遺体の国の21グラム。   前篇




“おもしろく、新しく、役に立つことができるかもしれないのに、じっと寝そべっている必要があるだろうか?”
 “いろいろ体験できるかわりに、死体は分別、切開、再配列され、かなりの血をながす。しかし、大切なことがある、彼らは何も我慢するわけではない。(略)この素晴らしい力を人類の向上のために使わずに無駄にする手があるだろうか?”
 “死体で問題なのは、外観があまりにも人間らしいことだ。”
 『死体はみんな生きている』メアリー・ローチ著 殿村直子訳(NHK出版)


“我々には、脳死が人の死かどうか、臓器を摘出すべきかどうかについて、迷う自由があります。この自由を人々から奪ってはなりません。
 迷う自由を保障するもの、それこそが、本人の意思表示の原則であります。
 すなわち、迷っている間はいつまでも待ってあげる。もし決心がついてら申し出てください。
 これが、本人の意思表示の原則なのです。”
 “こどもたちには、自分の身体の全体性を保ったまま、外部からの臓器移植などの侵襲を受けないまま、まるごと成長し、そしてまるごと死んでいく、自然の権利というものがあるのではないでしょうか。そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、本人がその権利を放棄することを意思表示したときだけではないでしょうか。”
 感じない男ブログ「長期脳死、本人の意思表示@参議院での発言」 森岡正博


                  *


(1)新旧の比較と逆転した関係
 第171国会に4つの臓器移植法改正案が提出され、6月18日衆院を通称A案が賛成263、反対167で通過した。
 同法案は主に現行法(臓器の移植に関する法律)6条を以下のように変更・追加することを示している。
 
6条
1項
 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるために臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。 
 医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死したもの身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
 一 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。
 二 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。
 ⇒この“以外の場合”に15歳以下の脳死状態の患者は含まれるので、現行の本人意思を必須とするために、意思表示が法的に有効とみなされる年齢である15歳の制限をクリアできる。

2項 
前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ってと判定されたもの者の身体をいう。
 ⇒移植のために摘出する場合の限定を外して、脳死は全般的に人の死だとする。

3項
 臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第一項に規定する意思の表示に併せて前項による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。
 臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。
 一 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意識がないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がいないとき。
 二 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により書面により承諾しているとき。
 ⇒家族が同意するか、家族がいないことが必要でったのは現行改訂案で同じ。違いは、旧3項では本人が意思を積極的に提供の意思表示をしていることが必要だったのが、改訂案3項では“判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合”と“意思がないことを表示している場合以外の場合”とで本人に積極的に拒んでいない場合を含めていること。
 4項
 臓器の摘出に係る第二項の判定は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の意思(当該判定がなされた場合に当該脳死した者の身体から臓器を摘出し、または当該臓器を使用した移植術を行うこととなる意思を除く。)の一般に認められている医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより行う判断の一致によって、行われるものとする。
5項
 前項の規定により第二項の判定を行った医師は、厚生省令で定めるところにより、直ちに当該判定が的確に行われたことを証する書面を作成しなければならない。
6項
 臓器の摘出に係る第二項の判定に基づいて脳死した者の身体から臓器を摘出しようとする意思は、あらかじめ、当該脳死した者の身体にかかわる前項の書面の交付を受けなければならない。

6条の2 の追加
 移植術に使用されるための臓器を死亡した後に提供する意思を書面により表示している者又は表示しようとする者は、その意思の表示に併せて、親族に対し当該臓器を優先的に提供する意思を書面により表示することができる。
 ⇒現行6条にはない親族への優先提供規定。おそらく、生体移植で移植先を親族へ指定できることにあわせたのだろう。


 この法律案については衆院通過前にはマスメディアでも相応にとり上げられ、A案が脳死を人の死とし、15歳以下の移植を可能にすることを伝えていた。
 だが、この改訂にもっとも根本的な変更点はこの2点では(直接的には)ない。
 現行6条2項には確かに、“その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって”とう限定があることで、脳死全般が死ということにはなっていなかった。
 しかし、脳死が人の死として含まれるかどうかという点では現行と改訂案で一致して含めているので根本的な思想に違いは認められない。新旧で向きは一緒だ。
 違いは3項の変更部分で指摘した様に、現行3項では必須だった本人の積極的意思表示を改訂案3項では不要に、積極的に拒絶しなければ臓器摘出を認めたところにある。
 これは現行法の大原則を転換したことを明確に意味している。

 臓器提供には2つの方式、コントラクト・インとコントラクト・アウトという方式がある。
 コントラクト・インは現行法が採用している方式で、臓器提供者の積極的な意思表示によって臓器が提供される。
 コントラクト・アウトは新臓器移植法となる改訂案・通称A案が採用している方式で、ドナーとならないという意思表示をしない限り臓器提供の意思があるとみなされる。
 つまり、臓器提供というコントラクト(契約)に対して、入る意思(イン)を表示させる制度化、出る意思(アウト)を表示させるかという違い、契約の前提が逆の立場の2つの方式があるということ。
 コントラクト・アウトには、「弱い」コントラクト・アウトと「強い」コントラクト・アウトの2つがあり、家族によって拒否権があるものが「弱い」コントラクト・アウトで、コントラクト・アウト方式を採用してる国のほとんどがこれを採っている。

