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国旗に向かって

 出生率の低下が止まらず、実効性のある解決策が見出されない中、アメリカ合衆国の出生率維持に着目し、愛国心こそが鍵となっていること分かった。
 そこで、政府は次のような政策を実行する。 
 
【教育】
 文部科学省は、以下の項目の指導徹底する。
 ・国旗掲揚国歌斉唱時の起立。
 →起立は、教員の掛け声対して、全生徒・学生が即時・一斉になされること。
  起立時の視線は国旗(中央部の赤地)に向けられること。
 ・国歌斉唱時の声量指導。
 →健康診断時に、通常声量を測定し、斉唱時は当該数値の1・3倍以上であること。
 ・小学校高学年以上の男子生徒、学生は国旗掲揚と同時に、男性器を勃起させること。
 ・小学校高学年以上の女子生徒、学生は国歌斉唱時に、陰核を勃起させること。
 →国家のことを想起してなされることを確認する。
  性教育において、性交は生殖を主目的とし、生殖は国家繁栄を願ってなされるものとすることを徹底する。
  山崎拓氏、中川秀直氏監修の元で、愛国心に基づく性交の指導用ビデオを作製し、これを性教育時に使用する。
 
【厚生労働・年金事業】
 国民年金事業で国営ラブホテル(通称名:クリーン・ペア)を運営する。
 →室内は純和風。
  床の間には国旗、ご真影。
  ホテル室内に入ると同時に、君が代が流れ、両人の愛国欲動が刺激される。
 →住民基本台帳カード内臓のICチップに記憶された生理周期で、排卵予定日にあたる日の場合は利用料金を無料とする。
 →男性用避妊具(コンドーム)は無料配布するが、一定割合で精子が浸透する構造のものを混入する。
 →寝室に、同日の宿泊者が全員妊娠した場合の国民年金制度への寄与が一目で分かるようなグラフ等を電光表示する。


 教育と年金という二つの大きな問題が、大好きな愛国心で一気に解決できる。
 と言うのは、勿論冗談で

行為そのもののただ中では誰ひとり思い浮かべもしないのに、その行為を価値付けるためにまことしやかに語られると言うことこそが、イデオロギーというものの特性ではないか。中略。二〇〇二年七月、「少子化対策」について発表する坂口力厚生労働大臣は、興奮に震えた口調で「民族の滅亡」への恐怖を語ったのだから。別の政治家は「産む産まないは個人の自由といった考え方を少なくしなけらばならない」と付け加えた。だがこれほど露骨な言い回しはしなくても、結婚や子供をつくるという営みをすぐさま高齢化だの年金だの次世代の再生産だのといった語彙に結び付けて語りたがる人たちは、みな本質的には同類である。かれら自身が率先して「年金崩壊を守るため」と念じながらセックスしているなら、その言い分を真面目に受け取る余地があるだろう。だがそんな人はどこにもいない。かれらもまた、国家のためではなく自分のために結婚し、ただ欲しかったから子どもをつくり、可愛いから育てているはずなのだ。もちろんそれはそれでよい。危険なのは、そこに後からもっともらしい理屈が書き加えられ、どこまでもプライベートなものであるべき性や生殖が第一義に「国家」や「民族」の問題として語られるときなのだ。(念のために付け加えておくが、これは年金制度改革や生殖医療や子育てに対する公的な支援そのものを否定する議論ではない。それらはまさに個々人のプライベートな生そのものを尊重するためにこそ必要なのだから)”
   『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』加藤秀一著(ちくま新書)


 
 “昨今の教育基本法で愛国心がどうたらとくだらねー議論をしているのは、当為としての愛国心であって、事実としての愛国心ではない。先進国の出生率は事実としての愛国心に支えられているのではないか。”
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 文章全体から判断して、“愛国心”の“国”とは統治機構を指すわけでも、国家(state)を指しているわけでないでしょう。
 しかしそれなら
 “マルタ島の街角で子供がたちがわーっとベビーカーを囲んでいた光景を思い出す。沖縄でもそうだった。赤ちゃんがいるーとかいうだけで子供が集まってくる光景。”を思い浮かべるなら、“国”を持ち出さなくてもよいのでは。(※)
 目の前にいるのは“国”という名の赤ん坊ではないのですから。


 「愛国心=出生率」はある種の議員にとっては美味しすぎるネタです。
 ある種の議員とは「国のため」「年金制度のため」に性交できるらしい人々ですので、あまりいなさそうではありますけれど。
 しかし、どうも重要な場所にその人々がいて、自分達の性的嗜好を国民に押し付けたがっているようなのです。


 国家(統治機構)に生殖や出産が簒奪された成果の一つであるライ予防法が廃止されて十年、行政責任・国会の謝罪決議から五年しかたっていない。
 彼ら・彼女らにとってその歳月は、忘却に十分なものなのでしょう。
 





※)“事実としての愛国心”の“国”という語が想像させる先というのは、国(nation)ですらないのではないか。
 触れることのできる場や日常への愛着が“事実”としてあるのであって、それは“国”という「公共性や共同性を託せる幻想の場」を指すことができる語で表現されなくてもよい。
 勿論、国のことを考えるのに、国という語を用いないわけにはいけないのですが、“国”が統治機構に用いられやすいこと、特に統治機構が国民の内面へ介入したがる、社会の仕組みの問題を個人の問題へ転嫁して解決しようとする最近の動きを考えると、相当の注意があってもよいのではないかと思います。
 
 
   
by sleepless_night | 2006-06-05 21:53 |
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