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最も小さい者の一人にしたのは


 “そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」”
            マタイによる福音書25章40節


                 *


 臓器移植法の改訂案・通称A案が参院を賛成138、反対82で通過した。
 A案が改訂臓器移植法として成立したことになる。


 新聞でもテレビでも見た限りでは、従来の要点解説、「改訂によって15歳以下の臓器移植が可能になる」「家族の同意のみで移植可能になる」を変えていない。改訂が何を意味しているのを全く示していない。もしかしたら、提案者の説明や他の記者の解説だけを見聞きして、法案自体を自分で読んでいない記者もいるかもしれない。都議選で自民党が惨敗を喫した興奮で、マスメディアは持ちきりだろうし、臓器移植法の改訂など衆院解散を阻害する一つの要素とくらいにしか思っていないように感じられる。
 テレビのアナウンサーやコメンテーターと呼ばれる人たちはもっと酷い状況だろう。
 印象深かったのは、確かA案が衆院通過した日のNHKの午後7時のニュース。
 番組冒頭で、「臓器移植法が衆議院を通過しました」と伝えるアナウンサーの背後の大きなモニターに子供を移植待機中になくして法改訂運動に携わっていた夫婦(中沢啓一郎・奈美枝さん夫妻)が衆院傍聴席で涙をながしている画像が「臓器移植法」というタイトルを付けて映し出されていたこと。
 NHKが公正中立であることを信じているわけでももちろんないし、ニュースの本編ではドナーとなる側の長期脳死状態にある子供とその家族も紹介されていた。
 しかし、NHKは「臓器移植改訂」というニュースがレシピエントとなる人のものであり、そうであるものとして視聴者に伝えたかったというのは十分に伝わった。
 (この構図は今日のNHK首都圏ニュースでも全く変わらなかった。参院傍聴席には中沢さんご夫妻だけではなく長期脳死のお子さんを亡くされた中村暁美さんもいらしたのに、傍聴席の中沢さんご夫妻しか映していなかった。)
 私の感覚では、これまでもテレビで臓器移植についてとり上げられるのは圧倒的に臓器移植が日本で受けられない「可哀そうな子供」のことだった(募金集めや渡航のニュース)。たまに、臓器不足で途上国で臓器を購入する日本人のニュースやドキュメンタリーも放送していただが、圧倒的に「可哀そうな子供」が臓器移植の世間でのイメージを作ってきた。


 私は積極的意思表示をしないで脳死状態になった人が、「家族・遺族」がいないために、死を判定され、臓器摘出されるということを残酷だと感じる。
 「家族」から何らかの事情で離れた人・のがれた人が、積極的意思表示をしないで脳死状態になると、離れた・のがれたはずの「家族」に死の判定や臓器摘出が左右されることを悲惨だと感じる。
 積極的意思表示をしないで脳死状態になった人と臓器移植を必要とする人が家族にいた時、家族に一方には死を一方には生という決断が迫られることを非道なことだと思う。
 これらは間違いなく、改訂臓器移植法によって生じる事態だ。

 遺体の国の21グラム。   前篇で長々と臓器移植法について書いてみたが、長すぎて読む気が失せるというのが大抵だと思うので、簡単に結論・要旨を記しておく。

●今回の改訂は部分的な変更ではない。法の根本を逆転させている。
 現行法は脳死状態にある患者本人の提供意思が必須だった。これは身体が不可侵であるという原則があり、例外として本人意思による可侵が認められることを意味する。
 改訂法は脳死状態にある患者本人の提供意思は不用になる。これは身体は可侵であるという原則があり、例外として本人の拒絶による不可侵が認められることを意味する。
15歳以下の移植ができるようになるのは、この「本人意思不要」原則のおかげだが、この原則はなにも15歳以下のみに適用されるのではない。日本国民全員の原則になる。そもそも法律に書かれているのは意思表示の問題で、旧臓器移植法にも改訂法にも「15歳」という年齢の制限は書かれていない。

●「脳死は死」を一律に決めるものではない、というA案提出者の説明は間違い。 
 確かに法律が「臓器移植法」なので死一般を定めたものではない。しかし、死を定めた法律はもともとないので、今後、死に関係する法を制定する時は改訂臓器移植法が必ず参照される。法律は単一に存在するわけではなく、関連する法律が整合性をもって一つの現象を生じさせることをA案提出者の説明は無視している。この法律が今後の法制定や医療行政・政策で「脳死は死」ということを前提とした振る舞いを広めることは間違いない。 本気で臓器移植にしか関係がないと言っていたなら、立法者としての能力を疑う。

●親族優先規定は腐っている。
 法の原則が本人意思を不用と変更されたのに、逆に臓器提供先に本人意思を尊重する規定を加えているのは矛盾している。
本人意思を不用とし、家族がいなければ何の歯止めもなく臓器摘出ができるように法の原則を変更しておいて、一方では臓器の提供先まで選択させるのは倒錯でしかないし、レシピエント選択を認めるなら、なぜ家族だけが選択対象なのかもわからない。そもそも医療資源は医療の必要性の観点から配分されるという公正性を著しく害している。

●弱いものを法は救わない。
 繰り返すが、意思表示をしていない人で家族・遺族がいなければ、脳死判定をされて臓器摘出されることになった。
 家族・遺族がいない、というのは家族が何らかの事情で形成できない人、家族から切り離された人・法律が常識語として使った家族の範疇に入らない関係を持っている人を含んでいる(「家族・遺族」というのは法律用語ではない)。
 旧臓器移植法も15歳以下で移植を必要とする子供を救わなかったが、その中でも家族にカネやコネのない子供、家族からケアを受けていない子供は本当に救われていなかった(家族に金があるか、コネをつかって募金活動を展開しなければならなかったのだから、両方ないことのみならず、子供をケアする気がない親の子供は本当に救われていなかった)。これから、そういった子供たちはレシピエントになれるのではなく、ドナーになれるのだ。結局、旧法も改訂法も弱いものを救う法律ではない。



  


 私は98年からドナーカードを持って、臓器提供の意思表示をしてきた。
 家族の署名も入っている。
 しかし、このような法の下で臓器を提供する意思はない。
 
 新しいカードで臓器提供拒否の意思表示をしようと思う。
 だが、カードを持たなければならないことが法に従うことだと思うと腹立たしい。




 


臓器移植関連:救う会の救われない救い


参議院HP:臓器移植法改定案本会議投票結果
 
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by sleepless_night | 2009-07-13 20:13 | 倫理

家族と遺族、臓器移植改正案が示す「常識」からの排除。




 あす参院本会議で採決される予定の臓器移植法の改訂案・通称A案では、本人の臓器提供の意思表示がなくても、“その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がいないとき”(A案6条3項1号)には脳死判定ができるし、“遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき”(A案6条1項2号)には臓器摘出ができるとしている。

 しかし、ここで言う“家族”や“遺族”は法律用語ではない。
 誰が家族や遺族なのかが分からない。

 常識的に判断すれば、親兄弟・夫婦・子供は家族や遺族に該当するだろう。
 では、これら全員が承諾する必要があるということなのか。だれか一人でも承諾すればいいのだろうか。

 また、法律的に結婚できないゲイやレズビアンのカップルはこの法律案の家族や遺族に含まれているのだろうか。
 ゲイやレズビアンの人たちの中は親兄弟に受け入れられない・打ち明けられなかったりして親兄弟と音信不通の人だっているだろう。
 もしその人たちが予め意思表示をしていないで脳死状態になったら、だれが承諾や拒否の意思をするのだろう。
 十年以上同居してるパートナーがいても(養子縁組でもしない限り)法律的には何の権利もないのだから、臓器提供に関しても同様なのだろうか。
 最も大切に思っている人の生命に関して、その人を受け入れなかった人たちにゆだねることが生じないだろうか。

 法案の作成や審議において、これらは検討されたのだろうか。








追記)上記エントリの表現について、コメント欄をご覧ください。
 
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by sleepless_night | 2009-07-12 19:26 | 倫理

遺体の国の21グラム。   完結編


遺体の国の21グラム。   後編の続き↓


(9)浮上した無縁
 病院の中での完結は解剖の歴史でもあった。
 それは「篤志」の歴史に読みかえられたものであることを香西さんは指摘した。
 だが、今私たちが目にするのは「篤志」に読みかえられた歴史から、逆転した新しい「篤志」だ。
 ここに、浮上したのは「篤志」に読みかえられた歴史によって潜伏させられていた「無縁」だ。
 “<篤志>という機縁を現在も押しあげつづけているのは、善意の語りに感応して提供を申し出るひとのうち、じつは遺族の承諾をえた遺体にもまして、遺族という抑止弁をもたない遺体である可能性が大いにある。つまり<無縁>が表現をかえて再現されているかもしれないのだ”
 「無縁」という機縁による解剖体の供給は「篤志」による供給に消されたわけではない。
 法律上も本人の献体申し出があり遺族がいる場合にはその同意を求められる一方で、遺族がいなければ同意は求められない。
 その中で、実は遺族のいる場合に本人の献体への意思表示が成就しない場合が少なくない。(子供の献体に親が反対する、親の献体に子が反対する割合が反対者の中で多いが、なぜか妻の献体に反対する夫は夫の献体に反対する妻より少ない)
 献体の歴史はミキ女の「篤志」によってはじまり「篤志」によって現在も支えられているといわれる中、実はその「篤志」というのが「無縁」の死体を解剖体へ供給するためのものだっとのと同じように、現在の「篤志」も遺族をもたない「無縁」が潜伏し支えているという側面がある。
 その潜伏させられていた「無縁」が献体の水面に現れてきたのが葬送依存型の献体だと言える。
 「無縁」はもはや人体の過剰性を解除や回避するのではなく、放棄しようとしている。
 
 独自に必要とされる技術論を軽視して、解剖の言葉を用いてドナーとなる「人体」の過剰性を解除しようとし、技術論に流通を阻害され、今、臓器移植では法律を改訂しようとしている。
 記述した様に、法改訂の内容は現行法の規定する2つの原則を覆すものであり、倫理が調停し得なかったドナーとレシピエントの「生」の内、数の論理でレシピエントの「生」を貫徹させた。
 覆された2原理のうち、自律尊重の原則によって保たれていた現行法のドナーの「生」はドナーを死んだことにすることで無視された。「無縁」のドナーは現行法では何ら意思表示を予めにしていなくとも「生」を守られていたが、改訂案では意思表示を予め行い・それが他者に確認されないなら「同意」したものとして「生」をレシピエントへ譲ることになる。
 「無縁」はここで解剖から臓器移植へ「同意(善意・篤志)」という倫理のトンネルを用いて出現することになった。

