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遺体の国の21グラム。   中編

  

遺体の国の21グラム。   前篇の続き↓


(2)本当の話 
 このようなA案に対しては各所で反対・危惧の声明が出された。
 その代表的なひとつ、生命倫理会議では生命倫理の教育研究に携わる研究者71名が緊急声明でA案への抗議と参院での徹底審議を求めた。
 生命倫理会議の代表である小松美彦(東京海洋大教授、科学史・科学論・生命倫理)さんは『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)で以前から臓器移植(法)への問題提起を行ってきた。
 
 同書では脳死判定の「自発的呼吸の停止」を確認するために無呼吸テスト(人工呼吸器の取り外し)が患者へ与える悪影響(血中二酸化炭素濃度の上昇)や「平坦脳波」の確認困難さ(頭蓋の上から測定しなくてはならない)や限界(脳波と心の在り方との関係に疑問)やラザロ徴候といった脳死患者の自発的身動きや臓器摘出時の血圧上昇と暴れるような動作(そのために摘出時に「死体」に麻酔をかける)、長期脳死という10年以上の脳死状態での生存、移植後の生存率と非移植での生存率比較といった基本的な情報や疑問、そもそも一般的に想像されるような「死」の定義と脳死を検討する人々の「死」の定義の違い(脳死臨調で問題とされた「死」は「人体の有機的統合性」であって、一般人が思い描くような「何も考えない・感じない・動かない」ではない)といったことが提示され、さらに脳死という概念自体への疑問・批判(他の臓器の不全は「死」と呼ばないのに、どうして脳だけ「脳死」なのか?)を投げかけている。
 また、日本における臓器移植のキーポイントととなった和田移植(1968年の日本初の心臓移植)と高知赤十字病院移植(1999年の臓器移植法成立後初の移植)の杜撰さを指摘し、批判し、臓器移植法改訂問題へも提言を寄せている。


(3)仏教の立場 のようなもの
 これと関連するものとして、やはり以前から仏教側から脳死状態にある患者からの臓器摘出について意見が表明されてきた。

 玉城康四郎(東京大学教授、仏教)
 “「人の命」を端的に表しているのは、父と母との交わりにより、母の胎内に宿った刹那の「命」である。その「命」をサンスクリット語でカララkalalaという。「ひとかたまり」という意味である。(略)カララはいかなるものによって成立しているのであろうか。これについてはいろいろな文献に示されているが、大別すると二とおりある。ここでは『大集経』と『宝積経』から見てみよう。 まず、『大集経』では、カララは、命と識と煖から成立している、という。命は寿命であり、識は意識、煖はぬくもりである。そしてカララが生きているということは、命・識・煖が一つの合体していることであり、カララが死ぬということは命・識・煖の結合がほどけて、バラバラになることにほからないない。命・識・煖の結合のなかで、特に重要なのは命、すなわち寿命である。これによってカララは胎内で成長することができる。この寿命を風道といい、カララはすでに呼吸している、とみられている。それが胎内から生まれて、実際の呼吸となる。呼吸が寿命としていかに重要であるか、むしろ寿命そのものであるともいえる。 次に『宝積経』について調べてみよう。ここではカララは、地・水・火・風によって成立している。生きていることは、その結合であり、死ぬことは、その分散である。地はかたさ、水はしめり、火はぬくもり、風は動きである。かたさ、しめり、ぬくもり、はいわば材料であり、動きこそ生命的なものである。すなわち、地・水・火・風の風は『大集経』の命、識、煖の命に相当するものであり、寿命であり、風道である。いいかえれば呼吸である。(略)以上のように、生きているとは、命・識・煖の結合、あるいは、地・水・火・風の合体で、成長を続けているということであり、死ぬとは、それぞれの分散であるということができる。”
 “今日、臓器移植のことから脳死が問題となり、生命維持装置によって、呼吸運動や血液循環を補助することができる。たとい脳の機能が不可逆的に停止して脳死と判定されても、仏教からいえば、命・識・煖の結合、あるいは、地・水・火・かぜの合体は明白であり、けっして「死」ではなく、「生きている」ことは論をまたない。したがって移植のために臓器をとることは、死に至らしめるのであり、殺生罪を犯すことになる。”

