していた。
 1921年の第一回請願は何の結果ものこさず終わり、1922年の第二回もほとんど審議されないまま不採用に。
 1923年には総督府が自治運動弾圧にのりだし、集会に警官を配して解散を命じさせ、運動に協力した公務員・会社員の解雇、免許停止、取立て・貸し出し拒否などで圧力をかけ、治安警察法で出版制限を行い、議会期成同盟メンバーを一斉検挙した。
 1924年第四回、第五回では台湾議会を内地の地方議会に準じるものと釈明するも不採用。1927年には運動母体が分裂、同年第七回請願、第八回も審議未了で失敗。運動は衰退するが、1934年の第十五回請願まで続けられた。
 1928年、運動の衰退するなか、蔡培火が日本人に向けて請願の趣旨を書いて出版したのが『日本々国民に与ふ』だった。

 1895年(明治28年)、日清戦争勝利、講和条約により台湾は清から日本に割譲される。
 しかし、台湾住民は台湾民主国独立を宣言し、日本の領有に激しく抵抗した。台湾住民から危害を加えられるのを恐れた清国代表の求めで船上で引き渡し会議開催が行われた。
 日本は抵抗を鎮圧するために軍を送り、台北攻防戦はあっけなく勝利したものの、南進は熾烈な抵抗にあい十月の全島平定宣言までに、日本側死傷者は北白川宮能久をはじめ4500人、台湾側死者は約14000人(当時の台湾総人口約260万人)を出した。
 その後も、抗日ゲリラによる抵抗は続き、1987年には13回もの反乱がおき、1902年までに約32000人の台湾人死者を出すことになり、特に山岳部の原住民(高砂族)の抵抗は激しく、1906年から08年まで計18回もの平定軍が派遣され、1915年までほぼ平定されなかった。
 しかも同年には西部一体から全島にかけての独立を求める反乱、西来庵事件が起き、1464人の逮捕者、903人の死刑(実際に処刑されたのは200人、残りは無期)を出した。
 さらに、統治後期の1930年には総督府の討伐・強制労役・官憲の仕打ちなどを理由にした反乱事件、高砂族200名が学校の運動会・駐在・役所を襲撃、日本人134人・漢人2人を殺害する霧社事件が起きる。
 
 台湾住民による抵抗の鎮圧に追われ、初期台湾統治は混乱を極めた。
 総督府官僚の腐敗と植民者たちの横暴が、混乱に輪をかけた。
 台湾は官僚にとって「島流し」の地であり、他に行き場のない人材が送られ、能力もなくやる気もない官僚たちは職務怠慢や収賄・職権乱用を重ねた。高等法院長として汚職を摘発した高野孟矩は逆に解職されてしまった。植民者たちの多くは「一旗揚げに」やってきた下層民で、台湾住民への差別むき出しの態度をとり、一攫千金目当てで犯罪まがいの行為をおこなったり、富裕な台湾住民にこびへつらい、遊女として買われたりし、統治者としての日本の威信を大きく損ねていた。
 そこで事態を「改善」したのが1898年から1906年まで台湾総督・民政局長に就いた児玉源太郎・後藤新平だった。
 治安対策として清国統治下の保甲制度(相互監視と連座制)を敷くと同時に、鉄道敷設・築港・道路整備を行い(行わせ:保甲制度による義務動労)、水力発電事業を起こした。
 産業としては鉱産のほか、従来から産地として知られていた製糖事業を法で優遇・保護し日本の財閥の投資を呼び込み、児玉・後藤統治の終わりには生産量は倍に増え、後に最高で160万トンまで増加した。
 1905年には、日本からの補助金辞退をし、財政独立を果たす。
 

 1915年の山岳部ほぼ平定の8年後、林献堂や蔡培火らの自治運動に対して総督府が弾圧に乗り出した1923年(大正12年)、葉盛吉は生まれた。
一家は没落により離散し、盛吉は叔父夫妻に引き取られ、叔父の勤める製糖会社の社宅で育てられる。
 叔父は師範学校を出て日本の教育を受けており、日本人が経営する製糖会社にも多くの日本人社員がいたため、付き合いはなかったが、社宅では日本人に囲まれていた。
 だが、1930年、満7歳で公学校へ入学した葉盛吉は台湾人の子どもに囲まれる。
 しかし1936年、台南一中に入学すると逆に、クラスに台湾人は3~4人しかおらず、日本人に囲まれる。
 自分は日本人なのか台湾人なのか。
 “公学校に入った時、級の中に内地式に育った人が一人いたが、私はその友達を見て、台湾語を全然知らないということは、どんなに幸福だろうかと思った。台湾語を全然知らないということは、それだけ内地人に近いと考え、ただそれだけのことで、組中の尊敬の的となり、組の大将になることができた。”
 彼は二高へ入学した後に「台湾の豊田正子」と呼ばれる天才文学少女・黄鳳姿の書いたこの文章を読み公学校時代を振り返って共感した。


