ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性の※1で述べましたように、「自己愛」をめぐる補論です。
といっても、基本的には精神分析学の範疇の補足で、それに絡めて少し拡張した話をしたいと思います。 まず、自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」とは、幼児的期の自他未分離状態での、自分=世界という認識に基づき、自分の欲求が自分によって全て満たされるという全能感を意味すると述べました。 自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」の意味はこれでよいとして、考えてみると、そもそも「自己」も「愛」も、このような否定的な意味合いを持っていないのにどうして「自己愛」として二つの言葉が組み合わさると否定的な意味に使われてしまうのか?疑問が沸きます。 これは前回の※1で述べましたが、「愛」と言う言葉がリビドー(性的欲動・衝動)の訳語として当てられてしまったことが第一の原因なのですが、「自己愛」と言う言葉には精神分析でも悪い意味ではなく、寧ろ必要なものとの意味もあるのです。 それは、自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」のような幼児的なものと区別するために、「健全な自己愛」と呼ばれます。 現代アメリカの精神科医O・F・カーンバーグによる二つの区別を見てみます(※)と [幼児的な自己愛]非現実的/正常な自己評価の欠如/他人に助けを求められない/他者を脱価値化/冷たい/無遠慮で過大な要求/非現実な愛の希求 [健全な自己愛]より現実的/安定した自己評価/愛情・信頼感/他者との関係が安定/暖かい/現実的な要求/現実的な愛の希求 としています。 「幼児的な自己愛」は自分の全能感に基づくので、非現実的で、実際の自分の力を無視した誇大感をもち、他者を道具のように使い、過大な要求をすることになると考えられます。 これと、「健全な自己愛」はどう違うか、どうして同じ「自己愛」なのに対照的な特徴を導くのか? それは、自己愛性パーソナリティ障害の原因で前回に述べたことと一致すると考えられます。 繰り返しますと、誰しも幼児の段階では、全能感を持つが、やがて自分と他人(保育者などの、自分の欲求を満たしてくれていた人)が違う存在であることを認識し、その不安・恐怖の中でのその事実の認識・受容が上手くできたかどうかが関係すると考えられます。即ち、その自分と他人の分離の認識・受容時の環境が十分に保育的で安心できるものではないかったり、褒めたり、出来たことを幼児と一緒になって反芻し確認してあげる人がいないと、耐え切れずに全能感に退避してしまう。また、適当な手本の存在がないと、全能感に源を持つ幼児の力が全能感のままに残ってしまうと考えられます。 これが「幼児的な自己愛」だとすると、「健全な自己愛」は自他の分離を認識・受容するときに十分に保育的で安心できる環境があったり、手本となる存在が近くにいたことで全能感が全能感のまままでは残らずに、その後の自発性の源として収まった結果だとなります。 このように、二つの「自己愛」は同じものであったのに、一方は発展の機会を逃し、他方は時期と発展の過程が上手く合致したことで違いが生まれたと考えられます。 但し、留意すべきは、「健全な自己愛」にも「自己愛」が必要だと言う点だと考えます。 ここで言う「自己愛」は「幼児的な自己愛」という意味ではありません。 文字通りに、「自分を愛すること」です。 詳しくは後の「愛」についてと言うブログ自体の本論的な話に回しますが、ここでは日本でも有名なエーリッヒ・フロムの言葉(※1)を引用して説明に当てさせてもらいます。 “他人に対する態度と自分に対する態度は、矛盾しているどころか、基本的には連結しているのである。中略。自分自身に対する愛の態度は、他人を愛することのできる人すべてに見られる。中略。もし、ある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身を愛している。もし、他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。中略。利己主義と自己愛とは、同じどころか、全く正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。中略。自分自身をあまりに愛しすぎているかのように見えるが、実際には、真の自己を愛せず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのである。” フロムの述べている「自分自身への愛」(自己愛)という広い範囲の中にカーンバーグの言う「健全な自己愛」も含まれると考えられますが、正確にはフロムの言う「自己愛」は“自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定する”という“肯定”の意味合いが強いものです。 