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遺体の国の21グラム。   前篇




“おもしろく、新しく、役に立つことができるかもしれないのに、じっと寝そべっている必要があるだろうか?”
 “いろいろ体験できるかわりに、死体は分別、切開、再配列され、かなりの血をながす。しかし、大切なことがある、彼らは何も我慢するわけではない。(略)この素晴らしい力を人類の向上のために使わずに無駄にする手があるだろうか?”
 “死体で問題なのは、外観があまりにも人間らしいことだ。”
 『死体はみんな生きている』メアリー・ローチ著 殿村直子訳(NHK出版)


“我々には、脳死が人の死かどうか、臓器を摘出すべきかどうかについて、迷う自由があります。この自由を人々から奪ってはなりません。
 迷う自由を保障するもの、それこそが、本人の意思表示の原則であります。
 すなわち、迷っている間はいつまでも待ってあげる。もし決心がついてら申し出てください。
 これが、本人の意思表示の原則なのです。”
 “こどもたちには、自分の身体の全体性を保ったまま、外部からの臓器移植などの侵襲を受けないまま、まるごと成長し、そしてまるごと死んでいく、自然の権利というものがあるのではないでしょうか。そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、本人がその権利を放棄することを意思表示したときだけではないでしょうか。”
 感じない男ブログ「長期脳死、本人の意思表示@参議院での発言」 森岡正博


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(1)新旧の比較と逆転した関係
 第171国会に4つの臓器移植法改正案が提出され、6月18日衆院を通称A案が賛成263、反対167で通過した。
 同法案は主に現行法(臓器の移植に関する法律)6条を以下のように変更・追加することを示している。
 
6条
1項
 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるために臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。 
 医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死したもの身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
 一 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。
 二 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。
 ⇒この“以外の場合”に15歳以下の脳死状態の患者は含まれるので、現行の本人意思を必須とするために、意思表示が法的に有効とみなされる年齢である15歳の制限をクリアできる。

2項 
前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ってと判定されたもの者の身体をいう。
 ⇒移植のために摘出する場合の限定を外して、脳死は全般的に人の死だとする。

3項
 臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第一項に規定する意思の表示に併せて前項による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。
 臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。
 一 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意識がないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がいないとき。
 二 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により書面により承諾しているとき。
 ⇒家族が同意するか、家族がいないことが必要でったのは現行改訂案で同じ。違いは、旧3項では本人が意思を積極的に提供の意思表示をしていることが必要だったのが、改訂案3項では“判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合”と“意思がないことを表示している場合以外の場合”とで本人に積極的に拒んでいない場合を含めていること。
 4項
 臓器の摘出に係る第二項の判定は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の意思(当該判定がなされた場合に当該脳死した者の身体から臓器を摘出し、または当該臓器を使用した移植術を行うこととなる意思を除く。)の一般に認められている医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより行う判断の一致によって、行われるものとする。
5項
 前項の規定により第二項の判定を行った医師は、厚生省令で定めるところにより、直ちに当該判定が的確に行われたことを証する書面を作成しなければならない。
6項
 臓器の摘出に係る第二項の判定に基づいて脳死した者の身体から臓器を摘出しようとする意思は、あらかじめ、当該脳死した者の身体にかかわる前項の書面の交付を受けなければならない。

6条の2 の追加
 移植術に使用されるための臓器を死亡した後に提供する意思を書面により表示している者又は表示しようとする者は、その意思の表示に併せて、親族に対し当該臓器を優先的に提供する意思を書面により表示することができる。
 ⇒現行6条にはない親族への優先提供規定。おそらく、生体移植で移植先を親族へ指定できることにあわせたのだろう。


 この法律案については衆院通過前にはマスメディアでも相応にとり上げられ、A案が脳死を人の死とし、15歳以下の移植を可能にすることを伝えていた。
 だが、この改訂にもっとも根本的な変更点はこの2点では(直接的には)ない。
 現行6条2項には確かに、“その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって”とう限定があることで、脳死全般が死ということにはなっていなかった。
 しかし、脳死が人の死として含まれるかどうかという点では現行と改訂案で一致して含めているので根本的な思想に違いは認められない。新旧で向きは一緒だ。
 違いは3項の変更部分で指摘した様に、現行3項では必須だった本人の積極的意思表示を改訂案3項では不要に、積極的に拒絶しなければ臓器摘出を認めたところにある。
 これは現行法の大原則を転換したことを明確に意味している。