 臓器移植法は大きく2つの理念に基づいている。
 臓器移植法2条(これはA案でも改訂されない)の1項2項がドナーの任意性を規定し、3項4項がレシピエントへの臓器提供の公正さを求めている。
 倫理学(医療倫理)でいえば前者が自己決定の原則(自律の原則)で後者が正義の原則に該当する。
 
 そして現行法6条はドナーの自己決定権(自律)原則の具体的な内容を規定している。
 「自己決定(自律)の原則」は人体の不可侵の原則にも基づくものであり、医療のみならず近代法の原則にも含まれる。
 私たちは国家権力はもとより、他者からも自己の同意なく侵襲されない自由と権利を有している。
 もっと言えば、自由の最も基盤にあるのは「ほっておいてもらう自由(let me alone)」であるということ。
 例えば、誰もレイプ拒否の意思表示を書面化されたものを持っていなくとも、レイプさらない自由と権利を持っている。レイプ犯が「相手を気絶させて、荷物をあさってもレイプ拒否の書面がなかったからレイプしていいのだ」と言ったとしても、誰もレイプ犯を擁護しない。私たちは何の意思表示をする義務も責任も無く「ほっておいてもらう自由」があるからだ。本人が触っていいと言わない限り、他者に体を触わられる・侵される筋はない。
 この原則があるから、わざわざ現行法は本人の積極的意思表示を必要とし、加えて社会的要請から家族の同意までを必要とした。
 これを整理すれば、

             原則=不可侵   例外=(本人意思で)可侵

 ということになる。
 もちろん、この原則例外の裏には
          原則=脳死は死ではない 例外=(本人意思で)死と認める
 という関係も存在する。
 だから、マスメディアで盛んにA案の改訂点とする「脳死は人の死」「15歳以下も可能」というのを法改訂の要点とするのも間違いではない。特に「15歳以下」という制限はこの同意の可能不可能にかかっていたので強くこの原則例外に係る。だが、問題は決して15歳以下にとどまるものではないことを「15歳以下」云々は忘れさせる。

 改訂案は上記の原則例外の関係で示せばこうなる

              原則=可侵   例外=(本人意思で)不可侵

 そしてこの裏に
          原則=脳死は死 例外=(本人意思で)死ではない
 という関係がある。これはあくまでも裏でしかない。

 「脳死は死」だから「可侵」なんじゃないか、「脳死は死」と全般的に認めた時点で、同意も「不可侵」も関係ないから、新法は原則を「可侵」にしたんじゃないか、というのは考える序列が違う。
 「可侵」にするために「脳死は死」だとするのは現行法以来の発想であり、もっと言えば脳死の発想である。 これは一貫している。移植の可能性が生じ、ドナーが捜された結果、不可逆昏睡・超昏睡が脳死とされたという経緯を見ても、現行法の制限をもってしてまでの「脳死は死」を見ても、「可侵」だから・にするために「脳死は死」と言うのが考える順序だ。
 「可侵」にするための「脳死は死」という一貫した発想にもかかわらず、上記したような医療倫理の原則、近代法の原則があったからこそ、現行法は原則「不可侵」という体裁を採らざるをえなかった。

 だがついに改訂案で、この「可侵」だから・にするため「脳死は死」という思考が現行法の原則例外をひっくり返した。
 ま逆の思考に基づく根本的に異なるものが、あたかも法律の部分的な改訂案かのようにして提出されて衆院を通過した、ということになる。

 臓器移植法は2条で2つの理念、自律と正義の原則を規定していると上述した。
 その両方を、この改訂案・A案は実質的に反故にているのだ。
 自律の原理は上記したように、6条の改訂によって。
 正義の原理は改訂案が新設した6条の2によってだ。
 ドナーの意思によって親族へ臓器の優先提供が可能だとされているが、これは医療の現場において患者が医療上の判断のみによって公正にあつかわれるべきとする正義(分配的正義・公正)の原理に著しく反している。有力者の子弟である、資産がある、コネがある、それらの有無で受けられる医療が変わるということと同じだ。
 もちろん現実に、カネとコネで受けられる医療が変わる、助かることと助からないことがある。しかし、現実の不公正、不正義を法律が追認することと、現実があるということは別だ。
 (この6条の2については、A案作成に大きく影響を与えてた町野朔上智大教授もこの条項には移植の公正を損なうと批判的。そもそも、臓器のレシピエントとなる人間がドナーの生死を決定するというのは無茶苦茶な話だ。ドナーの命がレシピエントの欲望に直接さらされることはもちろん、「家族を殺して自分は助かる」ことを迫られるレシピエントに対しても残酷だ。過去に脳死患者から親族へ指定して臓器提供がなされたことが1件ある。2001年に60代男性が脳死状態になり生前から親族へ臓器提供を希望し、家族も親族以外なら提供しないということで臓器移植ネットワークの移植待機者リストに載っていなかった親族2人への移植を、厚生労働省はこのケースに限り許可した。のちの厚労省検討会で公正の観点からレシピエント指定は認めないという結論が出された。 親族優先規定はA案の提案者である河野太郎衆議院議員が父河野一郎衆院議長へ生体肝移植したこと、脳死患者からの臓器提供が増えれば自分がドナーにならずに済んだという思い、が影響しているとも推測される。また、A案の衆院通過自体に河野一郎衆院議長への花道をつくろうとする説得が働いたことも言われている。もしそれが事実ならば、全国民の生命にかかわる法律が権力者親子による権力者親子の満足のための法律案によって改訂されることになる。)