そして、この“肯定”こそが、「幼児的な自己愛」という全能感と「健全な自己愛」とを分けると考えら得れる育成環境での幼児の安心感を支えるものだと考えられます。ただし、“肯定”といっても単純に認めることを意味するのではないと考えられます。なぜなら、単純に幼児の行動を何でも認めることとすると、幼児が適切な手本を持たず、無制御に全能感を発揮してしまい、「幼児的な自己愛」にとどまってしまうと考えられるからです。“肯定”は、「健全な自己愛」のための基礎であり、それは、幼児の全能感を適当な目標へと向かわせるための支援や制御の基礎とも言える広いものだと考えられます(“肯定”感があるから、自分が自分の思うように行動できると同時に、保育者などからの注意なども受け入れる精神的な余裕がある。)。 この“肯定”の意味するものを考える上で『世界で一つだけの花』を例にしてみると分かり易いかもしれません。 この曲の最後に“No1にならなくてもいい、もともと特別なONLY ONE”とあります。 この歌詞は破綻しています。その破綻振りが、“肯定”や「自己愛」という言葉をめぐる混乱と合致しているので、理解の助けになると考えます。 さて、どこが破綻しているかといいますと、“特別なONLY ONE”という部分です。 この曲の歌詞全体を見てみますと “この中でどれが一番だなんて、争う事もしないで”“どうしてこうも比べたがる 一人一人違うのにその中で一番になりたがる”と言うように、個人個人を比較する以前の段階(比較不能の段階)で認めようとするメッセージを伝えようとしていると解釈できます。 にもかかわらず、“特別な”“ONLY ONE”という比較を前提とした言葉を最後の最も重要な部分で使ってしまっています。 “特別”というのは、文字通り、他とは“特”に“別”であることです。比較表現の最たるものです。 “ONLY ONE”とは“ONE”であること、一つしかないことを意味し、一つしかないことに価値を求める発想です。一つしかないことに価値を求めるということは、一つではないと価値がないことを意味します。そして、一つしかないといっても、ただ一つしかないことには価値は生まれず、それが求められる・需要があるのに一つしかないことに価値を見出すことを意味します。“ONE”という数詞を使っている段階で、数という抽象化の最たるものを使った段階で、比較以前の話にはならないのです。(※2) 比較する以前の段階、比較不能の段階での個人を認めることは、フロムの言う“肯定”の概念と一致すると考えられます。 要は、自分が存在するということだけ、それのみを根拠として、自分を“肯定”する発想です。 “ONLY ONE”という間違った言葉の代わりに入れるとしたら、“ONLY BEING”でしょう。 ただ“BEING”(在ること)によって“BEING”(在ること)を認める・受け入れる、それが“肯定”です(在ること・生きるということ、というこれ以上遡りえない事実の“肯定”)。 その“肯定”が与えられること、保育者によって与えられた“肯定”によって、自分自身で自分を“肯定”できること、それがフロムの言う「自分自身を愛する」ことであり、それがないと他人を愛することができないと言うのです。(自分の在ること・生きることに“肯定”感がないと、その自分のうちの空虚感・安心感を埋め合わせるために必死になってしまい、他者を“肯定”する余裕がなくなる) 歌詞の最後の破綻によって『世界で一つだけの花』は、聞いた人を混乱させてしまいました。 まず、歌っている当人(SMAP)のメンバーが「ONLY ONEになるように努力するべきだ」と言ってみたり、国会議員がこの歌を持ち出して若者を非難する発言をしたと、記憶しています。(※3) 彼らは、“特別な”と“ONLY ONE”という最も重要な言葉の間違いと歌詞全体のメッセージ(比較以前・不能の段階での話し)の矛盾によって混乱し、あたかもこの曲が「幼児的な全能感」を認めるかのような誤解を持ってしまった(最後の間違った歌詞に影響された)のでしょう。 そして、この様な誤解は、はっきりと意識されないものの、かなりの人が持っているのではないでしょうか。“もともと特別”など、世襲制の天皇家や王家、一部の天才くらいだというのは、落ち着いて考えれば分かるはずですし、もしそこに奇妙さを感じなければ、それこそが「幼児的な自己愛」だと言えます。カーンバーグの示したように、非現実的で、正当な自己評価を欠きます。 曖昧な誤解となし崩し的な受け入れが同時にあったのでしょう。 