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世界の中心で愛を叫ぶもてない男とストーカーをめぐって

 現代の男女関係(同性関係)を描く線として、ストーカー、求愛型ストーカーに焦点を合わせるとことを述べました。
 拒絶型の一部も含まれると考えられますが、基本的に求愛型にするのは、拒絶型ストーカーは脅迫・暴力傾向があり明確な犯罪行為へつながることが考えられるため、現代の関係を考察する、賞賛され・肯定される関係と非難される関係の境界線を考察する対象として妥当ではないからです。

 さて、前回、“体感的”なストーカー概念の使用が、使用する本人の立つ土台を無意識的に崩していること、“体感ストーカー”を使う人はそれが鏡に映し出された自分であることに気づかずに使っているのではないかということを述べました。

 この点について、もう少し述べたいと思います。
 “体感的”な概念の使用で共通するのは、セクハラです
 ストーカーの歴史についてで述べたとおり、ストーカーとはハラスメント(いやがらせ)の一種であり、セクハラ(セクシャル・ハラスメント/性的嫌がらせ)と基本的には同じ概念です。
 セクハラという概念が流布し始めた時、セクハラかどうかが相手方の恣意的な判断に依存しすぎているのではないか?という戸惑いを含むボヤキやクレームがありました。
 つまり、セクハラだと言われればセクハラになってしまう、違法かどうかを相手の胸先三寸で決められて不条理ではないか、ということです。
 この考え・疑問は当然といえば当然なものです。
 「逆セクハラ」という本来の概念からは考え付かないような言葉まで出現した有様を見れば、いかに意味やその背景の思想の根を絶たれた状態で使用でされているかは理解できるでしょうし、その状態が戸惑いや疑問に拍車をかけているのでしょう。
 結局、この“体感セクハラ”のおかげで本来なら強制わいせつに該当する事例までセクハラで済まされてしまい、刑法によって取り締まられるべきものを見逃している(気軽に使われる軽さの言葉で捉えられ大目に見る)自体が現れる反面、単なる日常会話がセクハラとして糾弾され、感情や思惑をぶつける材料になってしまうこともあります。
 “体感的”な概念の使用の弊害は、“体感ストーカー”と同じです。
 そして、意識しないうちに自分達の立っている土台、つまり、日常生活における地面、どこまでが許されてどこからが許されないのかという認識を崩しています。 

 しかし、同じ“体感的”な概念の使用、相手の判断による概念の適応ということでも、他とストーカーには大きな違いがあります。
 それは、セクハラや、他の被害者の判断に適応が依存する法概念(例:名誉毀損)とちがってストーカー(求愛型)の場合は社会一般から賞賛・賛美される、理想とまでされる場合が存在することです。
 他の概念の場合、それはどうやっても賛美の対象にはなりません。
 せいぜい、害はないと許容されるという場合が考えられるだけです。
 しかし、求愛型ストーカーの場合には、賞賛・賛美され、理想化され、社会に広く流通しているものが含まれるのです。
 ストーカーか否かを判別するのは、メッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと述べました、そして、それはストーカー概念の誕生が自由主義的な権利拡大によるものであり、男女関係(同性関係)の開始・継続において合意(同意)の持つ権利性が高くなったことの表れだということも述べました。
 求愛型ストーカーは要するにこの合意(同意)という権利を前にした、割り切れなさを持つストーカーです(※)
 男女関係(同性関係)における物分りのより理性的なコミュニケーションで処理できないジレンマがストーカーとなっていると考えられるのです。
 男女関係(同性関係)を扱った、所謂恋愛モノの小説にしろ映画・ドラマにしろ、この同じジレンマを扱わないものは少数であることは例を待つまでもない事実です(相手の単一性や自分の好意感情の永続性を主張する求愛によって、相手に求愛を受け入れさせて、相愛関係へと向かうという筋を持つ。その間の、自分の求愛に答えてくれない相手と、その求愛を催す感情とのジレンマが描く話を典型と考えますが、設定によって違いはあるものの、理性的なコミュニケーションで割り切れないジレンマの感情は共通するはずです)。
 勿論、それは小説であり、映画であり、ドラマです。“実際の人物・事件とは一切関係のない”世界、フィクションです。
 しかし、それがマス・メディアのの世界では主流であり、マス・メディアの現実です、それを受け入れる大多数の人々も現実です
 これらの世界を非難する、疑問を投げかけるこで、「敵」を作ることさえあります。
 
