甲子園出場予定校と優勝校。その始まりと終わりが暴力によって色づけられた甲子園だったと言えるのでしょう。
表題の校内暴力とは、生徒が暴力を振るうことではなく、教員の生徒に対する暴力の方です。これは、通常、学校教育法11条に定める懲戒権の行使の逸脱と捉えられ、問題化した場合にも学校側は“指導の行き過ぎ”“不適切な指導”として対処することが見られます。 今回の事件でも、ミスをしたのにニヤケていた、反抗的な態度、決められた量の食事をとらないなどの“指導”の延長で暴力が為されていたと報道されています。 http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/feature/news/20050823k0000m040121000c.html 学校教育法11条はこう規定しています。 “校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。” 明確に体罰を禁じています。 ですので、平手であろうがなかろうが関係なく、今回の野球部長の行為は違法行為です。 しかし、ここで、所謂“愛のムチ”はあるのか?という問題が生じます。 この“愛のムチ”を許容すること、教師には“愛”故の暴力があることを許容する人々の存在が、問題を単純に違法行為として糾弾しないことの一因としてあると考えられます。 戦前はもとより、戦後も一時期まで教師が生徒を殴ることを許容する風潮があった(少なくとも問題化されることは少なかった)ために、その環境で育った人々がノスタルジックに「最近の教師が殴らないから、生徒は付け上がる、生徒が生意気になる」との発言をすることも耳にします。 しかし、“愛のムチ”とは何でしょうか? 正確には、殴ることにある“愛”とは何か?ということです。 児童虐待や機能不全の家庭で“ダブル・バインド”というコミュニケーションの状態があることが指摘されます。これは文字通り、二重の拘束、二つの異なった内容のメッセージが同時に発せられるために、受け取る側がどちらのメッセージを取るべきか分からなくなる状態です。 この“ダブル・バインド”によるコミュニケーションは主に二つの帰結を導くと考えられます。一つは、両方のメッセージを正確に取れない自分の存在自体を否定する(自分に能力がかけているから理解できないと思う)こと、もう一つは、コミュニケーション自体を放棄することです。 “愛”しているから殴る。 愛という言葉から通常、殴る行動は導かれません。 女性を殴っている男性をみて、「彼は彼女を愛しているのだ」と思う人はまずいないでしょう。それが両者の性的嗜好によるものなら別ですが、他者を殴るという好意から通常読み取られる意図は憎しみや憎悪です。 ですから、“愛”しているから殴ることは、端的に“ダブル・バインド”のコミュニケーションを作り出しているといえます。 “愛”故に殴る教員は、その行動と発言の作り出す環境が生徒とのコミュニケーションを機能不全にしていると可能性が高いと考えられます。 でも、かつては何故問題化しなかったのか?“愛”ゆえに殴ることが何故生徒や父兄から了解されていたのか? それは、二つの理由が考えられます。 一つは、社会全体に共通の認識があり、その認識が“ダブル・バインド”のコミュニケーションを無化できたといことです。 つまり、その一部の行為に含まれる矛盾を合意された共通の認識によって矛盾ではなくしてしまうということです。 これは二つ目の理由に繋がります。以前の夜回り先生に関する記事で述べたように、大学進学率は70年代まで20%台でした。したがって、大学を出た教員とは、一般の生徒の保護者たちよりも知的水準が高い専門家、まさに「先生」だったのです。これは時代をさかのぼればさらに激しく、僧侶と医者と学校の教師が身近にいる知識人であり、分からないことは彼らに聞きに行くというほどに尊敬されていたのです。ですから、そのような知的エリートである教員が殴ってよい、殴った方がよいと判断するなら、その判断は大衆である生徒の保護者達の触れられるべきものではないと言う、認識が共有されていたと考えれます。つまり、“愛”ゆえに殴ることの矛盾が知的エリートの判断という壁の中に閉じ込められることで、問題化しなかったと考えられるのです。 その教員にとっては幸せな環境が変化したことに気づかない、受け入れられないことが“愛”ゆえに殴ることを正当化しようとする人々の存在を支え、今回の甲子園を挟む名門校の事件に繋がっていると考えられます。 “愛”ゆえに殴って、生徒に“愛”は伝わったのか? おそらくそれは伝わってないはずです。 なぜなら“ダブル・バインド”状況にあるからです。 “愛”しているから、“お前達のため”だからという一方のメッセージと、殴るというもう一方のメッセージの作り出す状況から、一方だけをとることは一部の例外を除いて不可能です。 