飯島愛さんが出演なさったアダルト・ヴィデオ(以下AV)を見たことがあります。
飯島愛さんがテレビのヴァラエティなどに出演するタレント活動をし始めていた頃ですので、1990年台初頭のことだったと思います。 飯島愛さんが相手のAV男優と後背位で性交している一場面だけですが、写真のようにその場面を今でも記憶しています。 飯島さんをテレビに出演しているタレントとして認知していたことも一因だと思いますが、それ以上に、後ろからAV男優に性器を挿入され四つんばいで前後に動かされていた(様に見える)飯島さんの姿から澱みのような疲労を感じたことが大きかったのです。 以来、飯島さんを見ると、この記憶と感情が連想されます。 飯島さんの半自伝的小説『プラトニック・セックス』(小学館)は2000年に100万部以上売れ、映画・ドラマ化までされたとのことですが、こうして思い起こして調べてみるまで、そこまで大ヒットしたことを知りませんでした。 5年という時間に記憶を抗わせるほどの興味が私になかったからなのか、2000年当時も興味がなくて知らなかったのからなのかはわかりませんが、『プラトニック・セックス』は、飯島さんについての私の記憶と感情の連想にひとつの疑問を加えています。 (1)プラトニック・セックスとは、いかなる性交を意味するのか? 私たちの「恋愛」の歴史、「恋愛」の「愛(アイ)」の歴史として最初となるプラトンの愛について述べてみます。(※) ①プラトン的 プラトニックとは言うまでもなく、古代ギリシアの哲学者プラトンを指します。 プラトンは中期の著作『饗宴』と『パイドロス』で愛(エロス)の思想を語っています。 ①-1 『饗宴』は悲劇詩人アガトンの催した祝勝宴でなされた愛の神(エロス)への出席者それぞれの賛美の演説を取り上げたものです。 第一の演者ファイドロスは愛の神(エロス)は神々のうちでもっとも古く、徳と幸福の源泉である。なぜなら、愛する者(少年)の存在こそが愛する者にもっとも恥の意識を惹起させ、もっとも勇敢に戦わせることができるからだと主張します。 第二の演者パッサニヤスはファイドロスの演説へ修正を唱え、エロスを万人向けのものと高貴なものに分けます。前者は、男女を問わず魂よりも肉体を愛し愚昧さを深める。後者は、理性と力強さ故に、女性よりも男性を、少年よりも年長の青年へ向かわせ、導く者と導かれる者として智と徳の増進に結合するものと主張します。 第三の演者エリュキシマコスはパッサニヤスの主張するエロスの二分を支持すると同時に、より広くエロスを捉えます。肉体においても健全優良と不良病素、音楽の和音、季節の変化による繁殖と疫害、神々への人間の犠牲と占いについてもエロスが役割を話していると主張します。 第四の演者アリストファネスは愛の神(エロス)への賛美を人間の原型から主張します。アリストファネスによると人間には男・女・男女と三種の性があり、4本の手と脚を二つの顔を持つ球状の姿をしており、力強く気高い存在だったために神々に挑戦するに至った。神々は人間を弱体化させるために真っ二つに切断した。人間は切断されて以降、再びひとつの体となることを切望するようになり、この完全な姿への憧憬と追及がエロスだと主張します。 第五の演者アガトンは前の演者たちはエロスのもたらす福利を賛美しているが、それ以前にエロス自体の本質を賛美するのが先だと主張します。愛の神(エロス)は神々の中の最年少者であり、これは、愛の迅速さと年若い者に常にあることからわかる。エロスは柔軟でもあり、これは愛が柔らかな魂に宿ることからわかる。そして、強制や不正によって愛が成されないから、エロスは正義であり公平である。エロスに触れたものが勇敢であり詩人となることから、エロスは勇敢であり智恵でもある。醜悪によって生じないことからエロスは美でもあり、美は善である。 最後の演者ソクラテスはアガトンの否定から始めます。 愛(エロス)とは何物・者かへ向けてであり、何物・者かを所有していないことから求める。エロスが美しく知恵を持つなら、エロスがそれらを求めるはずはない。したがって、エロスはそれらを有しない。 ソクラテスはディオティマという識者から聞いた話としてエロスについて語ります。 エロスは無知でも醜でも悪でもない。 エロスは術策の神ポロスと貧窮の神ぺニヤの子であり、母によって貧しさや汚さを、父によって勇敢さや術策をもち、決して富裕になることも困窮することもない、中間にある。 中間者とは求める者であり、美や智や善を追求することが愛(エロス)である。 エロスとはそれらの永遠の所有へむけられたものだといえる。 死ぬべき存在である人間は、美しい者の中の懐胎・出産によって不死を目指す。 肉体以上に魂における徳を教育によって若者の中に残し不朽を目指す。 この愛の奥義に参するためには、若いうちから美しい肉体を愛し、その中に美しい思想を産み付けなくてはならない。そして、最初の美しい肉体は他の美しい肉体と姉妹関係を持っていること、あらゆる肉体の美が同一不二であること、そこから、肉体上の美よりも魂上の美を価値の高いことを悟らなくてはならない。 ①-2 『パイドロス』は、当時の高名な弁論家リュシアスが語った愛(エロス)に関する弁論について、『饗宴』の第一の演者ファイドロス(パイドロス)とソクラテスとの対話を記したものです。 リュシアスの「恋(エロス)によって相手を選ぶべきではない」という演説を賞賛したファイドロスにソクラテスは同じ主題でより優れた演説をし、さらに、リュシアスの演説も、ソクラテス自身の演説も聞こえのよさだけであり内容は真実ではないことを伝えます。 そして、愛の神(エロス)へ、真実ではない内容をもってその名を汚したことを雪ぐために新たな演説をします。 ソクラテスは人間の魂の本質について語ります。魂は不生不滅であり、天界において神々に従い諸々の真実の相を見る。諸々の真実の相のうち、美は天界においても、地上においても輝き、人間の知覚を刺激する。人間の内の魂は、魂において見た真実の美を想起、それを求めて翼なき鳥のように不可能な飛翔を欲望(マニア)する。美を備えた存在の放射によって魂は美を求めるもだえから救われ喜びに満ち、離れると苦悶し、相手を自らの魂の癒してとして崇敬する。この心情が恋(エロス)である。かくて、恋を装うものではなく、真に恋するものによって身は神のごとき奉仕をうけ、恋するものの言葉や優しさに感動し、こたえの恋(アンテロース)が生まれる。そして、互いの魂に満たされた情念の力で魂は失われた翼を生じ、神々の世界に向けた道へと踏み出すことができる。 ソクラテスは、この命題の真偽について両方の演説をすることで、弁論による真実発見の術についてファイドロスに語ります。 ② この二つの作品からプラトンの愛(エロス)についての思想を整理するとこうなります。 まず、人間の愛(エロス)はかつて見た真実の美の相を魂が想起すること、自分の中にない美を求めて生じる。 美を求める心情は、美しい肉体を通じて美しさそのものへと向かう(確かにプラトンは魂の肉体に対する優越を認めているものの、美という真理へは、美しい肉体を通じて接触することを述べているので、プラトン的(プラトニック)というのは単純な肉体や外見の否定とは解釈できない)。 真実の美への崇敬から求めるものは欲望の暴走を理性の働きでおさえ、受け入れられた愛(エロス)によって欲望は性交として実現する。そして、真実という永遠を欲するのと同様に、性交の実りは永遠への望みである。 ③ こう考えますと、『プラトニック・セックス』とは真実の獲得へと向けた人間の働きとしての性交を意味すると解釈できます。 同著は未読ですし、映画もドラマも未見ですので、飯島さんの人生がこのような営みであったのかは不明ですが、近いうちに読んで確かめたいと思います。 (2) さて、紀元前4~3世紀の古代ギリシャの思想は、やがて紀元の境目となる出来事で大きく勢力を損なわれます。 紀元、すなわち、キリスト紀元、イエスの生誕です。 イエスの新しい思想は、福音書という形で現在に伝わっています。 常識と思いますが確認しておきますと、福音書は、マルコ、ルカ、マタイ、ヨハネの四つで、成立はこの順に紀元60~90年の間だとされています。 最後に成立したヨハネ伝はギリシア文化の影響下にあったためか、従来の愛の表現としての主流であるエロスをエロティックな意味合いから避け、アガペーという表現でイエスの愛を表します。 初期のキリスト教はユダヤ教色の強い部分とアガペーの思想をもたらしたギリシア色の強い部分がありました。(※1) ギリシア色、ヘレニズム的な肉体と魂の二元論の受容はユダヤ的な性関係への一般視から罪悪視への変化をもたらします。初期のキリスト教にとっての最大の異端グノーシス主義との接触によって理論・制度の早急な整備を進める中でヘレニズム的な要素を利用しました。権威の混乱から、教会と信徒の整備が必要とされ、信徒集団を律する性規範が要請されます。そこに二重規範が生じます。すなわち、エロスとアガペーです。 教団の構成員として子孫を必要とし、同時に性交を要請すること(エロス)とヘレニズム的な禁欲と魂の優越(アガペー)をいかに調整するかが問題化します。 解決策として、教会は専門の聖職者集団と信徒という集団を二分化し、禁欲をする聖職者集団のアガペーによって、その他の信徒の生殖・性交(エロス)に救いを与える仕組みを採ります。 これは同時に、ユダヤ教の律法のような外形的な社会規範の色彩の強い性の規律・拘束から、規律の内面化・浸透を促したことも意味します。 つまり、ユダヤの律法のように人間の行動を外形的に拘束することで規律を維持するのに対して、イエスの説教では喩えや抽象的な黄金率を提示するにとどまり、聞くものにとって基準は明らかにされません。具体的にいかなる行動をとればイエスの愛に適うものなのか分からないにもかかわらず、イエスの示した愛(アガペー)を把握しておかなくてはならない。そこに不可視の規律の覆いが生じ、人々は不可視の中心にある愛に向かって、超空間的に結び付けられることになります。そして、愛を判断する正当権を教会が把持します。 “千八百年の間教会は人間の愛を、いわば去勢した形でしか、隣人愛の姿でしかみとめようとはしなかった。