芹川博通(淑徳短大教授、宗教学)
 初期仏教典では
“死の諸相について「一切の生きとし生けるものが、それぞれの部類から落下し没すること、[身体が]壊れること、消失すること、死滅すること、臨終をなすこと、諸構成要求が壊れること、遺体を処理すること、これが死であるといわれる」(『サミュッタ・ニカーヤ』)とある。また、「寿と煖とおよび識と、三方の身を捨するとき、所捨の身は僵仆す。木の思覚なきがごとし」(『雑阿含経』)とあるように、人の声明を構成する寿命と体温と意識が肉体を離れるとき、その肉体は枯れ木のように倒れて死ぬと述べている”
 大乗経典では上記の玉城と同様『大集経』『宝積経』を挙げている。
 小乗仏教典では『阿毘達磨倶舎論』の“命根の体はすなわち寿にして、能く煖とおよび識とを持す”を引き“寿命があり、温かさと意識がある脳死は、身体に生命があって生きているので、死を意味するのではない、ということになる”と述べる。
  また万有をアーヤラ識から縁起したものとする唯識からは、“心臓が鼓動をうち、体温があるうちの脳死状態は「人の死」ではない。体温があるというのは、いまだ、アーヤラ識が身体を執受しつづけ、生命あらしめている証拠”としている。
 さらに“仏教の心身観では、肉体(kaya 身)と精神(citta 心)は不二一体のものと説いている。このことを心身一如、心身不二という。仏教では、この身と心を決して二元論的に個別の実態とみなさないで、あくまでも一つのものの両面とみなす。(略)日本人にとって、心身はその生命を失っても、心あるいは霊の宿るより白なのである。(略)また日本では、古くから心臓が動いているうちは霊魂が宿っているので、遺体を傷つけることを恐れる、というものもある。(略)生命を失った肉体をも物質視しない思想を、人々は育んできた”とデカルト的な心身二元論との対比で述べている。

信楽俊麿(元龍谷大学長、本願寺派僧侶)
 “心身一如的な立場においてとらえるというこおとである。(略)原始経典によれば、生命(ayus)とは、識(vijnana)と煖(usna)とともに構成され、存続するという”識とは心理学的な意識ではなく、心(citta)もしくはアーヤラ識を指し、日常的な意識作用や意識下の意識の根底にある根本意識を意味する。
 “仏教の立場からいえば、人間の生命とは何にも代えがたい絶対価値を宿しており、またその生命とは、心身一元的に、識と煖とともにあるということであって、脳死といえども、なんらかの意識が残存し(脳死者の足裏を針でさすと足をうごかすという)、呼吸し、心臓が動いて、体温があるかぎり、それは当然に生きているということであり、一人の人格主体として十分に尊重されるべきである。その点、仏教の立場からするならば、このような脳死を人間の死とすることには、きびしく反対せざるをえない。”
 また“他人の不幸、その脳死をひたすらに待ち望んで、そのうえに自己の生命を充足させようとする発想は、人間の倫理感覚を次第に麻痺させていくにちがいない。”と危惧を表明している。

奈倉道隆(四天王寺大学大学院教授、インド哲学・仏教学・公衆衛生学)
 “死について『倶舎論』は、煖と識と寿とが消え、身体が知覚を失った木材のようになることだと説いている。煖が失われれば体のぬくもりが去って冷たくなる。日本の生活文化では、死を意味する表現として「冷たくなる」と言っている。脳死状態は、意識が完全に失われているが、人工呼吸器によって呼吸は続けられ、脈拍はしっかり触れることができる。体のぬくもりは保たれ、皮膚の血色も豊かである。これを「死」と認識することには生活文化の面から抵抗があろう。また、心身一如、縁起的生命観に立つ仏教思想の立場では、たとえ脳の機能が停止してようとも、また、生命維持装置に依存する状態であろうとも、生かされて生きるいのちとして尊ぶ姿勢には変わりがない。”

奈良康明(元駒澤大学学長・総長、曹洞宗住職)
 “こうした問題に対しては、「仏教では」という答えは難しい。そうではなくて、「仏教者の一人として、私はこう考える」という姿勢でなければなるまい。”と応用問題への解答の多様性を指摘したうえで「私」の生き方を問う仏教としての姿勢を示し、“脳死は、生命をモノに限りなく近づける発想が基盤にあるので、私は認めがたいと考えている。”

庵谷行亨(立正大学教授、仏教学・倫理学)
“仏教ではすべての存在は仏の顕現であると考えている。人間は誰にも仏性があり、すべては仏の子であると説く、不殺生は仏教の基本的徳目である。”

