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ストーカーから見えるものは

やっと、ストーカー問題の帰結部であり、本論の導入部へとたどり着きました。

 長々とストーカーについて説明を重ねてきましたので、少しまとめますと。

 まず、ストーカー問題の最初に示した、ストーカーの定義について振り返ってみます。
 ストーカーの定義として、ストーカー規正法の定義とその他の定義を出しました。
 
 法律の定義するストーキングは、
[目的]恋愛感情・好意やそれが満たされなかった時の怨恨の感情を充足する目的
[対象]当該特定の人、その配偶者や同居の親族、社会生活で親密な関係を有する人
[行為]一号から八号の行為の反復で保護法益を侵害、若しくは侵害される著しい不安を与えること
[保護法益]被害者の身体の安全、名誉、行動の自由、居住地の安全

 その他の定義でストーカーは
①一方的な好意・恋愛感情
②妄想・幻想に基づく
③繰り返し・執拗に接近・付回すなどして迷惑・攻撃し被害を与える人

 とされます。

 分析のための類型として、ストーカーの類型として行為・関係類型と心理類型の二つの類型を出しました。
 行為・関係類型では拒絶型・憎悪型・略奪型・親密性要求型・求愛型の5つ、心理類型では精神病系・パラノイド系・境界性パーソナリティ系・自己愛性パーソナリティ系・反社会的パーソナリティ系の5つです。

 そして、前回までに類型の説明を終えました。
 結果として、定義の問題でも“奈良の騒音オバサン”の例で出しましたように、憎悪型ストーカーがストーカーとして認知されていない(定義に入っていない)こと、ストーカーの心理類型がパーソナリティ障害に偏っていることが問題として出てきました。
 前者は、定義の問題で述べたように、ストーカーの歴史から日本のストーカーが切り離されていること。
 後者は、パーソナリティ障害自体の捉え難さ、特にパーソナリティ障害という概念を生み出した精神医学(心理学)自体の弱み・曖昧さとパーソナリティ障害という概念の当てはまる人々の普通さ・膨大さが軽視されてしまっていることが、ストーカーの心理問題として語られるパーソナリティ障害に集約されてしまっている原因だと挙げました。

 既述ように、どちらも、全体からの切り離し、全体を見れていないことで共通しているのです
 このように、切り離されて輸入されたストーカーという言葉が漠然とした不安の中で即座に受け入れられ、定着し現在に至っているわけです。
 それは、近年警察によって言われる“体感不安”になぞらえて言えば、“体感ストーカー”とでも言えるものです。
 確かに、ストーカーの概念に当てはまる人はいます。身近で被害にあった知り合いを持つ人も少なくないでしょう。
 なにより、ストーカーという言葉、ストーカー規正法のおかげで、被害者の8割を占める性である女性は被害を言葉に表せるようになり、被害の深刻化に対処できるようになった(行政や学校・会社で相談窓口ができた)点で、非常に評価されるべきものです。

 ところが、全体から切り離された・根から切り離された言葉・概念が“体感的”に使用されることで、それを使う側にも矛先が向けられていることに気づいている人は多くないように思います。
 つまり、ストーカーと体感的に使うこと、体感的にストーカーを非難する人(※)が同じ口で賛美の言葉を与える対象、もしくは、自分自身の好ましいと思う関係についてまで否定される可能性があることにどれだけの人が気づいているだろうかということです。
 
 ストーカーについてなぜ語ろうと言うのか?
 この根本のスタートで、私はストーカーが日本の男女関係(同性愛の場合は同性関係)をゆがんだ形で拡大されているものだと考えていること、推奨され・賛美される関係と否定され非難される関係の区別の作り出した線が時代の男女関係(同性関係)を描く線だと考えていること、その両者は同じ社会に存在し通底すると考えることを述べました。
 ストーカーの全体を見渡して、その線が浮かび上がってきたのに気づいていただいていると思います。
 類型で言うと、行為・関係類型の拒絶型と求愛型です。
 特に、求愛型ストーカーについて考えてみること。
 求愛型ストーカーの説明でも述べたように、この類型はもっとも通常の男女関係(同性関係)に近い、つまり、境界線上のストーカーです。
 この線が時代の男女関係(同性関係)を描く線だと考えるのです。

 ストーカーの定義の問題で野口英世の例を使って、熱心な片思いとストーカーの判別の問題について述べました。
 そこで、ストーカーと認定し措置を採るべきだと考えるのは、相手が自分の出したメッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと述べました。
 拒絶型がまさしくこれに妥当すると考えられますが、求愛型も同様に妥当します。

 メッセージによってお互いの思考・行動を修正するのは、人間関係の基本的なルールであり、マナーです。
 ストーカーとして対処すべきは、このような基礎ができない人だといえます。

 しかし、この基本的であるはずのルール・マナーにあやしさ(危うさ)が現れる関係、その最たるものが、男女関係(同性関係)です。
 正確に述べますと、そのようなあやしさのある欲求や情熱を感じることが一般的だと考えられる・理想とまでされるのが男女関係(同性関係)だということです。
 つまり、相手のメッセージによって物分り良く行動する、修正する人がいたとして、その人を自分の恋人や配偶者にしたいと思うか?、ましてや、そんなドラマや映画や小説を読んで楽しいか?ということです。
 自分に対して相手が特定の強い感情を持って接して欲しいと思うこと、それを実感させて欲しいと思うことが、男女関係(同性関係)では強く現れると考えられます。
 
