靖国問題 part3

第一、第二、第三と基本認識について述べてきたので、ここで判断について述べておきます。

 第一で述べましたように、総理大臣であっても信仰の自由があり、それに基づいて宗教活動をすることは認められます。ですから、中国や韓国などの靖国神社参拝への非難は内政干渉というよりも信仰への干渉です。

 では、この干渉は許されないと考えるべきなのか、考えてみますと。
 信教の自由は内心においては、絶対の保障があります(憲法20条)。これは日本国憲法ですが、内心における自由の保障は、日本国憲法が拠って立つ近代の基本理念から保障されると考えられるので、内心にある信仰へ干渉することは許されないと考えるべきです。
 しかし、信仰が外的な表れを持てば当然に、他者と共存しなくてはならない社会に関係するので、信仰の自由といえども制約をうけることも当然です。
 また、ある個人の信仰に対して他者が意見を述べることも表現の自由(憲法21条)によって保障されるものです。この自由も信仰の自由同様の普遍的な根拠を有するものです。

 この両方の自由の対立を、靖国神社参拝というケースで考えると、両方とも同時に存在することができるので、実は理屈の上では、それほど問題ではないと考えられます。
 中国や韓国の批判は表現の自由に基づく行為であり、それが参拝をすることを強制力をもって阻止するものではありません。参拝することも、批判を強制力をもって阻止するものではありません。
 ですので、干渉としても許容されるものです。


 問題は、現実の反応や結果です。
 小泉首相がどんな気持ちで参拝しようとも、どんな思想を持とうとも、小泉首相の活動はきわめて大きな影響を内政・外交・経済へと及ぼします。
 政治家、とくに行政の長は、自己の行動のもつ結果を予測し、生じた結果について責任を負わなくてはなりません。
 現実に中国との国家レヴィルの外交は停滞し、経済関係にもマイナスの影響を与えています。韓国とも、良好さを進展させる機会が多いなか、足かせに自分から突っ込む結果になっています。
 内心がどうであれ、この現実の結果について責任を負わなくてはなりません。
 相手国の内実によって、政治利用されているとか、理解が足りないとかを理由に自分の行動の責任を免れることはできません。政治利用されてるかもしれないし、相手の理解不足があるかもしれないのが私たちの生きる唯一の現実です。
 そこでの自己の行動の結果は免れられない責任です。

 私は、戦没者を悼む宗教的態度として靖国神社参拝を選択する人物が内閣総理大臣にあることを賛成できません。
 
 これは靖国神社自体を非難するものではありません。
 靖国神社は特異な歴史をもっていますが、それも一宗教法人の歩みです。
 A級戦犯が祀られていることも、問題ありません。一宗教法人の自由ということに加えて、日本において「カミ」とは、自分達にはコントロールできない大きな力を畏れ、日常を守るために祀られる存在です。祀られる対象は生前の善悪の評価ではなく、(肉体的な力や、感情的な)力の普通ではない大きさが資格として問題とされるからです。政府にはむかったり、人々に加害を及ぼしたりした存在を祀るのは、それらの行為を推奨し賛美するものではなく、単にそれを為した力の大きさや感情の激しさを慰撫し、私たちの日常を守るためです。
 同じA級でも、死刑にならなかった人たちが存在し、その人たちは政治家として復活しました。死刑になった人は死に損ではないかというのも首肯できます。また、裁判自体の適法性も大きな疑問があります。
 しかし、少なくとも死刑になったA級戦犯とされた人たちは戦争遂行時に国家運営に責任を負うべき立場の人たちでした。責任者の役割は責任を取ることです。死刑となったA級戦犯ととされた人々はその責任をとったと、私は考えます。
 どのように彼らを評価しても、彼らは大きな力を持っていたし、激しい感情があったはずです。
 それを慰撫して、私たちの日常を守ろうとするのは、神社としてオーソドックスなものだと、私は考えます。

 小泉首相は多様な思想が許される国家の行政の長です、自身の思想信条を正統として他の要素を無視することはできないはずです。どんな思想や信仰を持っていようと、その結果は国民に及びます。
 つまり、小泉首相は一人の人間としての信仰を持ち・信仰行為をする自由がある(憲法によって守られる)と同時に、首相という最高の公人、即ち憲法が保障する国民の権利を守る立場でもある(統治者として被統治者たる国民の権利を保護する義務がある)。したがって、小泉首相が靖国神社という一宗教法人を自己の信仰を選択したことによって、首相という公務員が守るべき国民の信仰の自由を侵すようなことをすることはできないのです。(だから、公金支出などの行為の外形によって一宗教法人を促進するようなことをしてはならないし、戦没者を悼むのに靖国という一宗教法人を優越した存在だと認めるようなこともできない。国民がそれぞれの信仰の下で自由に宗教的感情を表すことを間接的・環境的に妨げるようなこと、他の宗教法人より優越して取り扱うことをしてはならない。)
 
 首相が靖国神社に参拝すること(まして、参拝でもないパフォーマンスであったなら)、その宗教的態度・選択を是認し、今現実に起きている結果や将来にわたる影響を甘受する価値があるのか、私たちの信仰のありかも問われています。
[PR]
# by sleepless_night | 2005-06-03 20:41 | 宗教

靖国問題 part2

 前回に連続して以下、私見です。

 第二に、靖国参拝と表現されていますが、そもそも、小泉首相は参拝しているのかという点があります。
 参拝とは、文字通り、行って拝むことです。
 小泉首相は靖国神社で神道形式の参拝をしたのでしょうか?所謂、二礼二拍手一礼です。
 