 臓器移植法の改訂案では記述した様にコントラクト・アウト方式を採用する。
 面白いことに、この方式は個人の権利(利益)よりも共同体の権利(利益)を優先するのだが、共同体の結合が弱まり、個人がバラバラにされるほど、共同体の利益に資するという仕組みになっている。
 つまり、予めの意思表示をしないでも家族や代理を務めうる人間関係がある場合には臓器提供を拒絶される恐れがあるが、そういった関係から個人が切り離されればされるほど、共同体が本来なら「弱まった」と表現される状況になればなるほど、臓器という共同体の利益が臓器するのだ。
 そう、「無縁」が顕在的に臓器移植のネットワークを支えるような仕組みになっている。


 今まで日本国内で臓器移植ができなかった15歳以下の子供たちは、親たちが億を超す金額を調達できるかどうかで生きられるかどうかが決まっていた。
 「無縁」は今まで臓器移植のネットワークへの参入が拒まれていたのだ。

 これからは、今回の改訂案・A案が成立すれば、この子供たちのうち「無縁」の子供が日本の移植のネットワークを支えることになる。


 
 
(10)三輪清浄
 出生率が1.3にも届かない現在は少子化の時代だと言われる。
 理屈から人口の再生産には最低でも出生率が2以上でなければならないのだから、人口は減少していく。
 人口の減少は抽象的な話ではなく、私たちの子孫がいないということであり、私たちの死後にどこかの墓へ埋葬されたとしても、その墓を参る人がいなくなるということだ。
 これを「無縁墳墓」(墓地、埋葬等に関する法律施行規則3条)と言う。
 昭和初期から都市化が進んだ東京では継承者のいない墓が増えて社会問題となっていたが、これからは全国規模の問題となるのだろう。
 無縁墳墓は上記規則にのっとって官報掲載による告知と1年の立て札掲示などで処分される。
 収められていたお骨は記録を付して納骨堂へ収められたり、合祀されることになる。
 つまり、無縁仏と同じ道を辿る。

 葬式仏教と揶揄されるように、仏教は特に近代から葬儀に依存するようになり、何軒の檀家を維持でき、月に何件の葬儀・法事が持てるかは寺院の経済を直撃する。
 葬儀の仏教離れが言われるが、それと同じくらい、少子化による墓地の継承途絶は仏教寺院の経済に深刻な影響を与えることになる。
 仏教は死を相手にしてきた、それが脳死問題や臓器移植に関する仏教の意見表明のなさ・曖昧さにつながっているのではないかと(3)で述べた。
 脳死状態のドナーからの臓器移植へ意見として否定的な傾向の一つに布施のロジックがレシピエントのエゴによって成立しない、三輪清浄を充たさないというものがあったことも述べた。
 その時、仏教寺院は寺の墓地から墓がどんどん消えていくのを前に、自分たちこそ三輪清浄を満たしていなかったことを思い知るだろう。


(11)遺体の国の21グラム
 マサチューセッツ州ヘーヴァリルのダンカン・マクドゥーガル博士は1907年に人の魂の重さを量る実験を行った。
 竿秤の台に乗せられたベットに瀕死の患者を寝かして死ぬ前と後の重さの違いを調べた。
 6人を調べた結果、重さは死後に4分の3オンス軽くなっていたことが分かった。
 
 人は死ぬ時、21グラムを失うといわれる。
 
 遺体への熱烈な執着を見せてきた(ただし、日本の歴史を通じてずっとそうだったわけではない)国で、それを失った時、「無縁」が増進されるべき「生」となった時、この国は何グラムを失うのだろう。





引用・参照)
臓器移植法
臓器移植法改訂 A案
「医療倫理の四原則」水野俊誠著(『入門 医療倫理1』勁草書房)
「脳死と臓器移植」児玉聡著(同上)
自民党衆議院議員 河野太郎HP 太郎の主張「臓器移植法改正関する河野私案について」
         ごまめの歯ぎしりブログ版「なぜA案なのか」
『脳死・臓器移植の本当の話』小松美彦著(PHP新書)
「仏教と「人の死」・「人の命」玉城康四郎著(『現代日本と仏教 第1巻 死生観と仏教』)
「脳死・臓器移植問題と仏教倫理」芹川博通著(同上)
「人間の生命は心身一元である」信楽俊麿著(同上)
「仏教から見る「人の死」の問題点」奈倉道隆著(同上)
「脳死・尊厳死・安楽死」奈良康明著(同上)
「医療と主体的な生の実現」庵谷行亨著(同上)
「何が仏の道に通ずることなのか」濱島義博(同上)
「仏教からみた人の死」松長有慶著(同上)
「日本人の感性、仏教の出発点から考える」脇本平也著(同上)
「「死」は文化的社会的側面がある」水谷幸正著(同上)
「臓器移植法における「死」の解釈について」長谷川正浩著(同上)
『病と死の文化』波平恵美子著(朝日選書)
『流通する<人体>』香川豊子著(勁草書房)
『医療倫理学』小川芳男著(北樹出版)
世界医師会 WMAの主要な宣言等
「功利主義をめぐる論争」伊瀬田哲治著(『生命倫理学と功利主義』ナカニシヤ出版)
『現代倫理学の展望』伴博 遠藤弘編(勁草書房)
「「自分の死」の選択としての献体」中尾知子著(『死の社会学』岩波書店)
『墓と葬送の社会史』森謙二著(講談社現代新書)
『死体はみんな生きている』メアリー・ローチ著 殿村直子訳(NHK出版)

参照)
日本移植学会
日本臓器移植ネットワーク「移植に関するデータ」
5号館のつぶやき 「献体が増加していることをどう考えたらよいのか」
社会学と生命倫理学の迷い道 「WHOの(新)移植指針について」
赤の女王とお茶を 「「脳死が人の死か」という以前に「脳死判定が本当に脳の死を意味しているのか」が問題」
イスラーム世界がよくわかるQ&A「Q61 イスラームは科学の進歩をどう考えているのですか。」
科学に佇む心と体Pt.1「脳死と臓器移植の日米勘違い」
Smectic_gの日記「臓器移植絡み」
間歇日記 世界史Aの始末書「脳生きるは人の生か?」
哲劇メモ「小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』」
今日の小児科医の日記「小児脳移植問題について」
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by sleepless_night | 2009-07-12 14:46

遺体の国の21グラム。   後編


遺体の国の21グラム。   中編の続き↓

(5)遺体=人体の過剰性
 “新聞の投書であれ文集の随想であれ、篤志家らの文章の特徴は、そこに解剖台がないことである。抽象度の高い言葉でつづられており、「解剖体」や「切り刻む」といった表現は見られない。もしもそれが単に修辞上の特徴ではなく、そのまま篤志家らのもつ世界の表れだったとするならば、篤志家(団体)と解剖学教室とのあいだに横たわる溝は、そうとう深かったといわねばなるまい。遺体の寄贈は、解剖台の近景や解剖体の露骨な数読みが見えないように運ばれていたからこそ行われ得た。そのため、それらが可視化されてしまうと、「篤志」は想像力の基盤を失いかねなかったのだ。”
 香西豊子(日本学術振興会特別研究員、学術博士)さんは、医療・医学への提供を可能にした言説を分析し、今日の移植ネットワークの行き詰まりについて以下のような分析をしている。

 江戸時代の医学である漢方にとって死体は神気が散じた「虚器」であり解剖は不用とされていた。
 1754年の記録上の日本初の解剖である山脇東洋、1771年の杉田玄白、いずれも刑死体を「穢多」が執刀するを見学したものだった。
 刑死体は「御様御用(おためしごよう:刀剣の利鈍の鑑定のために人体を試し切りする)」に供される斬首刑の死罪の男子があてられ、いわば死体をバラバラにする刑の一つとして刑場でなされた。
 明治に医学が西洋医学に制定され医学校が設立されると、解剖の必要が生まれた。
 これにより、刑場ではない場所で解剖する事態が発生する。
 解剖用死体の調達先は東大病院の入院患者で「当人所望之者」「貧民埋葬出来兼候者」があてられることが政府から許可され、1869年に死後解剖を申し出たとされるミキ女が第一号と言われている。
 以降4体ほど「本人の申し出」による死体が出るが、1870年には「刑死者・獄中死者で受取人がない死体」を「平人病死者」でさえ解剖が許されているのだからと供給を申請する。本人意思による死体ではその後の葬儀費用などがかかりすぎること、刑死体の方が容易に入手できることも影響したと推測される。
 1873年には解剖体不足を理由に、引き取り手のない養育院の病死者まで解剖用に願い出て認められている。また、学用患者として診察費無料で死後は解剖体として死体を「願い出る」という施療院も京都や東京など各所で作られた。
 1883年より行旅死亡人の受け入れを養育院が開始し、規則としては養育院の死体は火葬されることになっていたが、解剖学教室と養育院との直接交渉で火葬費用の一部を教室が負担することで解剖体として教室へもちこまれた。1889年、同じように養育院の治療を東大が受け持つ代わりに、養育院での病死者の解剖を東大解剖学教室が受け持ち、内規で顔の解剖をしない条件で正常解剖に充てられた。
 解剖体は刑死体・獄死体、系列病院、養育院の病死体と、開拓されてきたが、これらは引き取り手のない「無縁」の死体という属性で共通することになり、「無縁」が解剖体の主流となった傍流で僅かに「特志」の死体が供給された。
 戦後、1947年に死体交付法が公布・施行され、「無縁」の死体は学校長の要請を知事が許可することで解剖体として交付されることとなった。
 1949年には死体解剖法が制定され解剖の法的根拠を明確にし、解剖が死体損壊に当たらないことを明らかにした。
刑死者の減少や医学校の増加で解剖体不足は深刻だったが、依然として解剖体は「無縁」を想定されていた。
 1955年、一老人の医学への貢献のための遺体寄贈の実現と老人の息子による遺体寄贈組織・白菊会が東大解剖学教室に生まれる。全国に「篤志」による献体の組織が結成され、全国運動にまで発展する。
 1983年には献体法が制定され、献体には「献体の意思」と「家族の同意」が必要とされた。
80年以降、献体は順調に増加し、90年代以降では献体の受け入れを制限する大学まで現れている。

 人体は過剰性を持つ。
 “人体という言葉づかいは、生命科学との連関を予想させるだけでなく、どこかですでに、ある社会性をまとっている。”
 “人体はそれ自体ですでに、物質や言葉が乗り入れる過剰なあり方をしているともいえる。それは、侵襲的な機構を仮想されずとも、言及されるだけで、みずからの物質性をどこか賦活させ、そこに築かれていた意味論をそのたびごとに震撼させる”
 過剰性は「社会」にとって制御しえない生命に脅かされる根源的な不安、“人体という不安”を付きまとわせる。

