性・宗教・メディア・倫理
2012-02-23T20:39:36+09:00
sleepless_night
タイトルテーマについて。基本は個人的なまとめ。随時、情報共有用に。
Excite Blog
マザー・テレサはワタミ・渡邉美樹を「偽善者」と呼んだか?
http://may13th.exblog.jp/15476440/
2012-02-23T20:25:00+09:00
2012-02-23T20:39:36+09:00
2012-02-23T20:25:18+09:00
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渡邉美樹さんを批判すにのに用いられた、マザー・テレサが行ったと言われる言葉をめぐってブログTEST マザーテレサの「名言」と伝言ゲームでは、その検証がなされ、マザーの言葉とそれを引用した者の意見とがコピペを繰り返すうちに融合したものだと結論されている。
私も、上記マザーのものと言われる発言には違和感を感じたので、とりあえず、実際にマザーが行ったことで関係しそうな部分を手元の資料の範囲で挙げておく。
*
ぼくは、マザーに、日本人がマザーを支援する場合どうしたらいいのか、と聞いたことがあった。マザーは答えた。
「<マザー・テレサ国際協労者協会>(The International Association of Co-Workers of Mother Teresa)という組織に入ってくれればいいわ。本部はイギリスにあるのよ。協会に入るには、私がいつもいっているように、もっとも不幸な人々のために何かをしたいという意志を表明してくれるだけで充分なのよ」
「カトリック信者でないとダメですか」とぼく。
「オキ、私はね、どんな人でも、もっとも貧しい人々のために何かをしたいという愛の心を持っている人なら歓迎しますよ。プロテスタントでも回教徒でも、ユダヤの人でもヒンズー教徒でも、オキの国の仏教とでもね。隣人に奉仕するのは献身と祈りと会いによってですよ」
マザーは、深いシワを刻んだ口もとに微笑をうかべ、身ぶり手ぶりをまじえてたのしそうに<愛>のあらわしかたをぼくに教えてくれる。
「私はね、人間的なあつかいをうけていない人たち、社会から拒絶され、きらわれ、軽蔑されている人たち、この世でもっともひどい病気に苦しんでいる人たちのもとにいかなければならないのよ。でもね、オキ。あなたたちはもっと身近なことからはじめたらどうかしら。病院に入院している患者に花をもっていってあげるとか、年をとった人のために窓を拭いたり洗濯をしてあげるとか、ね。浮浪者のために社会保障の用紙に記入する手助けをするのだって、目の不自由な人のために手紙を書いてあげることだって、とても立派な愛の表現なのよ」
『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘 著(講談社文庫)p169-170より
「いや、日本にも、いつもマザーが口癖のようにいわれている、繁栄のなかの貧困がありますよ。老人の孤独な死とか…」
「それじゃあオキ、あなたたちがまず、そういう貧しい人たちを愛することですね。自分の実のまわりでできることはないか、よく考えてみるんですね」
同著p231より
神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛をまわりに放ちながら生きられるようになるのです。愛は過程からはじまると、私は常々言っています。家族が最初で、それからあなたの町へと広がっていくものなのです。遠くにいる人々を愛するのはたやすいことですが、一つ屋根の下に同居したり、ごく近くに暮らしている人を愛することは、たやすいことだとはいえません。私はあまりおおげさなことwをするのには賛成しかねます―愛は個人からはじまるものだと思うのです。だれかを愛するようになるためには、あなたはその人と接し、ちかづかなければなりません。だれもが愛を必要としています。だれもがその存在を必要とされており、神にとって重要な存在であることを知るべきです。
『マザー・テレサ語る』ルシンダ・ヴァーディ編 猪熊弘子訳(早川書房)p69より
もし富を得たなら、幸福になることは、より難しくなるだろう、と。なぜなら、富を得ると、神を見つめることが難しくなるからです。富を得ると、他に考えることがおおくなりすぎてしまうからです。しかし、もし神があなたに富と言う贈り物をされたなら、浪費したりせず、それを神の御意志にしたがって使いなさい―他人を助けたり、他人を助けたり、貧しい人々を援助したり、仕事を作って他の人々の仕事を与えなさい。食べ物や家、尊厳、自由、健康、教育といったものはすべて神の贈り物なのです。ですから、私たちは自分よりも少しこういったものに欠けているほかの人々を助けてあげなければなりません。
同著p164
*
上記の引用から、またマザーテレサの元には世界中からボランティアが来て、それを受け入れてきたこと、さらにはマザーテレサの組織が世界中で活動していることからわかるように、マザーが自国ではなく外国で援助しようとすることを「偽善」と呼ぶことは考えにくい。
ただし、マザーは常に身近なところから愛を広めることを重視していたことは確かだと言える。
渡邉美樹さんの経営する居酒屋チェーン店・ワタミに勤務した若い女性が過労自殺に追い込まれたこと、その労働環境の問題点や自身の責任に対する渡辺さんの一連の発言から、私は以下のマザーの言葉を思い出した。
「健康な人や経済力の豊かな人は、どんなウソでもいえる。でもね、飢えた人、貧しい人は、にぎりあった手、みつめあう視線に、ほんとうにいいたいことをこめるのよ。(略)」
『マザーテレサ あふれる愛』p29より
大事なのは、思いやりを持って行動することです。能率よく働くことができて、誇るに足る仕事ができるのは、自分だけだと思ってはいけません。そんな風に思っていると、自分と同じ天分に恵まれていないかもしれない他人に対して、思いやりに欠けた、利己的な厳しい評価を持ってしまいます。あなたがたは、自分たちの最善を尽くせばよいのです。そして、他人もまた、それぞれに最善を尽くしているのだと信じることです。
『マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り』ベッキー・ベネネイト著
アンセルモ・マタイス/奥谷俊 訳(主婦の友社)p23より
マザー・テレサは“「私がもし、社会福祉や事前のために活動するのだったら、しあわせだった家もすてなかってしょうし、両親とも別れなかったでしょう。私は神にささげた身ですから、いま私がしていることがヒューマニズムでもなんでもないんですよ。ごく当たり前のことなんですよ」”と言うように自身の宗教行為として活動してきたので、彼女の言葉を社会貢献活動をしようとする一般人に適用するのはどうかと思う部分もある。
しかし、渡邊美樹さんの「経営」は宗教という観点から言って、カルトやマインドコントロールではないかという疑問や批判は向けられるべきなのではないかと私は思うし。どうして女性芸能人と占い師の関係でこれらの言葉が使われるのに渡邊さんの居酒屋チェーンには使われないのかは疑問を感じる。
もしマザー・テレサが従業員を自殺に追い込む企業の経営者を何と表現するかと聞かれたら、「偽善者」ではなく「悪魔」とでも言うのではないだろうか。
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政治家が政治の場で政治学用語を使うと失言になる国。
http://may13th.exblog.jp/12307147/
2010-11-19T20:08:00+09:00
2010-11-21T11:16:43+09:00
2010-11-19T20:08:08+09:00
sleepless_night
メディア
朝日2010年11月18日11時33分
http://www.asahi.com/politics/update/1118/TKY201011180169.html
仙谷由人官房長官は18日の参院予算委員会で、「自衛隊は暴力装置」と述べた。その後、「実力組織」と言い換えた上で、発言を撤回し、謝罪した。
「暴力装置」の表現は、かつて自衛隊を違憲と批判する立場から使用されてきた経緯がある。
この発言は、世耕弘成氏(自民)の質問に対する答弁で飛び出した。世耕氏は、防衛省が政治的な発言をする団体に防衛省や自衛隊がかかわる行事への参加を控えてもらうよう指示する通達を出したことを問題視し、国家公務員と自衛隊員の違いを質問。仙谷氏が「暴力装置でもある自衛隊は特段の政治的な中立性が確保されなければならない」と語った。
世耕氏は仙谷氏に対し、発言の撤回と謝罪を要求。仙谷氏は「用語として不適当だった。自衛隊のみなさんには謝罪致します」と述べた。
*
同発言に対する自民党政治家の反応については
法華狼の日記「自衛隊や警察が暴力装置ということ」を参照。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20101118/1290097225
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この自民党政治家・マスメディアの反応については様々語られているので、これ以上語ることはない。
きょうも歩く 暴力装置という政治学の基礎も知らない自民党の国会議員
http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/11/1118-02f9.html
マックス・ウェーバーは「暴力装置」という言葉を使ったか?
