はじめに)
作家の坂東眞砂子さんが、子猫を投げ捨てて殺していることについて。 私は、猫が何匹死のうが、特別な感傷を持ちません。 猫を殺していること自体を非難する意欲もありません。 しかし、彼女が語る思想と行いの無節操さについては、強い批判をしたいと思います。 (1)基本分析 日経新聞8月18日夕刊 猫殺し告白初出 全文 “こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。 世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。 動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。 そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。” →<イントロ> “家の隣のがけの下がちょうど空き地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。 タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。 草ぼうぼうの空き地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。 子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。 自然に変えるだけだ。” →<エクスキューズ1>:生活環境へ実質的無害であることによる言い訳。 “子猫殺しを犯すにいた多野は、いろいろと考えた結果だ。 私は猫を三匹飼っている。 みんな雌だ。 雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。 残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。 当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。 タヒチでは野良猫はわんさかいる。 これは犬も同様だが、血統付きの犬猫でもないと、もらってくれるところなんかない。” →<エクスキューズ2>:実際問題としての出産と子猫貰い手のなさによる言い訳。 “避妊手術を、まず考えた。 しかし、どうも決心がつかない。 獣の雌にとっての「生」とは、盛りの付いた時にセックスして、子供を生むことではないか。 その本質的な生を、人間の都合で奪い取っていいものだろうか。” →<イシュー1>:「生」の本質=セックス&出産 説、本文の中心思想。 “猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。 猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。 だが私は、猫が飼い主に甘える根源には、えさをもらえるからと言うことがあると思う。 生きるための手段だ。” →<カウンター1>:予想反論に対し、坂東さんの猫観に基づく事前反論。 “もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。 しかし、それは飼い主の都合でもある。 子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。 だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。 私はこれに異をとなえるものではない。” →<カウンター2>:同上。 “ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。 子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。 避妊手術のほうが、殺しと言ういやなことに手を染めずにすむ。 そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。 どっちがいいとか、悪いとか、言えるものではない。” →<イシュー2>:「生」の本質=セックス&出産 説 未受精卵子=新生児猫 “愛玩動物として獣を買うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。 獣にとっての「生」とは、人間の干渉無く、自然の中で生きることだ。” →<イシュー3>:「生」の本質=セックス・出産説。 “生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといって生死に関わることでない限り、ひとが他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。 人は神ではない。 他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。 どこかで矛盾や不都合が生じてくる。 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。 生まれた子を殺す権利も無い。” →<イシュー4>:他生物所有権否定。 “それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。” →<イシュー5>:一匹の成猫の「生」>複数の新生児猫の命 “もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。” →<エクスキューズ3>:自己憐憫。 