“恋愛っていうのは周囲に暗黒がある。その“暗黒”の性質っていうものがどんなもんかっていうのは今話しちゃったようなもんですけど、恋愛っていうものは必ずそういうもんなんですね。もうちょっと突っ込んだことを言ってしまえば、人間が恋愛をする、恋に落ちるということは、そこではじめて、自分を取り囲む、“暗黒”というものがある、そういうものがストーっと自分を取り巻いて来ていたんだっていうことを知ることなんですね。”
『恋愛論』(講談社文庫)橋本治著 “恋人以外の人にのろいをおくらぬとは、恋人を愛するが故に他人を損なうようにならないことだ。恋の中にはこの我儘がある。これが最も恋を汚すのだ。” 『出家とその弟子』(新潮文庫)倉田百三著 大正5年(1916年)と昭和61年(1986年)。 70年の時を挟んだ、この二つの作品には、二つの共通点があります。 一つは、言葉遣いの混乱(未整理)。 もう一つは、恋の普遍性。 (1)言葉の問題 橋本治さんは、恋愛と恋を、倉田百三は恋と愛を、同じものとして扱っています。 恋愛、恋、愛、これらの言葉の整理からはじめます。 『出家とその弟子』は、浄土真宗の宗祖・親鸞の死後に、親鸞の言葉を唯円がまとめた(とされる)『歎異抄』を戯曲化した作品です。(※) したがって、設定は親鸞の生きた13世紀です。 この時代、「恋愛」はありませんでした。 それを考慮してか、同作品中には「恋愛」と言う語は出てきません。 しかし、作品の内容は「恋愛」そのものです。 どういうことか? ① 非常に簡単に言えば、13世紀当時に「恋愛」と言う言葉がなかったと言うことです。 「恋愛」という言葉が日本語の辞書に現れた最初は1887年版『仏和辞林』だと推定され ています。(※1) そして、実際の用例は1870年~71年に出た中村正直訳の『西国立志編』だとされています。当初は、訳語が落ち着かずに、“ラーブ”“ラアブ(恋愛)”などとして、訳語がそのままに使われなかったものの、明治時代を通じて「恋愛」という語は定着して現代に至っています。(「恋愛」という訳語は『仏和辞林』からではなく、幕末から明治で使われた『英華辞典』の系譜に属すると考えられています。) ② では、「恋愛」という訳語が出現する以前はどうしていたのか? その疑問に答えるのが、「恋」と「愛」です。(※2) 「恋」も「愛」も、日本最古の歌集である万葉集(8世紀)に現れる古い表現です。 但し、どちらも現在の意味とは異なります。 ②-1 まず、「恋」について。 現在、「恋」は男女間の一定以上に親密な好意感情を示す際に主に用いられますが、古来はより広い人間関係においての感情を示すために用いられています。 しかし、「恋愛」なき時代において、男女間の愛情表現を担った最たる言葉であることも事実です。 日本における最古の文献資料の一つである記紀歌謡では「恋」を表現した例は非常に少ないのですが、万葉集では相聞歌という分類があることが示すように「恋」を詠った歌が多くあります。 「恋」即ち「コイ」と言う言葉そのものの意味は何か? 20世紀、日本の民俗学の基礎を築いた一人、折口信夫は「コイ」を「タマコヒ」と同根であると指摘しました。 では「タマコヒ」とは何か? 「タマコヒ」とは「魂乞」です。 古来、日本人はミ(身)にタマ(魂)が宿っているのが生きていることだと考えていました。ところが、このミ(身)とタマ(魂)の関係には不安定さがあり、タマ(魂)はミ(身)からふらふらと離れてしまったり、他のタマ(魂)がついてしまったりということがある、そして、それが死であったり、病気であると考えました。(※3) 「魂乞」といは文字通りに、タマ(魂)をコフ(乞う)ことです。 つまり、男女に限らず、親密な感情のある人間関係とは、それぞれのミ(身)が近くに存在することと同時に、ミ(身)の中のタマ(魂)も近くに存在することだと考えたために、その関係がなくなることは相手のタマ(魂)が離れてしまうことだと考えます。 そこで、その関係がなくなること、離別を悲しみ、相手を慕う気持ちを、今は離れてしまった相手のタマ(魂)を乞うことと考え、「コイ」という言葉になったと折口は指摘します。 さらに、万葉集当時は平仮名も片仮名も成立していなかったことから、漢字の音を用いた表現がなされていました。 