http://togetter.com/li/70243
今日も得る物なし 暴力装置
http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20101118/1290064490
kojitakenの日記 「自衛隊は暴力装置」との仙石発言を「右」から批判する毎日新聞に目を疑う
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101118/1290079499
Apes!Not Monkeys!はてな別館 朝日新聞によれば石破茂・元防衛大臣は左翼なのかもしれない
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20101118
池田信夫blog part2 自衛隊は「暴力装置」である
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51501855.html
おおやにき 暴力装置
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000746.html
*
そこで、どうしても「暴力装置」と言う用語が自衛隊を侮辱する左翼独自の用語だと思いたくて仕方がない方々のために、以下の引用を提示しておく。(世耕弘成参議院議員、山本一太参議院議員,谷垣禎一自民党総裁も分かりやすいように注目部分を太字にしてあります)
“暴力をなくすためにはやはり暴力を使わざるを得ないというジレンマは、常に文化や制度につきまとう。たとえば政治権力はいつでも軍隊や警察など、物理的暴力装置をもって過剰な暴力を行使できる。イデオロギーやそれに基づく教育などがそれを支援する場合すらある。”
『政治学事典』猪口孝ほか著(弘文堂)p,1013「暴力」より
“直接的・物理的・肉体的な強制力をともなう力の発動を「暴力」という。これが何らかの形で正当性をともなっている場合には「実力」(force)とよび、いかなる正統性をも欠いているときに「暴力」(violence)とよんで、この両者を区別する場合も現実政治のなかでは多々ありうる。また、ソレルが『暴力論』のなかで「ブルジョアジー」が国家機構を通じて有している強制力をforoceとよび、これを「プロレタリアート」の革命的「暴力」(violence)と区別したのに対して、ヴェーバーは、「暴力」装置の合法的独占を国家権力の特性としたことが良く知られている。要するに政治の場では、「暴力」は正統性・合法性とのかかわりあいで「実力」にも「権力」にもなりうるのである。他方、政治の場におけるやむえをえない手段として「暴力」の行使を是認する立場もあり、歴史的にはマルクス主義、アナーキズム、サンディカリズムならびにファシズムや右翼思想などに見られてきたが、それらの場合でもなお、正統性や合法性の問題がどのように扱われているかに注意しなければならない。また、「暴力」概念を拡大して「強制力」一般と同義語にしてしまう事例も多々ある。”
『現代政治学辞典』(大学教育社)p,940 「暴力」より
“主権国家は、国内的に治安維持に裏付けとなる警察機構や、対外的に他国の干渉を排するための物理的保証たる軍隊を備えているという特徴を持つ。これは国家による強制措置を構成する権力装置である。つまり、国家とは合法的暴力装置を備えた巨大な権力機構と位置付けられる。”
『ファンダメンタル政治学』等松春夫・竹本知行編著(北樹出版)p,20より
(注:等松春夫さんは現職の防衛大学校教授です)
“近代国家は、物理的強制力を独占することによって成立した。物理的強制力とは、警察とか軍隊などの物理的暴力装置である。国家権力は、社会権力をもたないこのような物理的暴力装置を独占する。”
『政治学のすすめ』名古忠行著(法律文化社)p,43より
“国家への暴力集中は、現実政治の出したひとつの解答であった。しかし、それは暴力の問題がすべて解決したことを意味しない。国家が、私的暴力の蔓延を押さえられるか。国家の暴力装置が《法維持》以外の目的で、無辜の市民に不法な暴力をふるったら、一般市民は何ができるのか。合法的暴力とされる戦争はいかに回避できるか。(略)国家の暴力装置は、クーデターを起こし、また国家を支配する軍国主義などを産んだ。こうした暴力はどうすれば封じ込められるのか。”
『政治学のエッセンシャル』
辻康夫・松浦正孝・宮本太郎編著(北大図書刊行会)p,95より
“ドイツの有名な社会学者マックス・ヴェーバーの説を聞きましょう。『職業としての政治』という有名な講演で彼は、政治団体が今日では国家であると断ったうえで、国家を含めたすべての政治団体に固有な特殊の手段として、物理的暴力の行使を挙げます。「『すべての国家は暴力の上に基礎づけられている』。トロツキーは[…]こう喝破したが、この言葉は実際正しい。[…]国家とは[…]正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である(ヴェーバー『職業としての政治』)捕捉すれば、トロツキーはロシアの革命家で、当時(第一次大戦後)のドイツ人にとっては、ブレスト=リトフスクの講和交渉でのソ連側の当事者として誰でも知る人でした。ヴェーバーは社会主義には反対の立場です(ヴェーバー『社会主義』講談社学術文庫、参照)が、「政治」(または「国家」)の定義(または「本質」)に関しては自分の論敵もまた同じ主張であることを指摘することにって、自分の言い分の妥当性を増そうとしているわけで、これは論議における有力な戦術です。”
『入門政治学』仲島陽一著(東信堂)p,6・7より
追記:ヌレイヌ 「暴力装置」自民党時代の防衛省・財務省・内閣府も使用していた言葉だったことが判明。http://blog.livedoor.jp/arbu/archives/1691072.html
が2chの、財研・防衛研究所・内閣府調査資料の引用・リンクを示したコメントを転載。「暴力装置」と軍隊・警察をさして用いていることを指摘。
*
今回の発言への議員や知事やアナウンサーらの仙石発言への反応で印象づけられたのは、マスメディアの様々な点での凋落だ。
この用語が、政治学・社会学をはじめとして、少しでも国家や権力といったことを考えようとする場合に常識的に認識されている用語・概念であるということを、(学歴・会社的)エリート集団であるはずのマスメディア構成員がまともに解説しなかった・できなかったことは心底驚かされた(もとから期待していない産経は除いて)。
だが、その体に対し、ツイッターを中心としてネット上で注目された言論の大勢が用語の常識性を指摘し、特にApemanさんの指摘した石破発言は、ネット上での仙石発言評価の流れをほぼ決めたように思える(時系列的に確かめていない。また、ブログのTB制限もあって、情報の拡散メディアとしてはブログからツイッターへネットの主力が移ったように感じる。)。
そして、このネット上の流れがマスメディアの仙石発言への攻勢に幾分か水を差し、逃げを打つ(発端の柳田発言へ焦点を合わせ直す)よう影響したのではないだろうか。(もちろん、マスメディアの全反応を確かめたわけではないので、まったく私の過大評価・誤解かもしれない)
*
最後の引用は、佐藤正久さんや宮川典子さんという自民党関係の方がツイッターでウェーバーがトロツキーを引いているのでトロツキーと同じだと思っているような発言をしているようなので一応。日本語の不自由な方にはあまり意味はないかもしれないけれど。
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別に進化 証拠発見
http://may13th.exblog.jp/10978892/
2010-04-18T20:54:00+09:00
2010-04-18T21:28:29+09:00
2010-04-18T20:54:44+09:00
sleepless_night
その他
ヒトと石原慎太郎 別に進化 証拠発見
4月16日 4時51分
これまで日本人の基本的な形は、子孫を残すことができるヒトで、石原慎太郎は進化の過程でヒトから生まれたと考えられてきました。ところが東京大学などのグループがヒトと石原慎太郎は、それぞれ別に進化してきたことを示す証拠を初めて発見し、日本人の基本的な形を見直す成果として注目を集めています。
この研究を行ったのは、東京大学理化学系研究科の野崎久義准教授と、アメリカの研究所のグループです。これまで原始的な日本人で、ヒトになるために欠かせない遺伝子は見つかっていましたが、石原慎太郎になるのに欠かせない遺伝子が見つかっていなかったため、日本人の基本的な形はヒトで、石原慎太郎はヒトから誕生すると考えられてきました。ところが政党の一種で、増税とネオコンで選挙を行う原始的な政党の「タチアガレニッポン」を研究グループが調べたところ、世界で初めて石原慎太郎になるために欠かせない遺伝子が見つかったということです。見つかった遺伝子は、全く勝算のないオリンピック招致活動がつくられる際に働くとみられて研究グループでは、ヒトと石原慎太郎は、選挙権がない状態からそれぞれ必要な遺伝子を獲得し、誕生したとしています。野崎准教授は「ヒトと石原慎太郎は根本的に違うということを認識すれば、東京都政も、よりうまくいくのではないか」と話しています。
識者のコメント:東京都在住 明仁(76歳)魚類の分類が専門
「一部の報道では、石原慎太郎はネアンデルタール人から帰化したということのようですが、この発見によって、そもそもヒト族に入っていなかったのではないかという疑問が生じることになり、今後のさらなる研究を待ちたいと思います」]]>