(2)本当の話
 このようなA案に対しては各所で反対・危惧の声明が出された。
 その代表的なひとつ、生命倫理会議では生命倫理の教育研究に携わる研究者71名が緊急声明でA案への抗議と参院での徹底審議を求めた
 生命倫理会議の代表である小松美彦(東京海洋大教授、科学史・科学論・生命倫理)さんは『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)で以前から臓器移植(法)への問題提起を行ってきた。
 
 同書では脳死判定の「自発的呼吸の停止」を確認するために無呼吸テスト(人工呼吸器の取り外し)が患者へ与える悪影響(血中二酸化炭素濃度の上昇)や「平坦脳波」の確認困難さ(頭蓋の上から測定しなくてはならない)や限界(脳波と心の在り方との関係に疑問)やラザロ徴候といった脳死患者の自発的身動きや臓器摘出時の血圧上昇と暴れるような動作(そのために摘出時に「死体」に麻酔をかける)、長期脳死という10年以上の脳死状態での生存、移植後の生存率と非移植での生存率比較といった基本的な情報や疑問、そもそも一般的に想像されるような「死」の定義と脳死を検討する人々の「死」の定義の違い(脳死臨調で問題とされた「死」は「人体の有機的統合性」であって、一般人が思い描くような「何も考えない・感じない・動かない」ではない)といったことが提示され、さらに脳死という概念自体への疑問・批判(他の臓器の不全は「死」と呼ばないのに、どうして脳だけ「脳死」なのか?)を投げかけている。
 また、日本における臓器移植のキーポイントととなった和田移植(1968年の日本初の心臓移植)と高知赤十字病院移植(1999年の臓器移植法成立後初の移植)の杜撰さを指摘し、批判し、臓器移植法改訂問題へも提言を寄せている。


続き→遺体の国の21グラム。   中編
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# by sleepless_night | 2009-07-12 14:25 | 倫理

これはフィクションではありません。/ある国の脳死をめぐる一つの話



これは、フィクションではありません。




ある国の都市にあるたくさんの部屋がある建物内で、ブルーは質問に答えてくれそうな人を探していた。
そこにテレビで見たことがあるグリーンという名の人物が通りかかった。
ブルーはグリーンに質問をし、疑問を解決しようと思った。


ブルー「臓器移植法改正案、通称A案に関して質問があるのですけれど」
グリーン「はい、どうぞ」
ブルー「脳死を一律に死とすることは、特に長期脳死の状態にあるという子供が長期にわたって生存・成長していることを考えると疑問があるのですけれど」
グリーン「長期脳死の状態にあると言われている子供は本当は脳死ではありません」
ブルー「本当のとは、どういう意味ですか?」
グリーン「法的に認められる、という意味です」
ブルー「長期脳死の状態にあると言われている子供が、法的に脳死と認められる子供ではないということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「法的に、という時の法とは臓器移植法のことですね」
グリーン「はい」
ブルー「ということは、長期脳死の状態にあると言われている子供が、現在の臓器移植法の定める脳死判定をされている子供ではないということですね」
グリーン「はい」
ブルー「現在の臓器移植法の脳死判定の実施に必要なのは何ですか?」
グリーン「臓器移植法6条3項で脳死判定の実施には予め脳死状態になった患者本人が臓器提供の意思表示をしていることと、脳死判定実施の告知を受けた家族がそれを拒否しないことです」
ブルー「つまり、本人の事前の意思表示と家族の同意が必要ということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「では、本人の意思表示か家族の同意がなければ脳死判定は行われないんですね」
グリーン「いいえ、脳死状態になった患者本人に家族がいない場合には、患者本人の予めの意思表示があれば判定が行われます」
ブルー「では、本人の意思表示について必要なことはありますか」
グリーン「6条1項で書面による意思表示が必要だとされています」
ブルー「本人が書面で意思表示をしていればいいんですね」
グリーン「はい」
ブルー「では、長期脳死の状態にあると言われている子供が、その状態に陥る前に書面で臓器提供の意思表示をしていて、家族がそれに同意をしてれば、その子供には脳死判定が行われるんですね」
グリーン「いいえ。法律的に意思表示が有効とされるには15歳以上であることが必要とされていますので、その子供が15歳以下ならば臓器提供の意思表示は有効ではありません」
ブルー「脳死判定の実施に不可欠な本人の意思表示が欠けているということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「ということは、15歳以下の子供は本人の意思表示がない以上、臓器移植法の定める脳死判定を受けることは法律的に不可能ということですね」
グリーン「そうなります」
ブルー「グリーンさん。15歳以下の子供が法的脳死判定を受けることが法的に不可能なら、法的に脳死だと認められる子供がいないのは当然じゃないですか」
グリーン「……」
グリーン「ちょっと、トイレに行ってきます」