以上のように幾つかの部分に分類して、見えてくる特徴は三つ。 一つ目は、<イシュー1~3>に現れる根本思想、「生」の本質=セックス・出産説。 これは、“生殖機能とは、ただ身体器官のみのことではないと思います。それは生き物として、生きる意欲、活力、発展、成長といった豊穣性に通じる源”(週刊朝日) “不毛とは、豊穣の反対を指す。 種無し、不妊、生殖活動の枯渇である。”(週刊現代) “陰のうと子宮は、新たな命を生み出す源だ。 それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を絶つことにもつながる。”(毎日新聞9/22)でも繰り返されている。 二つ目は、<イシュー3・4>や<カウンター1>に現れる、他生物所有権否定、他生物を飼うこと=人のわがまま との認識。 これは、“哀願動物として生き物を「所有」する人間の傲慢さです。”(週刊朝日)で端的に表されている。 三つ目は、<エクスキューズ2・3>に現れる、自分への甘さ。これは指摘した部分以外に、理論構成自体の甘さ(酷さ)にも現れている。 これについては、他の文章で端的に現れているものを用いて以下で述べる。 (2)オニババの無痛文明論 ①『オニバ化する女たち』(光文社新書)三砂ちづる著 “女性として生まれてきたからには、自分の性、つまり月経や、性経験、出産といった自らの女性性に向き合うことが大切にされないと、ある時期に人としてとてもつらいことになるのではないか、ということです。 表現は怖いのですが、オニババ化への道です。” “このままほうっておけば、女性の性と生殖に関わるエネルギーは行き場を失い、日本は何年かあとに「総オニババ化」するのではないか” “性と生殖に関わるエネルギー”を使わずに軽視してきた「オニババ」化が進みつつある戦後の女性は、月経血をコントロールできなくなり、病院出産で子育てが下手になった。 それを改善するには、“しっかりとからだに向き合って自分が変わっていけるような、「原身体体験」としての出産経験“(「変革に関わるような出産経験」)や、“魂の行き交う場、霊的な経験”“自分の境界がなくなるような、宇宙を感じる経験”であるセックスが必要である。 セックスと出産をすれば女性の問題は解決するという話、身体論の一種。 ②『無痛文明論』(トランスビュー)森岡正博著 “無痛文明とは、「身体の欲望」が「生命のよろこび」を奪い取っていくという仕組みが、社会システムの中に整然と組み込まれ、社会の隅々にまではりめぐらされた文明である。そこでは、快と刺激と快適さを生み出す様々な社会装置が網の目のように整備され、それらに取り囲まれることによって、われわれは「生命のよろこび」をどこまでも果てしなく見失っていく。” “無痛文明が、本物の苦しみを内部化し、無化していくやりかたとして、「存在抹消」「目隠し」「解毒」「予定調和」がある。” “苦しみやつらさの原因を消滅”させる「存在抹消」。介護のつらさをなくすために安楽死させ、望まない児を育てる苦しみを無くすために中絶するなど、“今存在する苦しみを消すだけでなく、これからわれわれを襲うであろう苦しみをあらかじめ用意周到に予測しておいて、その苦しみを将来生み出す原因となるであろうものを、いまここで予防的に次々と抹消していく”仕組みへと発達する。 “苦しみの原因を、自分の見えないところに追いやる”「目隠し」。汚い路上生活者を郊外の施設に収容し、さらには“目の前にそれがあるのだけれども、そんなものはないんだと自分にいいきかせる。それを続けていくと、目の前にほんとうは見えているのだけど、見えていないという心境にいたる”までに洗練されていく。 “「苦しみ」というものが本来もっている、人間を否応なく巻き込んでいく力”を「解毒」し、“理性によって単に描写されるだけ”のものとする。 その一方で“苦しむ人々を助けることが、彼らのためにもなるし、それ以上に自分自身のためにもなる”と「予定調和」で援助行動が行われる。 個人が内面化し、これらが仕組みとして社会に組み込まれることで、無痛文明で人々は“自己を崩壊させることなく、快適な生を維持できるようになる。” 無痛文明を支える「身体の欲望」とは、“現状維持と安定を図る”“人生・生命・自然を管理する”ことで“快を求め苦痛を避け”、“他人を犠牲にする”までして“すきあらば拡大増殖”しようとする欲望の総称。 その身体から生じる“どうしても抑えきれない欲望”が、“人々のやりとりや、思考や、制度の中で鍛ええげられ、お互いに織り合わされ、やがて奔流となり、個人の力では統御できないような巨大な力をたくわえて人々を動かし社会を水路付け、人々の身体に流れ込み、流れ出し、人々の思考と行動を貫き通す。” 無痛文明は私たち自身の「身体の欲望」に根ざして生成し続ける。固定した根を持たず、絶えず流動し、変貌し続ける無痛文明を生み出すのは自分「身体の欲望」である。 したがって、私たちは自縄自縛の状態、常に自らが求めて縛り付ける状態から問いを発し、闘わなくてはならない、極めて不利な状況にあると言える。 ③オニババと無痛文明論の野合 (1)で述べた特徴の第一、「生」の本質=セックス・出産説は『オニババ化する女たち』と同じ。 とにかく女性は性向と出産をすることが最重要であり本質との考え方。 そして、その「生」の本質に対し、好ましさや快適さを求める行為に付随する不都合に予防的な措置をとり(避妊手術)、それが猫のためにもなると考えることは“「存在抹消」「目隠し」「解毒」「予定調和」”という無痛文明の表れに他ならない。「身体の欲望」という面倒を無くそうとする欲望がセックスによる出産という「生命のよろこび」を奪い、生命を生き切ることにはならないという文明論的な発想。 “避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めず無すむ。” “それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。”(日経8/18) “存在意義の根幹となっている生殖機能を奪い取り、それが正しいのだ、と晴れ晴れした顔でいってもいいものでしょうか。”(週刊朝日) 自分は、「生命のよろこび」を奪う無痛文明と戦っている。 “痛み、悲しみも引き受けて”いるのだ、と。 無痛文明を指弾する文明論とオニババ化を唱える身体論が野合するとき、坂東眞砂子さんの上記転載した思想が生まれる。 (3)耐え難いまでの自己憐憫 ①野合の醜さ 野合は野合でしかなく、一人の学者が主著として世に問うた思想とは違う。 坂東眞砂子さんが『無痛文明論』を引いているわけではないので、そこから彼女を批判することは適切なものではない。 しかし、言葉を生業とする人間としての二人を比較すると、立ち位置・問題意識のありかたは同じ場所なのに、坂東眞砂子さんが行き着いた場所はあまりにも自分に甘い。 無痛文明論でも、避妊を苦痛の予防的な排除として非難しています。問題を人間の目に触れなくして、快適さを保つという無痛文明の表れだと考えるからです。 しかしそもそも、ペットについて飼うこと自体が人間社会や自分の孤独から逃避する無痛文明の所産であると考えられ、無痛文明論の観点からは、坂東さんの出した結論(ペットを飼って自由に交尾・出産させるが、増える子猫を飼うのも貰い手を捜すのも負担だから殺す)を支持できないと考えられます。 無痛文明論は自分自身を棚上げにしないことを旨として、議論を一貫させています。 無痛文明を基礎付けるのは自分も持つ「身体の欲望」であり、無痛文明と戦うとは他者や社会と闘う以前の自分との戦い、自分の欲望を棚上げにして社会や文明を問題にすることではないというのが『無痛文明論』に現れる森岡正博さんの一貫した姿勢です。 ですから、仮に森岡さんの立場に反対するとしても、その意見は尊重でき、議論をするに値するものだと言えます。 対して、坂東さんの話は、酷く甘い、恣意的に選んだペットの「生」の本質を守ることで癒される自分の「身体の欲望」の棚上げ、引け目を解消するための身体論と文明論の都合のよい利用、オニババと無痛文明の野合であり、ひとつの尊重に値する議論とは評価できる水準にありません。 ②意味の分からない話。 簡単な事実の確認をしておきますと、坂東眞砂子さんは猫ではないと言うこと。 彼女は猫を殺す人間であること。 彼女が涙枯れ、体中の水分を出しつくし、餓死したとしても、「だから何?」とうこと。 殺される猫にとっては「その悲しみは、だから何になるの?」。 “ペットを溺愛する行為の中には、人間との関係は砂漠化しているが、心の中までも愛の不妊状態にはしたくないと言う思いもある。飼い猫に手術を施し、不妊状態にさせるのは、その希求をも踏みにじり、殺してしまうことになる。それは自分自身に不妊手術を施すのと同じ気分だ。” “不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穽を前にする気分になる。”(週刊現代) 繰り返し確認しますが、坂東眞砂子さんは殺される猫ではない。 坂東眞砂子さんは、自分の“心の中までも愛の不妊状態にしたくない”ために猫を殺すのである。 猫に強烈な自己投影をしたうえで、区別が付かなくなって、人間である自分の“愛の不毛”を嘆いている話から、なぜか猫の“愛の不毛”を防ぐ話になります。 「ペットの猫を不妊にする→自分が不妊=不毛になった気分になる」 これを避けるために彼女は猫を殺している。それだけの話です。 だから、坂東眞砂子さんはすぐさま、今飼っている成猫も崖に投げ捨てて、セックスしてればいいだけの話になるはずです。 鏡を見て「私は猫ではない」と十回となえて、セックスすれば終わりです。 ③「敏感な私」に酔える鈍感さ 彼女の猫殺しは、「生」の本質=性交・出産論が基礎にあります。 それが、自分がセックスして出産することの代わりに、猫にセックスして出産させている意味の分からない話を、社会の問題として語らせます。 “心の荒廃した小学生を含む青少年の犯罪は増加の一方だ。”(週刊現代)と嘆いてまで見せます(実際は少年犯罪は減っているか横ばい状態)。 “人を愛するのが難しい。だから、猫を飼っている”(毎日新聞) のは、まずもって坂東眞砂子さん本人の話であって、社会を主語に語って、自分の問題を希釈するのは自己欺瞞に過ぎない。 彼女は自分の内心の問題を癒すために猫を飼い、そして、独自の思想に基づく判断によって新生児猫を殺している。 子猫を崖に放り投げ殺すとき“痛み、悲しみ”があるかもしれない。 しかし、それは甘美な“痛み、悲しみ”であり、彼女自身の「生」を充たすために行われているものに過ぎない。 作家として、どうして最後まで「私」を主語に語らないのか。 それとも、社会を主語に語ることで受ける非難の“痛み、悲しみ”も自身の「生」の充実させる手段としているのか。 作家として、「子猫を殺す痛みと悲しみが、私を充実させるのだ」と言えばいいのです。 世間は今よりも激しく罵るかもしれません。 しかし、そのほうがよほど誠実で、整合しています。 さらにいえば、その反社会性は芸術家としての特権ですらあるかもしれません。 続き⇒猫を殺す悲しみが、私を充実させる。 続編
by sleepless_night
| 2006-10-06 21:58
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