 “体感ストーカー”がその現実の社会で流布しているのです。
 むしろ、“体感”だからこそ流布できたのでしょう。
 しかし、“体感”であろうとなかろうと、ストーカーという概念にはその歴史性が背景として存在します。意識せずにいても、概念を使えば、それと同時にそれを支えてきた歴史的な背景も持ち込まれることになります。意識的なレヴェルでは根から切り離されていても、それには影のように切り離せない理論的な背景があります。
 無意識ゆえに逡巡無く“体感ストーカー”を使い、同じ口が所謂恋愛モノの小説や映画やドラマを賛美できる。自分で自分の立つ土台を崩していること、ストーカー概念が背景としてもつ自由主義の権利拡大によって所謂恋愛モノの成立に必要な“個人的”領域の縮小に気付けないこと。
 この無自覚さの導く混乱は、以下の例からも理解できると思います。

 小説から映画、ドラマ、舞台へと無節操な怒涛となった『世界の中心で愛をさけぶ』(※1)の一場面を見てみます。
 主人公の朔太郎が祖父に依頼されて、祖父の長年の恋人の遺骨を朔太郎の恋人のアキと、墓から取りにいったシーンから引用します。

“「こういうのって、やっぱり不倫になるのかな」ぼくは重大な疑問を提起した。
「純愛に決まってるじゃない」アキは即座に反論した。
「でもおじいちゃんにも相手の人にも、妻や夫がいたんだぜ」
彼女はしばらく考え込んで、「奥さんや旦那さんから見ると不倫だけど、二人にとっては純愛なのよ」
「そういうふうに立場によって、不倫になったり純愛になったりするのかい」
「基準が違うんだと思うわ」
「どんなふうに?」
 「不倫というのは、要するにその社会でしか通用しない概念でしょう。時代によっても違うし、一夫多妻制の社会とかだと、また違ってくるわけだから。でも五十年も一人の人を思いつづけるってことは、文化や歴史を超えたことだと思うわ。」”

 この場合、朔太郎は法律に則った発想、つまり現代の法律が基礎とする自由主義的な発想をしたと言えます。朔太郎は、自分の祖父とその恋人だけの関係ではなく、法律・事実上ともに強固な利害関係を有する祖父の妻(つまり、朔太郎の祖母)や祖父の恋人の夫の意思を考察の対象にしています。自由主義的視点に立てば、朔太郎の祖母にも祖父の恋人の夫にも自分の配偶者との婚姻関係があるわけですから、知る権利があり、そこで得られた情報をもとに、婚姻関係の継続を判断する権利があるのです。
 アキは、これに対して朔太郎の祖父とその恋人の感情だけを問題にし、その感情の「文化や歴史を超えたこと」であるとの発想をもとに、正当化します。
 つまり、アキは祖父とその恋人の間に、関係者の法的な権利の侵入できない(すべきではない)“個人的”領域を認めているのです。
 
 もし、アキの立場を承認する、その理論を承認するなら、求愛型ストーカーについてはストーカー規正法の対象外とすることになります。
 なぜなら、男女関係(同性関係)は“個人的”領域だとして、その男女関係以外の人の権利、よりも男女関係内の理論を優先することを認めることになるからです。
 この点、遺骨を取る事は祖父と恋人の合意があるので、求愛型ストーカーとは違うのではないか?という反論が考えられます。
 しかし、繰り返しますが、ストーカーという概念が持つ背景は自由主義的な権利拡大であり、男女関係(同性関係)の開始・継続における合意(同意)の権利性の向上による、“個人的”領域という外部社会のルールからの聖域の解体です
 朔太郎の祖父の配偶者も、祖父の恋人の配偶者にも、各自の婚姻関係の継続についての権利,遺族には遺骨や墓所の所有・管理権がありますので、それを男女関係の内部の理屈で阻害・侵害することは、自由主義的な権利の視点からは許されません(前回の述べたように、大雑把には、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいという考えである自由主義が進展することは、他人に迷惑をかけなければ何でもできるようになる反面、他人の迷惑になる(権利を害する)ことへの取締りが厳しくなるのです)。
 また、朔太郎の祖父と恋人のような合意に基づき確固として継続している男女関係と、求愛型ストーカーを比較するのは妥当といえるのか?との疑問もあるでしょう。
 しかし、求愛が無ければ合意に基づく男女関係(同性関係)は開始されない以上、考察対象としては同一の範疇に入ります(考察対象としての男女関係・“個人的”領域に求愛段階も含まざるを得ない)。 さらに、ストーカーか否かはメッセージによって思考・行動を修正できるか、と抽象的に述べたのは、回数や手段などでストーカーか否かを判別できないからです。具体的に何をもって許容される男女関係の求愛行動か求愛型ストーカーなのかが分かりません。(※2)したがって、この点からも求愛型ストーカーが合意に基づく男女関係と考察対象としては同一範疇に入るため、比較は妥当だと考えます。