グリーンがトイレから帰ってきた。


グリーン「ごめんなさい、トイレを我慢していたので、私、少し勘違いをしていました」
ブルー「勘違いですか」
グリーン「はい。長期脳死の状態にあるといわれる子供が本当は脳死ではない、と申したことです」
ブルー「勘違いでしたか。では、やはり長期脳死の状態にあるといわれる子供も本当に脳死だということでよろしいんですね」
グリーン「いいえ」
ブルー「?」
グリーン「私が申しました、本当のとは、法律的に認められた、ということではなくて、臓器移植法が認めていなくても実質的に同じ状態だと診断されたということです。法律的に脳死判定ができなくとも、脳死判定の基準から脳死だと診断されることを、本当の脳死だと申したかったのです。」
ブルー「臓器移植法6条4項の“医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより行う判断”に従って診断した結果、脳死判定の基準を満たしている患者ということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「具体的に、その基準とはなんですか」
グリーン「厚生省が85年に定めた基準です」
ブルー「その基準の内容は何がありますか」
グリーン「判定基準は簡単に申しますと、6つあります。深昏睡・自発呼吸の消失・瞳孔固定・脳幹反射の消失・平坦脳波です。これらを6時間以上の間をおいて2度確認することが求められています」
ブルー「長期脳死の状態にあるといわれている子供は、その基準を満たしていない、ということをおっしゃりたかったのですね」
グリーン「はい。具体的に言いますと、そのうちの自発呼吸の消失を確認するための無呼吸テストをしていませんので、脳死と確認するための基準を満たしていないのです」
ブルー「つまり、長期脳死の状態にあるといわれている子供に無呼吸テストを受けて自発呼吸の消失が確認された子供はいないので、本当の脳死の子供ではないということですね」
グリーン「はい。だから脳死と診断された子供からの臓器摘出を考える時に、今知られているような長期脳死の子供のことをもって疑問に思わなくてもいいのです。それは誤解なのです。お分かりになりました?」
ブルー「よく分からないのですが…。失礼ですが、日本語はお得意でしょうか?」
グリーン「当たり前でしょ!失礼な人ですね。私を誰だと思っているんですか。私はこの国の厚生労働に関する立法に関わる重責を託された人間ですよ」
ブルー「存じ上げませんで、失礼しました。厚生労働分野がグリーンさんの御専門ということで意外です。それならば、旧厚生省研究班の『小児における脳死判定基準』という論文を当然ご存知ですよね」
グリーン「もちろ、あっ、いや……」
ブルー「この論文によると、脳死とされる6歳未満の子供について小児脳死判定基準を満たした、つまり2回の無呼吸テストを実施して無呼吸が確認されたのが20例あり、そのうち7例で長期脳死に、さらに4例で100日以上が心臓が動き続けたのが確認されているということです。当然、心臓が動き続ける間、その子供たちは成長を続けました」
グリーン「……ですから…、あの、私、行きますね」
ブルー「ちょっと、どこへ?」

グリーンは、急いだ素振りで大きな会議場へと入って行った。
彼女が入っていくと扉が閉められた。


ブルーは、グリーンがまた戻ってくるのではないかとその場で待った。
すると、グリーンが入って行った大きな会議場のドア越しにグリーンの声が聞こえてきた。


「脳死の議論の際、小児には、長期脳死という問題がたびたび指摘をされます。脳死状態であっても、髪の毛が伸びる、爪が伸びる、歯が生え変わる、して成長を続けていくといわれています。テレビ等で報道されている、小児の長期脳死事例は、いわゆる臨床的脳死と診断されているにすぎず、臓器移植法において求められる厳格な法的脳死判定に係る検査、すなわち、無呼吸テストや時間をおいての2回の検査が実施されているわけではありません。小児の脳死判定に慎重さが必要であるということは、区別して議論する必要があるということを、まず指摘させていただきます。」



参照
感じない男ブログ 子供が「長期脳死」にならないことを判定する脳死基準が必要だろう
         小池晃議員によって嘘は正された
         そこまでやるか石井みどり参議院議員!
てるてる日記 「長期脳死」を否定する議員や政策秘書たち
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# by sleepless_night | 2009-07-11 09:20 | 倫理

下品な島の猿の話を知ってますか?