 などと、脳死・臓器移植を仏教の経典を根拠として否定する立場がある。
 仏教の生命観として示された寿・識・煖、あるいは地・水・火・風の結合は、脳死が死かという議論における死の定義である「人体の有機的統合性」と重なる。
 仏教者の脳死についての知識に若干あやしさを感じる部分があり、最重要視する呼吸については脳死では自律呼吸ができない点の処理に弱さを感じる。ただ、体のぬくもり、いのちを構成する要素が結合しているという点を見れば、生命を否定することは難しいだろう。
 脳死を死とみなして臓器移植の供給を増やそうとする人たちからすれば、早晩心停止する相当の可能性があると分かっている患者より助かる可能性のあるレシピエントを助けるという比較が働くが、仏教の絶対的な生命尊重は、どちらも同じ絶対であることから比較の発想は採りえない。
 その一方で

濱島義博(京都女子大学長、消化器外科)
 “自分のいのちとはいったい誰のものなのか。はたして自分だけのものなのだろうか。ここに、縁起と共生という仏の教えを考えてみる必要があるのではないだろうか。(略)脳死を死と法律で定められた今日、脳死の基準を満たしたと決定されれば臓器を提供する他への思いやりと慈悲こそ、仏の教えにもっとも適した行動なのである。”

 といった、「慈悲」という仏教のロジックによる肯定の意見もある。

 だがこれについては
 奈良康明さんは“臓器移植が偉大なる布施だ、という論理はそれなりに理解できる。しかし、仏典に示され、かつ教えられている壮絶な布施行は、慈悲の発露としての行為である。信仰者としての自覚にもとづく慈悲行であるが、私たちがいま論じているのは社会の制度としての脳死、臓器移植であり、とくに脳死を法律で決めていいかどうかという問題である。”と否定する。
 また芦川博通さんも“諸経で諸衆救済のために、菩薩(bodhisattva)は、身命を惜しまずに努力することを「不惜身命」といい、わが身を投げ出して布施(dana)をする「捨身」が説かれており、いずれも仏教の救済思想である。(略)したがって、臓器を必要とする人(recipient)にみずからの臓器を移植する行為は最大の布施行であり、菩薩行ということができるとする、という人もいる。仏教者のなかには、臓器移植が結果的に布施行であり、善なる行為であるから、脳死を「人の死」と認めてよいのではないかという人も少なからずいる。結果や目的がよければ「手段を選ばず」の論法は危険なものである”とこのロジックを否定する。
 同様に「慈悲」「布施」のロジックを否定するも、現実に対する仏教の活動の必要性をも提唱する松長有慶(元高野山大学学長、高野山真言宗管長)さんはこう述べている。
 仏教は死への諦念や浄土信仰など様々な立場があるが“死に対して仏教がとった立場は、精神的な対処であったとみることができる。それに対して現在問題となっている脳死を人の死と認め、脳死の人からの臓器を採取し、それを必要とする人に移植する医療は、延命操作にほかならない。現代の医療の根底には、人間の身体を物質とみなす思想が横たわっている。(略)さらに問題がある。現代科学は人間の欲望の充足を是認する立場を採る。(略)臓器移植の問題を論ずる時、仏教の捨身飼虎の伝承がよくもちだされる。(略)しかしこの話は、真理を聞き、それを人に伝えようとする利他の精神から出た行為であって、一時的な延命のために、不用になった臓器を提供する行為とは一致点を見出しにくい。また仏教の布施の精神が云々されることがある。ただし仏教の施しは三輪清浄といって、授者と受者、それに布施という行為、この三者がいずれもエゴを捨て、利他の立場にたって初めて成り立つ。ところがドナーに自己犠牲の精神があるとしても、患者にほうがそれを受けても、以降の活動のなかで社会還元の意思がみられず、我欲にもとづいた保身に終始するならば、それは本当の意味の布施ということはできない。”と仏教の立場での脳死・臓器移植の肯定し難さを指摘したうえで、“現代社会では、いくら仏教の立場から反対を唱えても事態は進展していくにちがいない。その場合に、仏教がこの医療行為に対して全く手をこまねいているわけにもいくまい”とレシピエントのケアなどを提唱する。

 以上から大きく分けて言えば、脳死・臓器移植に対して仏教は
 否定論…仏教経典の生命観
 肯定論…慈悲・布施
 ということになり、否定論が論として優勢かと判断される。
 だが、この否定肯定の二項対立自体を否定する意見もある。

 脇本平也(東京大学名誉教授、仏教学)さんはこう指摘する。
 仏教は歴史的地理的な膨大な広がり・多様性を持ち、場合に応じて正反対の意味付けを行うこともできるが、“仏教の出発点は、生老病死の苦を超越することにあった。生死の超越とは、生と死とを分けて執着する迷を断じて生死一如の境に住することだ、ともいわれる。この立場からすれば、脳死を人の死と認めるか否かなど賛否を問うことは、問い事態が迷中の迷、無用の閑葛藤ということになるかもしらぬ、どうでもよい、ということになりそうである。どうでもよいことは、各自が銘々で決めればよい。”という自己決定原則の支持もできる