 臓器提供には2つの方式、コントラクト・インとコントラクト・アウトという方式がある。
 コントラクト・インは現行法が採用している方式で、臓器提供者の積極的な意思表示によって臓器が提供される。
 コントラクト・アウトは新臓器移植法となる改訂案・通称A案が採用している方式で、ドナーとならないという意思表示をしない限り臓器提供の意思があるとみなされる。
 つまり、臓器提供というコントラクト(契約)に対して、入る意思(イン)を表示させる制度化、出る意思(アウト)を表示させるかという違い、契約の前提が逆の立場の2つの方式があるということ。
 コントラクト・アウトには、「弱い」コントラクト・アウトと「強い」コントラクト・アウトの2つがあり、家族によって拒否権があるものが「弱い」コントラクト・アウトで、コントラクト・アウト方式を採用してる国のほとんどがこれを採っている。

 臓器移植法は大きく2つの理念に基づいている。
 臓器移植法2条(これはA案でも改訂されない)の1項2項がドナーの任意性を規定し、3項4項がレシピエントへの臓器提供の公正さを求めている。
 倫理学(医療倫理)でいえば前者が自己決定の原則(自律の原則)で後者が正義の原則に該当する。
 
 そして現行法6条はドナーの自己決定権(自律)原則の具体的な内容を規定している。
 「自己決定(自律)の原則」は人体の不可侵の原則にも基づくものであり、医療のみならず近代法の原則にも含まれる。
 私たちは国家権力はもとより、他者からも自己の同意なく侵襲されない自由と権利を有している。
 もっと言えば、自由の最も基盤にあるのは「ほっておいてもらう自由(let me alone)」であるということ。
 例えば、誰もレイプ拒否の意思表示を書面化されたものを持っていなくとも、レイプさらない自由と権利を持っている。レイプ犯が「相手を気絶させて、荷物をあさってもレイプ拒否の書面がなかったからレイプしていいのだ」と言ったとしても、誰もレイプ犯を擁護しない。私たちは何の意思表示をする義務も責任も無く「ほっておいてもらう自由」があるからだ。本人が触っていいと言わない限り、他者に体を触わられる・侵される筋はない。
 この原則があるから、わざわざ現行法は本人の積極的意思表示を必要とし、加えて社会的要請から家族の同意までを必要とした。
 これを整理すれば、

             原則=不可侵   例外=(本人意思で)可侵

 ということになる。
 もちろん、この原則例外の裏には
          原則=脳死は死ではない 例外=(本人意思で)死と認める
 という関係も存在する。
 だから、マスメディアで盛んにA案の改訂点とする「脳死は人の死」「15歳以下も可能」というのを法改訂の要点とするのも間違いではない。特に「15歳以下」という制限はこの同意の可能不可能にかかっていたので強くこの原則例外に係る。だが、問題は決して15歳以下にとどまるものではないことを「15歳以下」云々は忘れさせる。

 改訂案は上記の原則例外の関係で示せばこうなる

              原則=可侵   例外=(本人意思で)不可侵

 そしてこの裏に
          原則=脳死は死 例外=(本人意思で)死ではない
 という関係がある。これはあくまでも裏でしかない。

 「脳死は死」だから「可侵」なんじゃないか、「脳死は死」と全般的に認めた時点で、同意も「不可侵」も関係ないから、新法は原則を「可侵」にしたんじゃないか、というのは考える序列が違う。
 「可侵」にするために「脳死は死」だとするのは現行法以来の発想であり、もっと言えば脳死の発想である。 これは一貫している。移植の可能性が生じ、ドナーが捜された結果、不可逆昏睡・超昏睡が脳死とされたという経緯を見ても、現行法の制限をもってしてまでの「脳死は死」を見ても、「可侵」だから・にするために「脳死は死」と言うのが考える順序だ。
 「可侵」にするための「脳死は死」という一貫した発想にもかかわらず、上記したような医療倫理の原則、近代法の原則があったからこそ、現行法は原則「不可侵」という体裁を採らざるをえなかった。

