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トイレの神世界

 “いやな話であるが、トイレで自殺する人は意外に多い。ある自殺志願者がトイレで死のうとしたが、あまりの汚さに、
 「こんな汚くて、臭いところで死ぬのはいや」
 と、きれいにしてから死のうとトイレの掃除を始めたところ、気持ちが落ち着き、自殺を思いとどまったという。”
           『トイレと付き合う方法学入門』鈴木了司著(朝日文庫)

              *

(1)素手・素足でトイレ掃除
 “警察官のモラル低下が問題視されるなか、新人教育に、素手と素足で行うトイレ掃除を取り入れる警察学校が増えていいる。もともとカー用品販売チェーン創業者が社員の意識改革のために始めた取り組みだが、実施した警察学校の共感は「警察官に必要とされる思いやりの気持ちが芽生えた」などと評価。卒業生が自発的にトイレ掃除を行う学校もあり、「便器とともに心も磨く活動」として一役買っている。
 広島県警察学校(広島市南区)では毎週通うと金曜の授業後、約480人の初任科生が、校舎や寮のトイレ15ヵ所で清掃活動に取り組んでいる。真冬にもかかわらず、生徒たちは素手に素足。汚れがみえない便器の裏や排水溝の置くまでを小さなタワシで一時間あまりかけて磨き上げていく。
 県警はこれまでにも、暴走族の構成活動としてトイレ掃除を取り入れてきたが、「つらいことに積極的に取り組む姿勢を身につけさせよう」という共感の西岡達也警部(43)の発案で、昨年4月から警察学校でも導入した。
 初めは清掃をいやがっていた生徒たちも、回を重ねるにつれて積極的に取り組むようになったという。
 初任科生の内田幸恵さん(26)は「最初は便器に直接触れることに抵抗があったが、汚れを落としていくたびに達成感が生まれた」。信好剛裕さん(25)は「トイレを使うとき、掃除をする人のことを考えてなるべく汚さないよう心がけるようになった」。
 西岡共感は「気づかずに汚しているトイレを磨くことで、警察官に必要な他人を思いやる気持ちを持つようになり、訓練でも自発的に行動するようになった」と手ごたえを語る。
 山梨警察学校(山梨県甲斐市)も3年前から、平日の朝夕2回、生徒約30人が交代でトイレ掃除を行っている。
 きっかけは、当時の副校長がトイレ掃除活動を広める「掃除を学ぶ会」の県代表を務めていたこと。この元副校長は「人とのいやがる仕事を率先してする警察官に育ってほしいと話ている。
 鹿児島県警察学校(鹿児島市)は平成18年11月から、初任科生を対象とする年2回のトイレ掃除を取り入れた。
 課外活動ではあるものの、「お世話になった学校への感謝の気持ちを示そう」と、警察学校の同期同士で自主的にトイレ掃除を行う卒業生もいるという。
 各校の取り組みについて、警察庁人事課も「体験型教養の一環として、奉仕の精神などを養う有効な取り組み」と評価している。”
 http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080102/trd0801022135003-n1.htm 
 産経新聞 2008.1.2.21:34

 トイレを素手・素足で磨くという、掃除の目的からすると無駄・無意味なこの行為が、産経新聞記者・読者の琴線に触れただろうことは容易に想像される。
 産経新聞記者・読者以外の多くの人にとっとは、理解しがたい愚行に思われるし、赤痢・チフス・A型肝炎・ポリオなどの口糞感染症予防という点からも悪夢のような行為だろう。
 しかし、この馬鹿げた行いの意味を考えることは、警察(官・組織)を理解する上で有用なものだと思われる。