 葉盛吉が台湾人に囲まれて「台湾語を知らなければよかった」と独り想っていたとき、王恵美は台湾語を知らなかった。
 “当時は「自分が中国人」ということが受け入れられなかった。「私は日本人」であり、「中国人ではない」と思っていた。終戦前、日本人は、中国人を「チャンコロ」と呼んでいた。あからさまに表に出さなくても、日本人の誰もが「優越意識」を「確かに」持っていた。それまで、自分の親が台湾人でありながら、自分が「中国人と同じ(民族)」だとは考えたことがなかった。”
 現在、彼女は振り返って、そう語る。
 1932年(昭和7年)に、大地主の息子で師範学校卒の教師の父と医師の娘で高等女学校卒の母との間に生まれた王恵美は、日本語が生活言語として使われる家庭に生まれ育った。
 小学校に入学し、40人~45人のクラスで台湾人は彼女のほかに一人いたが、小学校低学年のとき松岡恵美子と改名し、周りも王が台湾人だとは認識していなかった。生徒や教師からもいじめや特別扱いもされず、王自身も台湾人だとの自覚はまったくなかった。


 葉盛吉と王恵美、一方は日本と台湾の間でアイデンティティに悩み、もう一方は台湾にありながら日本人としてのアイデンティティを疑いなく形成した。
 この違いは、二人が通った場所の違いにある。
 葉盛吉が通ったのは公学校で、王恵美が通ったのは小学校。

 1895年の台湾領有からすぐ、日本は台湾住民に対する同化教育を開始する。
 上陸直後の7月には国語伝習所・国語学校が設置され、1896年には抗日武装蜂起で6人の日本人教員が死亡する。台湾総督府初代学務部長・伊沢修二は台湾が人種的・文化的に近く(台湾は古来日本の領土だったのを清が取ったと主張)西欧の植民地における教育とは異なることを主張し、教育同化による精神の征服を目指し無償による国語と修身を中心としたプランを建てた。しかし、抵抗鎮圧と台湾財政の逼迫により伊沢プランは縮小され、1898年制定の初等教育に関する公学校令・規則では国語・修身中心の教育や六年の修学年限は井沢プランを反映したが、科目から歴史・地理・理科などが削除され、(日本国内では1900年から初等教育無償なのに対して)無償教育は否定され費用は地方庁と区域内住民の負担となった。これによって国語伝習所は公学校として台湾住民子弟用の初等教育となった。
 国語学校は師範部・国語部・実業部に別れ、師範部は公学校教員養成、国語部は中等教育、実業部は農業電信鉄道に関する中等教育を行った。
 1904年の公学校令改正では公学校増設制限、50人学級から60人学級へ、さらに入学年限を半数近くの公学校で4年に短縮。
 後藤新平が“「台湾教育方針は無方針であります」”と述べたように、国語による日本人化ということ以外には教育方針がなく、コスト削減による中途半端な日本語教育に落ち着いていった。
 一方、日本人子弟は台湾住民子弟の教育とは別系統で、小中高と国語学校付属であったが、1898年~1910年の間にそれぞれ独立。
 
 1918年に台湾教育令が改正され、国語学校が廃止され師範学校、中学校・女子高等学校、医学専門学校(台湾総督府医学校)が設置され、台湾住民子弟に専門教育機会が与えられる(但し、程度は日本の専門学校より低い)。
 1922年には新教育令により、初等教育に限り国語常用者は小学校へ(小学校令適用)、日常用者は公学校へ(普通学校令適用)、中等以上は(日本人子弟と台湾住民子弟)共学と定めれれ、法文上から民族差別が消える。ただし、国語常用とは“「業務上国語を使用するに止まる者、又は対話者との関係上国語を使用するに止まる者の類」”では常用と認めないといった非常に厳しい条件だった。
 同年には高等学校、1925年には台北帝国大学が設置された。
 台北帝大予科医類と台北高校理乙には定員の25%まで、その他学部には5%までという台湾人入学制限があり、法文上の民族差別撤廃は日本人による高等教育独占を実現した(1918年に設置された台湾住民向け医学専門学校なども22年新教育令で日本人向けへと変質した)。そこで、台湾での進学に破れた台湾住民子弟で余裕のあるものは日本内地への留学へ向かうことになる。
 また中等学校も、入試は小学校卒業生を基準に作られたため、公学校からの入学者は少なかった。
 さらに、制度上共学であっても実際には台北一中・二中、台南二中、台北一高女、台中一高、台南一高女などの「一」がつく学校は実質的に日本人子弟専用となった(台中は林献堂らによって先に一中が作られた)。