 だがついに改訂案で、この「可侵」だから・にするため「脳死は死」という思考が現行法の原則例外をひっくり返した。
 ま逆の思考に基づく根本的に異なるものが、あたかも法律の部分的な改訂案かのようにして提出されて衆院を通過した、ということになる。

 臓器移植法は2条で2つの理念、自律と正義の原則を規定していると上述した。
 その両方を、この改訂案・A案は実質的に反故にているのだ。
 自律の原理は上記したように、6条の改訂によって。
 正義の原理は改訂案が新設した6条の2によってだ。
 ドナーの意思によって親族へ臓器の優先提供が可能だとされているが、これは医療の現場において患者が医療上の判断のみによって公正にあつかわれるべきとする正義(分配的正義・公正)の原理に著しく反している。有力者の子弟である、資産がある、コネがある、それらの有無で受けられる医療が変わるということと同じだ。
 もちろん現実に、カネとコネで受けられる医療が変わる、助かることと助からないことがある。しかし、現実の不公正、不正義を法律が追認することと、現実があるということは別だ。
 (この6条の2については、A案作成に大きく影響を与えてた町野朔上智大教授もこの条項には移植の公正を損なうと批判的。そもそも、臓器のレシピエントとなる人間がドナーの生死を決定するというのは無茶苦茶な話だ。ドナーの命がレシピエントの欲望に直接さらされることはもちろん、「家族を殺して自分は助かる」ことを迫られるレシピエントに対しても残酷だ。過去に脳死患者から親族へ指定して臓器提供がなされたことが1件ある。2001年に60代男性が脳死状態になり生前から親族へ臓器提供を希望し、家族も親族以外なら提供しないということで臓器移植ネットワークの移植待機者リストに載っていなかった親族2人への移植を、厚生労働省はこのケースに限り許可した。のちの厚労省検討会で公正の観点からレシピエント指定は認めないという結論が出された。 親族優先規定はA案の提案者である河野太郎衆議院議員が父河野一郎衆院議長へ生体肝移植したこと、脳死患者からの臓器提供が増えれば自分がドナーにならずに済んだという思い、が影響しているとも推測される。また、A案の衆院通過自体に河野一郎衆院議長への花道をつくろうとする説得が働いたことも言われている。もしそれが事実ならば、全国民の生命にかかわる法律が権力者親子による権力者親子の満足のための法律案によって改訂されることになる。)


(2)本当の話
 このようなA案に対しては各所で反対・危惧の声明が出された。
 その代表的なひとつ、生命倫理会議では生命倫理の教育研究に携わる研究者71名が緊急声明でA案への抗議と参院での徹底審議を求めた
 生命倫理会議の代表である小松美彦(東京海洋大教授、科学史・科学論・生命倫理)さんは『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)で以前から臓器移植(法)への問題提起を行ってきた。
 
 同書では脳死判定の「自発的呼吸の停止」を確認するために無呼吸テスト(人工呼吸器の取り外し)が患者へ与える悪影響(血中二酸化炭素濃度の上昇)や「平坦脳波」の確認困難さ(頭蓋の上から測定しなくてはならない)や限界(脳波と心の在り方との関係に疑問)やラザロ徴候といった脳死患者の自発的身動きや臓器摘出時の血圧上昇と暴れるような動作(そのために摘出時に「死体」に麻酔をかける)、長期脳死という10年以上の脳死状態での生存、移植後の生存率と非移植での生存率比較といった基本的な情報や疑問、そもそも一般的に想像されるような「死」の定義と脳死を検討する人々の「死」の定義の違い(脳死臨調で問題とされた「死」は「人体の有機的統合性」であって、一般人が思い描くような「何も考えない・感じない・動かない」ではない)といったことが提示され、さらに脳死という概念自体への疑問・批判(他の臓器の不全は「死」と呼ばないのに、どうして脳だけ「脳死」なのか?)を投げかけている。
 また、日本における臓器移植のキーポイントととなった和田移植(1968年の日本初の心臓移植)と高知赤十字病院移植(1999年の臓器移植法成立後初の移植)の杜撰さを指摘し、批判し、臓器移植法改訂問題へも提言を寄せている。


続き→遺体の国の21グラム。   中編
by sleepless_night | 2009-07-12 14:25 | 倫理
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