 刑場での刑罰という属性内に規定されていた死体は、近代になると西洋医学の解剖によって流通性をもつ「人体」へと見出された。
 そこでは死体を切り刻むことが刑罰であり辱めでしかないという認識から、その認識を上回る人々の「生」への志向が「人民の幸福」を理由として流通を駆動した。
 だが、流通し始めた「人体」はその過剰性ゆえに容易に需要を満たす供給量を出せるなかった。
 そこで、「人体」の過剰性を解除するミキ女の「本人の申し出」を梃子にした施療院と無縁の死体が供給元として選択され、「本人の申し出」は「人体」を流通させるコストから傍流の「特志」へと追いやられていった。遺族のいない無縁の死体は、「人体」の過剰性を解除するコストが低く済んだからだ。
 解剖という営みが制度化されると、解剖が始まった時から・始まったからこそ不足でしかなかった「解剖体不足」が常態として実体化さた
戦後に「篤志」が組織化されると、それまで解剖を支えてきた施療院と無縁の経済と「篤志」の経済とが衝突する、「人体」の過剰性を無縁の死体を選択することで解除してきた仕組みとそれを支えた言葉が「篤志」という新しい過剰性の解除の仕組みとそれを支える言葉と整合せずに、対立した。
 両者を調停するために医療の倫理が紡ぎだされ、それによってかつての無縁による過剰性の回避は否定されるべきものとして語られるようになり、ミキ女らの「特志」は「篤志(善意)」へと読みかえられ、「篤志」の推進による解剖体の経済が確立した。
 そして近年、その経済を生み出した「篤志」は供給過剰によって当初は全く想像もされなかった解剖の意味付けをもたらしている。解剖体不足の時代には医学の基礎知識習得手段に他ならなかった解剖は、解剖体が過剰になると知識の習得ではなく倫理の感得へと意味が変わっていった。
 
 一見、倫理の言葉はそれ自体の価値によって「篤志」の献体を創り出したかのような歴史も、「人体」を流通させるための経済の帰結であった。

 解剖へ「人体」を流通させた人々の「生」への志向は、死体から臓器を取り出し病者へ移植することを求めるようになった。
 ところが、臓器摘出は解剖のように需要を満たすために供給をひたすら探せばよいという経済論のみで成り立つのではなく、摘出臓器とレシピエントの適合という問題、新鮮さをもとめるための死の判定、死体からの臓器摘出、という問題などの技術論もが「人体」の流通形成に影響を与える。
 そして、ドナーとなる「人体」の周りには遺族がいた。
 これをクリアしようと「同意」が持ち出される。解剖を可能にするための言葉が死体をめぐる言葉の整合性や「人体」の過剰性を解除し遺族との調停に持ち出され、移植のネットワークが組み立てられた。
 ところが「同意」のネットワークによる移植は、移植の技術論によって行き詰まる。
 人々はレシピエントへ臓器を提供するという「同意(善意)」によってネットワークへ参入するが、これはドナー側の技術論しか解決しえず、レシピエントとの適合という技術論はのこり、ドナーから「同意(善意)」で取り出した臓器が不適合によって捨てられてしまうという「同意(善意)」にそぐわぬ事態を生じさせた。
 これが人々に知られると「同意(善意)」はドナー不足の一因となり、レシピエントは別の臓器流通の経済へ、生体移植へと向かった。技術的にも親族からの生体移植は適合可能性が高いのだ。
 「人体」は流通し難いにもかかわらず、“「人体」やドネーションに関するさまざまなっ言葉―先行する法の言葉や、経験から抽き出された「教訓」など―が大いに活用され”“「人体」が不在のまま「篤志」が移植片のドネーションへとなだれ込んで”“流通にたいして固有の抵抗係数をもつ移植編が、あたかも容易に流通するかのごとく描かれ”てしまったことが、移植のネットワークを「いびつな」形に導いた。
 “ネットワークというドネーションの難航と生体移植の実施率の高さは、因果の関係にあるのではなく、「人体」の流通しがたさを表す並行現象としてある。”

 私たちは今、「同意(善意)」という言葉によって「人体」の過剰性を解除可能にする社会にいる。
 実は、同じ「同意(善意)」でも、それが持ち出された経緯、流通の経済論と技術論との調整としての倫理も異なっているにも関わらず、「人体」は「同意(善意)」によって流通することができる。
 同意できるもの全員がドナーとなりうる、「同意(善意)」によって解除される「人体」は全身体が流通可能で、抽象化される。
 ちょうど献体の言説から解剖体が消えたように。
 ドナーとレシピエントとは隔絶していった。
 ところが、「人体」が流通可能で抽象化された社会では私たち全員が潜在的にレシピエントでもある、つまり、ドナーとレシピエントとの重なり合いも生じる。 

 “ドネーションへの要請は、どのような機縁のもとでも、レシピエントの「生」に発していた。(略)ドネーションは、レシピエントの「生」をめぐる言葉の編成を起点としていた。(略)とはいえ、いくらレシピエントの「生」が慮られるといっても、その動きがドナーの「生」を侵襲するような場合には、ドネーションは停止する。ドナーのまわりに、とたんに「倫理」的な言葉が醸成され、今度はそちらの「生」が荷重されるようになる。(略)現状においては、ドネーションは、そもそもの<意思>を発露するドナーの「生」ありきのものなのだ。日本では、献体や献血に比べて臓器移植がふるわないといわれる事由も、おそらくここにある。一般に言われているような、ドネーションの歴史の浅さや具体的な手続きの未整備のためなく、現代の増進されるべき「生」がそうした形をとっているのだ。”
 
 一人の「生」の内で、ドナーの「生」とレシピエントの「生」は、どちらかになる日まで調停もされずに潜在する。
  

(6)数の選択
 “誰もがレシピエントでもドナーでもありうる世界においては、「調停」という営みがそもそも、達成不能な企図なのかもしれない。現状では、その配分の場を覆っているのは、単純に数の論理である。”

 6月18日、数は選択した。

 香西さんのように歴史を分析すれば、倫理とは経済論と技術論の調停として登場したが、一人の「生」で矛盾する潜在を調停しうる倫理の級審は探りえなかったのだ。
 倫理に関わることだからという理由で、政党の多くは各議員の自由投票を指示し、見事に倫理の調停がなされなかったことを表した。
 そこで選択したのはレシピエントとしての「生」だった。
 自分は生きて、ドナーにはならないという選択だったとも言えるかもしれない。
 ついにレシピエントの「生」への志向が移植の経済論と技術論を貫徹したのだ。
 調停不能だった倫理は、経済論と技術論にとって用なしになった。
 ドネーションは“<意思>を発露するドナーの「生」ありきのもの”だったら、ドナーは「死」んでいればいいのだし、“<意思>の発露”には耳を澄ませなければいい。
 

(7)倫理の言葉
 医療における倫理へ影響を与えた様々な言葉がある。
 その嚆矢として有名なヒポクラテスの誓いは、患者の利益最優先・無危害、致死・堕胎の禁止での生命尊重、結石手術の専門者への依頼が示す専門性尊重、患者の階級差別禁止、患者の秘密保持などを定め、現在では内容がパターナリスティックであるという批判もあるが、現代にも通じる内容をもつ。
 ヒポクラテスの誓いを現代に改めて医の倫理を規定しようとしたのが1948年のジュネーブ宣言で、人類への奉仕、良心と尊厳をもっての専門職実践、患者利益の最優先、患者の差別禁止、患者の秘密保持、人権や自由の侵害への医学知識利用禁止などを定めている。
 つづく1949年には医師としての義務を一般的義務・患者への義務・同僚への義務と詳細化した医の国際倫理綱領が採択された。
 ジュネーブ宣言、医の国際倫理綱領の精神を受け、1964年にはヒトを対象とした医学研究の倫理原則を規定したヘルシンキ宣言が採択された。75年にはインフォームド・コンセントの概念を導入したことで注目される(インフォームド・コンセント自体は1957年の医療過誤訴訟についてのカリフォルニア控訴栽の基準として登場している)。
 インフォームド・コンセントように医療を受ける側の権利を規定したのが1981年のリスボン宣言(患者の権利に関する世界医師会リスボン宣言)であり、ここで「患者の自己決定権」が明示され、医療倫理の試される困難な事例における判断基準となっていった。

 以上のような各宣言に表されたような医療倫理の原則としてトム・L・ビーチャム(ジョージタウン大教授、哲学)とジェイムズ・F・チルドレス(ヴァージニア大教授、哲学)は1979年『生物医学・医療倫理の諸原則』(邦題:生命医学倫理)で自律尊重原則・善行原則・無危害原則・正義原則の4つを挙げ、誰でも直観的に受け入れられる倫理に共通の言葉を用いて医療現場での議論に対応できるようにした。
 これを用いれば、医療の倫理は、善行と無危害の重視から自律と正義の重視へと変化してきたと言える。
 また近年ではこの4つでは議論が不十分であるとして、尊厳の概念やケアの概念も議論に用いられるべきだとされている。
 この医療倫理4原則自体も大きく2つの争点を蔵している。
 一つは各医療倫理原則内部の争点。
 自律尊重原則についていえば、「自律」の実質的な定義について、当人の持つ何らかの価値に合致した決定(自己決定)・熟慮の上で重要だとみなす価値に合致した決定(神聖な決定)・感情や感覚や他社の意志などに規定されずに自ら定めた普遍化可能な法則に従い下した決定(理性的決定)などがあげられ、さらに「尊重」とは他者の支配的な制約に従わないこと(消極的)か必要な情報を開示したうえで自律的決定を促すこと(積極的)かという見解の違いがある。
 善行原則についていえば、「善行」とは「他者に利益をもたらすために遂行される行為」であるが、「利益」の定義には、は単純に他者の主観的な苦痛を減らし快楽を増やすこと(心理状態説の快楽説)・他者の欲求を充たすこと(欲求充足説)・理性の活動や能力の発達のような客観的に善いと判断さえることをし、裏切りや残忍な行為などの客観的に悪いと判断されるものを防ぐこと(客観的利益のリスト説)があり、また「行為」には、害悪を防ぐこと・害悪を生じさせる原因をなくすこと・利益を促進するよう介入することなどがある。加えて、善行の責務には契約や血縁などの関係にある人への責務(特殊な善行の責務)と関係に関わらない責務(一般的善行責務)があり、其々で責務の限界や条件を考える必要がある。
 無危害原則についていえば、「危害」とは「ある人や物に対して為された害悪またはある人や者が被った害悪」であるが、医療倫理では意図的な人に対する危害に限定される。無危害とは「危害を引き起こさない・及ぼさない・危害のリスクを負わせない」ことだが、医療で求められるのは注意義務の範囲内に限る。具体的な内容は、殺さないこと・苦痛を引き起こさない・能力を奪わない・不快を引き起こさない・他者から良いものを奪わない、など幅がある。
 正義原則についていえば、「正義」とはアリストテレスが狭義の正義を均等だとし、これは命法として形式的には「等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱うべし」、実質的には「各人に各人の正当な持ち分を与えるべし」とされている。実質的な命法で「各人に各人の正当な持ち分を」という部分を中心に正義を考えるジョン・ロールズは分配的な正義・公正さを重視する、一方で「各人の正当な持ち分」をという部分を中心に考え持ち分の正当性を重視する正義をロバート・ノージックは説く。
 これら、各原則内部での争点がある上で、もう1つは各原則の間での争点がある。
 脳死の例で考えてみれば、脳死状態になった人が予め臓器提供意思表示を行っていたとして、医師はその意思表示を尊重する責務(自律尊重原則)の一方で脳死への疑問から無危害の責務(無危害原則)や善行原則と対立する。また、その人が自分の臓器を特定の他者に与えるために積極的に脳死状態を自らに実現させたいと精神科医に打ち明ければ、精神科医は患者の周囲に注意を促す(善行原則)か秘密を守るか(自律尊重原則)の対立に悩み、脳死状態になることに成功したら予め指定した他者へ臓器を与える(自律尊重原則)か医療の観点から最も必要性の高い人に与えるか(正義原則)で対立が生じる。
 原則間の争点を解決する方策として、抽象的な原則を事例に即して特定化する、原則間の比較考量をする、優先順位を設定する、単一の原則を決める、などがある。
 