 つまり、生まれる前年に教育令から法文上の差別が撤廃された葉盛吉は、公学校からの僅かの中学進学を、しかも実質的に日本人子弟専用となった名門台南一中へ進んだ。
 だから、台湾住民子弟に囲まれた公学校から日本人子弟にかこまれた中学と環境を激変させ、日本人と台湾人との間でアイデンティティの不安に立たされた。
 一方、王恵美はそれこそ生まれながらのエリートとして小学校から高等女学校へ進み、日本人に囲まれ、日本語しか知らずに育ち、自分を日本人だと認識して疑わずに育った。

 そして、日本の敗戦は2人の人生を、アイデンティティを大きく変えることになった。
 自分は何人なのか。

 葉盛吉は中学で日本人にかこまれ、差別・侮蔑にもあい、日本人と戦うか・日本人になるかの二者択一から、積極的に日本人になろうとし、学業に打ち込み、学内2位の成績で卒業する。1941年には日本名に葉山達雄に改名する。
 競争の熾烈な台湾を避け、日本内地の岡山六高を受験するも2年連続失敗、3年目1943年に仙台二高に合格。二高の寮生活で再び民族問題に向き合う。
 八紘一宇の大理想による統一やユダヤ陰謀説に熱中したりしたが、やがて両方ともを批判し、抽象概念の下で行われた弾圧へと目をむけるようになり、(東北への愛着と同時に)中国(台湾)へ意識を向けるようになった。
 敗戦後、東京医学部へ進学していた葉は台湾へ帰り、台湾大学医学部へ編入した。
 葉は祖国中国への期待、理想の実現を夢見た。

 王恵美にとって敗戦は、自分が日本人ではないという現実を突きつける、アイデンティティ崩壊の危機を意味した。
 日本人は引き上げしまい、彼女も高等女学校から台湾省立第二女子中学(旧台北第三高等女学校)へ編入することになる。当然回りは台湾人であり、彼女をクラスメートは「どうして日本人が転校してきたのか」と見る。台湾住民の言葉、客家語もホーロー語(閩南語・台湾語)も話せない彼女にとって台湾は外国のような環境になり、登校拒否をした。
 台湾へ上陸した国民党の軍隊は乞食のようにみすぼらしく、その姿が眼に焼きついて離れず、戦前からあからさまにせずとも持っていた優越感も障害となり、どうしても自分が台湾人だとは認められなかった。
 
 王が眼にした国民党の軍隊は、台湾へ希望を胸に帰ってきた葉盛吉も失望させた。
 国民党は軍も官僚も腐敗しきっており、軍規はひどく各地で略奪・公私混同の強要・収賄が見られ、インフラの利用方法も知らず(もちろん整備もしない)、台湾住民に対して征服者のように横暴を働いた。
 1947年には2・28事件が起きる。台北でヤミ煙草を売っていた林江邁を国民党の密輸取締官が発見し、煙草だけではなく、売上金まで没収しようとしたため林がすがりついたのに対し銃で殴りつけた。これを見ていた通行人たちが取締官を取り囲んだため、取締官が発砲し死者がでた。これまでの国民党の横暴に怒りが積み重なっていた台湾人は警察・憲兵・専売局・台湾行政長官公署を包囲。群集に長官公署から発砲され死者を出す。抗議は台北から全島に広がった。最後は軍が鎮圧に乗り出し1万人以上が殺害された。
 インテリ学生たちは国民党の暴政から対抗的に第二党であった共産党へ加担する。
 葉も1948年に台湾大学の共産党地下組織に参加し、学生自治組織を使い活動すた。
 そして1949年大学卒業し結婚して医師としての生活をスタートさせたが、1950年朝鮮戦争による国民党の赤狩りで逮捕。処刑された。

 王恵美はなんとか中学を卒業し、王の父は台北市政府教育課長を国民党の腐敗に絶望して辞職した。王は卒業後、進学も就職もせず、家に閉じこもり過ごした。

 
 王や葉のような激しいアイデンティティの混乱を受けなかった台湾人もいた。
 
 葉盛吉が二高時代に読み共感を覚えた文章の主、天才文学少女・黄鳳姿だ。
 1928年(昭和3年)、京都帝大卒の外務官僚の父(後に関西大・立命館大で教える)を父に生まれた黄鳳姿は、王恵美と違い、葉盛吉と同様に台湾住民子弟用の公学校に通った。
台湾における日本の同化教育の精華のような存在だったはずの黄はさめていた。
 “台湾の読書人家庭は、みな中華意識が強かったです。自分たちが一番だと思っている。影では、日本を、野蛮人と呼んで、日本の文化程度を低いと思っていました。私の曽祖父は、「気をつけなさい。いまは日本の天下だ。太陽が当たっている。表面は従えばいい。日本で一番注意しなければならないものは天皇だ。ちょっとでも触れれば大変事になる」。そう言っていました。(中略)だから、日本人に対しては、調子を合わせて奉っていればいいと考えていたのでしょう。ちょうど、平素は馬祖や観音といった伝統的な神様を祀っていて、警察が見回りに来るときだけ、その上に大麻を飾るように。(中略)私は子ども心にも、台湾の人たちは裏表があると思いました(笑い)。”と現在語る。
 黄も日本の敗戦を解放の日だと喜んだ。
 しかし、王や葉と同様に、国民党の腐敗・暴政にすぐさま失望に変わった。
 そして1947年1月に公学校3年時の担任で彼女の文章指導をしていた池田敏雄のプロポーズを受け結婚し、日本へ渡った。日本敗戦で日本人が最も軽蔑されていた時代で、母以外全員反対、父からは勘当を告げられるほどのなかでの結婚だった。

