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日本のブスは美しい。

“ブスは悪いことではない。仕方のないことだ。”
      『ブスの瞳に恋してる』(マガジンハウス)鈴木おさむ著


ブスに関する考え方)
 『ブスの壁』(新潮社)高須克弥著の記述を材料とした分類。
①ブス本質主義
“生物はよりよい子孫を残すため、本能的に自分のもっていない優れた遺伝子を持った配偶者を選ぼうとします。”(p105)
 生物的本能による選別、あるいは、美のイデアのような本質があり、生物的・本質的なブスは存在するとの考え。
 
②ブス相対主義
 “美の基準は常に変わっています。昨日の美人は今日のブスです。”(p105)
 ブスとは地域と時代の基準によって判別されるものであって、本質的な要素はないとする考え。
 時代の権力を握ったものによって決められた基準によってブスは認定されている。
 北朝鮮でもっともいい男は将軍様、となる。  

③バランス相対主義
 “平均的なのが美人で、そこから突出したのがブスと呼ばれてる”(p218)
 時代や地域によって好みはあるが、バランスのよさが美人には必要、ブスはバランスが悪いことが必要。
 バランスという点では本質主義的だが、結果的に現れる美人やブスは相対的な基準によるという点で相対主義。
 美術で言う黄金比率などと同じ考え方。
 “目鼻立ちのバランスがととのう。この感覚には、時代を超えた普遍性がありはしないか。確証はないが、あんがい美人の目鼻立ちには、昔から一定の基準があるように思う。”
 『美人コンテスト百年史』(新潮社)井上章一著
 にも同様の思想がみられる。

④技術的相対主義
 “美の基準を自分の好みにしてしまうことです。中略。一般人からいったん高い評価を受けてしまえば、あとはなんでもありが美の世界のおもしろさです。”(p21)
 “ブスと言われようが「私は美しい。いまにみておれ」と頑張るあなたを高須クリニックは応援しています。信念はいずれ現実化します。美の基準はいくつもあるんです。”(p110)
 本質主義的なものがあろうがなかろうが、技術的に顔を変えることが可能なのだから関係ない。現実の顔を変えることができるし、基準に合わせることも、基準を合わせることもできるという点で相対主義の一つと考えられる。


非対称性) 
 美人とは、美しい女性の人という意味を指し、社会的に男性に関しては用いられない。
 美人の対応呼称としては美男子。これは成人男性にも用いられるが、「男子」という文言が示すように、男性の容貌の美を問うに当たっては正面から想定されているものではないと言える。
 つまり、容貌の美とは女性にとって意味(重要性)を持つが、男性にとってはそれほどの意味を持つものではないと考えられる。
 近年、美男子ではなく「イケメン」という言葉が多用されている。
 これは容貌の好ましい男性を指すものだといえるが、「イケメン:行けている男性」という言葉を見れば、単純に容貌の問題で判別されるものではない。
 つまり、「行けている」とは、「いかす」から派生しており、「いかす:気が利く」というように外観ではなく機能的な要素を基準としているものであるため、「イケメン」とは容貌以外の機能的(能力的)な要素によっても認定されうるのだといえる。


もうひとつの相対主義)
 上記で『ブスの壁』を用いた分類を試みたが、もうひとつの分類がありうると思われる。
 相対主義として②に含まれるのだが、メディアの(利益関係などの)上で「美人」として扱われることを通じての美人が存在している・しうると思われる。
 それは「美人」だと本当に思っている集団に支えられている場合もあれば、本当に思っていないがメディア上のポジションとして「美人」であるとされている場合もあると思われる。
 メディア上で「美人」と認定され、ラベリングされて、流通している。そのポジショニングについて大衆はたいした関心を持っていないために、流通状況に変化は起きない。
 これは能力と関係する「イケメン」の方がわかりやすいかもしれない。
 「イケメン」は外貌以外の要素を持つので、「美人」以上に相対的なものとなりうる。


