今回の大峰山の件に限らず、ジェンダー・フリーに関係した内容を含むブログの中に、「差別ではなく区別だ」という言葉を見ることがあります。
「差別ではなく区別だ」という言葉が、何らかの差異的な取り扱いを肯定する理由に使われているのです。 そこで、引っ掛かりを覚えるのが、「差別ではなく区別だ」との言葉を用いられているのに、差別と区別の関係が示されておらず、何をもって差別と区別を判断しているのかがわからない点です。 正直、それを言えば済むと思い込んでいるようにも感じ取れる用い方をしている方もいらっしゃいます。 区別がないところに、差別はありません。 正確には、違いがあるから、区別され、区別されるから差別されることがあります。 ただ違いがあれば区別がある(区別される)かと言うと、そうではありません。 例えば、血液型です。 「血液型、なに型?」と質問されると通常は、A型なり、B型なりとABO式で回答するでしょう。 しかし、血液型占いに反論するモテないのか?で述べたように血液型は公式でも40種、非公式では約400種あります。 つまり、血液にはそれだけの違いがあるということです。 ではなぜ、一般には、ABO式という違いだけが、区別として認識されているのか。 それは、既述したように、ABO式血液型が輸血において重視される血液型の一つだからだと考えれます。 つまり、違いがあれば、常に(区別を認識され)区別されるとは限らず、(その人にとって)認識されることを必要とする重要な違いがある場合に、区別されると言えます。 ABO式血液型は確かに区別です。 それならば、ABO式血液型によって、例えば、通ってよい道を指定された場合はどうでしょうか? 「それはABO式血液型という区別によるのだから、差別ではない」のでしょうか? まず、区別が差別となる基準を考えてみます。 区別とは違いがあることを前提にしていると、上述しました。 違いがあるものを同じく扱うことは、不合理であり、有害性も生じます。 ABO式血液型という区別も、輸血による危険を少なくするためです。 そこで、合理性がある場合を区別、ない場合を差別と考えます。 では、ABO式血液型という区別によって、通る道を指定することは合理的なのか? まず、なぜ通る道をABO式血液型によって指定するのか、目的を知る必要があります。 単純に好き嫌いなのか、A型の人の生命には危険な病原体があるのか、O型の人は通さない習慣なのか? さらに、ABO式血液型によって通る道を指定する、その指定の態様を知る必要があります。 指定はどの程度の強制で行われるのか、指定に他の条件はあるのか? 合理性の観点から、目的と態様は相関関係にあると考えられます。 重要で必要不可欠な目的があるのなら、それだけ厳しい態様の指定が許されます。 目的の重要性が低く、根拠薄弱ならば、それだけ軽い態様の指定しか許されません。 (許される=差別ではないといえる) 仮に、その道を通って人に病気が頻発していて、調べてみると、ABO式血液型と事故にあうリスクが関係していることが分かったため、勧告と誘導によって指定した場合だとします。 そうすると、目的は重要だと考えられます。 そして、態様は勧告・誘導で巣から、強制力もそれほど強くありません。 重要な目的のためですから、この態様は許される範囲として合理性があると考えられます。 つまり、これは差別ではないと考えられます。 ところが、さらに続けて調べてみると、ABO式血液型と発病のリスクの関係に疑いが出て、ABO式血液型ではなく出身地域と関係があることの調査結果が出てきた場合はどうなるでしょう? 目的は変わりませんが、ABO式血液型という区別によって道を指定することの根拠が非常に弱まっています。 ということは、勧告・誘導とう態様に合理性が認められるか疑問が生じることになります。 そこで、ABO式血液型と病気の関係が少しでも残っているのならその旨の情報を提供して、あとは通行者の判断に任せ、代わりに出身地によって勧告・誘導することが合理的だと考えられます。 もし、ABO式血液型とは関係がない・極めて薄いと証明されたのにもかかわらず、道路の指定をとかなければ、差別となると考えられます。 このように、区別だから差別ではないというのは、それだけでは、何も言っていないことが理解されると思います。 区別は、差別かどうかを考えるスタートでしかないと言えます。 大峰山の女人禁制に限らず、「差別ではなく区別」と口にして済ませる前に考えてみるべきだと、私は考えます。 追加) なお、合理性ということについて、なにを「理」とするかには争いがあります。 しかし、特定宗教の観点から女人を「穢れ」とすること、1300年続いてきたことに「理(ことわり)」があるということで、この件の女人禁制は片付けられません。 多様な思想・宗教のある社会で、どうすれば人々がそれぞれの「理」を実現できるのか、なにが確実な「理」かが分からないなかで、一応の回答として、日本社会は自由主義を採っています。 その価値観に則って憲法があり、法律があります。 ですから、私は法的にはどうか?を考えました。 それは、伝統や宗教がどうでもいいから、法律が全てだから、という考えからではありません。 多様な伝統・習慣や思想・宗教をもつ社会では、私を含めこのようなことにあうかもしれません。 明日は、わが身です。 わが身を守り、わが身がある社会を考えて、法律を使うことを考えます。 女人の「穢れ」という思想を持つこととは別に、そのような思想を持つ人も含めての多様性をどう成立させるのか。 