 王は30歳で日系企業へ駐在員として就職し、企業が台湾から引き上げたのを機に40歳で退社した。
 それから、彼女は父が後年熱心に信仰し活動していた日本の新宗教「生長の家」に参加した(生長の家:大本教第一弾圧で離反した谷口雅春が1930年に設立。唯心論思想・想念の転換による救いを説く。戦中戦後に国家主義・天皇主義的傾向を強めた)。信仰は彼女に日本人として育てられた自分を受けさせ、日本時代の「道徳」が失われるのを憂いた父の跡をつぐことを決意させた。
 “日本人よりも日本人なんですよ。はは、こういうとおかしいけど。(中略)以前の日本人は私たちといっしょだけどね。終戦後の日本人より日本人なんですよ。”
 “私はね、日本にも責任があると思うんですよ。今頃、何故、大陸との通称目的かなんかしらないけど、大陸、大陸と、言うこと聴いて…。”
 現在、王恵美はそういって日本人以上に日本を想い、その日本が中国へ眼を向け台湾を無視することを責めている。


 自分は日本人だ。
 1945年の日本敗戦時に、王や葉のような混乱も、黄のような覚めた感覚でもなく、そのアイデンティティを確固として持ち続けた台湾人、「最後の日本人」がいる。
 続き→反日/日本人
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by sleepless_night | 2008-02-22 21:01 | その他

テロの隣人



“イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある司祭がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』”さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」”
                 ルカによる福音書10章30節~36節

             *
 大阪市にはホームレス状態にある人々が約4000人いる。
毎年約800人が路上、公園、水中、簡易宿泊所、運がよければ病院に運ばれて死ぬ。
死因は病死、餓死、凍死、自殺、暴行死など。
大阪市西成区、釜ヶ崎には約2万5千人の日雇い労働者がおり、約1万9千室の簡易宿泊所がある。簡易宿泊所は住居と認められないため、住民票を取ることが認めれず、選挙権を行使できない(つまり、憲法の三大原則の一つ「国民主権」の「国民」から実質的に除外されている)。仕事を探し、部屋を借りようにも、金銭的余裕に加え保証人がハードルとなって極めて困難な状態に置かれている。そして、住居がないので「居宅保護」も受けられない。

 約20年前から釜ヶ崎に赴任し、釜ヶ崎の労働者支援活動を行っている本田哲郎神父(フランシスコ会)は“貧しく小さくされている人”と彼・彼女らを呼ぶ。
“彼らは「社会的弱者」と呼ばれてはいても、社会的に弱い立場に立たされているという意味であって、彼ら自身が無力だというのでは”なく“持っている力を発揮するための「場」や「条件」を奪われているだけ”であり、“「小さい者」ではなくて、「小さくされている者」”だ、彼ら・彼女らを小さくしているのは中流クラス以上の人々、そこには教会に今日集っているキリスト者達も含まれているという。
 本田神父は原典の読み込みから、旧約・新約聖書“この二つが共通していっていること、それは「神は貧しく小さくされている者と共に働かれる」この一事”だったとの認識にいたる。
 アブラハム、ダビデ、モーゼ、イスラエルの民、マリア、ヨゼフ、12使徒、彼らが宣教した人々、そしてイエス自身も、皆貧しく虐げられた人々だった。
  “神は底辺の人たちを選び、その人たちと共に立ち上がることをとおして、すべての人を救われる”、“貧弱だからこそ、神がご自分の力をその人たちに託し、自分たちが貧しさ小ささから立ち上がって、まわりの人々を解放しつつ、共に豊かになっていけるように定めている”のだと。
貧しいことが良い、価値があるのではない。貧しくない人が貧しくなろうとする必要はないし、貧しくない人が貧しくなったとしても、貧しく生まれ育った人々と同じにはなれなるわけではないし、“はじめから下積みでがんばるしかない、そういう状況におかれている人たちを差別することになる”。へりくだりを評価する際の根拠とされる従来の聖書解釈“神→人間→僕→十字架の死”というイエスの生涯も間違っている。貧しく小さくなる競争をするのではなく、貧しく小さくされている人々から学ぶ、正義に反する、抑圧的な社会構造の被害をもっとも受けている人々の願い・洞察・価値観・感性に学び、協力・連帯することで救い(解放)が社会にもたらされる。
 そのためには、現実の対立の緊張から逃避し偽りの和解・調和を選ぶのではなく、「敵」を明確に認識し、被抑圧者と連帯しなければならない。
 “いくら個人的・私的な生活態度がつつましく、敬虔で、善意に満ちた人であっても、その人が社会の富裕な側、力を持つ側にいるということは、貧しい人たち、力を持たない人たちを抑圧する側にいるということ”であり、“富と権力の恩恵を、正義に反して自分たちだけで享受できる仕組み”が問題である以上、中立はありえない、と言う。
 隣人愛の「愛」は家族・夫婦などにあるエロスでも、友人などの好意を持つ関係にあるフィリアでもなく、アガペーである。平たく言えば「大切にする」こと、好きになれない・愛情を感じられない相手でも、一生懸命大切にしようとする。貧しく小さくされている人々を好きになれないとしても大切にする。同様に、敵を敵だと認識することを放棄するのではなく、敵を敵として認め、愛すること。抑圧に加担することで損なわれる尊厳を回復させるように解放すべきだと訴える。
 そして、“福音はつげ知らせるべきであるけれども、宗教は宣教すべきものではない”、“宗教はどれも限界がある”と述べ、重要なのは福音的視点であり、「ケリュッソー:告げ知らせる」、“正しくは「身をもって告げ知らせること」”であると福音の普遍性を訴える。