激震マスメディア~テレビ・新聞の未来~、広瀬道貞75歳の今。その3
http://may13th.exblog.jp/10907621/
2010-03-28T10:16:00+09:00
2010-04-01T12:04:25+09:00
2010-03-28T10:16:17+09:00
sleepless_night
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司会:「メディアの姿はどうあるべきかは、のちほどまた議論したい。視聴者のみなさまは、テレビ新聞の未来、ネット対応というものをどうみているのか」
司会2:「」
司会:「既存マスメディアがネットに進出する一方、ネット中からもあらたなメディアが生まれ、既存のマスメディアの在り方にも揺さぶりを」
映像:ウェブメディア、ワシントンの政治ニュースに特化したポリティコ。取材対象の特化、旧来マスメディアのなんでもやるあり方を否定。AOL、世界アクセス5位、ニュースサイトで独自の記者3000人を雇い記事発信。ニコニコ動画の大臣会見生中継、ユーザーからの質問代読、ユーザーが情報の重要性を決める、ニュースの説明責任が問われるようになる。
司会:「アメリカで取材してきた、従来マスメディアが担ってきた役割をネット企業が担い始めたという実感を持った。また、ニコニコ動画や政治家のツイッターなど、ネットを使って生の情報を直接ユーザーに伝えて世論形成につなげていこうという動きがある。こういうマスメディアを介さない情報の流れ、発信の動きを既存メディアの立場からどう見るか」
内山:「僕は、大いに結構なことだと思う。それはある意味では成熟した民主主義の現れだと思う、だから結構であると。なぜ結構かと言うと、成熟した民主主義と申し上げたが、日本人の知的レベルと言うのは非常に高いんですよ。それからもう一つは、知的要求・要望というのも非常に強いんです。だからまあ、安心できると。ただ、公共性なんてどうなんだとあるかもしれない。そんなものがね、どうも駄目にしたメディアがつぶれちゃうわけですから。大小問わず。だから僕は安心しています。」
広瀬:「私は、プロのジャーナリストあるいは、プロのリポーターと言うのは、育てるのが大変なんです。まず第一、ある種の組織がなくちゃ、後輩を育てていくことはできません。それから、広く材料を集めるためにも、個人一人じゃなかかなかできない、ある程度の組織が必要です。それから、全国の都会だけならいいんだけれど、さっきの山村、海岸と言ったところのちっちゃな市町村の情報も入れるためにはやっぱり広がりが必要です。そうしたなかで、初めて事実を丹念に集めていって解説を出すという人物が育ってくるわけで、ネットで非常に便利だ、いろんな情報が一気に見れるというのは、それは新聞やなんだなんだで出ているのを、上手くこう、集めてくるんで、できるんであって、一番先端で取材する人たちがいなくなったら、大変なことだと思うんです。その辺は、AOLの実験が成功すればいいんだけれども、あれもやっぱりその、広告収入で初めて賄うのだとすれば、今の放送の報道番組系の収支がどうかということと、そう変わらない問題を抱えるのではないかと言う気がします。」
佐々木:「今おっしゃった、お話と言うのは、基本的に新聞やテレビの記者が書く記事が非常に素晴らしいのだと言う前提でお話だれていると思う。ただ、現実にはインターネットの空間で、今までのマスメディアの記事というのは非常の専門性の低い、なおかつ質が低いというのは散々批判され続けてきている。この状況の中で結果的には、インターネットと言うのは素人の集団ではない。つまり、よく便所の落書きだの言い方をされるが、決してそうではなくて、実は様々な専門家の膨大な集団である、いわゆる集合知によって言論空間が成り立っている。そこで語られる専門的な言論に対して、今やマスメディアの言論が明らかに劣って見えてしまうという状況が起きてしまっている。と言う状況の中で、取材する記者を育てる、プロフェッショナルを育てると言いながら、大した記者を育てられていないというのが、現状である。というのであるならば、インターネットの膨大な数の専門家が構成する言論によって世論が形成されるという、この構造でも僕は全然問題ないんじゃないかと思うんですけれども」
広瀬:「例えばですね、どうしてその、アメリカ、その同調国があっさり、イラク戦争を始めてしまったか。どうして9・11の犯人グループとイラクがつながりがあったのかどうか、あるいは破壊兵器が大量に隠されていたか、ぜんぜんそれはなかったじゃないのと、いったりどこで間違った情報だけが世界中に広がって、ああいう大変なことになったのかというのが反省されつつあります。そういう具合に、相当大きな問題と言うのは、組織的に大きな、大きなとは言いませんけれど、しっかりしたメディアがですね、追求していかなければ上手くいかないという気がするんです」
佐々木:「メディアの間違いをネットがただすという現象もあちこちで起きていますよね。それは結局、どちらも同じなんですよ。それはあくまでも、インターネットとマスメディアというのは補完関係なのであって、メディアの方が実は正しい取材をしている、ネットというのはゴミだという考え方そのものが、前提として間違えていると、僕は思う」
広瀬:「補完関係というのはよくわかりますよ。それで、さっきもありましたように、内部告発的なものはなかなか大きなメディアではいきなり捕捉することはできないのだけれど、それはもうホントにネットの世界ではですね、非常に情報の大事なことだと思う。しかしそれは、結構真実を伝えていなものもあるわけだし、それを検証していくにはやっぱりプロの記者がいたほうがいいわけで、そういう意味では補完的ではあると思いますよ。」
司会:「どちらが質が高い、高くないという議論をとりあえずおいて。この生の情報の危険性、ネット上で生の方がそのまま視聴者に伝えられると、その中にはもちろん信頼性の低いものもあるかもわからないけれども。今までのマスメディアのように情報を集めてそれを評価してそれをきちんと分析したうえで伝えると言うのではなく、生でそのまま伝えると言う情報を、生情報の危険性というのは実際やられている川上さんなんかはどう思いますか」
川上:「生情報の危険性は、僕はあんまり感じていなくて。むしろ、ネットのユーザーが今一番不満に思っているというのは、メディアの情報というのは加工されているということなんですね。その加工と言うのはいろんな加工があって、まず、それでユーザーが好き嫌いがあると思うんですけど、ユーザーは今のマスメディアの情報というのは、一方向しか見ていないものが多いと思っている。それが、ウチが生でやっているのは単純に訓練されたレポーターとかがまったくいないので、先ほど放送していたウチのスタッフというのも衆議院と参議院というのも違いが分からない人間がやっているんです。もともと着メロ会社に入ったと思ったら、あんな外務省かなんかにいかされたというんで、われわれは生の情報を伝えるしかないんですけれども、それがやってみたら、ユーザーがとてもよろこんだんですよ。これが本当だったんだ、と言う風に。僕は、それはやっぱりマスメディアがちゃんと情報を整理してあげることが必要だというのは、それはそうかもしれないんだけれども、それは、僕は多様性は確保されていないという風に、今のネットユーザーは思っていると思います。」
司会2:「意見にもあった」
今井:「違う観点からいいですか。やはり、ネットの世界、先ほどのニコニコノ中継もそうですけれど、はやしたてながら楽しく、大事な情報だけれども見ていくところに、落とし穴が一つあるのかなと。あと好みを同じくする人たちや、考え方の近い人たちが繋がっていく、それはそれでいいんだけれど、よく見てみ見ると、大きな構図で見てみると、一つ一つ分断化されていって、コミュニティというものを本当に形成しうるのだろうか、もしも、ネットに全て頼るようになれば。だから、私達のようなマスメディアというのは、ある種の共通の空間、広場をつくって、情報を提供して、そして、世論形成を醸成していくという意味では、両方きちっと役割があるんじゃないか。私はそう思うんです」
佐々木:「インターネットの本質ではなくて、今の現状のサービスの問題点ですよね。ネットの本質がそものもタコつぼ化を招いたり、分断するわけではないわけなんですよ。逆に、言うとマスメディアそのものが、たとえば朝日新聞なりNHKなりが言論、閉ざされた言論空間の中だけで一つの見方しか提示していない。それに比べてツイッター上で右翼から左翼までいろんな人が書き込み重なり合って喧嘩したりいろんな議論をしている方が、実はオープンではないかという感じがするんですけど」
遠藤:「議論を整理したいのですけれども。さっきもいいましたけれども、新聞テレビネットって言うのを対立項と考えるのは変だと思うんですね。例えば口コミと言うのは古くからありますけれども、これも生情報ですよね。それはそれで意味がある。マスメディアというのは別にAOLだってマスメディアとして機能するならマスメディアでいいじゃないかと。」
今井:「全く同じことを言ったつもりなんですが」
遠藤:「それはそうですね。マスメディアの役割、つまり広い範囲から共通部分を抜き出してくる役割と、それからみんながわいわい言ってレアな情報をやり取りする場、これは両方必要だと。そういう意味ではこれは補完関係なんですけれども。その補完はネットとマスメディアじゃないと、私は思う。ネットだってマスメディアやったっていいし」