 臓器移植改訂案については既に述べたとおり、6条3項の改訂によってA案は現行法の自律尊重原則を、6条の2の新設によって現行法の正義原則(分配的正義)を覆している。
 代わりに、あえて言えば善行原則を採用した様にも解釈される。
 ただし、医療原則における善行原則の「善行」が向けられるのはドナーとなる患者であるのだから、無理がある。レシピエントの意志や移植医の「善行」には当てはまるかもしれないが、脳死について国民がどれほどの知識を有しているのか、ドナーとなる患者や代理者を守る仕組みの貧弱さを考えれば無危害原則にもやはりそぐわない。 また、6条の2は自律尊重原則にあたると言えるが、そもそも改訂案A案の提出者たちは脳死は死だとする原則を採用したのだから、死者に意志や自律が成り立つのかという疑問も生じる。
 
 倫理という思想の圏内に臓器移植法改訂案を入れて見れば、70年代以前の医療倫理でしか正当化しえない代物だと言える。
 倫理の言葉は正に、移植の経済論と技術論でレシピエントとレシピエント側の医師の「生」への意志を貫徹させるために便宜的に持ち出されているだけとしか見えない。
 倫理の言葉は語られようとした、倫理が作り上げてきた言葉の圏内から発しようとしたが、移植をめぐる言葉の磁場に無力だった。


(8)過剰さの放棄
 (5)で述べたように、90年代以降、献体の申し出数は断られるまでに達した。
 中尾知子さんは献体登録者の文集の内容を分析し、献体登録者の献体の動機を行為の志向性とメリットの軸から4つに分類している。
 社会や医学への貢献といった社会への志向性とそれが充たされる満足感などの心理的なメリットとによる社会貢献型。満足を求める心理的メリットは同じだが志向が社会より自分個人の逝く先へ向かっている人生完結型。死によって物質となった身体を利用するほうが合理的だと考える実質的なメリットと社会や医学への貢献といった社会への志向性の合理思考型。死体が物質であるという実質的なメリット重視は同じだが志向が遺体処理という個人的な場合の葬送依存型。
 実際には明確に4つへ分類されるものではなく、複数のタイプが重なってみられると述べている。
 
 注目するのは葬送依存型だ。
 社会貢献型は献体の歴史が「篤志」によって解釈されなおした現在が最も推奨されるものだし、合理思考型は献体登録数の増加から言われる死生観の変化で言及される。
 人生完結型と葬送依存型は個人的な指向で共通するが、葬送依存型は実質的な考え方と同時に社会や人間関係からの孤立が表わされる。

 献体によって自らの葬送をかなえようとする人々がいるということだが、葬儀の変化については多くが研究されている。なかでも、近世からの目立った変化として葬列の消滅・減少が挙げられる。
葬送は場所の実際の移動によって生から死へと遺体を移す葬儀の最も重要な要素だった。
 地域の慣習ごとに異なるが、参列者によって位牌や膳とともに遺体を埋葬地まで運ぶ行列である葬送は、葬儀の場と埋葬地の遠隔化に伴い霊柩車の出現とともに消えていった(残っている場所もある)。
 それが意味するところもさまざまだが、中尾知子さんは碑文谷創(雑誌『SOGI』編集長)の葬儀演出形態の変化を牽いて、葬儀が地域共同体への「死のディスプレー」から職場などの人間関係へのディスプレーに変化していったと指摘している。
 葬儀が誰に向けての「死のディスプレー」かという観点からすれば、献体に葬送を依存するということは、病院での死から一度も病院の外(死んだ病院から解剖のために大学医学部へ運ばれるとしても)へ出ることも無い事態、ディスプレーの否定を意味する。
 もはや「人体」は過剰性を解除されるまでもなく、近世に死体が刑場の中でしか解剖されえなかったように、病院内で完結することになる。


続き→遺体の国の21グラム。   完結編



 
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by sleepless_night | 2009-07-12 14:30 | 倫理

遺体の国の21グラム。   中編

  

遺体の国の21グラム。   前篇の続き↓


(2)本当の話 
 このようなA案に対しては各所で反対・危惧の声明が出された。
 その代表的なひとつ、生命倫理会議では生命倫理の教育研究に携わる研究者71名が緊急声明でA案への抗議と参院での徹底審議を求めた。
 生命倫理会議の代表である小松美彦(東京海洋大教授、科学史・科学論・生命倫理)さんは『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)で以前から臓器移植(法)への問題提起を行ってきた。
 
 同書では脳死判定の「自発的呼吸の停止」を確認するために無呼吸テスト(人工呼吸器の取り外し)が患者へ与える悪影響(血中二酸化炭素濃度の上昇)や「平坦脳波」の確認困難さ(頭蓋の上から測定しなくてはならない)や限界(脳波と心の在り方との関係に疑問)やラザロ徴候といった脳死患者の自発的身動きや臓器摘出時の血圧上昇と暴れるような動作(そのために摘出時に「死体」に麻酔をかける)、長期脳死という10年以上の脳死状態での生存、移植後の生存率と非移植での生存率比較といった基本的な情報や疑問、そもそも一般的に想像されるような「死」の定義と脳死を検討する人々の「死」の定義の違い(脳死臨調で問題とされた「死」は「人体の有機的統合性」であって、一般人が思い描くような「何も考えない・感じない・動かない」ではない)といったことが提示され、さらに脳死という概念自体への疑問・批判(他の臓器の不全は「死」と呼ばないのに、どうして脳だけ「脳死」なのか?)を投げかけている。
 また、日本における臓器移植のキーポイントととなった和田移植(1968年の日本初の心臓移植)と高知赤十字病院移植(1999年の臓器移植法成立後初の移植)の杜撰さを指摘し、批判し、臓器移植法改訂問題へも提言を寄せている。


(3)仏教の立場 のようなもの
 これと関連するものとして、やはり以前から仏教側から脳死状態にある患者からの臓器摘出について意見が表明されてきた。

 玉城康四郎(東京大学教授、仏教)
 “「人の命」を端的に表しているのは、父と母との交わりにより、母の胎内に宿った刹那の「命」である。その「命」をサンスクリット語でカララkalalaという。「ひとかたまり」という意味である。(略)カララはいかなるものによって成立しているのであろうか。これについてはいろいろな文献に示されているが、大別すると二とおりある。ここでは『大集経』と『宝積経』から見てみよう。 まず、『大集経』では、カララは、命と識と煖から成立している、という。命は寿命であり、識は意識、煖はぬくもりである。そしてカララが生きているということは、命・識・煖が一つの合体していることであり、カララが死ぬということは命・識・煖の結合がほどけて、バラバラになることにほからないない。命・識・煖の結合のなかで、特に重要なのは命、すなわち寿命である。これによってカララは胎内で成長することができる。この寿命を風道といい、カララはすでに呼吸している、とみられている。それが胎内から生まれて、実際の呼吸となる。呼吸が寿命としていかに重要であるか、むしろ寿命そのものであるともいえる。 次に『宝積経』について調べてみよう。ここではカララは、地・水・火・風によって成立している。生きていることは、その結合であり、死ぬことは、その分散である。地はかたさ、水はしめり、火はぬくもり、風は動きである。かたさ、しめり、ぬくもり、はいわば材料であり、動きこそ生命的なものである。すなわち、地・水・火・風の風は『大集経』の命、識、煖の命に相当するものであり、寿命であり、風道である。いいかえれば呼吸である。(略)以上のように、生きているとは、命・識・煖の結合、あるいは、地・水・火・風の合体で、成長を続けているということであり、死ぬとは、それぞれの分散であるということができる。”
 “今日、臓器移植のことから脳死が問題となり、生命維持装置によって、呼吸運動や血液循環を補助することができる。たとい脳の機能が不可逆的に停止して脳死と判定されても、仏教からいえば、命・識・煖の結合、あるいは、地・水・火・かぜの合体は明白であり、けっして「死」ではなく、「生きている」ことは論をまたない。したがって移植のために臓器をとることは、死に至らしめるのであり、殺生罪を犯すことになる。”