 本田神父の主張・運動は解放の神学の日本版だと評価できる。
 1950年代から南米でカトリックの反貧困運動を理論的に支えた解放の神学の提唱者の一人グスタボ・グティエレスは教会が“政治に関する事柄は、低次元のもの”として関心を向けないことを批判し“教会の歴史的現存は、必然的に政治の次元を含む。”先進国の発展の副産物として抑圧されている南米の解放は、経済的次元と同時に政治的文化的、倫理的な次元を含み、解放者としていのイエスやキリスト教の存在意義に関わると述べる。
  “正義と公正がなければ神を知ることは存在しない。”
 “救いの業を厳密な「宗教的」分野に限定して、その普遍性に気づかない人々とは実に、救いの業を矮小化してしまっているのである。(中略)彼らは、救いの価値を守るため(あるいは彼ら自身の利益を守るため)に、人民と社会階級とが、他の人民と社会階級によってつながれている従属と抑圧から解放されるために戦っている歴史のただなかから、救いを取り去ってしまうのである。彼らは、キリストの救いが、あらゆる悲惨、略奪、疎外からの根源的解放であることを認めるのを拒むのである。そして、彼らはキリストの業を「守ろう」として、それを「失う」のである。”
 教会は現状維持を意味する政治不介入から不正な体制・秩序との絶縁へと決断し、「脱中心化」する必要があり、聖職者・信者・非信者の区別を超え、“キリストの業と霊性とが、救いの真の要である、という認識”を持ち、福音・救いの普遍性に立って、改良主義に堕せず、“人間があらゆる従属から開放され、自らの運命を担う者たりうるような、質的にまったく異なった社会を求めるなかで”、“「新しい人間の創造」”を目指すべきである。
  “中立は不可能である。これは我々が直面する事実を、容認するか否定するか、という問題ではない。むしろそれは、我々がどちらの側に立つか、という問題である。”
 “福音は、万人に神の愛を宣言し、神が愛したように愛せよ、と呼びかける。”“すべての人を愛するということは、対立を避けるということではない。作り出された調和を保ち続けることではない。普遍的愛は、被抑圧者との連帯の内に、抑圧者をもその権力、野望、そしてその利己主義からかい法しようと努めるものである。「客観的な罪の状況に生きるものへの愛は、われわれに彼らを解放すべく戦うよう要求する。貧しい人の解放と富める人 の解放とは、同時に達成される。」”“「敵を愛する」ことは緊張関係を緩めはしない。むしろ、それは体制全体に挑戦し、社会を覆す形をとっていく。”
 グティエレスも聖書における“貧しさは人間の尊厳にさからう、したがって神の意思に反する、恥ずべき状況”であると述べ、記述から“貧しさに対する力強い拒絶”が示されているという。
だが、キリスト者にとっての貧しさの意味という点に関して、グティエレスは“連帯と抗議へのかかわりとしての貧しさ”を提唱し、自らの意志で貧しくなることへの一定の評価を与えている。
 貧しさは悪であるが“貧しさを、あるがままの姿として-すなわち悪として-受け入れ、それに抗議し、廃絶のために闘う”ために、貧しくなることを肯定している。