今井:「今日この番組こうやって、いろいろな声をみなさんから入ってきて、議論の材料には言ってきているわけですよね。」
佐々木:「マスメディアっていうものの定義がそもそも問題で。新聞テレビである必要は何もないわけなんですよ。次世代のマスメディアっていうのは、ひょっとしたらAOLのようなものになるかもしれない。日本だったらヤフーとかライブドアとか、そういう会社がありますが、そういうのがマスメディアになるかもしれない。そういうことを考えるべき。我々にとって、一般の読者や視聴者にとって、一番良いメディア空間は何か、そこからまずスタートして、マスメディアのあるべき姿を考えると言うことだと思います。」
内山:「僕は新聞とネット融合と申し上げたのは、新聞の立場で申し上げると、生の情報全部垂れ流しにできないんです。スペースの関係で。だからどうしてもそこで、ある部分で切ってしまう、ある部分で加工するというのは起きてくる。それに対して、ネットその他の媒体が出てきているわけだから、融合でいいじゃないか、とこう申し上げている」
今井:「佐々木さん、コスト構造のお話されましたけれど、たとえば自然の姿を追いかけていく、これはNHK近々ネットの上でサイトをつくって環境問題とか、自然の映像、NHKの撮った、それをみなさんに提供していこうとしているのですけど。そうしたことも含めて、コストをかけて集めなければならない、できないもの。それから多角的に取材をしなければ立体像として皆に提供することはできないでしょう。そのためにたくさんのジャーナリストが動いて、そしてその作業の中で的確な情報、正しい情報、とにかく近づけていく。そういう作業を私達はやっぱり担っていかなくちゃいけないし、それが私達の存在意義だと思っているんですね。その時にネットとの組み合わせと言うのはいろいろありうると思うんです。」
佐々木「だから良いコンテンツを作るために、きちんとコストをかけるというのはすごく大事なことなんです。ただ現状の日本の新聞テレビに関して言うと、良いコンテンツを作るためのコストではなくて、違うところの、その企業体を維持するためのコストに異常に金がかかってしまっている。そこが結局、読者の側に伝わらない原因になっているのではないかと、僕は思うんです」
司会:「そこで、先ほど見たAOLやポリティコのように、ネットからジャーナリズムの新たな担い手が出てくると言う可能性。これは日本ではどうですか」
佐々木:「現状では、そういうことを担う企業体は存在しないですね。たとえばヤフーっていう会社があって、これはものすごく巨大なネット企業であり、なおかつ報道機関にも十分なりうるだけの
資産をいっぱい持っている、ところが現状そこまで踏み込んでいない。ただいずれ、我々にとって必要なものが、ネットの中に、必要なものであるのであれば、それはいずれ出てくるのであろう、という期待感は、非常に今インターネットの世界では盛り上がっていて、ひょっとすればそれは川上さんがやっているニコニコ動画かもしれませんし。そこはもう少し注意深く見ていく必要があると、僕は思います。」
遠藤:「ただそれは従来からの、蓄積のある、従来だったら新聞と呼ばれていた企業、あるいはテレビと呼ばれていた組織、こういったものが進出してきても構わないわけですね。」
佐々木「そうですよ、もちろん」
今井:「私の見る限り日経の電子新聞とAOLのサイト両方比べたら、もともとどっちがどっちだか分からないような感じがしますよ」
佐々木「ただ、日経の電子新聞に関して言うと、月額4000円と言うのは世界でも類を見ないくらい高い金額なんですよ。」
遠藤、今井:「(笑い)」
佐々木:「これを、どうしてそういう金額になっているかと言うと、高いコスト構造を維持するための金額になっているのであって、それが読者にとって本当に良い、優良メディアなのかというともう一度考えなくてはいけないと、僕は思いますけど」
遠藤:「それからもう一つは、やっぱり、今のマスメディアはけっこうしっかりしすぎちゃっていて、従来のやり方が厳然とありすぎてしまう、というところがあると思うんですね。今やはり、社会全体が大きく変化しようとしている、で、そういう時っていうのは、非常にこうむしろフラフラフラ~っとしているような視点と言うのが重要になってくる。だからもし、従来からあるテレビや新聞がこちら側の世界に進出してくるんだったら、みなさんのなかにだってフラフラっと、アブナイゾみないなものもあると思うんですね。それをもう一回再発見していく、それも結構重要かなと思っている。」
川上:「違う観点から言いたいんですが。さきほどから、メディアも結局一緒で、新聞もネットも融合すればいいという玉虫色的な感じの話を感じるんですけど、僕はそもそも、一番最初にあったように、今ネット中心の人はテレビ新聞を見ていないんですよ。僕はこれ本当に重要なことだと思っていて、単純に進出すればいいという話じゃないんですね。誰かがコピペしてくれない限り、ネットでは存在しないことなんですよね、テレビや新聞に書かれたとしても。で、要するに別の国なんですよ。今ネットで、結構人気のあるニュースサイトと言うと、多分J-CASTとかそういう、ほとんど掲示板に書いてあることそのままコピペしただけのようなメディアがあるんですね。それが、新聞社とかが作ったものに対して結構引けを取らないくらいの人気を集めているサイトになっている。これはどういうことかと言うと、僕は数を数えたんですけど、普通の新聞のサイトの方が記事の数って多いんです。で、土日も更新するんですよね。ネットメディアはお金がないから土日は休んじゃう、で、夜も早く帰ってみたいなんですけど。だから、圧倒的に記事の質も量も普通の従来のメディアのネットサイトの方が多いにも関わらず、必ずしもネットユーザーの人気を得てい何ですね。なんでかって言ったら、違う国の話が書いてるんですよ。今リアルの世界っていうのは、やっぱり年齢も高めの人が中心だし、やっぱりテレビとか新聞も見る人たちの世界の情報しか書いてないんですよ。ネットに来るんだったら、ネットで生活している人の情報も書かなくちゃいけなくって、僕はネットっていうのは単純に進出すればいいって言うんじゃなくて別の国だって思わなくちゃいけないって、僕は思います。」
遠藤:「それはよくわかんないですけど、今、ちょっとずれた話なんですけど、なんか最近ね、テレビのワイドショーなんかでネットの話がよく出てくるんですよね、ランキングなんかもテレビでガンガンやったりする。でも、それちょっと違和感があって、なんかこう、テレビや新聞って、テレビや新聞って言い方変なんだけど、社会の中でマスコミュニケーションみたいな共通部分を担うところが、妙にネットに迎合していくみたいなのは、やっぱりちょっと違う気がするのね」
広瀬「私、あのね、放送とネットの関係で非常に印象深かったことがあるんですけど、小泉さんの時代にですね、放送と通信は融合したらどうなんだと。で、規制緩和、民間開放と言う懇談会でも出てきたんですけど、そこで放送局と言うのは今デジタルのための中継局を全国に作っていくって言うので大変なんだという話をしたらば、光ファイバーが全国にいったんだと、それで放送何チャンネル分でも流せるんだから、非常に貴重な空間を、電波で空間を埋めるよりも、放送電波を光ファイバーで通したらどうだという発言が通信の側からあったんだ。ところが、実際には光ファイバーでつながるっていうのは都会だとか人口が多いところであって、それはもう二百戸・三百戸ぐらいのところまで線がいくはずもない、行く気も全くないんです、それはもう、非常に経済効率のあるところだけは通信で引き受けましょうと言うだけの話で、マスメディアの基本的な公共性の第一というのは普及するということだと思うんです。普及しないで好きな人だけでやるんだったら、これはその公共性を確保できないと思うんですね。」
司会:「マスメディアもですね、従来のマスメディアもネットもそれぞれ特性があって、それぞれ強いところと弱いところがあると思うんですけど、それがうまく協力し合って新たなメディア空間を作ればいいというように思うんですけど。この新たな、これからのメディアの姿と言うのを一言ずつみなさんから伺いたい」
内山:「やっぱり、国民のみなさんのためにどういう役割を果たすのかと言うことが一番大事で、なんでもかんでも情報たれながしてればいいってもんじゃない、というのが僕の考え方ですね。」
広瀬:「私はメディアというのは本当に素晴らしいツールだ、道具だと思うんですよ。検索機能だとかっていうのは、もう大変なもので、若い人たちがそのインターネット使っていろんな勉強してもらいたいと思う。そこにじっくり時間かけてちっともかまわない。で、将来のマスメディアというのは通信のそうした機能を十分に自分のものとして、豊かなものにして国民に提供していけばいいんだな、っていう風に思います」
川上:「メディアって、今、ネットのユーザーが不満に思っているのはとにかく一方向に行くことなんですよね。一方向に行くっていうのは実はネットでも同じで、ネットでも一方向に流しがちなんですよ、だからそれがもっとネットのところできちんと議論できる場が必要だと思います。今ツイッターがそれになりかけていますけど、ツイッターもタコつぼにならないとも限らないので、そういう場所が今後継続的にできればいいなと思っています」