「下品な島の猿の話を知っていますか?」と僕は綿谷ノボルに向かっていった。
綿谷ノボルは興味なさそうに首を振った。「知らないね」
「どこかずっと遠くに、下品な島があるんです。名前はありません。名前をつけるほどの島でもないからです。とても下品なかたちをした下品な島です。そこには下品なかたちをした椰子の木がはえています。そしてその椰子の木は下品な匂いのする椰子の実をつけるんです。でもそここには下品な猿が住んでいて、その下品な匂いのする椰子の実を好んでたべます。そして下品な糞をするんです。その糞は地面に落ちて、下品な土壌を育て、その土壌に生えた下品な椰子の実をもっと下品にするんです。そいういう循環なんですね」
 僕はコーヒーの残りを飲んだ。
 「僕はあなたを見ていて、その下品な島の話をふと思い出したんです」

 『ねじまき鳥クロニクル 第二部予言する鳥』村上春樹著(新潮文庫)

              *


私がアジアを救う
私は、国際貢献の一貫(ママ)として、貧困にあえぐ、東南アジアの一角、フィリピン共和国の名も無き人々に仕事を与えるため、幻の天然バナバを追い求め、四年間の歳月をかけ、前人未到の密林を切り開き、遂に、薬餌飲料「ユニバG」を誕生させた。
日本国は、糖尿病、高血圧症ならびに肥満に苦しむ人々を救い(音声では「救う」)、そして、フィリピン共和国を物心両面で救済する。
私はここに誓う。アジア人民のため、この身が朽ち果てる迄、一命を持って、この身を捧げ尽くす。
私がアジアを絶対に救う。
これが私の国際貢献だ(音声では「だぁ」)。

 『ユニバG物語』大神源太



「一介の知事がいきなり大臣とか首相候補に指名されるなんてありえない。でも歴史を変えなくてはならない」
「僕が行ったら負けません。負けさない。負けたら分権ができない」
「あの時、今変えないと宮崎は変わらないと思った。あのときみたに、いま勝負しないと歴史は変わらない」
「三年前に知事選に出る時、高千穂で決めた。神のお告げがあった。天孫降臨の地で、ぼくに白羽の矢が立ったと勝手に思っている。くしくもこんな日、また高千穂に来たのも何かの縁だと感じている」
 7月1日 県民フォーラム 初代そのまんま東(東国原英夫)

                  *



 会社を倒産させ、詐欺で有罪(高裁)とされた人物と、講談社襲撃に加わり、風俗店で未成年者のサービスを受け、後輩の後頭部を蹴り鞭打ち症を負わせた後に県知事として絶大な人気でマスメディアへ露出してマンゴーと地鶏販売や県庁観光化に成功し、若者への徴兵・徴農・体罰合法化を規律のためとして提言する自身は独身を理由に女性問題が囁かれ、政党代表を条件に二大国政政党への出馬を表明する程になった人物の発言を並べるのは不適切かもしれない。
 だが、彼をマスメディアで目にした時の私の感触は、大神さんを見た時のものと似ている。
 しかし、両者のとり上げられ方と、それが引き起こしている反応は正反対だと言ってもいいだろう。
 大神さんは笑いとあざけりの対象でしかなかったが、そのまんま東さんは英雄扱いだ。
 それでも、両者の「目」は似ている、と私は感じている。
 困惑する程の自己評価の高さ、自分へのゆるぎない信仰、全能感を隠そうともしない眼差し、「貢献」「救済」や「規律(教育)」「歴史」「分権」という言葉と発している自身の行動との恐ろしいほどの距離への無自覚。
 
 初代そのまんま東さんの知事としての評価に関して私はかなり不公平かもしれない。
 観光・物販を除く(これは知事の仕事ではなく芸能人の仕事。彼がいなくなれば通用しなくなるのだから、継続性や成長できる仕組みを作る行政の仕事ではない)彼の仕事を見てみると、他の県知事と比較して悪いものではないだろう。
 つまり、彼はさほど悪い知事ではないのかもしれない。
 でも、全国にいるさほど悪くない知事は二大国政政党の代表職を条件に国政へ出馬することを表明しないし、自分がいなきゃ地方分権ができないとは言わない。そんなことを表明してもマスメディアは大騒ぎしないし、好意的な取り上げ方をするとも予想されない。全国のさほど悪くない知事は自分が国を救うほどの画期的な業績を上げていないことを知っている。もし、自覚がなかったとしても
 「あんたいったい何をやったの?」といわれるのがオチだろう。
 初代そのまんま東さんは、もちろんこう答えられる。
 「3日に1回はテレビに出ました」
 県内の自殺も倒産も失業率も人口流出も3日に1回テレビ出演することの偉業を前にした県民は耳目を向けずに済む。県民は地元のローカル放送が全国へ流されるという快挙に喝采を上げ続けるだろう。

 彼は「知事」という冠(番組)で驚異的な高視聴率をたたき出した実績をひっさげて、今度は「総理」という冠(番組)を手に入れようとしている。
 「知事」という冠(番組)は通販番組で済ますことができた、宮崎の物産を初代そのまんま東として宣伝すれば日本の少なからぬ人が見てくれた。元2流芸能人がワセダで更生して地方で冠番組を持って成功したのだから、好意的に受け止められたのだろう。
 しかし、「総理」という冠をかぶったら、今度はどこへそれを流すのだろう。
 国内の民放は既に通販番組で飽和している。
 海外で初代そのまんま東は通用しない。
 