 上記のような仏教独特の二項対立否定ではなく、単に決着できない現状を示す意見もある。

 水谷幸正(元佛教大学学長、元浄土宗宗務総長)さんは、その原因をこう述べている。
 “すでに十数年以前から、脳死の問題について多くの仏教者があれこれ発言しているが、同じ仏教者の立場でありながら、脳死は死であると認める者、認めない者、中間的な者などさまざまであり、その理由も多種多様である。その原因は、どのような状態を「死」とみなすのか、ということの受け止め方の相違もあるが、やはり仏教のどの部分をおさえていくか、という受け止め方の相違が大きい。まさに仏教は偉大であり曖昧なのである。”
 1988年の日本印度学仏教学会の検討委員会でも“各人が状況に応じて判断し、決断してゆくべき”としている。浄土宗総合研究所の脳死に関する中間報告でも賛否は言わず、それぞれの状況での判断を提言している。

 こうした仏教の曖昧さ・多様さのなかで、結論のなさにもかかわらず仏教界の現状として脳死や臓器移植へ否定的な傾向が見られる。
 この理由について、長谷川正浩(弁護士、大正大学非常勤講師)さんはこう指摘する。
 “死と生の境目を決めることは、もともと仏教の教義では不可能に思われる。はっきりいって、それはないものねだりなのである。生と死の境を決めることは、社会的・法律的要請によるものであって、少なくとも仏教ではどうでもよいことなのではなかったか。 では、なぜ仏教者は一般に脳死を人の死と認める立場に冷たいのであろうか。それは、脳死を人の死と認める多くが臓器移植をしやすくるるために主著うしていることを本能的に見抜いているからではないだろうか。”

 ここで紹介した意見にははっきりと見られないが、仏教界が明確な判断を示さないのは、仏教の僧侶たちが生きている人間ではなく既に死んでいる人間を中心に生活しているという実際が影響していると考えられる。
 既に死んでいる人間を中心に死者の遺族に接するのだから、死者がドナーとして死んだかレシピエントで移植待機者として死んだか、どちらでも死んでることには変わらないし、どちらにも当たることが予想され、判断を明確にすればどちらかを「敵」を作る可能性がある。
 そんな事態は面倒であり、上記したように仏教は広大で曖昧なのだから、その時その時で上手く使えばよい、一貫性の無さは対機説法・融通無碍とでもいっておけば済むのだし。


(4)遺体の国
 “遺体にこだわらない文化など、知られている限りでは存在しない。どのような文化でも遺体にはこだわりを持つのである。唯、そのこだわり方が文化によって異なるということなのである。”

 波平恵美子(お茶の水女子大名誉教授、文化人類学)さんは、“死とは何か、どういう状態かという問題を考えるとき、生物体としての個体がどの程度機能を失ったかということのみを基準として決定する社会はない。(略)どの社会でもしは段階的に「確認」されるような社会的慣習を保持している。”と「死の文化」の存在の普遍性を指摘する。
 特に日本では航空機事故で断片となったものまで捜すほど遺体にこだわりを見せる。これは死が死者と生者との断絶を意味しない、死者と生者とには交流・影響があるとする日本の霊魂観・死後観の影響を原因とすると考えられ、これは脳死・臓器移植に対する日本人の態度にも影響していると言う。
 そもそも脳死状態からの臓器提供による死亡は従来の遺族の死の受け入れの順序を混乱させるものである上、臓器提供をすれば遺体を傷つけることは不可避であり、特に遺族が手を下して遺体を傷つけることは強くタブー視される。また、遺体の状態が死後世界での死者の安寧とつながるという信仰、悲惨な死に際なら特に一般より手厚く弔うことで死者の霊を慰めようとすることは、ドナーとして求められる青年の突然死の遺族が最も求めることと言える。
 さらに、臓器移植は従来の「献身」の構図を大きく変える。
 まず、遺族とはいえ臓器は脳死状態の患者のものであり、自分のものではない。また、「献身」した方が死に、された方は助かる。さらに、日本では直接・間接的な知り合いでの相互扶助(献身)は強固に見られるが知らない人への扶助は消極的であり、見知らぬ生者より血縁の死者の価値は高い。
 

続き→
遺体の国の21グラム。   後編
by sleepless_night | 2009-07-12 14:27 | 倫理
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