芹川博通(淑徳短大教授、宗教学)
 初期仏教典では
“死の諸相について「一切の生きとし生けるものが、それぞれの部類から落下し没すること、[身体が]壊れること、消失すること、死滅すること、臨終をなすこと、諸構成要求が壊れること、遺体を処理すること、これが死であるといわれる」(『サミュッタ・ニカーヤ』)とある。また、「寿と煖とおよび識と、三方の身を捨するとき、所捨の身は僵仆す。木の思覚なきがごとし」(『雑阿含経』)とあるように、人の声明を構成する寿命と体温と意識が肉体を離れるとき、その肉体は枯れ木のように倒れて死ぬと述べている”
 大乗経典では上記の玉城と同様『大集経』『宝積経』を挙げている。
 小乗仏教典では『阿毘達磨倶舎論』の“命根の体はすなわち寿にして、能く煖とおよび識とを持す”を引き“寿命があり、温かさと意識がある脳死は、身体に生命があって生きているので、死を意味するのではない、ということになる”と述べる。
  また万有をアーヤラ識から縁起したものとする唯識からは、“心臓が鼓動をうち、体温があるうちの脳死状態は「人の死」ではない。体温があるというのは、いまだ、アーヤラ識が身体を執受しつづけ、生命あらしめている証拠”としている。
 さらに“仏教の心身観では、肉体(kaya 身)と精神(citta 心)は不二一体のものと説いている。このことを心身一如、心身不二という。仏教では、この身と心を決して二元論的に個別の実態とみなさないで、あくまでも一つのものの両面とみなす。(略)日本人にとって、心身はその生命を失っても、心あるいは霊の宿るより白なのである。(略)また日本では、古くから心臓が動いているうちは霊魂が宿っているので、遺体を傷つけることを恐れる、というものもある。(略)生命を失った肉体をも物質視しない思想を、人々は育んできた”とデカルト的な心身二元論との対比で述べている。

信楽俊麿(元龍谷大学長、本願寺派僧侶)
 “心身一如的な立場においてとらえるというこおとである。(略)原始経典によれば、生命(ayus)とは、識(vijnana)と煖(usna)とともに構成され、存続するという”識とは心理学的な意識ではなく、心(citta)もしくはアーヤラ識を指し、日常的な意識作用や意識下の意識の根底にある根本意識を意味する。
 “仏教の立場からいえば、人間の生命とは何にも代えがたい絶対価値を宿しており、またその生命とは、心身一元的に、識と煖とともにあるということであって、脳死といえども、なんらかの意識が残存し(脳死者の足裏を針でさすと足をうごかすという)、呼吸し、心臓が動いて、体温があるかぎり、それは当然に生きているということであり、一人の人格主体として十分に尊重されるべきである。その点、仏教の立場からするならば、このような脳死を人間の死とすることには、きびしく反対せざるをえない。”
 また“他人の不幸、その脳死をひたすらに待ち望んで、そのうえに自己の生命を充足させようとする発想は、人間の倫理感覚を次第に麻痺させていくにちがいない。”と危惧を表明している。

奈倉道隆(四天王寺大学大学院教授、インド哲学・仏教学・公衆衛生学)
 “死について『倶舎論』は、煖と識と寿とが消え、身体が知覚を失った木材のようになることだと説いている。煖が失われれば体のぬくもりが去って冷たくなる。日本の生活文化では、死を意味する表現として「冷たくなる」と言っている。脳死状態は、意識が完全に失われているが、人工呼吸器によって呼吸は続けられ、脈拍はしっかり触れることができる。体のぬくもりは保たれ、皮膚の血色も豊かである。これを「死」と認識することには生活文化の面から抵抗があろう。また、心身一如、縁起的生命観に立つ仏教思想の立場では、たとえ脳の機能が停止してようとも、また、生命維持装置に依存する状態であろうとも、生かされて生きるいのちとして尊ぶ姿勢には変わりがない。”

奈良康明(元駒澤大学学長・総長、曹洞宗住職)
 “こうした問題に対しては、「仏教では」という答えは難しい。そうではなくて、「仏教者の一人として、私はこう考える」という姿勢でなければなるまい。”と応用問題への解答の多様性を指摘したうえで「私」の生き方を問う仏教としての姿勢を示し、“脳死は、生命をモノに限りなく近づける発想が基盤にあるので、私は認めがたいと考えている。”

庵谷行亨(立正大学教授、仏教学・倫理学)
“仏教ではすべての存在は仏の顕現であると考えている。人間は誰にも仏性があり、すべては仏の子であると説く、不殺生は仏教の基本的徳目である。”

 などと、脳死・臓器移植を仏教の経典を根拠として否定する立場がある。
 仏教の生命観として示された寿・識・煖、あるいは地・水・火・風の結合は、脳死が死かという議論における死の定義である「人体の有機的統合性」と重なる。
 仏教者の脳死についての知識に若干あやしさを感じる部分があり、最重要視する呼吸については脳死では自律呼吸ができない点の処理に弱さを感じる。ただ、体のぬくもり、いのちを構成する要素が結合しているという点を見れば、生命を否定することは難しいだろう。
 脳死を死とみなして臓器移植の供給を増やそうとする人たちからすれば、早晩心停止する相当の可能性があると分かっている患者より助かる可能性のあるレシピエントを助けるという比較が働くが、仏教の絶対的な生命尊重は、どちらも同じ絶対であることから比較の発想は採りえない。
 その一方で

濱島義博(京都女子大学長、消化器外科)
 “自分のいのちとはいったい誰のものなのか。はたして自分だけのものなのだろうか。ここに、縁起と共生という仏の教えを考えてみる必要があるのではないだろうか。(略)脳死を死と法律で定められた今日、脳死の基準を満たしたと決定されれば臓器を提供する他への思いやりと慈悲こそ、仏の教えにもっとも適した行動なのである。”

 といった、「慈悲」という仏教のロジックによる肯定の意見もある。

 だがこれについては
 奈良康明さんは“臓器移植が偉大なる布施だ、という論理はそれなりに理解できる。しかし、仏典に示され、かつ教えられている壮絶な布施行は、慈悲の発露としての行為である。信仰者としての自覚にもとづく慈悲行であるが、私たちがいま論じているのは社会の制度としての脳死、臓器移植であり、とくに脳死を法律で決めていいかどうかという問題である。”と否定する。
 また芦川博通さんも“諸経で諸衆救済のために、菩薩(bodhisattva)は、身命を惜しまずに努力することを「不惜身命」といい、わが身を投げ出して布施(dana)をする「捨身」が説かれており、いずれも仏教の救済思想である。(略)したがって、臓器を必要とする人(recipient)にみずからの臓器を移植する行為は最大の布施行であり、菩薩行ということができるとする、という人もいる。仏教者のなかには、臓器移植が結果的に布施行であり、善なる行為であるから、脳死を「人の死」と認めてよいのではないかという人も少なからずいる。結果や目的がよければ「手段を選ばず」の論法は危険なものである”とこのロジックを否定する。
 同様に「慈悲」「布施」のロジックを否定するも、現実に対する仏教の活動の必要性をも提唱する松長有慶(元高野山大学学長、高野山真言宗管長)さんはこう述べている。
 仏教は死への諦念や浄土信仰など様々な立場があるが“死に対して仏教がとった立場は、精神的な対処であったとみることができる。それに対して現在問題となっている脳死を人の死と認め、脳死の人からの臓器を採取し、それを必要とする人に移植する医療は、延命操作にほかならない。現代の医療の根底には、人間の身体を物質とみなす思想が横たわっている。(略)さらに問題がある。現代科学は人間の欲望の充足を是認する立場を採る。(略)臓器移植の問題を論ずる時、仏教の捨身飼虎の伝承がよくもちだされる。(略)しかしこの話は、真理を聞き、それを人に伝えようとする利他の精神から出た行為であって、一時的な延命のために、不用になった臓器を提供する行為とは一致点を見出しにくい。また仏教の布施の精神が云々されることがある。ただし仏教の施しは三輪清浄といって、授者と受者、それに布施という行為、この三者がいずれもエゴを捨て、利他の立場にたって初めて成り立つ。ところがドナーに自己犠牲の精神があるとしても、患者にほうがそれを受けても、以降の活動のなかで社会還元の意思がみられず、我欲にもとづいた保身に終始するならば、それは本当の意味の布施ということはできない。”と仏教の立場での脳死・臓器移植の肯定し難さを指摘したうえで、“現代社会では、いくら仏教の立場から反対を唱えても事態は進展していくにちがいない。その場合に、仏教がこの医療行為に対して全く手をこまねいているわけにもいくまい”とレシピエントのケアなどを提唱する。

 以上から大きく分けて言えば、脳死・臓器移植に対して仏教は
 否定論…仏教経典の生命観
 肯定論…慈悲・布施
 ということになり、否定論が論として優勢かと判断される。
 だが、この否定肯定の二項対立自体を否定する意見もある。

 脇本平也(東京大学名誉教授、仏教学)さんはこう指摘する。
 仏教は歴史的地理的な膨大な広がり・多様性を持ち、場合に応じて正反対の意味付けを行うこともできるが、“仏教の出発点は、生老病死の苦を超越することにあった。生死の超越とは、生と死とを分けて執着する迷を断じて生死一如の境に住することだ、ともいわれる。この立場からすれば、脳死を人の死と認めるか否かなど賛否を問うことは、問い事態が迷中の迷、無用の閑葛藤ということになるかもしらぬ、どうでもよい、ということになりそうである。どうでもよいことは、各自が銘々で決めればよい。”という自己決定原則の支持もできる

 上記のような仏教独特の二項対立否定ではなく、単に決着できない現状を示す意見もある。

 水谷幸正(元佛教大学学長、元浄土宗宗務総長)さんは、その原因をこう述べている。
 “すでに十数年以前から、脳死の問題について多くの仏教者があれこれ発言しているが、同じ仏教者の立場でありながら、脳死は死であると認める者、認めない者、中間的な者などさまざまであり、その理由も多種多様である。その原因は、どのような状態を「死」とみなすのか、ということの受け止め方の相違もあるが、やはり仏教のどの部分をおさえていくか、という受け止め方の相違が大きい。まさに仏教は偉大であり曖昧なのである。”
 1988年の日本印度学仏教学会の検討委員会でも“各人が状況に応じて判断し、決断してゆくべき”としている。浄土宗総合研究所の脳死に関する中間報告でも賛否は言わず、それぞれの状況での判断を提言している。

 こうした仏教の曖昧さ・多様さのなかで、結論のなさにもかかわらず仏教界の現状として脳死や臓器移植へ否定的な傾向が見られる。
 この理由について、長谷川正浩(弁護士、大正大学非常勤講師)さんはこう指摘する。
 “死と生の境目を決めることは、もともと仏教の教義では不可能に思われる。はっきりいって、それはないものねだりなのである。生と死の境を決めることは、社会的・法律的要請によるものであって、少なくとも仏教ではどうでもよいことなのではなかったか。 では、なぜ仏教者は一般に脳死を人の死と認める立場に冷たいのであろうか。それは、脳死を人の死と認める多くが臓器移植をしやすくるるために主著うしていることを本能的に見抜いているからではないだろうか。”