佐々木:「もともとマスメディアが世論を担うということ自体がまるで大前提のように語られているのですが、こんなものは19世紀以降に出てきたパラダイムに過ぎない。もともと17世紀にイギリスで市民主義、市民社会が成立した時には、コーヒーハウスやカフェのような場所でみんなが議論して、それが世論につながるというのが当時の姿だった。僕は今のインターネットの勃興と言うのは、そういう形で議論する民主主義という原初の姿に戻りつつあるわけであって、そっちの方が正しい姿だと言う認識を持つべきではないかと、僕は思います」
遠藤:「私はとにかく情報の流通の可能性が開かれたのは良いことだと、それによって人々が社会の中にコミットメントする、そういう力量が増えた、その一方でダダ漏れ情報の問題点というのはあると思うんです。そのダダ漏れの危険性というのは、かつてマンハイムという社会学者が甲羅を剥がれたカニというような表現で言ったんですけれど、そこの部分の甲羅になるべきメディア、媒体、中間項なんですね、一方から、天からふってくるんでもなくて、人々の様々な意見をほっかりとサポートしてくれるような場、こういう場を作っていきたないというふうには考えています。」
今井:「川上さんが別の国に住んでいる人たちと言われたのが非常に印象的で、別の国でどんどん別れて暮らしていくのはやっぱりだめだと思うんですよね。どうにかして一つの世界を作っていくために、我々も努力しなくちゃいけないし、ネットの方もたとえばAOLのような形できちっとした情報を提示できる組織だてというのもできてきてもいいだろうし、われわれのほうももっとネットの世界との、さっきから融合と言う言葉をあんまり安易に使わないでほしいというご意見もありましたけれども、私は我々の方からそこに踏み込んでいかなければならないと思います。もちろんNHKですから、制度上の限界もありますし、そういうものもありますができるだけ、どうやったら我々の持っている力と中身を皆さんに提供できるかということは大事にしたいと思っている」
内山:「マスコミの立場から言えば、集中豪雨的な報道というのは戒めなくちゃならんなと、こう思っている」
司会:「皆さまからもたくさんの意見が」
司会2:「(意見紹介)」
司会:「番組を通してマスメディアが変革を迫られているという現状は明確になったのではないか。変革の行方を決めるのは情報の利用者である読者、視聴者、ユーザーなのではないか。そういうことも浮かび上がってきた。メディアのもともともつ意味は媒介とかつなぎ手ということであることを考えれば、伝達の方法や手段がどういったものであれ、つまりテレビであれ新聞であれインターネットであれ、結局は社会のつなぎ手としての役割、責任をいかに視聴者読者ユーザーのニーズにこたえる形で効果的に果たしていけるか、そこが改めてメディアには問われているのではないか。今日の議論や皆さまからのご意見を聞いてそんな感想を持ちました。」
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激震マスメディア~テレビ・新聞の未来~、広瀬道貞75歳の今。その2
http://may13th.exblog.jp/10907619/
2010-03-28T10:15:00+09:00
2010-04-01T12:02:24+09:00
2010-03-28T10:14:56+09:00
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司会2:「視聴者の声」
司会:「危機感の強弱は別として、従来のマスメディアである新聞テレビがインターネット時代への対応と変革というものを迫られているということだけは事実ではないかと思います。では、どんな模索が始まっているのか、アメリカ、日本の事例を」
映像:NYT部数の低下のウェブサイト刷新、膨大な情報の提供。有料化。日経電子新聞。グループ会社から映像も。関連記事も登録用語で自動集積。デジタル分野で収益確保に社運、複合メディアでないと生きてゆけない。NHKの有料アーカイブ。無料の第2日テレ、月間アクセス500万、独自番組、テレビとネットで求められるのが違う、時間帯がない、テレビはもう出口の一つ。
司会:「新聞テレビがインターネット時代に対応しようと様々な動きが分かった。新聞やテレビのネット対応ではたしてどこまで視聴者、新聞の読者をつなぎとめるとお考えか」
内山「新聞の場合は新聞離れと言う深刻な状況が起きている。これは厳しく受け止めなくてはならない。ただ、救われるのは新聞の信頼度。日本の場合病院と新聞ならんでほとんどトップ。アメリカでは軍隊が1位新聞が2位。そういう違いがあって、新聞にたいする信頼度が高いうちに、よりこれを高める努力をしなければ新聞離れは加速するという意味で深刻に受け止めていると。」
司会:「電子版への展開というのはどう見ているか」
内山:「電子版は既に、僕は、日系の電子版は、今年は電子新聞元年という位置づけをしている。これは広がっていくでしょう。読売の場合も電子新聞まで言っていないけれど、お医者さん情報などのインターネット、課金してやっている。地方の新聞社も、山形新聞とか北日本新聞等等14社くらいがすでに実行し始めている。」
司会:「これはうまくいくと考えているか」
内山:「短期的には収益は上がっていない。赤字です。長期的には電子媒体とペーパーとはうまく融合できると、僕は考えています。」
司会:「テレビの方もいろいろ努力しているとVTRでもあったが、こうした取り組みがどこまでうまくいくと考えるか」
広瀬:「テレビの経営から行きまして、スポンサーのCM出稿だけに頼れなくなってきたなというのを今考えたわけですね。そして例えば、放送以外にもDVDを売るとか、映画作りに入るとか、あるいはショッピング番組とかいろんな工夫もしています。そのなかでもネットとの協力と言うのは大変大きなものでNHKが始めたオンディマンドもそうですし、あるいは民放各社でネットによる通信をはじめまして、たとえばオリンピックの映像を無料で送って、広告収入をみんなで分けると言うことをやっております。しかしまだ、ネットを通じての放送局のいろんな企画というのは大成功というのはまだないですね。」
司会:「なかなかうまくいかない理由等のはどのあたり」
広瀬:「それは、今の一つは、テレビが非常にしっかりした番組を送っていて、ニュースもあり、バラエティもありドラマもあり、スポーツもあるという具合で、総合編成等のが非常にうまくいっているということですね。それから、その大変高い有料の映画などを買ってきて、それをやる通信系の配信会社があるならば、相当そういうところと競争しなくちゃいけないけれど、いまのところそういうのもない。映画もテレビ局が相当のものまで無料で出していく。それと有料の通信と競争していくという状況にまでいっていな。テレビが圧倒的に強いと思っております」
今井「テレビと言う端末としての機能とそこにのっかっているコンテンツを含めて番組を含めてテレビって一言で言いますけれど、私は乗っかっていく番組、情報の信頼性、質の良さというのは一つあって、これはもう一生懸命我々努力して高めていく必要があるし、テレビを見てくださる人たちの信頼を確保しなくちゃいけない。同時にもう一つ、端末としてのテレビ、この画面を最大限に活用していく、そこには当然インターネットを上手く活用していくというのが必要だし、それは先ほどのビデオで紹介したNHKオンディマンドですね、まだまだひよっこみたいなところがありますが、これからどんどん機能を改善していくし、視聴者のみなさんの反応の出方と言うのは先ほど40代の人たちのテレビ離れの話がされていたが、普段テレビを見る暇のない人が日曜日休日にまとめ買いして何時間もまじめな番組を見てくださる。そういうのも見えてきて、私はテレビの本来の役割と通信を上手く組み合わせたいろんなサービスがまだまだできると思っている。」
内山:「新聞もテレビもつぶれたところがないから。一般的には危機感がちょっと薄いんですよ。そういう面は僕はあると思う。別につぶれてほしい社があるというのではなく。もっと危機感をもつべき」
司会:「新聞テレビのネットへの進出がなかなかビジネスとして採算がとれるものにならない理由は」
川上:「ネット側から意見を言わせてもらうと、構造的に今やっているテレビと新聞との違いがあって、テレビっていうのは電波が限られていて、それが割り当てられているし、新聞に関しては宅配制度というのがあって、すでにコンテンツを乗っけたらユーザーに届く環境がある。ところがネットにおいては、そこのコンテンツをユーザーに乗っける部分を握っている会社がグーグルなんですね、そしてアマゾンさんは電子書籍では今キンドルとか出されていますけれど、そうすると電子の世界でそれを届けるのはキンドルという会社になってしまいます。で、そこの部分と言うのが、ちゃんと届ける方法と言うのが、メディアもネットでも持たないといくらネットに移行したところで、結局、ビジネスサイズが、まず、グーグルですとかアマゾンですとか、外国に持って行かれるわけです。だからもし、ネット時代に移行したとしてもビジネスのサイズと言うのは小さくなるはずなんですよ。そして、それ以前の問題として、ネット上で今までと同じような、トラフィック自体が集められていないわけです、ユーザーリーチが、もうそこが解決しない限り、これはやっぱりネットが大きくなればなるほど、どんどん厳しくなっていくなと思う。」
佐々木:「基本的にインターネットの世界とマスメディアの世界とで最も何が違うかと言うと、ビジネス的にいうと、これは完全にコスト構造です。高い給料とたくさんのアセット、設備投資みたいのがあって、ものすごい損益分布が高くなってしまっている。たくさん金を稼がないと黒字にならないというのが基本的にマスメディア企業の問題なので、それがインターネットに進出してくると得られる利益がものすごく少ない、それは川上さんがおっしゃるようにグーグルとかアマゾンとか