そうした形をとった愛はもはや性的魅力とは無関係で、したがって結婚論議にも例外的にしか登場しなかった。中世を通じて、愛が夫婦の抱擁の正当な目手となることは決してなかった。配偶者に対する義務の履行、生殖、それだけが夫婦交接の理由として認められた。”(※2)といわれるように、愛はあくまでも不可視の中心点である神(そして教会)の専売特許となったのです。 (3) このような愛と性交の専売制にあっては、当然、自慰(オナニー)などもってのほかということになります。 オナニー、オナンの罪は“ユダはオナンに言った「兄嫁のところにはいり、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫を残しなさい」オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入るたびに子種を地面に流した。(創世記38章8・9節)”を指し、本来は広く膣外射精を意味します。 6世紀から11世紀の懺悔聴聞規則書では反自然の罪として2年ないし10年の贖罪断食が規定されていますが、聖職者による自慰であっても実際は50日の贖罪しかかされていない小さな罪として扱われていませんでした。(※3) 自慰が現在ほどに着目されるのは、18世紀に入って宗教的罪悪から医学的病気へとオナニーが移ってからです。(※4) これは、近代に入っての子供観・青年観が大きく関係します。つまり、近代社会の産業によって生産の場・教育の場と家庭の役割が大きく分離し、教育や医療が発達したことで、子供は大人によって保護し・教育されなくてはならない存在として家庭の中心に位置するようになります。家も使用人などが同居する仕切りのない構造から個室化がすすみます。そうなると、教育により文字を読める子供・青年が自分の個室で読書するという習慣が誕生し、さらには、ポルノ小説を読みながら自慰をするという“オナニー空間”が成立します。 “オナニー空間”は大人の保護によって誕生し、逆に、大人の監視を妨げ不安を増させます。 この不安はオナニーを宗教的罪悪から医学的病気へと表現されるようになりました。 現在では、自慰が病気であるとの言説は、少なくとも教育や医療の場では流通していないと思います。 自慰は“オナニー空間”の発達とともに産業を作りました。 日本では1970年台以降の団地によって子供の個室化が進み、同時に、一家に一台だったテレビが個室へと備わるようになり、80年台ではビデオが普及します。 この一連の“オナニー空間”の変化は、“オナニー空間”の到達点と言い得るほどに大きなものだともいえます。 「こんなに清楚で可愛いのに、ほんまにセックスするんかい」との言葉に代表されるAVのアイドル路線からナンパやブルセラやレイプなどリアリティを追求した企画モノを経ての頭打ち、この一連の試みが個室の“オナニー空間”で人知れず、しかも日常裏に起きていたことは興味深いことです。 “オナニー空間”の成立以来、追い求められてきた自慰の補助としての性交の姿、ファンタジーが、AVの出現・発展によって終に“オナニー空間”において実現したのです。 それは、文章でも音声でもなく、公開の空間ででもなく、個室において映像によって実現された。私的領域故に秘され、追い求められた性交の実相がAVによって、私的空間に、しかもファンタジックに再現され、それが性交と同様に日常的なものとして位置を持ちえるようになった(さらには、実際の性交を浸潤することにもなった)のです。 (4) 美しさを求め、AVにアイドル路線をとっても、リアリティ(真実)を求めて企画モノをとっても、自慰が自慰であるゆえに、ない翼を羽ばたかせる魂のように無力に地上に留まったままである。 自慰は宗教的罪悪からも医学的病気からも切り離され、中空に飛び交う電波が伝える「恋愛」と漂う。 プラトン的な試みも潰え、イエス的な規律も消失し、“オナニー空間”の到達が残される。 そして、AVに出なくなった飯島愛さん。 飯島さんのプラトニック・セックスは、挫折した“オナニー空間”に代わり、何かを掴み得たのでしょうか。 次回も引き続き「恋愛」の歴史についてです。 前回→「恋愛」/言葉を超えて ※)『饗宴』(岩波文庫)プラトン著 久保勉訳 『パイドロス』(岩波文庫)プラトン著 藤沢令夫訳 ※1)『性愛論』(岩波書店)橋爪大三郎著 ※2)『結婚に関するキリスト教教義』(『性の歴史』藤原書店収録)J‐L・フランドラン著 ※3)『西洋キリスト教世界における避妊・結婚・愛情関係』(同上) ※4)『性への自由/性からの自由』(青弓社)赤川学著 ※5)『AVの社会史』(『色と欲』小学館 上野千鶴子編)赤川学著 赤川学(信州大学助教授)さんは日本のオナニー界においてオナニー三部作の金塚貞文さん、実践の杉作J太郎さんと並ぶ巨星。
by sleepless_night
| 2005-12-29 19:44
| 性
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