 ここで紹介した意見にははっきりと見られないが、仏教界が明確な判断を示さないのは、仏教の僧侶たちが生きている人間ではなく既に死んでいる人間を中心に生活しているという実際が影響していると考えられる。
 既に死んでいる人間を中心に死者の遺族に接するのだから、死者がドナーとして死んだかレシピエントで移植待機者として死んだか、どちらでも死んでることには変わらないし、どちらにも当たることが予想され、判断を明確にすればどちらかを「敵」を作る可能性がある。
 そんな事態は面倒であり、上記したように仏教は広大で曖昧なのだから、その時その時で上手く使えばよい、一貫性の無さは対機説法・融通無碍とでもいっておけば済むのだし。


(4)遺体の国
 “遺体にこだわらない文化など、知られている限りでは存在しない。どのような文化でも遺体にはこだわりを持つのである。唯、そのこだわり方が文化によって異なるということなのである。”

 波平恵美子(お茶の水女子大名誉教授、文化人類学)さんは、“死とは何か、どういう状態かという問題を考えるとき、生物体としての個体がどの程度機能を失ったかということのみを基準として決定する社会はない。(略)どの社会でもしは段階的に「確認」されるような社会的慣習を保持している。”と「死の文化」の存在の普遍性を指摘する。
 特に日本では航空機事故で断片となったものまで捜すほど遺体にこだわりを見せる。これは死が死者と生者との断絶を意味しない、死者と生者とには交流・影響があるとする日本の霊魂観・死後観の影響を原因とすると考えられ、これは脳死・臓器移植に対する日本人の態度にも影響していると言う。
 そもそも脳死状態からの臓器提供による死亡は従来の遺族の死の受け入れの順序を混乱させるものである上、臓器提供をすれば遺体を傷つけることは不可避であり、特に遺族が手を下して遺体を傷つけることは強くタブー視される。また、遺体の状態が死後世界での死者の安寧とつながるという信仰、悲惨な死に際なら特に一般より手厚く弔うことで死者の霊を慰めようとすることは、ドナーとして求められる青年の突然死の遺族が最も求めることと言える。
 さらに、臓器移植は従来の「献身」の構図を大きく変える。
 まず、遺族とはいえ臓器は脳死状態の患者のものであり、自分のものではない。また、「献身」した方が死に、された方は助かる。さらに、日本では直接・間接的な知り合いでの相互扶助(献身)は強固に見られるが知らない人への扶助は消極的であり、見知らぬ生者より血縁の死者の価値は高い。
 

続き→
遺体の国の21グラム。   後編
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by sleepless_night | 2009-07-12 14:27 | 倫理

遺体の国の21グラム。   前篇




“おもしろく、新しく、役に立つことができるかもしれないのに、じっと寝そべっている必要があるだろうか?”
 “いろいろ体験できるかわりに、死体は分別、切開、再配列され、かなりの血をながす。しかし、大切なことがある、彼らは何も我慢するわけではない。(略)この素晴らしい力を人類の向上のために使わずに無駄にする手があるだろうか?”
 “死体で問題なのは、外観があまりにも人間らしいことだ。”
 『死体はみんな生きている』メアリー・ローチ著 殿村直子訳(NHK出版)


“我々には、脳死が人の死かどうか、臓器を摘出すべきかどうかについて、迷う自由があります。この自由を人々から奪ってはなりません。
 迷う自由を保障するもの、それこそが、本人の意思表示の原則であります。
 すなわち、迷っている間はいつまでも待ってあげる。もし決心がついてら申し出てください。
 これが、本人の意思表示の原則なのです。”
 “こどもたちには、自分の身体の全体性を保ったまま、外部からの臓器移植などの侵襲を受けないまま、まるごと成長し、そしてまるごと死んでいく、自然の権利というものがあるのではないでしょうか。そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、本人がその権利を放棄することを意思表示したときだけではないでしょうか。”
 感じない男ブログ「長期脳死、本人の意思表示@参議院での発言」 森岡正博


                  *


(1)新旧の比較と逆転した関係
 第171国会に4つの臓器移植法改正案が提出され、6月18日衆院を通称A案が賛成263、反対167で通過した。
 同法案は主に現行法(臓器の移植に関する法律)6条を以下のように変更・追加することを示している。
 
6条
1項
 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるために臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。 
 医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死したもの身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
 一 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。
 二 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。
 ⇒この“以外の場合”に15歳以下の脳死状態の患者は含まれるので、現行の本人意思を必須とするために、意思表示が法的に有効とみなされる年齢である15歳の制限をクリアできる。

2項 
前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ってと判定されたもの者の身体をいう。
 ⇒移植のために摘出する場合の限定を外して、脳死は全般的に人の死だとする。

3項
 臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第一項に規定する意思の表示に併せて前項による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。
 臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。
 一 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意識がないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がいないとき。
 二 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により書面により承諾しているとき。
 ⇒家族が同意するか、家族がいないことが必要でったのは現行改訂案で同じ。違いは、旧3項では本人が意思を積極的に提供の意思表示をしていることが必要だったのが、改訂案3項では“判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合”と“意思がないことを表示している場合以外の場合”とで本人に積極的に拒んでいない場合を含めていること。
 4項
 臓器の摘出に係る第二項の判定は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の意思(当該判定がなされた場合に当該脳死した者の身体から臓器を摘出し、または当該臓器を使用した移植術を行うこととなる意思を除く。)の一般に認められている医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより行う判断の一致によって、行われるものとする。
5項
 前項の規定により第二項の判定を行った医師は、厚生省令で定めるところにより、直ちに当該判定が的確に行われたことを証する書面を作成しなければならない。
6項
 臓器の摘出に係る第二項の判定に基づいて脳死した者の身体から臓器を摘出しようとする意思は、あらかじめ、当該脳死した者の身体にかかわる前項の書面の交付を受けなければならない。

6条の2 の追加
 移植術に使用されるための臓器を死亡した後に提供する意思を書面により表示している者又は表示しようとする者は、その意思の表示に併せて、親族に対し当該臓器を優先的に提供する意思を書面により表示することができる。
 ⇒現行6条にはない親族への優先提供規定。おそらく、生体移植で移植先を親族へ指定できることにあわせたのだろう。


 この法律案については衆院通過前にはマスメディアでも相応にとり上げられ、A案が脳死を人の死とし、15歳以下の移植を可能にすることを伝えていた。
 だが、この改訂にもっとも根本的な変更点はこの2点では(直接的には)ない。
 現行6条2項には確かに、“その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって”とう限定があることで、脳死全般が死ということにはなっていなかった。
 しかし、脳死が人の死として含まれるかどうかという点では現行と改訂案で一致して含めているので根本的な思想に違いは認められない。新旧で向きは一緒だ。
 違いは3項の変更部分で指摘した様に、現行3項では必須だった本人の積極的意思表示を改訂案3項では不要に、積極的に拒絶しなければ臓器摘出を認めたところにある。
 これは現行法の大原則を転換したことを明確に意味している。

 臓器提供には2つの方式、コントラクト・インとコントラクト・アウトという方式がある。
 コントラクト・インは現行法が採用している方式で、臓器提供者の積極的な意思表示によって臓器が提供される。
 コントラクト・アウトは新臓器移植法となる改訂案・通称A案が採用している方式で、ドナーとならないという意思表示をしない限り臓器提供の意思があるとみなされる。
 つまり、臓器提供というコントラクト(契約)に対して、入る意思(イン)を表示させる制度化、出る意思(アウト)を表示させるかという違い、契約の前提が逆の立場の2つの方式があるということ。
 コントラクト・アウトには、「弱い」コントラクト・アウトと「強い」コントラクト・アウトの2つがあり、家族によって拒否権があるものが「弱い」コントラクト・アウトで、コントラクト・アウト方式を採用してる国のほとんどがこれを採っている。

 臓器移植法は大きく2つの理念に基づいている。
 臓器移植法2条(これはA案でも改訂されない)の1項2項がドナーの任意性を規定し、3項4項がレシピエントへの臓器提供の公正さを求めている。
 倫理学(医療倫理)でいえば前者が自己決定の原則(自律の原則)で後者が正義の原則に該当する。
 
 そして現行法6条はドナーの自己決定権(自律)原則の具体的な内容を規定している。
 「自己決定(自律)の原則」は人体の不可侵の原則にも基づくものであり、医療のみならず近代法の原則にも含まれる。
 私たちは国家権力はもとより、他者からも自己の同意なく侵襲されない自由と権利を有している。
 もっと言えば、自由の最も基盤にあるのは「ほっておいてもらう自由(let me alone)」であるということ。
 例えば、誰もレイプ拒否の意思表示を書面化されたものを持っていなくとも、レイプさらない自由と権利を持っている。レイプ犯が「相手を気絶させて、荷物をあさってもレイプ拒否の書面がなかったからレイプしていいのだ」と言ったとしても、誰もレイプ犯を擁護しない。私たちは何の意思表示をする義務も責任も無く「ほっておいてもらう自由」があるからだ。本人が触っていいと言わない限り、他者に体を触わられる・侵される筋はない。
 この原則があるから、わざわざ現行法は本人の積極的意思表示を必要とし、加えて社会的要請から家族の同意までを必要とした。
 これを整理すれば、

             原則=不可侵   例外=(本人意思で)可侵

 ということになる。
 もちろん、この原則例外の裏には
          原則=脳死は死ではない 例外=(本人意思で)死と認める
 という関係も存在する。
 だから、マスメディアで盛んにA案の改訂点とする「脳死は人の死」「15歳以下も可能」というのを法改訂の要点とするのも間違いではない。特に「15歳以下」という制限はこの同意の可能不可能にかかっていたので強くこの原則例外に係る。だが、問題は決して15歳以下にとどまるものではないことを「15歳以下」云々は忘れさせる。

 改訂案は上記の原則例外の関係で示せばこうなる

              原則=可侵   例外=(本人意思で)不可侵

 そしてこの裏に
          原則=脳死は死 例外=(本人意思で)死ではない
 という関係がある。これはあくまでも裏でしかない。

 「脳死は死」だから「可侵」なんじゃないか、「脳死は死」と全般的に認めた時点で、同意も「不可侵」も関係ないから、新法は原則を「可侵」にしたんじゃないか、というのは考える序列が違う。
 「可侵」にするために「脳死は死」だとするのは現行法以来の発想であり、もっと言えば脳死の発想である。 これは一貫している。移植の可能性が生じ、ドナーが捜された結果、不可逆昏睡・超昏睡が脳死とされたという経緯を見ても、現行法の制限をもってしてまでの「脳死は死」を見ても、「可侵」だから・にするために「脳死は死」と言うのが考える順序だ。
 「可侵」にするための「脳死は死」という一貫した発想にもかかわらず、上記したような医療倫理の原則、近代法の原則があったからこそ、現行法は原則「不可侵」という体裁を採らざるをえなかった。