に奪い取れるののがすごくたくさんあると思うんですけど、結果的に薄い利幅でもうけられるためにはコスト構造下げるしかない。ところが、旧来のマスメディア企業はコスト構造を下げられないというのが最大の問題ではないかと。で、ところが一方で、広告収益がここ数年どんどんどんどん低下していて、特に民放さんがそうですよね。テレビに入ってくるお金が減ってきている。本来ならばそこでコスト構造を見直さなければならないのに、結果的になにしているかというと、番組の制作コストを下げている。ということは結局、番組の質が下がるだけの話であって、悪循環となって番組を見れなくなる。という、どんどんどんどんその負のスパイラルの落ちていく可能性が非情の高い。この状況のなかで、新しくネットでもうけようと展開させても、旧来のメディア企業では担えない。と僕は思っています。」
司会:「このコスト構造を見直さなければならないというご意見どう思うか」
広瀬「正しいと思いますよ。先ほどアメリカの場合でもABCのニュース社が非常に苦しくなったというのがありましたね。」
司会:「ABCニュース社はですね、非常に苦しいわけではないけれども、将来を見越して今人員削減をしているということ」
広瀬:「その、アメリカの場合ネットワークがみんなニュース部門を別会社にしている。で、全体としては大変な黒字をあるんだけれども、ニュース部門がなかなか黒字にならない。私達は報道というのはテレビの本格的な部分であって、これをおろそかにするわけにはいかないと思っている。それで、去年今年と確かに制作費をカットしてきたことはあります、先ほど言った、契機によるところが大きいのですが、カットしてきました。それでも報道分野では人もお金も減らさずに頑張ってきている。それでまた、この3月などは、広告などが回復してきているのですが、そういう時期に入ってくるので、そしたらまたエンターテイメント系の予算を増やしていけばいいと思う。とにかく今がんばらなくちゃいかんのは、報道分野だなという気がしています。」
司会:「インターネット上で若い世代の新聞テレビ離れを防ぐ努力をどう見るか。これで十分か」
遠藤:「なんかすごく違和感がある。お話をうかがっていると、お気持ちはすごくよくわかるんですけれど、ただ従来の形、メディアの形にネットを接ぎ木する、そうしたらどうにかなるという考え方がどっかに残っているような気がする。そうじゃない、これは、さっき佐々木さんや川上さんがおっしゃっていたと思うのですが、新聞やテレビとネットと、どこが違うかと言って、根本的にコンテンツをユーザーに提供するという意味では変わらないわけですよね。だから、新聞は新聞、テレビはテレビ、ネットはネットと分ける根拠というのが実は非常に薄い。つまり、今ある技術、様々な技術を組み合わせてユーザーに対して最も、ユーザーにとって利益になる情報、これを提供するのが正にマスメディアというか、メディアの役割じゃないか。にもかかわらず、現状はしばしばビジネスモデルの方の話になってしまって、収益は上がりますか、と。これは勝手な市民の目線ですけれど、そうすると、別にテレビ局がつぶれても新聞社がつぶれても、私構わないよ、とおもうんですね。欲しいのは情報なんです。」
続き→激震マスメディア~テレビ・新聞の未来~、広瀬道貞75歳の今。その3
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激震 マスメディア~テレビ・新聞の未来~、広瀬道貞75歳の今。
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2010-03-28T10:13:00+09:00
2010-03-29T04:15:40+09:00
2010-03-28T10:13:26+09:00
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2010年3月22日、NHK総合テレビ 午後10時~11時30分放送。
放送記念日特集 激震マスメディア~テレビ・新聞の未来~
出演
キャスター:藤沢秀敏解説委員長 黒崎めぐみアナウンサー
ゲスト:日本新聞協会会長 内山斉
日本民間放送連盟会長 広瀬道貞
ドワンゴ会長 川上量生
ITジャーナリスト 佐々木俊尚
学習院大学教授 遠藤薫
NHK副会長 今井義典
*
あまりにも広瀬道貞さんの話がギャグみたいで面白すぎて、書き起こしながら笑ってしまった。
こんなギャグとまじめに付き合わなくてはいけないテレビ朝日関係者には同情を禁じえない。
*
司会のキャスターの発言はかなりは要旨が分かる程度に端折ってあります。
ゲストのコメントはなるべく正確に記しているつもりですが、語尾や言葉遣いは変えてある部分があります。
すべての正確性は担保しませんので、必要なら各自で確かめてください。
*
映像:広告代理店勤務31歳。テレビを見ない。ネットで済む。
司会:「冒頭のVTRをどう見たか。一言ずつ感想を」
内山:「新聞とテレビの新たな存在感を示す時代を迎えたんじゃないかな。」
司会:「新聞を読まない、テレビを見ないという人が増えてることに危機感を覚えないか」
内山:「だからこそ、新たな時代、あとでどうしたらいいかと言うことを申し上げたい」
広瀬:「大変な時代になったことはよく分かるけれども、もしテレビや新聞の存在感がなくなったらなば、この国の民主主義とか、国民の暮らしの安全だとか、そういうのがおかしくなってくる。ここはしっかりしなくちゃならないと感じた」
川上:「VTRでもあったが、今、ネットを使っている人はテレビとか新聞とかの時間が減っているのではなくて、まったく見ない。それを今日、力説しようと思ってきたけれど、既にvtrで言われてしまったので、どうしようと」
司会:「その背景などをうかがいます」
佐々木:「基本的には新聞もテレビも日本人にとって最も良きメディア空間であるという存在ではなくなってしまった。なぜそうなってしまったのか。あるいはその先にどういう新しいメディア空間が待っているのか。という展望的な議論ができればと期待している。」
遠藤:「私はちょっと緩やかなことを考えていたけれど、昨日あることがあって、昨年の政権交代に続いてメディア交代が起きるのではないかと思っている」
司会:「緩やかなことを考えていらっしゃったというのはどういうこと」
遠藤:「もうちょっと転換が2・3年はかかると考えていた、でも、もしかするともっとドラスティックな変化が起きるかもしれない」
今井:「今のビデオを見ながら来年の7月24日テレビは完全にデジタル化するということを考えると、正直身の引き締まる思いがする。新しいプラットホームに、放送と通信がいっしょに上っていく時代が始まる。さあ、どうとりくむか。大変な時代だと思う」
司会:「感想は立場によって様々だが、共通しているのはマスメディアが激動の時代に入っているとことではないかと思う。今日は、皆さんと率直で建設的な議論を進めていきたいと思います」
司会:「テレビを見ている人の意見も受け付けます。番組内でもできるだけ紹介する」
司会:「マスメディアの世界で何が起きているのか。メディア先進国と言われるアメリカの現状をご覧いただく」
映像: ロッキー・マウンテン・ニュースの廃刊。アメリカで100以上の新聞廃刊。ネットニュースの台頭。自分たちで取材をしないストレートニュースサイトの登場。広告費の減少。テレビの視聴者ばなれ、10年で700万人。独自の番組制作を放棄する地方テレビ局。3大ネットでもリストラ計画。
司会:「アメリカではマスメディアの危機は社会の危機だ、さっき広瀬さんがおっしゃったように民主主義の危機だという見方もある。去年連邦議会で公聴会が開かれて、経営難に陥った新聞社に対して公的支援をするかどうかといった議論まで起きている。この新聞などマスメディアの衰退というのは、社会にとっても深刻な事態と受け止められている。」
司会2:「そうですね。そして日本の状況はどうなのか、ツイッターの皆さんのご意見をみていたが、アメリカではなくニッポンの現状を知りたいというご意見もありましたので、まずお応えしてまいりましょう。まずは新聞の発行部数です。徐々に減少してるのがわかります。特におととしから去年にかけて100万部以上減少している。そしてテレビです。テレビの週刊接触者率というのは、1週間に5分以上テレビを見た人の割合。国民全体では9割以上になるが、20代では100人の内12人は1週間の内テレビを見ている時間が5分未満ということになる。そして、広告費です。テレビと新聞は緩やかに落ちているが、インターネットの広告費、去年は新聞を抜いた。」
司会:「本格的な議論を始めたい。まず、日本のマスメディアの現状をどうごらんになるか」