 1950年代に生まれた解放の神学は、南米はもとより、アジア、アメリカにも影響を与え、日本でも在日や障碍者の運動に影響を与えた。
 だが、「解放の神学は死んだ」といわれるように、南米の解放の神学もバチカンの圧力などもあって力を弱め、理論的主導者の一人レオナルド・ボフは聖職を辞した。
 しかし、イスラムやアメリカ福音派に代表されるように、政治に対して宗教が影響を与える流れはやんでいない。そして、それらは純粋に宗教運動であるというより、背後には貧困をはじめとする社会問題を抱えている。宗教教団が自らの教勢を伸ばさんとしたり、国家が宗教による統治を試みても、背景にあるものを見過ごし、思うようには利用できていない。
宗教の復権を生み出したものが、宗教の発展を阻害する要因でもある。
本田哲郎神父が“宗教はどれも限界があるな、と強く感じています。”と述べて、信者を増やそうとしない、洗礼を行おうとしない、福音の実行・実現を強調するのにも、これが関係するように考えられる。

 宗教は大きな可能性を持つ、大きな可能性をひきつけるというべきかもしれない、が日本の貧困をはじめとする社会問題に対する可能性は期待されるのだろうか。

 一人の日本人がインドで「解放の仏教」とでも呼ぶべき運動を主導している。
 1935年岡山に生まれた佐々井実は中学卒業後上京、丁稚奉公の後、帰郷し薬剤行を営むも女性問題に悩み廃業し投身自殺を試みるも止められ放浪の後帰郷、日本パルプの子会社に勤めるも満たされず出家を試み延暦寺・久遠寺・総持寺などの本山を尋ねるも「大学を出ていないから」とあしらわれ彷徨先に倒れ山梨県の大善寺(真言宗智山派)住職井上秀祐に拾われ2年間修行に励む。1960年、井上の計らいで高尾山薬王院管主山本秀順により得度。法名を秀嶺とする。大善寺に一時帰り、再び求法の旅にで、鹿児島の教王寺(日蓮宗)で修行。62年に薬王院に帰り、住み込みで新聞配達をしながら大正大学に通い、岐阜の正眼寺に参禅、浪曲師二代目東家楽水を襲名し仏教浪曲の巡業を行い、手相・姓名・易を学び有楽町で易者をする。山本秀順に薦めで65年にタイ留学、パーリー語を習得しパクナーム禅の最高位を贈られるも、女性問題を起こし帰国へ。しかし途上インドの日本山妙法寺へ行き、八木天摂のもとで修行、大宝塔建設に従事。妙法寺・藤井日達に疑問をいだくなか、夢で老人に「我は竜樹なり。速やかに南天竜宮へ行け」と告げられたのを受け、竜(ナーガ)宮(プール)から、ナグプールへ行く。題目を唱えまわりイスラム教徒住人の迫害をうけつつ、仏教徒に受け入れられ始めるなか、不可触民である仏教徒の貧困、仏教僧の既得権益に胡坐を欠く無能に触れ、不可触民出身の仏教徒(仏教によるカーストの打破を志向)でインド憲法の起草者アンベードカルの命日12月6日にあわせ八日間の断食・断水行を行い注目を集める。行の場所に寺院建立を求める募金運動が起こり69年に建立。寺院建立運動を続けるなか、(本人は否定的だが)祈祷師としての力も評判を集める。73年、日本山妙法寺と決裂。80年全インド仏教大会の大導師、アンベードカル改宗25周年記念実行委員を務める。国・派閥で分裂しあらそう仏教徒を統合する役割を担う。200以上の寺を建立し、82年アンベードカル入滅式典の導師、83年に全インド比丘総本山建設委員長を務める。85年、中央政府の国籍許可にもかからわず、(反仏教の占める)高級官僚・警察組織による妨害で強制退去命令を受け、87年に不法滞在で逮捕。数万人が警察を囲み、連日各地で大抗議集会が開かれ、十万人を超す署名、陳情で各政党が警察を非難する声明を出し釈放、国籍取得。89年アンベードカル生誕100周年記念式典導師を務め、20万人大改宗集会導師など少なくとも80万人の改宗に携わる。92年から大菩提寺奪回運動を主導。2003年から政府少数者委員会仏教徒代表。改宗者は一億を越すといわれる。
 “マハトマ・ガンディーが裸身を白衣で包み、無欲の姿勢で歩いているのを見て、私は背広を着、ネクタイを締め、ちゃんとした家に住んでいる。私は人間の欲望を否定しない。逆にそれらを肯定する。一切の人間的権利を三千年来奪われてきた人々にとって第一にもっとも必要なのは、社会的平等と自由と人間性の確立であり、それらをこの現実世界で獲得することである。人間の可能性をどこまでも追求することのできる社会を実現することである。そのためには戦わねば何者の手にすることはできない。わたしの仏法は戦う仏教なのだ”
 アンベードカルのこの言葉を引いて、佐々井師は瞑想仏教への対決、人間解放の道としての仏教を提唱する。