ブスである意味)
 映画『愛しのローズマリー』は、美人に固着的な嗜好をもつ男性が催眠術をかけられて外見ではなく内面の美しさを見ることができるようになる話。
 「人はやっぱり、外見ではなく、内面が大切だよね」という教訓を与えたかったと思われるこの映画は、結局、内面の美しさを外見の美しさへと表した点で教訓とはならず、さらに、外見も内面も美しい人を探せば済むという点(映画では外見も内面も変わらない美人が出てくる)で終わっていると言えます。
 『ブスの瞳に恋してる』の著者、鈴木おさむさんは美人を振って“リスペクト”できる現在の“100人中101人がブスだと答える鳴り物入りのブス”である奥さんと交際0日で結婚しましたが、鈴木さんもリスペクトできる美人を探せばよかったのではないかとも思えます。
 しかし、映画の話は措くとして、鈴木さんと大島美幸さんの二者関係にしぼれば、ブスであるということはどのような意味を持つのか。
 大島さんにとってブスであることは、「芸人」として必要であり、その「芸人」であることへの“リスペクト”が鈴木さんには必要である。
 とするならば、ブスであることは二者の間においては間接的なもの、二次的なことであると考えられます。つまり、「芸人」という対社会的な側面としてブスであることは重要であるが、二者間だけを見るとそれは二次的(「芸人」への尊敬をささえるための材料)でしかない。
 

日本のブスは美しい)
 大島美幸さんはメディア上のポジションとしてブスであることは確かでしょう。
 しかし、ブスに関する上記の分類を通して考えると、どうなるのか。
 ブスと言えるのか。
 ブスという言葉が語源であるトリカブトの毒を飲んだ際の無表情から考えれば、その毒々しさが大島さんからは私は感じられず、ブスと呼びづらい感覚があります。
 同書の著者近影にある鈴木さんと大島さんのお二人は「似たもの夫婦」と思え、男女の美の非対称性を強く感じさせるものです。

 人に目があり、視識がある限り、人は美醜を判別し続ける。
 「外見ではなく、内面が大切」という教訓を伝えるために『愛しのローズマリー』が美人であるグウィネス・パルトローを使わざるをえなかったように、それは不可避である。
 外見の美は、やがて衰える。
 人の外見が移ろい易いことを伝えるときに持ち出されることです。
 だが、外見が衰えるのは美醜に関係なく、むしろ、醜がより衰えるなら、美が衰えたものよりも大問題ではないかとも言えます。
 しかし、外見以上に、人の心は移ろい易く、規格品のような安定した一般的なありかたをしない。
 それは、心変わりという悲しみを生むが、反面、人と違うことがその個人や二者関係では直接的に重大性を持たないことをも意味する。
 だから、ブスは美しい、と言える。



追記)『ブスの壁』は、高須クリニックの院長高須克弥さんの著作です。この本を読むと、あのテレビCMが理解できるような気がします。何を言おうが、部分部分がつながっていようがなかろうが、最終的に表したいことは「YES,高須クリニック!」ということなのだなと、納得させられました。


補論)
上の記述は結局、相対主義を採っていることになるでしょう。
私見を述べれば、最も近いのはバランス相対主義です。
ただし、「美」という言葉を取り上げてみればバランス相対主義にもあてはまらない部分が確かにあるとも思います。
言葉内部の問題に過ぎないのかもしれませんが、「~は美しい」との表現には、バランスの良さを表すこと以外に、人間の感受容量を超えた圧倒的な事象を表すことがあります。
美醜という相対的な比較可能性を超えて圧倒され、形容を絶するような場合に「美」があてはめられるのです。
具体的には、神秘的な崇高さを「美」と呼ぶ場合や意図的な特徴の誇張(アンバランス)で構成された作品の「美」です。
前者の場合、一般的な「美」の基準では該当しない、むしろ極めて外れたものにもかかわらず「美」といわれます。そしてその美は、生きていることにとても身近にあるようなものだと思います。「愛しさ」と言ったほうが一般的に適切なものかもしれませんが、「愛しさ」という心が対象に密着する以前に、対象から直感的に与えられるものがあり、それが「美」と言われるのでしょう。
密着する以前のものですので、セクシュアリティとの関係は薄いものとなります。
ですので、この観点から「ブスは美しい」と言うことは、バランス相対主義を利用した「ブスは美しい」とはことなります。
 

 
 
 
by sleepless_night | 2006-10-29 11:44 |
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