佐々木:「ものすごく簡単な情報の需要と供給に関する市場原理みたいなもの。今まで情報はマスメディアが独占していた、だからみんなが情報を知りたいのだけれど、マスメディアにしか情報がなかった、つまりそこで供給が絞られていた。これがある意味、マスメディアに対する人々の情報の飢餓感を招き、一方、マスメディアに余剰の富が流れ込む、そういうモデルだった。ところが、インターネットの出現によって完全にその需給バランスがくずれてしまった。膨大な数の情報が流れ込むことによって供給が増えてしまった。そうすると需要を満たす以上の情報があるということは当然、需要を供給する側の富そのものも減っていく。これはごくあたりまえのこと。もう1点大事なのは、こういうことを話しをすると、じゃあその情報はいったいどこからくるのかと、新聞やテレビが流しているのを単にネットではコピーしているだけじゃないんですかという意見があるが、実は今起きていることはそうではない。つまり、たとえば、政権交代がありいろいろなニュースが起きると新聞やテレビはもちろん、それについて一次情報を流す。その情報に対してネットの側ではものすごい膨大な数の言論が、それについてどういう意味付けを行うのか、どう考えるのか、どう評価すべきなのか、分析論考がものすごい勢いで行われている。そういうものの全体の総体としての情報量が増えているということ。つまり、今までだったらマスメディアの1次情報しか読めなかった、それに対するどういう風にニュースを評価するかまで含めて、情報量が全体として莫大な量になってきている。と言う中では、同然マスメディアが持っていた役割の部分というのは減少していくのはしょうがないということだと思う。だから、僕はこの状況と言うのは、おそらく後戻りは絶対しないのではないかと考えている」
内山:「アメリカと日本じゃちょっと新聞の構造が違う。まずアメリカでは150年の歴史の新聞がつぶれちゃったといいますが、日本では日本語の新聞ができて来年で140年、やっとそういう状況です。さて、どう違うかと言うと、日本では宅配制度、家庭に新聞が配られているのが、だいたい95%。アメリカではだいたい75%、フランスなどは29%なんです。ですから、買いに行かなきゃない。去年公益、財団法人の新聞通信調査会というところが世論調査を行い、新聞について。83%のかたが、戸別配達を続けてほしいという要望をしているという、違いが一つあります。それから、収入構造ですね。アメリカの場合はだいたい、8割が広告です。日本の場合はだいたい3割くらいです。アメリカでは新聞が1400ある。1社平均の販売発行部数は4万部です。日本の場合は10倍以上の62万部と。そういう違いがあるという。これが現状です」
広瀬:「テレビの場合、人々のテレビ視聴時間、これは1980年代、一番テレビの盛んなころ、23・40分、1日、だったが、今もほとんど変わっていない。それから、そう視聴率、という数字、みんなが見ている、視聴率はどうかという、これもほとんど変わっていない。で、確かに、先ほど出ていたように広告費、広告収入と言うのは、ここ2年ほど、下がってきております。ただし、そのことからみますと、テレビの存在感と実際の収益のところとは別物だと考えた方がいい。メディアの専門家のみなさんは、アメリカではああいう劇的なことが起きているという、おそらく5年とか10年後とかには日本でも起きるだろうと、こう見ているのだけれど、先ほど申しましたように、20年近くテレビとの接触率は変わっていないということは、日本はいったいどうなっているのだろうと、日本とアメリカ、あるいはヨーロッパとどう違うんだろうと、そこを考えてもらいたいと思うんですね。私論ですけれども、今新聞は宅配と言ういわば新聞のインフラがしっかりとしているということは、ありました。テレビも同じであって、地上波テレビと言うのはですね、ホントに全国津々浦々まで電波が通ります。今回のデジタル化も山の中、海岸側、50戸、100戸と言うことろまで届かせるには、大変なお金をかけている。で、そういうところにはインターネットもいかない、場合によっては新聞もいかない、携帯電話も、そもそも用事の時しかかけないという具合で、そういうところでテレビ離れというのが起こるというはずないんです。今後、番組をしっかりしていく、あるいは、CMについても効果のあるものを工夫していく、そういうことで存在感を示していけると、私はそう思っている。日本と欧米とではテレビの事情がそうとう違うなと、そういうことが大事だなと」
司会:「日本とアメリカとは制度とか、ビジネスモデル的なものが違うということですけれど、いまの経営が厳しい状況は、景気が回復すれば、一時的には好転するかもしれないけれども、長期的にはどうか。佐々木さんは構造的な変化が起きていると、需給の関係ががらっと変わっているという話だけども」
内山:「テレビの場合を先に言うと、確かに2001年にITバブルが崩壊します。そのあとずっと10年間は、いまがそうなんですけど、ほとんど1%上がったり1%さがったりと言う具合でほとんど平準利益でいっています。時代がたち、全体の文化水準が上がったのに、なんで上がらないのかと言う疑問はあるが、とにかく、大きく下がることはない。しかし、リーマンブラザーズ以来下がったところは、まだもちなおしていない。それにちょうどデジタル投資が大変な重荷になってきた。それで収支が悪くなって、201社、民間放送局があるが、おそらく2009年度3月期の決算だと、半数前後が赤字になりそうだと。つまり、私は今の経営の不本意な姿は極めて循環的なもの、景気に左右されたものだと風に思う」
司会:「受信料で成り立っているNHKの立場からどう考えるか」
今井:「社会的な傾向でいえば、もう人口の減少が始まっている。高齢化が進んでいる。NHKでいえば接触者率の全国調査でていましたが、NHKだけでいえば、NHKに全く接触しない人は24%いる。やはり、全体的な傾向の中で、受信料で放送を出していく、受信料で社会の公共空間を創っていく、という役割を維持していくためには、我々はもっと自己革新を遂げなくてはならない。昨日のとおり今日やっていけばいい、今日のとおり明日もつづくだろうと、そう考えるのは間違いだ。」
司会:「若い世代の新聞テレビ離れが進んでいる理由をどうみるか。既存のマスコミが若い世代を惹きつけるコンテンツを出していないということなのか、メディアへの接触の仕方が、技術面の進展もあって根本的に変わってきているということなのか」
川上:「理由はいろいろあると思う。まず、実際に本当に若い人はテレビを見る人はすごく減っている。われわれのニコニコ動画の例を紹介すると、1日200万人のユニークユーザーが、ログインするサイトなんですが、平均利用時間が1時間。一見で帰ってしまうお客さんもいるので、そういう人を除いてみると、1日2時間私達のサイトを利用している。こう云う人はテレビを見ていない。見る時間がないからです。ここまでネットを使っていると、人間の24時間というのは同じですので、そうするとネットの方に時間を吸い取られてしまっている人は、確実にテレビを見ない。それは我々のサイトだけでも1日200万人いる。僕は構造的な変化が起きていると思う。」
司会:「若者にとって新聞テレビはどんな存在か」
遠藤:「若者の話もあるが、さきほどドラスティックに変わるのではないかと申し上げのは、昨日研究者仲間としゃべっていて、40代のリベラルな知識人を自称する人、その方はいままで新聞のコアな読者層を形成していたと思うが、その彼が、僕はもう新聞やめた、やめてみたらなんでもなかったと、こう云う風に言ったんです。そういういいかたというのは、2009年の総選挙の前に、80代の知人でずっと自民党の強固な支持層であった、彼がぽつっと、もう自民党はやめたと言ったのと非常に感覚が似ていた。つまり、若年層の動きもそうですが、コアな部分で崩れ始めると、これは大きな変化が起きるのではないかという風に思う。若年層に話を戻すと、若年層は見ていません。それも、ここ数年急激に起きている。従来だと、講義の最初につかみでテレビドラマやCMの話をして引きつけようと努力してみたりしようとするが、これがぜんぜん効かなくなってしまった。みんなバラバラなものだから、いってもわからない、きょとんとして。新聞はもっと悲惨な状態。すいません。ただし、さきほどおっしゃったように、接触者率とか視聴率は意外なほど下がっていない。また、世界の中で日本は非常にがくっと新聞やテレビに対する信頼が高い。これは確かです。しかし、それで安心していられるかと言うと、そうはいかなくて、つまり接触者率が高い、資料率が必ずしも下がっていない、しかし、その中身はどうだろうと、そういうことを考えると、非常に視聴の質が下がっている、つまり、テレビはつけっぱなしになっている。そこのところも接触者率にカウントされてしまう。しかし、信頼度、新聞テレビに関しては完全に年齢と比例して信頼度が高い。しかし若年層になると下って、20代ではインターネットが一番信頼されている、当結果が出ている。これは一時的なものではなくて、非常に長期的にこういう傾向が出ている。また当然のことながらアメリカでは同じことが起きている。ということは、けっしてアメリカと日本とが無縁の状態にあるのではない。そう考えられる。」
続き→激震マスメディア~テレビ・新聞の未来~、広瀬道貞75歳の今。その2
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鳩山が参りました。
http://may13th.exblog.jp/10552344/
2009-12-12T21:49:00+09:00
2009-12-12T22:02:09+09:00
2009-12-12T21:49:34+09:00
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メディア
“象徴としての天皇陛下の前では全ての人が同等である。したがって、陛下に申し上げる場合、人名にさまとかさんとかの敬称をつけない。総理大臣であろうが誰であろうがすべて姓だけで呼ぶ。「大平が参りました」、「入江が申しております」というように。これでよいのだけれども、侍従が総理大臣や侍従長を呼び捨てにしているようで何とも気がひける。そこで「総理大臣が参りました」、「侍従長が申しております」というように肩書きで申し上げると総理大臣や侍従長にも敬意を表していることになり、まことに具合がいい。こういうとき肩書きは便利なものである。”