 大神源太さんのように映画でも作って世界へ公開するつもりだろうか。





追記)
山崎元さんのブログ 「王様の耳はロバの耳」 東国原さんの何がダメなのだろう で山崎さんも嫌な感じをそのまんま東さんから受けるているものの、“公のコンテクストで彼を批判しようとすると、論拠を挙げてトドメを指すことは案外簡単ではない。批判の仕方によっては、批判する側の人格の卑しさを露呈してしまいかねない。政治家としての彼を批判するなら、それなりの材料と覚悟が必要になる。”と述べている。
 過去の傷害・淫行などをもっていつまでも社会的活動から排除するのは間違っている、と私も考える。
 だが、どうしてそのお粗末な過去から「宮崎をどうにかする」や「国の未来」を憂うという時代錯誤的なまでの大文字の言葉をまき散らせる人間になったのか・なっているのかは問われるべきだし、それは公のコンテクストでも変わらない。
 自分や家族の生活を購うための仕事を云々する話ではない、公の組織の長の審査で、「わたしは変わりました」という当人の発言で済過去を済ませている国があるのだろうか。公人の言ったこと・言っていることとやったこと・やっていることの違いは常にチェックされる必要がある。
 高位の公職にある者が大幅にプライバシーを制約されることの意味を考えれば、彼の過去から見た現在を問われることは十分公のコンテクストに位置づけられると考えられる。
 
 また、政治家として機を察してより大きな貢献をするために現職を捨てることは筋があると言いうるものの“彼にはたとえば国会議員の職責を十分果たす能力(知能も人柄も)が無いと思っている。だが、こうした「心配」や「能力」への評価は、私の彼に対する評価の説明にはなっていても、他人を説得するコンテクストで主張するには盤石な根拠を持っているとは言い難い。”とも述べている。
 山崎さんが言及している、岸博幸さんの「クリエイティブ国富論 東国原知事は国会議員として適格か」 で述べてられていることで十分に“私の彼に対する評価の説明”を超えているのではないだろうか。
 それ以上、県のデータから県民の生活や経済が改善しているかどうかを判断する以上にどう知事の仕事を評価し他者を説得するのだろう。

 山崎さんはエントリで説得は難しいと言いながらそのまんま東さんへの低評価が説得的に述べられているなのは、それが狙いなのだろうけれど、確かに単なる中傷になりがちなだけに批判には留意しなければならないと思う。

 これも公式の定例会見で記者に向かって「ストーカーで警察にうったえてもいいくらいですよ」「あなたの生活態度をあらためてください」と言ってみたりテレビ番組で話し相手に「しゃべりかたがおかしい」と言ってみたり、反論されたり批判されると相手の質問・批判内容ではないことを批判することでごまかそうとする、そのまんま東さんへの山崎さんの揶揄なのだろう。
 




参照
  ○内○外日記「そのまんま東はなんかやっぱり怖いんだよ」
 モジモジ君の日記。みたいな。「そのまんま東ブームがみえなくしているもの」
 大田市長とれたて日記「東国原知事、どうしたの」
 宮崎の企業倒産:http://74.125.153.132/search?q=cache:MF9ezXmrWl4J:https://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/88311+%E8%B2%A0%E5%82%B5%E7%B7%8F%E9%A1%8D774%E5%84%844300%E4%B8%87%E5%86%86%E3%80%80%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E3%80%80%E7%9C%8C%E5%86%85%E3%80%80108%E4%BB%B6&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
 宮崎県20年度予算案:http://www.pref.miyazaki.lg.jp/parts/000095549.pdf平成18年からの基金の減少
 宮崎の有効求人倍率:
http://www.miyazaki.plb.go.jp/antei/antei_02.html 
 宮崎の経済成長見通し:http://www.mkk.or.jp/2009_4/0904newsrelease.pdf
 宮崎の人口:
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/honbu/toukei/jinko-hayawakari/dotai_sokatsu.html#21 
テレビ出演回数: http://74.125.153.132/search?q=cache:Sq1cHe_AtBAJ:www.asahi.com/politics/update/0701/SEB200906300040.html+%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E5%8E%9F%E3%80%80%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E5%87%BA%E6%BC%94%E3%80%80%E3%80%80%E5%9B%9E%E6%95%B0&cd=9&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
 都道府県別自殺率:http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/everymonth/pdf/kenbetsu.pdf
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# by sleepless_night | 2009-07-06 22:31 | メディア

辞めるしかないのではないか。







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                                    「やはりあの・・・、その、強制ということではないことがね・・・望ましいと」






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             「日本の国旗や国歌が嫌いだというような天皇は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」
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# by sleepless_night | 2009-07-02 00:15 | その他