 だがついに改訂案で、この「可侵」だから・にするため「脳死は死」という思考が現行法の原則例外をひっくり返した。
 ま逆の思考に基づく根本的に異なるものが、あたかも法律の部分的な改訂案かのようにして提出されて衆院を通過した、ということになる。

 臓器移植法は2条で2つの理念、自律と正義の原則を規定していると上述した。
 その両方を、この改訂案・A案は実質的に反故にているのだ。
 自律の原理は上記したように、6条の改訂によって。
 正義の原理は改訂案が新設した6条の2によってだ。
 ドナーの意思によって親族へ臓器の優先提供が可能だとされているが、これは医療の現場において患者が医療上の判断のみによって公正にあつかわれるべきとする正義(分配的正義・公正)の原理に著しく反している。有力者の子弟である、資産がある、コネがある、それらの有無で受けられる医療が変わるということと同じだ。
 もちろん現実に、カネとコネで受けられる医療が変わる、助かることと助からないことがある。しかし、現実の不公正、不正義を法律が追認することと、現実があるということは別だ。
 (この6条の2については、A案作成に大きく影響を与えてた町野朔上智大教授もこの条項には移植の公正を損なうと批判的。そもそも、臓器のレシピエントとなる人間がドナーの生死を決定するというのは無茶苦茶な話だ。ドナーの命がレシピエントの欲望に直接さらされることはもちろん、「家族を殺して自分は助かる」ことを迫られるレシピエントに対しても残酷だ。過去に脳死患者から親族へ指定して臓器提供がなされたことが1件ある。2001年に60代男性が脳死状態になり生前から親族へ臓器提供を希望し、家族も親族以外なら提供しないということで臓器移植ネットワークの移植待機者リストに載っていなかった親族2人への移植を、厚生労働省はこのケースに限り許可した。のちの厚労省検討会で公正の観点からレシピエント指定は認めないという結論が出された。 親族優先規定はA案の提案者である河野太郎衆議院議員が父河野一郎衆院議長へ生体肝移植したこと、脳死患者からの臓器提供が増えれば自分がドナーにならずに済んだという思い、が影響しているとも推測される。また、A案の衆院通過自体に河野一郎衆院議長への花道をつくろうとする説得が働いたことも言われている。もしそれが事実ならば、全国民の生命にかかわる法律が権力者親子による権力者親子の満足のための法律案によって改訂されることになる。)


(2)本当の話
 このようなA案に対しては各所で反対・危惧の声明が出された。
 その代表的なひとつ、生命倫理会議では生命倫理の教育研究に携わる研究者71名が緊急声明でA案への抗議と参院での徹底審議を求めた
 生命倫理会議の代表である小松美彦(東京海洋大教授、科学史・科学論・生命倫理)さんは『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)で以前から臓器移植(法)への問題提起を行ってきた。
 
 同書では脳死判定の「自発的呼吸の停止」を確認するために無呼吸テスト(人工呼吸器の取り外し)が患者へ与える悪影響(血中二酸化炭素濃度の上昇)や「平坦脳波」の確認困難さ(頭蓋の上から測定しなくてはならない)や限界(脳波と心の在り方との関係に疑問)やラザロ徴候といった脳死患者の自発的身動きや臓器摘出時の血圧上昇と暴れるような動作(そのために摘出時に「死体」に麻酔をかける)、長期脳死という10年以上の脳死状態での生存、移植後の生存率と非移植での生存率比較といった基本的な情報や疑問、そもそも一般的に想像されるような「死」の定義と脳死を検討する人々の「死」の定義の違い(脳死臨調で問題とされた「死」は「人体の有機的統合性」であって、一般人が思い描くような「何も考えない・感じない・動かない」ではない)といったことが提示され、さらに脳死という概念自体への疑問・批判(他の臓器の不全は「死」と呼ばないのに、どうして脳だけ「脳死」なのか?)を投げかけている。
 また、日本における臓器移植のキーポイントととなった和田移植(1968年の日本初の心臓移植)と高知赤十字病院移植(1999年の臓器移植法成立後初の移植)の杜撰さを指摘し、批判し、臓器移植法改訂問題へも提言を寄せている。


続き→遺体の国の21グラム。   中編
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by sleepless_night | 2009-07-12 14:25 | 倫理

これはフィクションではありません。/ある国の脳死をめぐる一つの話



これは、フィクションではありません。




ある国の都市にあるたくさんの部屋がある建物内で、ブルーは質問に答えてくれそうな人を探していた。
そこにテレビで見たことがあるグリーンという名の人物が通りかかった。
ブルーはグリーンに質問をし、疑問を解決しようと思った。


ブルー「臓器移植法改正案、通称A案に関して質問があるのですけれど」
グリーン「はい、どうぞ」
ブルー「脳死を一律に死とすることは、特に長期脳死の状態にあるという子供が長期にわたって生存・成長していることを考えると疑問があるのですけれど」
グリーン「長期脳死の状態にあると言われている子供は本当は脳死ではありません」
ブルー「本当のとは、どういう意味ですか?」
グリーン「法的に認められる、という意味です」
ブルー「長期脳死の状態にあると言われている子供が、法的に脳死と認められる子供ではないということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「法的に、という時の法とは臓器移植法のことですね」
グリーン「はい」
ブルー「ということは、長期脳死の状態にあると言われている子供が、現在の臓器移植法の定める脳死判定をされている子供ではないということですね」
グリーン「はい」
ブルー「現在の臓器移植法の脳死判定の実施に必要なのは何ですか?」
グリーン「臓器移植法6条3項で脳死判定の実施には予め脳死状態になった患者本人が臓器提供の意思表示をしていることと、脳死判定実施の告知を受けた家族がそれを拒否しないことです」
ブルー「つまり、本人の事前の意思表示と家族の同意が必要ということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「では、本人の意思表示か家族の同意がなければ脳死判定は行われないんですね」
グリーン「いいえ、脳死状態になった患者本人に家族がいない場合には、患者本人の予めの意思表示があれば判定が行われます」
ブルー「では、本人の意思表示について必要なことはありますか」
グリーン「6条1項で書面による意思表示が必要だとされています」
ブルー「本人が書面で意思表示をしていればいいんですね」
グリーン「はい」
ブルー「では、長期脳死の状態にあると言われている子供が、その状態に陥る前に書面で臓器提供の意思表示をしていて、家族がそれに同意をしてれば、その子供には脳死判定が行われるんですね」
グリーン「いいえ。法律的に意思表示が有効とされるには15歳以上であることが必要とされていますので、その子供が15歳以下ならば臓器提供の意思表示は有効ではありません」
ブルー「脳死判定の実施に不可欠な本人の意思表示が欠けているということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「ということは、15歳以下の子供は本人の意思表示がない以上、臓器移植法の定める脳死判定を受けることは法律的に不可能ということですね」
グリーン「そうなります」
ブルー「グリーンさん。15歳以下の子供が法的脳死判定を受けることが法的に不可能なら、法的に脳死だと認められる子供がいないのは当然じゃないですか」
グリーン「……」
グリーン「ちょっと、トイレに行ってきます」


グリーンがトイレから帰ってきた。


グリーン「ごめんなさい、トイレを我慢していたので、私、少し勘違いをしていました」
ブルー「勘違いですか」
グリーン「はい。長期脳死の状態にあるといわれる子供が本当は脳死ではない、と申したことです」
ブルー「勘違いでしたか。では、やはり長期脳死の状態にあるといわれる子供も本当に脳死だということでよろしいんですね」
グリーン「いいえ」
ブルー「?」
グリーン「私が申しました、本当のとは、法律的に認められた、ということではなくて、臓器移植法が認めていなくても実質的に同じ状態だと診断されたということです。法律的に脳死判定ができなくとも、脳死判定の基準から脳死だと診断されることを、本当の脳死だと申したかったのです。」
ブルー「臓器移植法6条4項の“医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより行う判断”に従って診断した結果、脳死判定の基準を満たしている患者ということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「具体的に、その基準とはなんですか」
グリーン「厚生省が85年に定めた基準です」
ブルー「その基準の内容は何がありますか」
グリーン「判定基準は簡単に申しますと、6つあります。深昏睡・自発呼吸の消失・瞳孔固定・脳幹反射の消失・平坦脳波です。これらを6時間以上の間をおいて2度確認することが求められています」
ブルー「長期脳死の状態にあるといわれている子供は、その基準を満たしていない、ということをおっしゃりたかったのですね」
グリーン「はい。具体的に言いますと、そのうちの自発呼吸の消失を確認するための無呼吸テストをしていませんので、脳死と確認するための基準を満たしていないのです」
ブルー「つまり、長期脳死の状態にあるといわれている子供に無呼吸テストを受けて自発呼吸の消失が確認された子供はいないので、本当の脳死の子供ではないということですね」
グリーン「はい。だから脳死と診断された子供からの臓器摘出を考える時に、今知られているような長期脳死の子供のことをもって疑問に思わなくてもいいのです。それは誤解なのです。お分かりになりました?」
ブルー「よく分からないのですが…。失礼ですが、日本語はお得意でしょうか?」
グリーン「当たり前でしょ!失礼な人ですね。私を誰だと思っているんですか。私はこの国の厚生労働に関する立法に関わる重責を託された人間ですよ」
ブルー「存じ上げませんで、失礼しました。厚生労働分野がグリーンさんの御専門ということで意外です。それならば、旧厚生省研究班の『小児における脳死判定基準』という論文を当然ご存知ですよね」
グリーン「もちろ、あっ、いや……」
ブルー「この論文によると、脳死とされる6歳未満の子供について小児脳死判定基準を満たした、つまり2回の無呼吸テストを実施して無呼吸が確認されたのが20例あり、そのうち7例で長期脳死に、さらに4例で100日以上が心臓が動き続けたのが確認されているということです。当然、心臓が動き続ける間、その子供たちは成長を続けました」
グリーン「……ですから…、あの、私、行きますね」
ブルー「ちょっと、どこへ?」

グリーンは、急いだ素振りで大きな会議場へと入って行った。
彼女が入っていくと扉が閉められた。


ブルーは、グリーンがまた戻ってくるのではないかとその場で待った。
すると、グリーンが入って行った大きな会議場のドア越しにグリーンの声が聞こえてきた。


「脳死の議論の際、小児には、長期脳死という問題がたびたび指摘をされます。脳死状態であっても、髪の毛が伸びる、爪が伸びる、歯が生え変わる、して成長を続けていくといわれています。テレビ等で報道されている、小児の長期脳死事例は、いわゆる臨床的脳死と診断されているにすぎず、臓器移植法において求められる厳格な法的脳死判定に係る検査、すなわち、無呼吸テストや時間をおいての2回の検査が実施されているわけではありません。小児の脳死判定に慎重さが必要であるということは、区別して議論する必要があるということを、まず指摘させていただきます。」



参照
感じない男ブログ 子供が「長期脳死」にならないことを判定する脳死基準が必要だろう
         小池晃議員によって嘘は正された
         そこまでやるか石井みどり参議院議員!
てるてる日記 「長期脳死」を否定する議員や政策秘書たち
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by sleepless_night | 2009-07-11 09:20 | 倫理

下品な島の猿の話を知ってますか?