私がその思想に反対するとしても、その思想を持つ人と、同じ社会で暮らす、お互いができるだけ幸せであるためにはどうするべきか、どこを譲り、なにを得るのか、止まることのない時間と社会の中で、どこに一応の解決を見出して進むべきか。 それを考えたつもりです。 伊田さんや今回の「プロジェクト」の方のやり方には大峰山「炎上」についてで述べたように、下手な・おかしな点が多々あります。 しかし、少なくとも、お互いの考える「理」の内容とは何で、どうしたら上手く両立や止揚できるかを考えようとしている姿勢はあると思います。 伊田さんの質問書の内容は、相手の「理」を正確に把握するためのものだと解釈できます。 それをするまでに必要だと考えられる手順をすっ飛ばしているのですが、内容はふざけているものでも、無意味でも、ないと私は解釈します。 合理性についての関連記事⇒「心の闇」も占うのか? 一般ということについて。 「性」の世界へなどで既に触れているのですが、軽く私見を述べます。 一般用語というのは便利で簡明なものを意味するものではなく、むしろ一般という抽象的な言葉に覆われた恣意と錯綜に議論や対話が犯されるリスクを宿した言葉だと考えます。 科学、平等、伝統、性、これらは確かに一般用語、日常に語義を限定されずに用いられる言葉です。 日常会話でそれを突き詰めて話を進めることはまれかもしれません。 しかし、もし、自分が重要だと思ったり、何かを自らの表現で伝えたいと考えるなら、一般用語が胎するリスクは看過されるべきではないでしょう。 小学生には、小学生に分かるように話されなくてはなりません。 しかし、小学生ならぬ身なら、小学生ならぬ身として話すべきというのも同様です。 例えば、今回の「差別」ということに関して述べてみますと。 義務教育で最低2回は憲法について学ぶ機会が保障されています。 一般、日常で「差別」だと思うことに出会った時、司法という国家権力による裁定が私達の日常にはあることも学びます。 つまり、私達が「差別」という言葉を使えば、そこには憲法が不可避的に存します。 同じく義務教育で最低3年間は英語を学習します。 同じ物体・現象に囲まれても、どう切り取るか、切り取ったものをどう体系化して理解しているかというのは違うという言語学の初歩的な知識を学びます。 憲法学、言語学に限らず、専門的な学問は一般や日常と隔絶して存在しません。 学問は一般や日常を精確に理解し、考えるために(も)あります。 最低でも義務教育の9年間、そして9割の進学率がある高校の3年間は、専門となる学問への準備に向けられたものです。 小学生ならぬ身ならば、それを分かっていることになります。 一般用語を一般用語として(を分かって)用いるのは当然宜しいでしょう。 むしろ、一般に用いられる言葉をあえて語ることでの精確な理解は、このブログで試みていることでもあります。 しかし、一般用語というのが、無知や怠惰を意味するならば、それを用いることは首肯できません。 「性」を語ること、「いき」を語ること。で述べたように、「いき」と「いきがる」は違います。 ジェンダー・フリーの結果として男女同室での着替えがあるというのはデマである可能性があること,本当だとしてもそれはジェンダー・フリーという観点からも批判されていることも当然知っておいて然るべきです。 http://blog.livedoor.jp/suruke/archives/17335186.html#trackback 感情ということについて。 区別と差別の違いを掘り下げても、当事者の気持ちは理解できない。 それは当然です。 私は当事者ではありません。 皆が当事者になる必要もないし、なれもしないでしょう。 明日はわが身ということは、わが身である前提に踏みとどまり想像し・考えるということです。 それは、現にこの当事者ではない人間が当事者のように振舞うことではないと、私は考えます。 “(当事者)の気持ちを本当に共有して悲嘆にくれる人が、日本全国で何人いるのだろう?殆どの人は悲しみや苦痛などを共有していない。憎悪だけだ。肉を買ったと申告さえすればあぶく銭をもらえると期待した市民達がスーパー側に拒絶されて、「ふざけんなよこの野郎」と罵倒する程度の憎悪だ。明確な射程などない。冷静になれば自分が何に対していきどおっているのかさえわからない、その程度の憎悪だ。でも、その程度だから怖いのだ。”※ 「差別ではなく区別だ」という言葉を目にして、その使われ方の幾つかに疑問を持ち、それを整理しておこうと意図してこの記事を書きました。 もし、同じ疑問や判然としない感をお持ちの方がいらして、この記事をお読み頂き、何らかの参考にしていただければ嬉しく思います。 また、「差別ではなく区別だ」とお考えになり、その旨を公(※1)で述べる折、「『差別ではなく区別だ』と言えば済むと思っている人もいる」と思う人間もいることをお心にとめていただき、いかに判断したかを論述するお手間を掛けていただけますと、「区別ではなく差別だ」と判断する人間にも説得的な言となりうると思われます。 同時にそれは、「『差別ではなく区別だ』といえば済む」という安易な態度に、外観の類似性によって不本意に与する形となることを防ぐことにもなるかと思います。 感情なき論理は空虚です。 しかし、論理なき感情は暴力を導きかねません。 ※引用部。カッコ内は原文を変更。 ※1特定の多数人、若しくは不特定の人間に対して。
by sleepless_night
| 2005-11-13 20:30
| 倫理
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