だから問いたい。




       図書館の水からの伝言は答えを知っている、わけないか。


     「水からの伝言」「水は答えを知っている」について、量が多いので別ブログ↑を開きました。


 
 基本的には各県立図書館の県内公共図書館横断検索でタイトルの欄に
 「水からの伝言」「水は答えを知っている」
 と入力して検索し、結果、これらの書籍が収蔵されている館のリンクを表示させ、分類がどこになされているかを調べた。
 分類が表示されていない場合は、請求記号を記した。
 分類番号と請求記号が異なる場合は、請求記号について(請求~)と書いている。
 また、其々の県立図書館内の横断検索が何らかの理由で利用できなかった場合は
 レファレンスクラブ http://www.reference-net.jp/lib_link.html
 を利用し、リンクを表示させ、上の手順でそれぞれの図書館内検索に表示させて調べた。
 大学については各県の横断検索に入っていれば、その結果を記したが、ない場合は各県の国・県立大を基本に調べた。
 全国の大学図書館の蔵書はNACSISで分かるので、そちらを参照した方が大学蔵書における2書の扱いについて知るには早いだろう。
 水からの伝言:http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA42419073
 水は答えを知っている:http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA55164849
調べたのはここ1カ月ほどの間なので、調査結果はその期間で表示されたものだ。
さらに、見落とし・見間違いの可能性は否定できない。
正確な現時点での情報が必要ならば、横断検索のページを開いたり、各市町村の図書館のページから、自身で検索してみてほしい。
ただ、この国の、私の、あなたの住む場所・地域にある図書館で「自らの伝言」「水は答えを知っている」という2つの書籍がどう分類されているのかを、おおざっぱに知るに足るだけの情報になっているとは自認している。

 ちなみに、分類番号・請求記号は日本10進分類法に従っているので、2書の代表的な分類である435.44と147で言えば、435は無機化学、147は心理学・心霊研究の分類を表している。他にも若干別の分類をしているものがあるが、それについては随時(十進分類で「~」に該当)記してある。
 つまり、435.44と分類・請求がなされていれば、私たちはその図書館で化学の図書の中に「水からの伝言」「水は答えを知っている」を目にすることになる。


 この2書籍の分類が全国でいかになされているかという面倒で実りのなさそうなことを調べようと思い立ったのは、私の住む街の図書館での出来事がきっかけだった。
散歩ついでに図書館に寄って、科学の棚で面白そうな本を見繕っていると、この2書籍が435の棚に並んでいるのが目に入った。
 意外なことで、自分が見ている棚を確認した。間違いなく化学の棚だった。
 勝手に占いの棚にでも置いてしまおうかと思ったが、占いの棚も一杯で、置く余地がなさそうだったので、その思いつきは放棄した。
 何もしないのも癪なので、本をもってカウンターへ行って聞いてみた。

 「すいません、この本の分類について知りたいんですけど」
 「はい」
 「この分類ってどうやって決まっているんですか?」
 「うちはTRC(図書流通センター)の分類に従っています」
 「でも、この本の分類はおかしくないですか?」
 「うちはTRCに従っているので」
 「それじゃあTRCでこの分類になっているのか確認してください」
 「今ですか!?」
 「はい」

 といった感じの会話を(貸出手続をしていない)カウンターの内側にいて目のあった図書館員と思しき人と交わた。
 図書館員と思しき人は日常の忙しい業務、を阻害しようとする利用者の存在にとまどいを見せ、TRCで確認してほしいと言うと明らかに不満と驚きを露わにした。まるで、私が下着の色を今すぐにトイレに行って確認してほしいと要求したかのようだった。
 私は、特別おかしな要求をしているつもりがなく、むしろ図書館職員の本業に関わるような質問をしているつもりなのに、不満げな驚きを向けられて若干憮然とした。
 図書館員とおぼしき人は5分ほどして早足で戻ってくると、もっていった本を私に渡して言った。

 「はい、一冊だけ147でした。あとはそのままです」

 私は本を受け取ると、この予想外の回答に混乱した。
 
 「これでいいでしょ」

 私は図書館員とおぼしき人の、その言葉に何と応えていいのか、他に私が問いうることがわからず(分類が違っていたのを私に渡していいのか?)

 「いえ、よくはないんですけど…」

 と混乱し俯いて手にした本を見つめたまま言った。

 でも、その図書館員とおぼしき人は、君子も図書館員もクレーマーに近寄るべきではないことを旨としているのか、私の前から立ち去り、カウンターの奥へと消えていった。
 とりのこされた私は、自分がこれ以上何をできるだろうか、よくわからないまま帰宅して、この件に関してざっと情報をあつめた。

 ブログyamada_radio_clinicで青森県の事例が紹介され、さらにそれを引いてブログcold9science@wikiでは読者に図書館での分類を確認して、科学に分類されていたなら見直すよう図書館に提言するように呼び掛けられていた。
 この呼びかけに、どれほどの人が応えて、行動に移したのかは分からない。
私の調べた結果からは、行動があったとしても私のように実を結ばなかった例が多かっただろうとは予想できる。

本の分類について、多くの図書館、特に人員に余裕のない多くの図書館ではTRCなどの分類に自動的に従って、館独自の判断というのはないのだろうと推察される。
 私の相手をしてくれた図書館員とおぼしき人、というのも、彼が図書館の正規の職員なのか、司書資格を持っているのか、私には分からない。
 利用してる図書館は中規模の市立図書館で都市部の図書館の例にもれず、ホームレスらしき人々と泣き叫ぶ・走り回る子供と勉強している学生で満ちて、それを捌くためにパートやアルバイトが多くカウンターや棚で働いている。