 ストーカーの歴史は、社会、特に女性の権利意識の向上によることは前述しました。
 つまり、西洋社会(の価値観を共有する社会)の大原則である自由主義(と同時に導かれる平等主義)による権利意識の明確化です。
 自由主義とは、“明白な法的規則か暗黙の了解によって権利とみなされるべき、一定の利益を侵害しないこと”を前提として、“ある一人の人、あるいはどんな数の人びとでも、他の成熟した年齢の人物に対して、彼が自分の利益のためにしたいと望むように、してはならないという権限を与えられてはならない”ことを意味します(※1)。
 つまり、他人の迷惑にならなければ、明らかに馬鹿で自分に有害なことも許されるということです。
 重要なのは、“権利と見做されるべき、一定の利益を侵害”することはできないということです。
 そして、この“一定の利益”に男女関係(同性関係)内部の事項が含まれ、男女関係(同性関係)の開始・継続に双方の合意(同意)が“権利とみなされるべき”こととなった結果の一つがストーカー規正法です。

 拒絶型と求愛型、特に求愛型ストーカーが境界線上となるのは、この合意(同意)をどう捉えるべきか、さらに前提にさかのぼって、“個人的”領域(※2)を守るべき・このような自由主義的な権利意識からの保護地域(聖域)を認めるべきかという問題への問いに対する論者の逡巡と重なるからだと考えます。
 つまり、ストーカーはこれまでも述べてきたように多様に分類され、その中でもグラデーションがあります。そして、明らかに規制の必要なストーカーへ法規制をかけることには、グレーゾーン(境界線上)のストーカーの法適用が不可避的に含まてしまいます。そこで、そのグレーゾーン、求愛型と拒絶型の一部に当てはまる人々について法適用をすることに、感情的に逡巡を覚える論者が出てくるのです。この逡巡は、グレーゾーンをストーカー規正法の対象範囲に含まれてしまうこと、それが法規制にとって避けられないことであるが、そのことが自分達の感情やある種の理想を否定することになることに気づいていることから生まれるのです。
 ですが、この逡巡も、自由主義の生み出したものです。
 そして、逡巡する論者達もこの自由主義という大前提を否定できないのです。

 自由主義が社会の法に取り入れられ、社会の慣習、人々の価値意識に取り入れれなければ、男女関係(同性関係)で自分を特定の存在として求められることを欲求すること、その欲求を実現可能な欲求として認識することは基本的には不可能でした。
 自由故に選択の機会が与えられ、選択にされされる故に、選択される対象たる自分を納得させる理由が求められる
 だからこそ、自分との男女関係(同性関係)を希望する他者の意欲・欲求に強いものを求め、単純で物分りの良い(他の多くの関係では理想的なはずの)コミュニケーションでは満たされなさを感じ、合意を“権利とみなされるべき”ものに入れるかの感情的逡巡が生まれる、少なくとも、物分りの良いコミュニケーションを理想と捉えることに感情的に逡巡すると考えられるのです。
 さらに現代の交通・情報技術の発達で、選択の範囲が人間の選択能力をはるかに上回るまでに広まってしまい“過剰選択肢”の問題(選択肢が多いほうが自分にとって良い判断ができると考えられるのに、選択肢が過剰なほど多いとかえって選択を放棄してしまう)まで絡んできます。つまり、選択対象が過剰に広がり、その中に自分も当然含まれる。そうすると、選択された場合に、なぜ、どうやって自分なのかを問うことが極めて困難になる。困難ゆえに、よけいに問いへの答えを求めたくなる。

 “体感ストーカー”はこう言った状況で広まったと考えられます。
 過剰選択肢で虚脱的な寄る辺の無さ、自分という特定の個人を求められる理由を求める感情・欲求、正確な知識を欠く自由主義的な権利意識。
 その混沌とした不安と願望の入り混じった中で、“体感的”にストーカーという名称が使われてしまい、本当に問題とされる対象を逃し、意識せずに自分の立つ土台を崩してしまっている。

 ストーカーの心理類型の中でも境界性パーソナリティ障害系のストーカーは満たされない空虚感から逃れるための過剰な依存を特徴とすると考えら、自己愛性パーソナリティ障害系は自分の価値を映し出してくれる鏡を求めることがあると考えられます。行為・関係類型の中の拒絶型ストーカーは権利・正義意識をもってストーキングすることがあります(拒絶型に該当する心理類型の中心は境界・自己愛性パーソナリティ障害系、また、この二つは求愛型の中心類型でもある)。

 逡巡を感じることができず、“体感ストーカー”を使う人は、その言葉が、鏡に映し出された自分だということに気づいているでしょうか。

 
 次回は、もう少しこの視点で話を続けて、本論への道筋をつけます。

※)難しい点ですが、問題意識としては“体感ストーカー”を意識するべきと考えますが、ストーカーである可能性がある場合への内心での準備のようなものは必要だと思いますし、ためらうと深刻化する恐れがあります。また、ストーキングは犯罪です。犯罪を非難することは当然です。ストーカーによる被害は直接に肉体的な危害と同様に、その心理的な危害が重大であることは決して軽視されるべきものではありません。
※1)『自由について』J・S・ミル著 水田洋訳
※2)フェミニズム運動、1960年代以降のフェミニズム運動のスローガンの一つ“個人的なことは政治的なこと”。これによって、性関係を含む個人的とされた領域にまでフェミニズムの問題意識が及ぶようになった。
 
by sleepless_night | 2005-08-06 23:08 | ストーカー関連
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