 密教化の後13世紀に消滅したインド仏教の復活と言えるこの運動は、階級支配からの解放運動のひとつだった釈迦の行いと重なると同時に、その変容とも重なる。
佐々井師が日本に残っていたらとも思うが、経歴からもわかるように彼は日本社会を飛び出した存在だ。出会い、導いた宗教者たちは恵まれたものであったが、日本の仏教会に納まることはできなかっただろ。
 そしてなにより、インドの社会事情(対立すべき集団が宗教に基づくため、対抗的に宗教を持出すことが有効)やインド人の素地が大きい。

 だとすると日本において可能性としてあるのは、新宗教しかないと考えるべきだろうか。
創価学会、立正佼成会、霊友会、PL教団、天理教などの数百万・数十万の信徒を抱える大教団ならば、宗教が社会を動かす可能性を持つだろうか。

 しかし新宗教の大教団とはいっても、可能性は低減しつつあると言える。
 政党まで抱え、断トツの影響力を持つだろう創価学会も既成化が進み、組織が拡大よりも単純再生産に向かっていることは避けられない。伝統仏教よりは意識的だが、3世・4世ともなれば「家の宗教」化する。さらに、組織引き締めの役割を果たしていた公明党の選挙活動も、自民党との連立で曖昧化している。
大衆を主体とする新宗教として規模を拡大したが、組織の拡大は官僚化を不可避に伴い、官僚化は大衆とは容れない。
だが、大衆から脱すれば自己否定になり、それもできない。
 今後社会の二極化が進み、新宗教が発展した戦後や明治大正のような社会的紐帯から切り離された下層労働者階級が形成されることがあれば、再び新宗教の市場となるとも考えられる。
 ただ、創価学会がアピールするような現世利益獲得については、確率自体が社会に増加しなければ実現されないだろうため、「ウリ」になりにくいだろう。
 
 なお、テレビなどでポピュラリティを得ている占い師・呪術師のような存在は、消費者として享受している(好きな時場合に好きなようにトッピングする)層に支えれていると考えられるため、主体的担い手として教団や運動などの支える大規模で緊密な集団を形成するとは推測されない。
 マス・メディアに取り上げられなくなる、新しいネタが登場すれば、忘れられるし、代替されるだろう。
 突風のような気まぐれが社会現象を一時的に生じさせることはあっても、根本的で長期的な変化を社会に与えることはできないと思われる。

 大集団、大衆を基盤とするのではなく、エリートによる小中規模の新しい新宗教という可能性も考えられる。
 佐々井秀嶺師のような日本から飛び出すタイプ、既存の伝統仏教集団に納まりきらない修行や活動を志すエリートたちが形成する小中規模の団体・運動は、これからの日本社会における宗教を考えたとき、もっとも可能性を持つかもしれない。
 まず、一般的に葬式仏教と揶揄される伝統仏教団は、商業的慣習的な支持を得ることはできているが、実存的な欲求を満たすことを求める存在とは認知されていない。
 そして、商業的慣習的にも伝統仏教団の支持は失われつつある。葬儀・供養という伝統仏教の牙城でさえ、仏教離れは徐々に進展しつつある。
 だが同時に、多くの人々は実存的信念や超越的価値観を一から組み立てることもできないし、自らのみによって組み立てられたそれに揺らがないでいられるほど強くもあれない。
 そこに、堕落した既存の伝統仏教団ではなく、エリートによる新教団が信頼の投影先として必要性がある。
 この新宗教は、明治大正に天理教や大本教が法規制や世間の警戒をかいくぐるために形式的に神道の一派となったように、仏教の一集団として形成されることが予測される。つまり、いかに新しいのに、新しいものだと見せないか、いかに正統性を印象付けて信頼感をもたせることができるかが重要だと考えられる。
 鎌倉仏教が大衆に浸透しやすいように易行化することで仏教のリバイバルを成し遂げたのと対照的に、難行化しエリートによって担われる仏教としてのリバイバルだとも言える。
だだし、この新宗教が一定以上の規模を超えたとき、伝統仏教団の反発・妨害が必ず生まれるだろうし、貧しさの尊重といった価値観が一般社会を攻撃するものとみなされればバッシングを受けるだろう。また、エリートを支えるための資金が大口の寄付や富裕層の寄進によれば、伝統仏教団となんら変わることがなくなり、やはり支持を失うだろう。   
 
 ここでも、「貧しさ」をどう位置づけるかが問題となる。

宗教団にとって、貧しさは正当化することのほうが安全だ。
現世利益や富の祝福をすれば、利益が実現されなかった人や富をもてなかった人々を自宗教の「救い」からもらしてしまうことになる。
貧しさを正当化しておけば、少なくともそれに引かれてきた人々を逃さずにすむ。
また、財・富裕の創出・蓄積に価値を見出すなら、宗教という非世俗を持ち出す必要はそもそもなくなる。