(2)スカトロ・イニシエーション
 ①イニシエーション

 イニシエーションは、宗教学・人類学で用いられる概念で、日本語では「通過儀礼」と訳されることが多い。
 イニシエーションは年齢別集団が社会秩序維持に重要な役割を果たす社会において機能するので、形骸化した成人式からも分かるように、現代社会では見られなくなっている。
 イニシエーションは大きく、成人時に行われるものと、新しい資格を持つことを確認するものとに分かれる。前者では、成人時の割礼や抜歯など、後者では洗礼や聖職資格取得の修行などがあげられる。
 フランスの人類学者ヴァン・ジュネップはイニシエーションが「分離」「移行」「合体」の三つの場面からなると分析し、特に「移行」が重要な役割を果たすことを示した。
 アメリカの文化人類学者ヴィクター・ターナーは「移行」が俗から聖へと至る過程であると指摘し、イギリスの人類学者エドモンド・リーチは「移行」の場面をマージナル・ステージと呼び着目し、それが聖なる特徴を持ったカオスの時期だと指摘した。
 
②トイレの聖なる二面性
 “今でこそ日本人には、トイレは「御不浄」すなわち汚いところとのみとらえられ、逆にそれだからこそ清潔(衛生的)にしておかねがならないとも考えられているが、かつては厠が聖なる場と考えられていた場合が多々あった。それはカミを祀る、浄なる場でなければならなかったのである。(中略)それは大晦日の大祓ののち、元旦にかわやに灯明をあげて祀る神であり、ところによっては、わざわざそこで年取りの行事をするところもあった。”
 かつてトイレが聖なる場所とされたことは、トレイが清潔で心地よい空間であったために人々が親しんでいたとことを意味しない。
 聖性は、マイナスとプラスの両極を備え、ひきつけると同時に拒む矛盾した性質を備えている。
 トイレは排泄という人間の境界を脅かす行為であり、出す糞尿は異物である。それは、不潔であり、不浄であるが、不浄は不潔とはことなり、プラスとマイナスの二面性を持つ。つまり、聖性に関わる浄・不浄と清潔・不潔はイコールとなるとはいえない。端的な例として、聖なる河ガンジスを見れば、死体やゴミの浮く濁った水は不潔だが、そこで沐浴するヒンデゥー教徒は浄化される。
 また、地理的にも、かつて(といっても100年も前ではないが)トイレは独立して戸外にあり、生活の中心からは離れた異界として存在した。

③学校のトイレ
 学校は社会に出るまでのイニシエーション期間だといえる。
なかでも、全寮制(=「分離」)で朝から晩まで指導官が生徒に付きっ切りで一挙手一投足を指図する警察学校は、イニシエーションの典型のような体験を与える。
 イニシエーションは、抜歯や割礼や苦行のような苦痛・困難を伴い、「移行」においては日常の俗界とは異なる聖なる混沌を体験する。祭りのときに、裸になったり、墨・泥などで粉飾したり、仮装・女装をしたりなどが象徴的にそれを表す。
 
 警察学校とはイニシエーションの時空であり、その中でも周辺的で不浄な異空間であるトイレこそ「移行」の象徴的な場所だといえる。
 そして、日常(を支配する観念)では否定され・絶対にありえない素手・素足でトイレを掃除する行為は「移行」の聖なる混沌を明確に表現している。

(3)記事解説
 あらためて、(1)の記事を読むと
 トイレ掃除の効果として指摘されているのは 
 “察官に必要とされる思いやりの気持ちが芽生えた”
 “つらいことに積極的に取り組む姿勢を身につけさせよう”
 “トイレを使うとき、掃除をする人のことを考えてなるべく汚さないよう心がける”
 “気づかずに汚しているトイレを磨くことで、警察官に必要な他人を思いやる気持ちを持つ”
 “人とのいやがる仕事を率先してする警察官”
 とされている。(もちろん、答えた生徒の中には内心とは別に、聞かれたのでもっとららしいことを答えてみたとする人もいるだろう。)
 する生徒もさせる教官も“つらいこと”に耐え“思いやり”を持つことを、トイレ掃除から学んだと述べている。
 