 おぼろげな記憶ですので、間違っている可能性が多分にあるのですが、小泉首相は靖国神社で神道形式の参拝をしないで、一礼で済ませていたのではなかったでしょうか。

 これが間違っていなければ、小泉首相は参拝したと表現するのは正確ではありません。
 少なくとも、この形式は他の宗教を信仰している人が他の宗教の施設を訪問したときに採用する形式に含まれます。
 もし、一礼ですませていたなら、小泉首相の信仰とはなんなのでしょう


 第三に、靖国神社に参拝することが戦没者を悼むことを表すために必要なことだと発言する人がいます。それが、総理大臣や代議士にとって必要だとも言う人がいます。
 しかし、それは信仰の理解からして奇妙です。
 第一の部分で述べたように、靖国神社に参拝することは宗教の選択の問題、信仰の問題のはずです。
 特定の宗教法人の信仰を持つことと、戦没者を悼むことは全く無関係です
 むしろ、他の宗教を信仰している人間が、靖国神社に行くこと、ましてや目的が政治上での利得のためであれば、靖国神社という宗教法人への侮辱に他なりません。
 自身に何らかの信仰があるのなら、その信仰に則した宗教施設で祈れば、そこに戦没者を悼む気持ちの優劣・正邪はあるはずがありません。

続き⇒靖国問題 part3
 
[PR]
# by sleepless_night | 2005-06-02 23:33 | 宗教

靖国問題 part1

早晩、触れなくてはいけない話題に、早速あたってしました。
 http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni3/ 
 立花さんが主な論点は触れています。重なる部分も多いのですが、以下私見を述べます。
 
 第一に、靖国神社は法律上、一宗教法人でしかないということ。
 靖国神社問題について、語る人にはこの事実を忘れていると思われる人が少なくありません。
 靖国神社は一宗教法人ですので、その神社がどのような宗教活動をしようと法律の許容する範囲であれば、自由です。国際・国内政治がどうであろうと、その宗教活動のあり方を決めるのは、基本的に靖国神社という法人の責任者達です。
 立花さんも触れているように、職務中に死亡した自衛隊員が靖国神社に祭られることになった際に、遺族が自身の信仰に反するとして、民事訴訟を起こしたケースもありましたが、神社に依頼した隊友会が自衛隊とは法律上関係なく、かつ、隊員同士は強い関係性をもっていることを考慮して、遺族側の主張は退けられました。また、他にも遺族が知らない間に祭られていたケースが少なからずあります。
 靖国神社はあくまでも法律上は一宗教法人にすぎません。だからこそ、神社が自分達の宗教思想に基づいた行動が認められます。国家がそれに介入すること、口を挟むことは絶対に認められません。

 そして、小泉首相はその一宗教法人へ行くことを、戦没者を悼む際の自己の宗教的態度として選択してるのです。
 これは、第一に小泉首相の信仰の自由に属することです。
 中国・韓国などがこれを非難することは第一に、内政干渉ではなく、小泉純一郎という人物の信仰への干渉です。
 八月になると、毎度繰り返される、バカな質疑応答。
 「私的参拝ですか?公的参拝ですか?」
 この質問をする人間の発想が理解できません。
 この質問をすることは、公的な信仰と私的な信仰が別々にあることを想定しているのです。
 そんなことありますか?
 「私の公的な信仰はカトリックですが。私的には浄土宗です。」と言う様な人間がいるでしょうか?私はあったことがありませんし、言っている意味も分かりません。
 もういい加減、バカな質疑応答をやめて欲しいです。あきれすぎて、耳にするのが苦痛です。質問者はどんな宗教観をもっているのでしょう。質問者には公的と私的という二重の信仰があるんでしょうか。
 
 政教分離をめぐって、目的効果基準を代表として、様々な考え方がまります。
 基準を考える際に、勘違いすべきではないのは、公職にある人物が信仰を持ったり、それに基づく宗教行為をすることは認められている点です。
 (私の知る限り)多くの日本人は、自分の信仰を筋立てて考える機会がなく、宗教的には幼児段階にとどまっています。その状態で、何らかの挫折を味わったり、病気などの困難にあった際に、宗教に触れると、青年期の懐疑を経ていないために、親の言うことを聞く幼児のように無批判に宗教組織や宗教家の言うことを受け入れてしまいます。また、それが信仰だと勘違いしてしまうこともあります。
 政教分離は、元々、政治と教会の分離を意味します。政治組織・権力と宗教組織・権威を分離しなくてはならない、政治組織・権力によって宗教組織・権威が支配されることも、宗教組織・権威が政治組織・権力を支配することも禁止されます。
 ですが、政治家が信仰を持つことも、宗教家が政治家になることも禁止するものではありません。政治家が宗教組織・権威を政治のツールとして利用したり、宗教家が自己の宗教組織・権威を政治のツールに利用しなければよいのです。
 小泉首相が自己の宗教的態度として靖国神社に参拝することは、政教分離の観点からも問題はありません。ただし、過去の反省として、厳密な分離基準を採用し公費の支出は避ける(つまり、小泉首相の参拝が、行政が靖国神社を優越的な立場だと認めているのではないと示す)ことは必要でしょう。それは、あくまでも公費支出の問題で、行く行かないの自由とは別です。
 
 小泉首相は総裁に立候補する際に、靖国神社参拝を口にしていました。
 私たちは、その人物を選択したのです。
 自民党に投票しなかった人たちも、有権者である以上、彼の行動の責任を負います。
 民主主義国家であるのですから、選挙を経た代表の行為の結果を、選挙に参加する権利を与えられた人間が負うことは当然です。
 

続き⇒靖国問題 part2

  
 
[PR]
# by sleepless_night | 2005-06-02 23:05 | 宗教