人気ブログランキング | 話題のタグを見る

勘違いする男と女/「頼りがい」と共依存

 タイトルの中で、触れていないテーマ“性”に踏み出します。性といっても、性交についてだけ述べるのではありません。
 よく知られているように、“性”という一つの言葉でジェンダーやセクシュアリティやセックスがくくられてしまっています。性教育や性の倫理などの話題になると、とたんに混乱したり噛合わない話が生じるるのは、この言葉の区別の無さが一つの原因のはずです。特に、長い間、旧来型の組織にどっぷりとつかって生きてこられた男性やその配偶者の方や、そのような両親の強い影響下でその態度を内面化した人は非常に意味の分からない話に聞こえるでしょう。
 「男が男らしくて何が悪いんだ!」や「ジェンダーフリーなんてやるから社会が乱れるんだ!」や「オカマが増える」「すぐにセックスして未婚の母が増えたらどうする!」のような、殆ど意味のない感情の雄たけびを発する人は、そのような人たちなのでしょう。どっかの県知事選に出ていた“青春スター”などは典型で、理屈ではなくて、自分の人生の肯定感の為にその雄たけびを上げているようにしか見えませんでした。

 実際、この区別の上で話しをすることは慣れないと非常に面倒です。その論理的帰結が実際に自分が経験することになれば、分かっていても混乱するでしょう。
 でも、この区別がないと、性をテーマとする話のかなりの部分ができなくなります。
 ですので、このような話も当然しますが、私は別のもっと直截的な話についても述べたいと思います。
 つまり、「恋愛」です。

 テーマには“性”としかあげませんでしたが、実は、「恋愛」というものやその帰結の一つである「結婚」というのが“性”というテーマを挙げた重要な動機です。“恋愛”とテーマに挙げなかったのは、それよりも広い話ができなくなることもありますが、単に見てくれが悪かったからです。

 ですので、面倒な分類をつかって、性教育がどうだとか、とうのは私にとってかなり副次的な話題です。
 「恋愛」「結婚」という出来事について、それを形成する(法律婚の場合)男女の関係についての考察と妄想を、これから断続的に述べてゆきます。
 
 ****************

 今回のタイトルである“勘違い”と言う話についてです。殆ど愚痴めいていますが、初回ですので。

 「頼りがいのある」男と「レディーファースト」されたい女の“勘違い”

 「頼りがいのある」と言うのは、ほめ言葉です。そして、私の経験上、それは男にとってのほめ言葉です。
 「あなたって、頼りがいの無い人ね」と言われると、大抵の男は、自分のふがいなさを感じ、自分に欠点があるものだと感じるでしょう。

 しかし、「頼りがいのある・ない」という言葉を使う主体(女)は、そもそも、何を根拠に頼ろうとする、頼る権利が自分にはあると言うのか、どうして「頼りがいのある」ことが男女関係で女性が男性に求める自然なものとして採られているのか、疑問が生じます。(日本を含む世界の多くの地域で男性が社会の主導権をとってきたために、女性は男性に頼る生き方しかできなかったのは間違いでないでしょう。現在でも、男性が主導権を握っているのは程度の差はあっても変わりありません。しかし、個々の男女関係を見たとき、60年近く以前のような、頼るしか生きる術の無い時代でも環境でも現在はありません。一定以上の生活を単独で営むことは十分に可能です。確かに、「頼りがいのある」男性に頼って生きる方が得・楽である可能性が高い状況はあるでしょう。しかし、「頼りがいのある」を男性についてのほめ言葉として流通させてきた過去の社会状況と現在は、過去の社会が強いてきた態度しか女性に許されないほど同一のものではありません。したがって、頼る権利が自明のものとして女性にあることは認められません。頼ることは、現在において、選択です。)

 「頼りがいのある」男と「頼り」たい女の関係は、共依存関係とも言えます。
 一見、依存という言葉が当てはまるのは女の側だけのように見えますが、「頼りがい」を持ちたいと思っている男の側も、その気持ちを持つ(満たす)ために、自分に依存してくれる女を必要としてる(依存)しているのです。
 これは、相互依存とは違います。
 違いは“人”と言う字のたとえが分かり易いでしょう。
 “人”と言う字を金八先生は、一本の長い線がそのままだと倒れるから、短い線が支えていると解説していたように記憶しています。これは、「人は一人では生きていけないから、皆で仲良くしようね」という説教のトリビアルな前振りです。非常に聞こえが良いのですが、どちらも相手がいないと“人”として存在できていないことを表しています。これが共依存です。
 相互依存は“人”として存在できた上で、経済的や生活の質などの為に、“人”と“人”が相互に助け合うことです。依存という言葉はインパクトがありますが、これは現代社会の厳しい経済環境のなかでは共助という程度以上に強い支えあいが求められるから、印象付けるために使われたのでしょう。平井堅さんの『life is・・』について述べた以前の文章の結論に出したのはこの関係とも言えます。

 勿論、「頼りがい」という点だけで共依存関係かどうかを判断することはできません。
 ただ、その言葉を使ったり、男女関係でほめ言葉として流通しているということは、共依存関係に陥りやすい傾向があるのではないかと私は考えます。

 共依存はどうして避けるべきだと言うのか?
 それは、依存という状態は何を対象にするにせよ、生活に問題を引き起こす可能性が高いからだと考えられます。
 アルコール依存の場合は、アルコールがないと生活ができなくなり、酷くなれば妄想を起こしたりしてその人の人生をおくれなくなります。つまり、アルコールに人生を支配されます。
 共依存も、(今回の例えの場合)「頼りがいのある」と思いたい男と「頼り」たい女の、どちらか一方が、自分の人生を今までやってきたことと違った方向に進めたいと思ったときに、それをできなくしてしまうおそれがあります。つまり、「頼りがいのある」男は相手の女を自分に頼らせておこうとする可能性があるでしょうし、「頼り」たい女は相手の男がいないと困るので男を「頼り」にしている自分がいないと不快になるようにコントロールしようとする可能性があります。又、二人ともに今までと違った方向に進みたいと思っても、共依存関係が成立していたということは、二人で一つの“人”と言う字を作っていたわけですから、離れたくても、離れたとたんに立って(普通に生活でき・人生を思った方向に進める力をもつ)ことができないで、新しい共依存の対象を見つけることしかできない可能性があります(変な相手とばかり付き合ってしまう人は、この可能性が現実化していると考えられます)。
 どちらも、自分の人生をお互いの依存で(悪い方・苦しい方に)コントロールしあっています。
 どんな人間も自分の人生を家族や他の人との関係で制約されることはありますが、共依存の場合はお互いに縛りあってお互いに苦しい状態になる可能性が高いといえます。

 人から「頼り」にされることの喜びは、自分が存在する「意味」「目的」を感じる時とも言えます。
 しかし、前回までに述べてきたように「意味」「目的」にも二つの用法があり混同は避けるべきであるのと同じく、「頼り」と言う言葉からも二つの関係を導き出されるので、それを意識しておくことは必要だと思います。
 幸福な“勘違い”が続き、そのまま終われることは、多くの幸運がないと難しいはずです。
 そして、現代社会はその幸福な“勘違い”を支える幸運が過去の時代のようにはありません。

 「レディー・ファースト」については次回述べます。
 

 

 
 
 
by sleepless_night | 2005-06-18 14:52 |
<< 勘違いする男と女/「レディー・... 女子アナものAVではなく、女子... >>