マザー・テレサは“Poor is beautiful.”と言った。

本田哲郎神父は、貧しさの正当化を拒んだ。
しかし、本田神父は「貧しく小さくされている者」の立場から見えるものに価値を見出している。
すると疑問が生まれる。もし世界の人々が貧しさから解放されたら、その価値、イエスの力の働きは失われてしまうのではないか。
佐々井秀嶺師は、貧しさの正当化を拒んだ。
しかし、人間の可能性追及が圧倒的な富裕と圧倒的な貧困を生み出しているのではないか。
結局、仏陀が教えたように、人間の欲望を解決されなければ、新しい敗北・貧困を生み出すだけになってしまうのではないか。

もちろん、両氏は貧しさの拒絶というより、不公正・不正義への糾弾をしているのだと解釈するほうが妥当だ。
しかし、結果を考えれば、今富んでいる人々の富・財産を奪うことを意味するし、中間層にとっては貧しくなることを意味する。
それが、貧しさの正当化をなくして可能だろうか。
貧しさを正当化したからこそ、仏教もキリスト教も不労の上に大伽藍を建ててきたのではないだろうか。そして、両宗教が大伽藍に安住してきた・しているから、貧しさから批判され、貧しさの中から本田神父・佐々井師が生み出されたのではないだろうか。



          *
 “神の前で、神と共に、われわれは神なしで生きる。”
 1945年、ヒトラー暗殺のためにドイツ国防軍情報部に勤務し、計画に関与したデートリッヒ・ボンヘッファーは処刑された。
  神学者・牧師として聖書に基づいて悪による悪の根絶の不支持・絶対平和主義を標榜し、ナチスに抵抗する告白教会に加わっていたボンヘッファーは、霊的問題と現実的問題に聖書解釈をわけることを否定し、「機械仕掛け(デウス・エクス・マキナ)の神」や論理の「補完物」としての神ではなく、限界状況で罪を引き受ける(ヒトラーを暗殺する)ことで、人として歴史的現実に責任的に生き十字架に架けられ(苦しみ捨てられ)たイエスの行き方に倣おうとした。
 ボンヘッファーの思想は、現実社会への宗教(神学)のかかわりとして、解放の神学の先駆けだとの評価を受ける。

 ボンヘッファーの思想や行動は危険だ。
 ヒトラー暗殺ではなかったら、オウム真理教のテロとどう違うだろう。
 しかし、テロを起こせない、限界状況においてテロを起こせない宗教は、社会においてどれほどの意味を持つだろう。
 一般社会と同じ価値観や行動で、宗教を標榜することにどれほどの意味があるのだろう。

 本田神父の活動が全国に広がり、社会を変えることはないだろう。
 福音の普遍性を訴えても、聖書自体が特殊な社会で普遍性を認知されるとは思えない。
 しかし、宗教が日本において人々に働きかける力を持つ、希望のようなものがあってほしいと思う。

 橋本徹大阪府知事の財政再建の下で、彼の活動がどのように扱われるのか確かではないが、ホームレスにまわす金が今より増えるとも想像できない。
 寺院は慈悲を説きながら斎場経営に、教会は愛を説きながら幼稚園経営にいそしむだろうし、創価学会は公明党に票を入れるだろう。
 慈悲と愛と票の隣で、ホームレス状態の人々はダンボールを敷き横たわり続ける。
 テロでも起こさない限り、その隣を人々は通り過ぎるだろう。
 


引用・参照)
毎日新聞:野宿女性 浜松市役所に運ばれ死亡 「あと一歩」対応なく
『釜ヶ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に』本田哲郎著(岩波書店)
 本田神父が言う、神は「貧しく小さくされた人々」を通して働くということは、その人々が素晴らしい人格者だから言うことを聞こう・見習おうということを意味するのではない。
 本田神父は人々との連帯における4つのステップ、「痛みの共感から救援活動」→「救援活動の行き詰まりから構造悪の認識へ:怒りの体験」→「社会的・政治的行動へ:構造悪と戦う貧しい人たちの力」→「『単純な弱者賛美』から真の連帯へ」、第4のステップで非現実的な誤解に基づく賛美を“「差別の裏返し」であり、わたしたちの連帯と支援を空洞化させるもの”と指摘する。

『解放の神学』G・グティエレス著 関望・山田隆三訳(岩波現代選書)
『解放の神学』梶原寿著(清水書院)
『破天 一億の魂を掴んだ男』山際素男著(南風社)
「週刊エコノミスト 2004年8月31日号」
『創価学会』島田裕巳著(新潮新書)
『新宗教の解読』井上順孝著(ちくまライブラリー)
『ボンヘッファー』村上伸著(清水書院)
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by sleepless_night | 2008-02-16 17:21 | 宗教