このなし崩し的な受け入れ、その年最大のヒットを生んだ程の需要が現代社会にあることは看過できないものです。 さらに、ストーカーは現代の犯罪であり、その心理類型の一つであるパーソナリティ障害も現代の疾患であることから、関係は否定できません。 つまり、“肯定”感の不足です。 特に、子供を取り巻く環境での“肯定”感不足は深刻かもしれません。 現在の文科大臣は“ゆとり教育”が大嫌いなようで、競争を教育に復活させることが信念のような人ですが、ある意味で正しく、ある意味で間違っていると私は考えます。 つまり、“肯定”感というのは、比較以前・不能の段階の話ですから、競争とは次元の違う話です。順番としては“肯定”が競争の先になりますので、学校で“肯定”を目指すならまずは競争は後回しになります。 しかし、社会の準備段階での学校教育に競争がない、特に運動会で順位を付けないなどというのは馬鹿げていますし、学校教育の役割を放棄しています。 学校は学科や体育などの教育が第一で、教員もその訓練を受けてきています。学科や体育を集団の中でやることで、他者の中の自分を認識する、比較や競争の場、そこでの試行錯誤を通じて“No 1”や“ONLY ONE”を探る場です。 しかし、“肯定”感、「自己愛」がない(“ONLY BEING”を認められる経験がない)と「健全な自己愛」へ育たないように、競争をする、他との比較に耐えるためにも“肯定”感や「自己愛」が必要になります。 それが不十分な子供が、単一の価値観による競争の覆う社会で生きれば、不安や恐怖ばかりが強調されて、「幼児的な自己愛」への逃避へとつながると考えられます。 競争のように他との比較がなくとも、やはり全能感がそのままになり「幼児的な自己愛」につながると考えられます。 どちらもパーソナリティ障害の養育環境要因として挙げられているものです。 この学校が学校でいられない社会、子供が子供でいられない社会が現代の犯罪と現代の疾患を生むのに重要な役割を果たしていると考えることは少なくとも否定はできないでしょう。 最近、この人生への“肯定”感の不足を埋め合わせようと、“肯定”を与えてくれる実際の保育者に代えて、国家を持ち出されようとしています。家庭も、学校も、会社も、与えることができなくなった“肯定”感を国家によって補償しようとするように、私には見えます。 戦前に、天皇が国民の父親であり、国民はその赤子であるというのと同じです。 「自己愛」をめぐる混乱、『世界で一つだけの花』の破綻、これらを認識し整理し、手を打たなくては、国家意識の宣揚を激化させ、かなり危険な状況をもたらすでしょう。 “肯定”感不足の不安感を紛らわし、埋め合わせようと、過去の汚点をなかったものとしたり、過剰に過去を賛美したりする、複雑で、汚れたり・ぼやけたり・輝いたりを併せ持つ、光を当てる角度や見る位置で違う歴史の中の汚点を拒絶し、輝きだけを見ようとする「幼児的な自己愛」に浸ろうとするこの流れに呑まれれば、非現実的で誇大的な政策が内外ともに対してなされ、結局、過去を繰り返すことになるはずです。 ※)『境界例と自己愛の障害』(サイエンス社)井上果子 松井豊著 ※1)『愛するということ』(紀伊国屋書店)エーリッヒ・フロム ※2)この曲の歌詞にはもう一点、おかしなところがあります。 それは、人を花に例える部分です。人には色々な人がいて、誰一人同じ人がいないことを表すのに、“いろんな花”“違う種”と花の中の様々な種類と人間の一人一人の違いを持ち出していますが、これは傲慢です。 人間を花に例えるなら、花の中でも向日葵なら向日葵、コスモスならコスモスと一つの種に収めて例えなくてはなりません。同じコスモスでも、一つ一つが別の存在であり、(市場的な)価値とは関係なく(むしろ市場的にはマイナスでも)違いがある。同じコスモスという種類でも、一輪一輪の花弁の大きさや形や並びの違い、丈の高低や、葉の付き方の違い、それらの違いが人間の一人一人の違いに相当するのです。そのようなコスモスならコスモスという一種の中で、殆ど見分けがつかないし、市場的には意味のない、無価値な差異を持ちながら、生きること・在ることの“肯定”を歌わなくてはならないのに、花の種類の違いと人間一人一人の違いを重ねて逃げています。 人間を花という植物に例えて謙虚な、「人間も自然の一部にすぎない」との主張を採るふりをして、花の種類の違いと人間という一種の中の違いを重ねるという傲慢さ、人間中心主義を露呈しています。 ※3)この二つの発言の記憶は、本当に記憶であって、何らかの記録を参照していません。 間違いなどの指摘がありましたら、謝罪して、訂正をするつもりです。
by sleepless_night
| 2005-07-30 11:15
| ストーカー関連
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