 だが、この生徒たちは駅のトイレや公衆便所や施設のトイレを素手・素足で掃除しているわけではない。
 彼ら・彼女たちが“思いやり”を、学んでいるのは警察という、これから自分たちが属することになる組織の中にすぎない。 

 トイレはどれほど磨いてもトイレである。不浄であり、大好きで嘗め回したい快楽の園ではない。警察のボーナスがトイレ掃除となるわけではない。
 つまり、彼ら・彼女らにとって嫌なことに変わりはない。
 そして、トイレ掃除は素手・素足でする必要もないし、掃除の目的と素手・素足は関係がないことにも変わりない。
 素手・素足のトイレ掃除は、この無意味・理不尽な“嫌なこと”を(変えようとするのではなく)受け入れさせ、“思いやり”ある人間を作る、と言う。

 要するに、このイニシエーションを通過することで得られること、イニシエーションが求めることは、「警察組織の中で嫌なことも受け入れて、トイレ掃除を経験した仲間同士思いやろう」ということだ、と解釈できる。


 裏金作りはいやだ、知らない人の名前で領収書を書き・印鑑を押す作業は明らかに犯罪だ。警察官は犯罪を取り締まる側の人間なのに、犯罪に加担しなければならない。でも、これも警察組織に必要なことだと上司は言う。嫌なことだけど、受け入れなければならない。いやだった、素手・素足のトイレ掃除のように。

 仲間が事故を起こしたら、“思いやり”を示さなければならない。素手・素足のトイレ掃除で学んだように。

              *

 トイレ掃除をして自殺をやめた例があるとして、それは「トイレ」掃除が効果的だったのではなく、トイレ「掃除」が効果的だったと考えるのが妥当。
 トイレでなくとも、掃除をすれば達成感だってあるし、体を動かし・視界を広げたことで浄化感もえられるだろう。 
 トイレ掃除や素手・素足に粘着するのは、上記のようなイニシエーションを経させること以外に無意味だし、馬鹿げている。
 さらに、イニシエーションだとして何を試し・伝えようとしているのが重要だ。教官が「本物の神」を見たといって、十万円のお守りを買わせたりするかもしれない。また、イニシエーションを経ることで、そこで形成された自我に固まり柔軟性を欠いたり、集団への一体化の反作用として排外的・自集団中心の姿勢を身につける危険もある。
 そしてもし、イニシエーション的な意図を欠くなら、支配欲とスカトロ趣味でしかない。



 
引用・参照)
 『イニシエーションとしての宗教学』島田裕巳著(ちくまライブラリー)
 「浄・不浄の社会行動」小西正捷著(『スカラベの見たもの』TOTO出版 収録)

 補論
 『新宗教事典』『新宗教・人物・教団事典』(弘文堂)
 『会社のカミ・ホトケ』中牧弘充著(講談社選書メチエ)

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(補論)会社のトイレ
一燈園

 明治38年に西田天香によって創始された新宗教。ただし、宗教とは称しておらず、宗教法人ではなく財団法人懺悔奉仕光泉林(昭和4年。京都山科)と登録。保育園から大学まで所有。光泉林では「同人」とよばれる300人ほどが共同生活をし、印刷・出版・農業等に従事。「研修会」と呼ばれる活動も実施。
西田は明治5年に滋賀県長浜の紙問屋に生まれ、20歳のときに北海道干拓事業に参加。そこで出資者と耕作者との対立に悩み、帰郷。長浜の愛染堂に篭り断食4日目未明に大悟し、下座・奉仕生活に入る。争わずに生きる生きかたとして無所有・下座・懺悔奉仕を提唱。大正10年の著作『懺悔の生活』がベストセラー。戦後昭和22年から参議院議員を一期務める。昭和43年死去。
一燈園は神仏自然を包含するものとしての光を礼拝、仏教(西田の生家が熱心な真宗門徒。南禅寺で参禅経験。用語に双方の影響が見られる。)とキリスト教の影響、汎神論的傾向がある。
修行としては、一切の執着心・利己心を断ち切り、光(おひかり)に身を捧げつくす、路頭托鉢がある。托鉢のなかでも特に、自らを生存競争の最下位に位置づけ何者も損なわない心を養うため、他家を訪れて便所掃除をさせてもらう六万行願が重視されている。