「コイ」も「恋」以外に「古非」「孤悲」と表現されます。 中でも「孤悲」とは単に音を借用したのではなく、「孤独の悲しみ」という意味を込めているのではないかとの考えがあります。 「恋」という表現を用いた場合にも、万葉集の通例である「~に恋ふ」の「~に」を対象と同時に原因の助詞と解釈すると、「恋」とは相手に引き寄せられる自分の感情を意識すると同時に、相手との間に物理的心理的な距離が存在していることを悲しむという、内向的で受動・消極的な感情を表す言葉だと考えられます。 ②-2 「愛」について。 「愛」については三つのことを押さえておく必要がります。 一つは、「愛」とは「恋愛」の出現以前には「アイ」として今日ほどには用いられなかったことです。 「愛」を「アイ」として用いることと同時に、「愛ず」「愛しい」という表現、つまり、「恋」 に近い自分の内向的な感情表現として用いられます。「愛」が現在のように「アイ」として用いられるのは、「恋愛」と同じく明治以降です。 二つ目に、「愛」にはネガティブな意味があること。 つまり、仏教で言う四苦八苦に愛別離苦とあるように、「愛」には執着(愛着)の意味があったためにネガティブな意味がありました。(このために、室町以降にやってきたカトリックの宣教師は「愛」の変わりに「お大事に」を用いています。) 三つ目に、これは現代でも言えますが、「愛」の用いられる対象は男女間のみではないこと。 「恋」も男女間のみではありませんでしたが、「愛」はより広い対象に用いられます。 ②-3 「恋」と「愛」 以上で、「恋」と「愛」について述べましたが、実は「恋」と「愛」を分ける最も重要な点を抜かしています。 明確に指摘しなかっただけで、内容としては述べてあるのですが、以降のためにもハッキリさせておきます。 「恋」と「愛」を分ける最重要な点は、規範性(社会性)の有無です。 「愛」には規範性がありますが、「恋」にはありません。 これは②-1で述べた「恋」そのものの意味からも分かると思いますが、「恋」は自分一人の気持ちの問題ですから、「~であるべきだ」という要素がなくとも成立します。 端的には、所謂片思いというものを「恋」と表現できることからも理解されると思います。もう少し加えると、一方的に誰かに強い好意感情を向けている人に向かって「愛しているなら諦めろ」ということはできても「恋する気持ち」は抑えられないことが言えるということです。 つまり、冒頭に引用した橋本治さんの文は「恋」についてであって、倉田百三の文は「恋」と「愛」を同じ文脈で未整理に使ってしまっているのです。特に、倉田は“聖なる恋”などと「恋」に「愛」の要素を混在せて用いています。 ③なぜ、「恋」と「愛」を結合させた「恋愛」と訳語が作られたのか。 「恋愛」という訳語が固まる過程で「愛」という言葉を「アイ」として用いることもあったのですが、②-2で述べたように「愛」は広い意味を持っていたために男女間に限定することを示す場合として、それ以前の男女間の感情表現として主だった「恋」をくっつけたと考えられてます。(※4) 「恋」だけでは、二つの理由で訳語としてそぐわないと考えられました。 一つは、②-1で挙げた「恋」の内向性。 もう一つは、次に述べる「恋」に近世における断絶があるからです。 ④近世における「恋」の断絶。(※5) 近世、つまり江戸時代が始まる17世紀やその過程である16世紀になると遊里が整備されました。 それ以前から、もちろん遊女(売春婦)は「遊び女(め)」として存在していましたが、都市が発達した近世からは都市に存在する異界としての遊里が登場します。 遊里は単純に男性の性欲を解消する場としてのみならず、一つの文化を育む土壌となりました。 そこに、「恋」が取り入れられます。 代表的には花魁などの高級遊女との間に擬似的な「恋」の体験がなされ、ついには、遊里という特殊な場所へと「恋」が収斂されます。 もちろん、都市における遊里という異界へと押し込められているわけですから、それは規範性(社会性)を欠く「恋」とは同じものではなく、「色」と呼ばれる独特のものとなります。 「色」では「恋」のような偶然性や危険性は殺がれ、個別性もありません。 遊里という場所にいけば、用意されている安全な遊戯化された「恋」です。 