「下品な島の猿の話を知っていますか?」と僕は綿谷ノボルに向かっていった。
綿谷ノボルは興味なさそうに首を振った。「知らないね」
「どこかずっと遠くに、下品な島があるんです。名前はありません。名前をつけるほどの島でもないからです。とても下品なかたちをした下品な島です。そこには下品なかたちをした椰子の木がはえています。そしてその椰子の木は下品な匂いのする椰子の実をつけるんです。でもそここには下品な猿が住んでいて、その下品な匂いのする椰子の実を好んでたべます。そして下品な糞をするんです。その糞は地面に落ちて、下品な土壌を育て、その土壌に生えた下品な椰子の実をもっと下品にするんです。そいういう循環なんですね」
 僕はコーヒーの残りを飲んだ。
 「僕はあなたを見ていて、その下品な島の話をふと思い出したんです」

 『ねじまき鳥クロニクル 第二部予言する鳥』村上春樹著(新潮文庫)

              *


私がアジアを救う
私は、国際貢献の一貫(ママ)として、貧困にあえぐ、東南アジアの一角、フィリピン共和国の名も無き人々に仕事を与えるため、幻の天然バナバを追い求め、四年間の歳月をかけ、前人未到の密林を切り開き、遂に、薬餌飲料「ユニバG」を誕生させた。
日本国は、糖尿病、高血圧症ならびに肥満に苦しむ人々を救い(音声では「救う」)、そして、フィリピン共和国を物心両面で救済する。
私はここに誓う。アジア人民のため、この身が朽ち果てる迄、一命を持って、この身を捧げ尽くす。
私がアジアを絶対に救う。
これが私の国際貢献だ(音声では「だぁ」)。

 『ユニバG物語』大神源太



「一介の知事がいきなり大臣とか首相候補に指名されるなんてありえない。でも歴史を変えなくてはならない」
「僕が行ったら負けません。負けさない。負けたら分権ができない」
「あの時、今変えないと宮崎は変わらないと思った。あのときみたに、いま勝負しないと歴史は変わらない」
「三年前に知事選に出る時、高千穂で決めた。神のお告げがあった。天孫降臨の地で、ぼくに白羽の矢が立ったと勝手に思っている。くしくもこんな日、また高千穂に来たのも何かの縁だと感じている」
 7月1日 県民フォーラム 初代そのまんま東(東国原英夫)

                  *



 会社を倒産させ、詐欺で有罪(高裁)とされた人物と、講談社襲撃に加わり、風俗店で未成年者のサービスを受け、後輩の後頭部を蹴り鞭打ち症を負わせた後に県知事として絶大な人気でマスメディアへ露出してマンゴーと地鶏販売や県庁観光化に成功し、若者への徴兵・徴農・体罰合法化を規律のためとして提言する自身は独身を理由に女性問題が囁かれ、政党代表を条件に二大国政政党への出馬を表明する程になった人物の発言を並べるのは不適切かもしれない。
 だが、彼をマスメディアで目にした時の私の感触は、大神さんを見た時のものと似ている。
 しかし、両者のとり上げられ方と、それが引き起こしている反応は正反対だと言ってもいいだろう。
 大神さんは笑いとあざけりの対象でしかなかったが、そのまんま東さんは英雄扱いだ。
 それでも、両者の「目」は似ている、と私は感じている。
 困惑する程の自己評価の高さ、自分へのゆるぎない信仰、全能感を隠そうともしない眼差し、「貢献」「救済」や「規律(教育)」「歴史」「分権」という言葉と発している自身の行動との恐ろしいほどの距離への無自覚。
 
 初代そのまんま東さんの知事としての評価に関して私はかなり不公平かもしれない。
 観光・物販を除く(これは知事の仕事ではなく芸能人の仕事。彼がいなくなれば通用しなくなるのだから、継続性や成長できる仕組みを作る行政の仕事ではない)彼の仕事を見てみると、他の県知事と比較して悪いものではないだろう。
 つまり、彼はさほど悪い知事ではないのかもしれない。
 でも、全国にいるさほど悪くない知事は二大国政政党の代表職を条件に国政へ出馬することを表明しないし、自分がいなきゃ地方分権ができないとは言わない。そんなことを表明してもマスメディアは大騒ぎしないし、好意的な取り上げ方をするとも予想されない。全国のさほど悪くない知事は自分が国を救うほどの画期的な業績を上げていないことを知っている。もし、自覚がなかったとしても
 「あんたいったい何をやったの?」といわれるのがオチだろう。
 初代そのまんま東さんは、もちろんこう答えられる。
 「3日に1回はテレビに出ました」
 県内の自殺も倒産も失業率も人口流出も3日に1回テレビ出演することの偉業を前にした県民は耳目を向けずに済む。県民は地元のローカル放送が全国へ流されるという快挙に喝采を上げ続けるだろう。

 彼は「知事」という冠(番組)で驚異的な高視聴率をたたき出した実績をひっさげて、今度は「総理」という冠(番組)を手に入れようとしている。
 「知事」という冠(番組)は通販番組で済ますことができた、宮崎の物産を初代そのまんま東として宣伝すれば日本の少なからぬ人が見てくれた。元2流芸能人がワセダで更生して地方で冠番組を持って成功したのだから、好意的に受け止められたのだろう。
 しかし、「総理」という冠をかぶったら、今度はどこへそれを流すのだろう。
 国内の民放は既に通販番組で飽和している。
 海外で初代そのまんま東は通用しない。
 
 大神源太さんのように映画でも作って世界へ公開するつもりだろうか。





追記)
山崎元さんのブログ 「王様の耳はロバの耳」 東国原さんの何がダメなのだろう で山崎さんも嫌な感じをそのまんま東さんから受けるているものの、“公のコンテクストで彼を批判しようとすると、論拠を挙げてトドメを指すことは案外簡単ではない。批判の仕方によっては、批判する側の人格の卑しさを露呈してしまいかねない。政治家としての彼を批判するなら、それなりの材料と覚悟が必要になる。”と述べている。
 過去の傷害・淫行などをもっていつまでも社会的活動から排除するのは間違っている、と私も考える。
 だが、どうしてそのお粗末な過去から「宮崎をどうにかする」や「国の未来」を憂うという時代錯誤的なまでの大文字の言葉をまき散らせる人間になったのか・なっているのかは問われるべきだし、それは公のコンテクストでも変わらない。
 自分や家族の生活を購うための仕事を云々する話ではない、公の組織の長の審査で、「わたしは変わりました」という当人の発言で済過去を済ませている国があるのだろうか。公人の言ったこと・言っていることとやったこと・やっていることの違いは常にチェックされる必要がある。
 高位の公職にある者が大幅にプライバシーを制約されることの意味を考えれば、彼の過去から見た現在を問われることは十分公のコンテクストに位置づけられると考えられる。
 
 また、政治家として機を察してより大きな貢献をするために現職を捨てることは筋があると言いうるものの“彼にはたとえば国会議員の職責を十分果たす能力(知能も人柄も)が無いと思っている。だが、こうした「心配」や「能力」への評価は、私の彼に対する評価の説明にはなっていても、他人を説得するコンテクストで主張するには盤石な根拠を持っているとは言い難い。”とも述べている。
 山崎さんが言及している、岸博幸さんの「クリエイティブ国富論 東国原知事は国会議員として適格か」 で述べてられていることで十分に“私の彼に対する評価の説明”を超えているのではないだろうか。
 それ以上、県のデータから県民の生活や経済が改善しているかどうかを判断する以上にどう知事の仕事を評価し他者を説得するのだろう。

 山崎さんはエントリで説得は難しいと言いながらそのまんま東さんへの低評価が説得的に述べられているなのは、それが狙いなのだろうけれど、確かに単なる中傷になりがちなだけに批判には留意しなければならないと思う。

 これも公式の定例会見で記者に向かって「ストーカーで警察にうったえてもいいくらいですよ」「あなたの生活態度をあらためてください」と言ってみたりテレビ番組で話し相手に「しゃべりかたがおかしい」と言ってみたり、反論されたり批判されると相手の質問・批判内容ではないことを批判することでごまかそうとする、そのまんま東さんへの山崎さんの揶揄なのだろう。
 




参照
  ○内○外日記「そのまんま東はなんかやっぱり怖いんだよ」
 モジモジ君の日記。みたいな。「そのまんま東ブームがみえなくしているもの」
 大田市長とれたて日記「東国原知事、どうしたの」
 宮崎の企業倒産:http://74.125.153.132/search?q=cache:MF9ezXmrWl4J:https://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/88311+%E8%B2%A0%E5%82%B5%E7%B7%8F%E9%A1%8D774%E5%84%844300%E4%B8%87%E5%86%86%E3%80%80%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E3%80%80%E7%9C%8C%E5%86%85%E3%80%80108%E4%BB%B6&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
 宮崎県20年度予算案:http://www.pref.miyazaki.lg.jp/parts/000095549.pdf平成18年からの基金の減少
 宮崎の有効求人倍率:
http://www.miyazaki.plb.go.jp/antei/antei_02.html 
 宮崎の経済成長見通し:http://www.mkk.or.jp/2009_4/0904newsrelease.pdf
 宮崎の人口:
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/honbu/toukei/jinko-hayawakari/dotai_sokatsu.html#21 
テレビ出演回数: http://74.125.153.132/search?q=cache:Sq1cHe_AtBAJ:www.asahi.com/politics/update/0701/SEB200906300040.html+%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E5%8E%9F%E3%80%80%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E5%87%BA%E6%BC%94%E3%80%80%E3%80%80%E5%9B%9E%E6%95%B0&cd=9&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
 都道府県別自殺率:http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/everymonth/pdf/kenbetsu.pdf
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by sleepless_night | 2009-07-06 22:31 | メディア

辞めるしかないのではないか。







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                                    「やはりあの・・・、その、強制ということではないことがね・・・望ましいと」






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             「日本の国旗や国歌が嫌いだというような天皇は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」
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by sleepless_night | 2009-07-02 00:15 | その他