②呼ぶなら、ひゃくばん・ひゃくばん
 創業者の鈴木清一が一燈園の生活に身を投じた経験を持ち、創業したケントク(靴クリーム製造)、ダスキンともに自身の信仰をビジネスに強く反映させた。
 ダスキンは「祈りの経営」を標榜し、社員を「働きさん」(社長が「働きさんナンバー1」として、入社順に番号をつけ社員の平等を示す)、給料を「おさがり」、ボーナスを「ご供養」と呼ぶ。
 社是・社訓に相当する「ダスキン悲願」「ダスキン一家の祈り」の読誦のほか、一燈園のおつとめがおこなわれ、入社式には一燈園の当番(最高責任者)が臨席、研修では一燈園の六万行願も行われる。
 
③会社バカとイニシエーション
 “俗なる仕事や組織に聖なる意味を付与すること、それが会社宗教のおおきな役割”
 近代資本主義を体現するようなビル郡の屋上や谷間には、会社の神社があり、神職を呼んで(松下では専門の社員がいる)役員クラスが毎月参拝する。高野山や比叡山には会社墓(かいしゃばか)が数百存在し、創業者や物故社員、中には取引関係のある会社従業員のための法要が営まれている(参墓だが、なかには遺髪などを収めているものもある)。
 中牧弘充(国立民族博物館総合研究員大学教授・人類学)は、日本の会社に現れるこれら宗教を「会社宗教」と呼び神社を通じて安全・商売繁盛の現世利益を祈願し、仏教を通じて英霊・先祖供養・会社存続の祈念が行われ、“会社と宗教の関係はむしろイエとそれに付随して実践される宗教行為に似ている”と分析する。
 そして四月一斉入社も“人類学的な視点からすると、そのような「同期の桜」はオセアニアの島々やアフリカの戦士集団として分布している年齢階梯集団のイニシエーションにダブって見える”と述べている。
 
④トイレを磨いて
 今はなつかしい彼がテレビの中で元気(今も知らないところで元気だろうけれど)だったころ、「会社は誰のものか?」という商法から遠く離れた議論が所々でなされていた。そのとき経営者の一人くらいが「会社は神様仏様のものだ」といってもよかったのかもしれない。
 ウェーバーが言ったように資本主義のエートスは、禁欲主義的で自己目的的な労働という宗教倫理観に繋がる。そんな「天職」を信じて働く有能な人間がいたら、会社(経営者)にとってはうれしいだろう。その嬉しさは自らの業績や富にとって有益だからというのが大半かもしれないが。
 もっとも、「会社が神様仏様のもの」と言う経営者がいても、その神様仏様は「イエの」という限定がつきやすく、普遍性・社会性を導くには遠い。
 まして「会社は社員のもの」といってはばからなければ、自社の正社員のみを眼中におき、それを支える非正規労働者たちや途上国、地球環境など頭に浮かばないだろう。
 無所有・下座・懺悔奉仕を信奉し、便所掃除の取り組んだってこんなことを起こしたりしているのだ。
 トイレ掃除は、(「トイレ=ネガティブな場、を磨く自分」を受け入れるために、それまでの自我を揺るがさなくてはいけないので)個人レヴェルで自我を崩して新しい思考・思想を受け入れさせ易くし、会社などの組織のイニシエーションとして利用できる。
 しかし、これ以上トイレ掃除をさせる会社・組織が増えても会社バカを増やすだけ、のような気がする。
 
 




 
by sleepless_night | 2008-01-06 10:03 | 宗教
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