 この例を読んで感情的な反発を感じる人もあるかと思います。
 非常に野暮なことだと私も感じます。
 しかし、これがストーカー規正法を支える権利性です。
 感情的な反発を感じる人は、求愛型ストーカーを前に逡巡をしなくてはならないのです。
 もし逡巡をしていなけれが、“体感的”にストーカー概念が使われていることによって、免れているだけだと考えられます。

 小谷野敦さんは“メディア等が、「恋愛をすべきである」という形での「あおり」を行い、それに個々人が洗脳されて、好意を持つ異性(同性でも)への「言い寄り」に展開するとき、それが「ストーキング」になる潜在的可能性は低くない。たとえばこれを、「未熟な精神からくる行為」と評するものがいるが、一方で、恋愛はファナティックでなければ本物ではないという、言説もあり、これは明らかにストーキングを助長しているのだ。”(※3)と述べていますが、ここで述べているストーカーは求愛型ストーカーだと考えられます。小谷野さんは特定の他者への強い好意感情という人間感情の普遍性への信頼をベースにして、近代以降、現代の恋愛をめぐる言論とその論理的な帰結への疑問を呈しています。その信頼性の上で感じられる現代への違和感が、ストーカーを犯罪と無邪気に呼ぶことへの逡巡です。

 このような迷い、男女関係(同性関係)を巡る言論の矛盾し錯綜する混乱を前にした迷いと、自分の体験としての割り切れなさ、物分りの良いコミュニケーションを理想とすることへの逡巡を考えることが、現代の私達の男女関係(同性関係)を考えることの一つの核となると私は考えます。

 もう二点ほど、求愛型ストーカーを考えるとこで現れる、現代の男女関係(同性関係)の視点を次回に述べます。

※)ストーカーの行為・関係類型と心理類型のクロスで述べてあるように、どうしても人間関係のスキルの低さはあると考えられます。但し、次回述べますように、これにも見逃されるべきではない点があります。
※1)『世界の中心で愛をさけぶ』(小学館)片山恭一著  
 著者の片山さんが卒論でマルクス、修論でエンゲルスを書いた人だけに、随所に唯物的な思想とその世界観に対する感情としての割り切れなさが現れているように感じます。
 主人公の朔太郎とアキを中心とするその他の人物の会話の内容が示す思想の傾向性は大江健三郎さんの後期作品の思想とに類似性があるように思えます。
 傑作と言えるほど作品としての完成度を感じませんが、上手い部類に入るのでしょう。
※2)補論で挙げますストーカーのチェックリストも結局は、何をどの位したか?ではなく、その人がどんな人かを判別するとこでストーカーをチェックする意図のものです。
 求愛段階というのは、自動車にたとえると、スタートさせたエンジンの力を車輪に伝えて自動車を動かそうという段階です。動いている自動車を加速させるより、止まっている自動車を動かす時の力が必要なように、求愛段階はかなりの感情的な力が必要だといえるでしょう(相手をその気にさせるためには、その気になった後の関係を維持する時期よりも感情的な力が必要)。そのような強い感情に基づく行動が通常も想定される段階では、何が、どの位からがストーカーなのかの判別は具体的には不可能に近いはずです。
※3)『恋愛の超克』(角川書店)小谷野敦著 
 『もてない男』(ちくま新著)で有名になった小谷野さんは、博士論文『<男の恋>の文学史』で片思いについて、膨大な資料と垣間見せる叙情性をもって著しています。近著『かえってきた もてない男』では、悪い崩れ方を見せている観があり、残念に思います。それは別として、小谷野さんの著作の情報量は他の同類の書籍ではなかなか見られないものがあり、このブログも非常にお世話になることになる(なっている)はずです。
 
by sleepless_night | 2005-08-13 00:08 |
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