 生産に、もの作りに、直接結び付くようには見えない図書館に、潤沢な資金(税金)が投入されている地域が簡単に見つかるとは思えない。
 図書館をバックにした強力な政治力をもった組織が存在するというのも知らない(だけで、あるのかもしれないけれど)。
 少なくとも、私の利用する図書館が潤沢な資金に支えられているようには見えない。
 行政にお得意の妙な(先進的な?維持管理費の掛かりそうな)デザインの巨大なハコモノが計画通り作られ、それに合わせたかのように、10年以上住んでいるのに聞いたこともないような内容のキャッチフレーズが市に付けられ、そのキャッチフレーズがさらに訳のわからない方向へと表面的に街を引っ張っているなかで、図書館はキャッチフレーズに関わりのない混沌にいる。
 
 図書館は国民の知る権利を保障、自由主義社会・民主主義を維持するための不可欠の前提となる知識の獲得を保障するための施設であり、国民の精神的自由・成長・発展の基礎となるための資料を提供する。
 図書館の自由に関する宣言でもそのため
 “第一 図書館は資料収集の自由を有する。”“図書館は、自らの責任において作成した収集方針に基づき資料の選択および収集を行う。その際、(1)多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの簡単に立つ資料を幅広く収集する。(2)著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除するいことはしない。(3)図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。(4)個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。(5)寄付資料の受け入れにあたっても同様である。図書館の収集した資料がどのような思想や主張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。”
 “第二 図書館は資料提供の自由を有する”“図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。”
 と収集・提供に関して図書館自体の独立性と自律性を宣言し、これには“わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。”との歴史的背景もあることが示されている。
 さらに“検閲が、図書館における資料収集を事前に制約し、さらに、収集した資料の書架からの撤去、廃棄に及ぶことは、内外の苦渋にみちた歴史と経験により明らか”であることから“第四 図書館はべての検閲に反対する”とし、これには“ 検閲と同様の結果をもたらすものとして、個人・組織・団体からの圧力や干渉がある”と主体を行政権力から広げている。
 この点からすれば、図書館がどの分類にどんな図書を置こうが、図書館の自由であり、それに対する圧力は「悪」とされるだろう。また、過去に思想善導機関であった反省からすれば、どれほど荒唐無稽でも著者の著作への位置づけや主張に分類は従うべき、となるだろう。

 だが他方で、図書館は図書館法に基づき、図書館法は社会教育法の精神に基づき(図書館法1条)、その社会教育法は教育基本法の精神の則り(社会教育法1条)、教育基本法は“真理を求める態度を養”(2条)うことを目標の一つに掲げている。(目標には“生命をたっとび、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養う”もあるけれど、「水伝」「水答」の著者江本勝さんの提唱する“言霊による水の浄化セレモニー”は環境保全に結び付かないだろう。)
 ここからすれば、「水伝」「水答」が化学に分類されることと真理を求める態度の育成がそぐうものではない。

 しかし、教育基本法は憲法の精神にのっとっており、その憲法に図書館の自由に関する宣言は支えられている。

 こうして図書館は法律と憲法の作り出す円環の中心で自由を叫び、「水伝」「水答」の置かれるべき棚を巡る問題は図書館の現場で業者の供給する図書分類へと流される。

 
 果たして、それは図書館の自由なのだろうか。
 少ない予算、限られた人員、忙しい業務、それ故に業者に流される図書の分類。
 それが図書館の自由に関する宣言が謳った、憲法の保障すると言う自由なのだろうか。

 私は違うと考える。
 むしろ、それは自由の破壊だと言いうる。
 図書館で司書などの職員が検討した結果なら、「水伝」「水答」を化学の分類にしようが物理学に分類しようが、図書館の自由・自律・独立性が意味する表現の自由・知る権利という原則に従って最終的に(反対意見は表明しても)従うべきだと私は考える。
 その図書館の分類に納得したからではなく、表現の自由という原則を支持する以上はそれしかない。
 しかし、業者が提供する分類だから従い、業者が変えたから変更する、業者の分類が即図書館の分類となり、それ以外にないという態度を図書館が採っているなら、その図書館はもはや表現の自由も知る権利の原則も放棄している、自らが宣言したはずの分類を独立して自律的に判断しうる自由と同時に放棄しているとしか言いようがない。

 「水伝」「水答」の水という物質によって言葉の良し悪し、思想の善悪が分かるという主張と、この図書館の態度は同じだ。 
 自由な決定こそが倫理を問う前提であり、物質的に決定されるものを受け入れることが倫理ではない。
 自由を免じられようとし、考えることを放棄する。
 それは人間の倫理の否定でしかない。
 
 図書館が業者の分類に従い、それだけで「水伝」「水答」を化学に分類するなら、私はそれを受け入れない。
 だから問いたい。
 なぜ、あなたの街の図書館はこのような分類をしたのか。




参照)
COTTO TOWN図書館日誌:選書と検閲
kikulog:カテゴリー「水からの伝言」
PSJ渋谷研究所:図書館でニセ科学書籍は、たとえば147に分類してもらおう。


後日、館長を見かけたので声をかけ、話した結果、江本著のTRC分類が変更されていることが確認され、分類は変わった。
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# by sleepless_night | 2009-05-09 22:45 | メディア