つまり、殴ること、暴力を使うこととは、言葉で伝えることができない・能力がそこまでないことを明確に表す行為です。そして、その伝えられないことを伝えたい自分の感情・欲求を解消するために言葉ではない暴力を使っているのです。暴力という媒体を使うこと自体のこの属性を否定することができないため、不可避的に“ダブル・バインド”状態となり、矛盾するメッセージが生徒に伝わってしまい、コミュニケーションは機能不全を起こし、生徒をコミュニケーションから退却させます。(今回も、もし殴ることで伝わっているなら、何回も殴ることはなかったでしょう。教員生徒間のコミュニケーションが取れていたとは考えられません。) そこにあるのは、教員自身の幼児的な自己愛です。 言語能力の未発達な幼児が、保育者に自分の欲求をかなえてもらえない時に、物を投げたりすることと同じです。“愛”しているのは、生徒ではなく自分です。 そもそも、その教員が“愛”しているから、“生徒のため”の暴力を肯定するなら、その教員自身がミスをするたびに他の教員から殴られることを認めなくてはなりません。 それで自分がミスをなくし、良質な授業を提供できるようになるのなら、まだ理解できます。 しかし、そのような教員を私は見たことも聞いたこともありません。 ごく一部の例外とは、このような場合と、暴力を使う場合に教員を辞めることを前提にしている場合です。教員という生徒を指導する立場を捨てることを前提に、一人の人間がもう一人の人間に、言葉では伝えられないこと、言葉を使うことでは与えられない効果を与えるために、暴力を使う、教師であるという地位のアドバンテージを捨てて殴りあうならなら理解できます。もちろん、教員を辞める・教育法違反どころか、その場合には刑法犯となる覚悟をしなくてはなりません。 今回の事件での学校側の対応について、報道を見る限り、彼らがその例外ではないことは間違いなさそうです。残念なことに。 教員は何のためにいるのか?何の対価として給料をもらうのか? 教員は教員自身のためにいるのではないはずです。 教員は契約関係から見れば、債務者、つまり、生徒に知識やその使い方を伝えるという務めを負う者です。 生徒(正確には、保護者や国)は債権者です。つまり、教員にその役割を果たすことを求める権利があるのです。 メッセージが伝わっていない場合、責任があるのはどちらでしょう? 当然、債務者たる教員です。生徒が理解しない場合に、責を問われるのは第一に生徒ではなく教員なのです。その対価が給料です。 自分のメッセージを理解されないことから、相手を殴ることで給料をもらっているのではありません。 債務者である教員が、対象である生徒が何を望んでいるのかを知ること、聞くことをしないで、どのようにして教員としての務めを果たせるのでしょう。 生徒の声が、殴られることで聞こえることはあっても、殴ることで聞こえるでしょうか。 教員は聖職という迷妄が、金銭という観点をためらわせるかもしれませんが、現実にその関係にある以上、適切な認識が求められるのは当然でしょう。 自分が何の対価で給料をもらっているのか。 その給料に見合うだけの務めを、文科省や学校の管理側に対してではなく、生徒に対して果たせているか。 問われることは、企業なら当然のことでしょう。 それを、教員がどれだけ意識しているか。 以前も述べたように、教員に人格的指導や“触れ合い”を求めるべきではないのです。 20代から「先生」と呼ばれ続け、40人もの人間に指示し、競争や批判から遠い環境が、人格を養うに適していないことは分かるはずです。 求めるべきは、給料に見合った授業です。 それは、学科だけのサラリーマン教師を増やすのではないか?とも疑問を生じさせるでしょうが、教員の環境は上記のようにサラリーマンの環境でもない場合が往々です。 むしろ、人格的指導や“触れ合い”が学科指導の知識や技術の未熟さの言い訳や今回のような犯罪行為のカモフラージュとなっている場合は少なくないはずです。 人は人を殴ってはいけないのに、教員もなにもないのです。 営業マンが顧客が商品説明を理解しないと怒って殴ることも、エンジニアが依頼人が同じミスをしたからといって殴ることも、職人が客が自分の商品の価値を認めないといって殴ることも、全てやってはいけないことですし、犯罪です。 教員だけが、サーヴィスの提供対象である生徒を殴っていい理由は全くありません。 金八先生のような教員を求める願望や欲求が、このような勘違いした教員に、生徒を殴ってもいい、“愛”故に殴るのだとの妄想を育ませているとも、言えると私は考えます。
by sleepless_night
| 2005-08-28 17:21
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