前回に引き続いて、「性」を語ることの困難について話を進めます。
「性」を語ること、特に「恋愛(恋・愛)」について分析的に論じることの意義と、無粋だと感じられることから来る困難性(忌避感)について述べます。 (前回の性は、なぜ語られなくてはならないのか?で述べたように、ここでの「性」とは性交やその周辺領域のみをさすのではなく、それと密接に関連する「恋愛」「交際」「結婚」など、そしてジェンダーやセクシュアリティなどを意味させています。) 九鬼周造は『「いき」の構造』(※)で粋(いき)の内容を三点挙げています。 ①異性に対する「媚態」 “媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、事故と異性の間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして、「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張に他ならない>”“「媚態」の要は、距離をできる限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。”“媚態とは、その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたこのでなければならない。” ②「意気」すなわち「意気地」 “犯すべからざる気品・気格がなければならない。”“媚態でありながらなお異性に対して一緒の反抗を示す強みを持った意識である。”“理想主義の生んだ、「意気地」によって媚態が冷夏されていることが「いき」の特色である。” ③「諦め」 “運命に対する知見の基づいて執着を離脱した無関心”“世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒とした未練の無い恬淡無碍の心” そして、日本文化において“「いき」は無上の権威を恣にし、至大の魅力を振るう”と述べられています。 この内容から考えると、粋とはなにか?について粋が求められる空間(即ち、所謂恋愛関係が予期される空間)で語る(論じる)ことは無粋(野暮)となります。 理由は以下三点考えられます。 まず、前回指摘したように私事性の高い空間であるために、分析を含む会話がその私事性(内密さ・個別具体性)を侵し晒してしまう点。つまり、分析とは、内容を全て引き出した上で設定した基準に従って分類し解釈する行為ですから、私事として公にしない領域を全て引き出した上でバラバラに分解することになります。 また、「意気地」のような感情の勢いと、「媚態」に含まれる緊張感は、自身が場に投げ込まれて一体となること(没入すること)が必要とされますが、分析には、その場から離れた態度が求められます。よって、分析的な態度は無粋となります。 さらに、「諦め」の観点からは、分析とは対象に対して集中する態度ですから、反することになり、無粋となります。 「性」特に「恋愛(恋・愛)」について語る(論じる)ことも同様に言えます。 やはり、「恋愛」について語ることは「恋愛」(の予期される空間)を害する態度だと考えられ、無粋だと言えます。 したがって、「恋愛」について語ることには忌避感が生じます。 では、このように、粋を語ることは無粋であり、粋とは日本文化で“無上の権威”をもった価値基準であることを知りながら、どうして九鬼周造は語った(論じた)のでしょう。 語ることが、その語られる内容を害するという点をどう解消したのでしょう。 九鬼はその点についてこう述べています。 “意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸かっている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。” “意味体験”とは、実際に粋などの意味が読み取れる体験をすること、“概念的自覚”とは意味を概念として理解することです。 粋な会話をしたり、粋な着物を着たりすることで、粋を体験するのが“意味体験”で、粋とは何かを上述のように分析し概念化することで理解することが“概念的自覚”です。 つまり、九鬼はただ粋なことを体験していることではなく、その体験していることが何であるのかを概念化して理解できるところに“知的存在者”即ち、人間の“全意義が懸かっている”と述べているのです。 これはパスカルの有名な断章(※1)“人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体はなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水の一滴も、これを殺すには十分である。しかし、宇宙がこれを押し粒時にも、人間は、人間をころすものよりもいっそう高貴であるであろう。なぜなら人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することをしっているからである。宇宙はそれについて何もしならい。それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれがたちあがらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間やじかんからではない。それゆえ、われわれはよく考えるようにつめよう。そこに道徳の根源がある。”といった、人間についての洞察や価値観と同様のものだと解釈できます。 この知ること、つまり、人間の核心・本質を“知的”であることに求め、それによる意義を、粋を語ることで生じる無粋に優越させようとする理解は、それなりに有効だと感じられます。 しかし、この解決の有効性を確保するには、その前提に対する合意をめぐって、それこそ無粋な議論を必要としてしまい、粋のもつ“至大の魅力”を前にしてどれほどの説得力を持つかは疑問(※2)です。 そこで、この大上段に構える価値論による意義付けではなく、粋の内容から、粋を語ることは粋を害する態度となるのではないか?という疑問を解決することを、私は考えます。 つまり、粋には「諦め」という内容が挙げられていますが、「諦める」の語源が「明らかにする」ということを根拠に、粋とは何かを「明らかにする」こと(概念的自覚が為されていること)抜きには粋が成立しないことによって、粋を語ることの意義付けをし、疑問の解消を図るのです。 要は、粋とは何かを理解していないで、外形的に粋なことをしようとしても、粋とは言えない(粋がっているだけ)ということです。 したがって、粋を語ること、正確には、語れることが粋には必要であると言えますので、「恋愛」について語ること・語れることはむしろ粋にとって必要だと言えます。 但し、ここで誤解してはならないのは、“概念的自覚”とは粋の必要条件であって十分条件ではない点です。 九鬼が述べているように、“意味体験と概念的自覚との間に不可通訳的な不尽性”があり、“「いき」の構造を理解する可能性は、客観的表現に接触してquid(英語のwhat)を問う前に、意識現象のうちに没入してquidを問うことに存している。”のです。 つまり、客観的表現を通じての概念的自覚で粋についてどれほど学んでも、粋を体験したことがなければ、粋を分かった・知ったとは言えないということです。 これは当然に、「性」、その中の「恋愛(恋・愛)」にも当てはまります。 概念としてどれほど学んでも、特定の他者に対して強い好意の感情を持ったことがなければ、「恋愛(恋・愛)」を分かる・知ることはできません。 前回述べたように、具体個別的な「恋愛」しか存在しないのですから、それを通してしか一般名詞としての「恋愛」(そして「性」)の概念的自覚へはたどり着けません。 概念的自覚は必要条件である、前回に述べたように、一般名詞としてあえて語られなくてはならないのです。 “あえて”語られなくてはならない、それが現代の状況だと、私は考えます。 次回は、「性」を語ることの困難さの裏側にある面白さについて述べます。 ※)『「いき」の構造』(岩波文庫)九鬼周造著 ※1)『パンセ』(筑摩書房)パスカル著 松浪信三郎訳 ※2)この点については、血液型占いに反論するともてないのか?という別の記事で詳述する予定です。http://psychology.jugem.cc/?eid=41参照
by sleepless_night
| 2005-10-13 21:06
| 性
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