このように「恋」が遊里という場所へと、そして肉体関係の要素を強くもったがために、近世(江戸時代)が終わり近代(明治時代)へと入った時に、「恋」は男女関係における感情表現の主たる地位を「恋愛」へと明け渡さなくてなりませんでした。 ⑤「恋」を断絶させた遊里という場、遊戯としての「恋」はその漢字を生んだ中国が源です。(※6) 「恋」という文字の最初の用例は『易経』(前4世紀)ですが、現代のような意味ではなく「思う」「偲ぶ」の意味で、用例も少なく、晋代(4世紀)になると詩の表現に「恋」が多くなるがやはり男女関係の感情表現には限定されず、中国最後の王朝清でも同様です。 日本では遊里の「恋」を表す「色」は、美しい女性を意味し、広がって現代も使う好色のような欲望を意味します。 「愛」も、男女間のというよりもより広くを対象にします。 では、中国では日本の「恋」に相当した言葉はなかったのかというと、「情」がそれに該当します。しかし、日本の「恋」とは異なり、夫婦間でも未婚男女間でも遊女との間でも「情」という言葉が用いられます。 この言葉の状況が示すように、中国では19世紀にいたるまで男女間の「恋」を思想的に語ろうとうする動きがなく、「恋愛」は日本から逆輸入(「恋愛」という文字自体は宋代の『青瑣高議』にある)されたのではないかと推測されています。 まず、中国では前5世紀には王侯貴族の間では「父母の命、媒酌の言」による結婚とその前提となる男女交際の禁止が常識化しており、媒士という官職が存在することから、広くこのような男女関係の規律があったと考えられています。 つまり、男女関係は個人的なものではなく、共同体の存続という観点からの強度の制約があったと考えられます。 このような厳格な制約が長く維持されたため、夫婦間での感情をも「情」と表現し、むしろ夫婦間の方が主流となります。 そして、未婚男女の接触のなさが夫婦間の「情」を生んだと同時に、唐(7世紀)などの巨大な都を持つ王朝が成立し、それを支える官僚機構が現れると、高級官僚や文人の間では遊里での遊女との交際が日常化します。 ここでの儀礼化された「恋」が日本での遊里にも用いられ「色」となるわけです。 しかし、日本と異なるのは、中国ではやはり「父母の命、媒酌の言」に表される儒教文化によって男女交際の自由が強く阻害され、交際の中で生じる感情の機微を重視する「恋」ではなく、遊里や閨房での技術に収まってしまう傾向が続きました。 (2)言葉を超えて。 さて、ここまで「恋」「愛」「恋愛」と言葉について述べてきましたが、言葉がなくとも、表すものがなくとも「恋愛」はあったのではないか?という疑問が当然に現れます。 対して、“翻訳語「恋愛」によって、私達はかつて、一世紀ほど前に、「恋愛」というものを知った。つまり、それまでの日本には、「恋愛」というものはなかった。”との断言もあります。 しかし、はたしてそうか。 おそらく、“「恋愛」はなかった”という言葉は世間から非常な抵抗を持って迎えられるものでしょう。 基本的には、“「恋愛」はなかった”を私は首肯します。 但し、それは、あくまでも「恋愛」という言葉、そしてそれに括られた概念や感情の集合として認識されることがなかったという意味で、人が人に強い好意の感情をいだかなかったということでは全くありません。 この点について、もう少し丁寧に述べます。 ※)『歎異抄』を戯曲化といっても、『出家とその弟子』の親鸞や善鸞と唯円との間の会話に相当するような内容は『歎異抄』にはありません。念のため。『出家とその弟子』は内容の8割方が新約聖書の影響にあり、キリスト化された親鸞像を倉田が創出したものだと評価するのが相当だと考えます。 ※1)『翻訳語成立事情』(岩波新書)柳父章著 ※2)『日本人の愛』(北樹出版)伊藤益著 ※3)『霊魂感の系譜』(講談社学術文庫)桜井徳太郎著 ※4)『恋愛の起源』(日本経済新聞社)佐伯順子著 ※5)『<男の恋>の文学史』(朝日新聞社)小谷野敦著 ※6)『恋の中国文明史』(ちくま学芸文庫)張競著
by sleepless_night
| 2005-12-11 11:52
| 性
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