角田素文 『宮中侍従物語』入江相政編
*
今月14日に来日する次期国家主席との観測もされる習近平副主席と天皇陛下との会見が内規による一か月前の申請を特例的にまげて実現されることについてマス・メディアは大勢で批判的だ。
羽毛田宮内庁長官も“「陛下の国際親善活動は、国の大小や政治的重要性とは別次元で行われてきた。(特例扱いは)二度とあってほしくない」”と述べている。
天皇の政治利用ではないかという指摘は、そもそも天皇が政治的存在以外のなにものでもないので、云々することが馬鹿らしい。
胡錦濤主席が98年の副主席時代に天皇陛下と会見したことのつり合いや小沢民主党幹事長の訪中の返礼という意味合いなどがあるのだろうけれど、政治的に天皇陛下との会見の慣例を破ることは適当かには疑問がある。
天皇と言う儀典上の最上位者を持ち出す、それも特例でというのは大きすぎるカードをきることに思えるし、建前であると分かっていても「国の大きさ等」とは関係のない次元で天皇は動くということの説得力を傷つけることになるだろう。
敬称をつけないのは国内事であるだろうが、今回の特例扱いは天皇の一君万民的な平等性の持つイメージを落とすことにもなりかねない。
正に慣例で続いてきた天皇というあり方で、慣例を破ることにもう少し慎重であってしかるべきだと感じる。
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Song of the Liberty Bell
http://may13th.exblog.jp/10239333/
2009-09-18T22:00:00+09:00
2009-09-18T23:48:17+09:00
2009-09-18T22:00:56+09:00
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岡田外相:全メディアに記者会見を開放 フリーも
岡田克也外相は18日の記者会見で、外務省での記者会見について「原則としてすべてのメディアに開放する」と述べ、記者クラブに所属する報道機関以外にも参加を広げる方針を明らかにした。
岡田氏によると、開放の対象となるのは「日本新聞協会」「日本民間放送連盟」「日本雑誌協会」「日本インターネット報道協会」「日本外国特派員協会」の各会員と、「「外国記者登録証保持者」。また、これらの媒体に定期的に記事を提供する人に限り、フリーランス記者も認めるとした。ただし会見に出席する記者は事前登録を必要とする。
毎日新聞 09年9月18日 21時15分 須藤孝
*
実際の運用を見ないと結論は出せないものの、おおむね「公約」実行とみてよい程度だと思う。
岡田克也外務大臣によって、世界のメディアにとっては小さな一歩だが、日本の民主主義にとって大きな飛躍となりうる決定が表明された。
彼の決断を讃える。
官邸についても、逢坂誠二衆議院議員と藤末健三参議院議員が早速働きかけているようなので、経過を見守りたい。
※毎日の記事ではクラブ側の反応が書かれていないのは、なぜだろう。不気味だ。
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権力は腐敗する。
http://may13th.exblog.jp/10235135/
2009-09-17T19:49:00+09:00
2009-09-17T20:11:00+09:00
2009-09-17T19:49:23+09:00
sleepless_night
メディア
民主党という野党が生まれ、二大政党制による政権交代ある政治を繰り返し訴えて選挙を戦い、十数年かけて、それが実現しました。
では、どうして二大政党制や政権交代が必要とされ、私たちはどうして政権交代を是としたのか。
もちろん、多くの理由があげられるでしょう。
しかし、その理由に必ず含まれたのが、一つの政党がずっと政権を担い続けることで権力が腐敗する(した)という理由でした。
一つの政党が何十年も政権を持ち続けたことで、行政(官僚)との間に緊張感がなくなり、さらには行政(官僚)に立法(議員)がとりこまれ、官僚支配が横行し、私たちの税金が官僚や元官僚たちによって、国民のためではなく官僚や元官僚のため、官僚にとりこまれた議員(の支持者)のために浪費されてしまっているという理由です。
だから、私たちは先の参院選と衆院選で、政権を変えることを選択したのです。
一つの政党が政権を担い続けると腐敗する。
この事実認識をもって投票したのなら、私たちは今回の官邸記者会問題についても同じ事実認識を持ち、行動しなければ筋が通らないことになりますし、政権交代の選択の意義すらあやうくしてしまうことになります。
確かに、これは政権交代や二大政党制ほど有名でもなく、投票の理由とはならなかったかもしれません。
官邸をはじめ行政機関、企業などの取材がどう行われているのかを知る人や興味を持つ人は多くはないからです。
しかし、ジャーナリズムやメディアに少しでも関心がある人で記者クラブ問題を知らない人はいないし、もし疑問や関心をもつなら直ぐにネット検索で要点は理解されます。
とても簡単なことだからです。
一つの政党が政権を担い続けると腐敗する。
それと全く同様に、一つの集団のみが権力への取材を独占し続けると腐敗する。
私たちが政権交代を選択した、この理由と全くパラレルに記者クラブ問題はあるのです。
一つの集団がずっと取材権を独占してきたことで、取材対象(行政・与党)との間に緊張感がなくなり、さらには情報提供や便宜供与をネタに権力(行政・与党)にとりこまれ、情報の隠ぺいや操作が横行し、私たちの知る権利が国民のためではなく権力(行政・与党)や自分たちに都合のよい情報をばらまき本質的な調査や批評を怠ることの大義名分とされ、権力や税金の使われ方の監視や調査もなされず、権力(行政・与党)の浪費・濫用を放置してきた。
このような現状を打破する情報公開こそ政権交代の最も基本的な意義であることを理解してきたから、民主党も岡田・小沢・鳩山の歴代代表がずっと党の会見を記者クラブ以外のフリーランスや雑誌記者たちにも開放してきたのです。
野党民主党を取材してきたビデオジャーナリストの神保哲夫さんがおっしゃっているように、記者会見の開放は実行するのも理解するのと同じくらい簡単です。
今まで官邸の会見に出来てた人たちを排除するのではなく、新たな人たちを受け入れるだけなのです。世界の先進国で当たり前にされているように、基準を明確にして、受け入れるだけなのです。
そして今までの取材の独占は全く理由が成り立たないし、違法ですらある(記者クラブ加盟以外のメディアを排除する権利も行政から無料同然で施設占拠をする権利もないのです)のですから、会見を開放することで記者クラブ側が非難してきたなら、いくらでも反論できます。小学校中学年程度以上の人なら、なぜ開放するのかを聞いて、開放を拒む側とどちらがまともかは理解できます。
一つの集団のみが権力への取材を独占しつづけると腐敗する。
一つの政党が政権を担い続けたために腐敗したように。
知らされていなことを知らない、ことに気付くだけで、この腐敗を取り去ることを阻むことはできなくなります。
なのに、この認識を持ち続けてきたはずの民主党が記者会見を記者クラブの手から国民の手へ取り戻せなければ、いったい、いつになったら国民は自分たちの知る権利を取り戻せるのだろう。
毎日や産経が経営に行き詰まり、身売りするまで待つのだろうか。
もう、いいかげんこんな馬鹿げたことで騒がなければならないのは止めたい。
だから、希望をすてずに、民主党に働きかけよう。
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あきらめないよ、みずほ。
http://may13th.exblog.jp/10232283/
2009-09-16T22:53:00+09:00
2009-09-16T23:37:30+09:00
2009-09-16T22:53:31+09:00
sleepless_night
メディア
“流動層を取り込もとする過程で、「世論と政策の政治」よりは、政党と候補者への「認識を操作する政治」が盛り上がったのである。”
『代議士のつくられ方』バク・チョルヒー著(文春新書)
*
中選挙区制が自民党の派閥存続を支え政党や政策中心の選挙とならないことなどの批判を受け、1994年の政治改革4法案成立により96年衆院選の衆議院選において小選挙区制が導入された。
しかし、“握手とういう選挙技術は、少なくとも大都市以外、日本では流行しているとは言えない。”と1971年に佐藤文生の衆議院選を調査した時にジェラルド・カーティスが描写し、さらに“神奈川県(第三区)選出の若い衆議院議員、河野洋平に、彼の後援会のことを尋ねた時、彼は、後援会にあまり関心を払わない、自分の選挙区は東京のベッド・タウンとして首都東京へ通勤する人々の住宅地が主体であり、「浮動票」が多すぎるから、と答えた。組織化の努力に値するだけの有権者数を、後援会に勧誘することは不可能だと河野は信じているのだ。”とのインタビューを得た(『代議士の誕生』サイマル出版会)時から40年近い時間が過ぎて小選挙区制が導入され圧倒的多数で政権交代がなされた今。
選挙はどぶ板が当たり前のこととなり、後援会は一層重要度を増していることを、カーティスの弟子であるバク・チョルヒーが1996年の平沢勝栄の衆院選を調査したことで描き出した。
カーティスが調査した71年の佐藤は票まとめをする人物らの存在で一度も足を踏み入れない地域・演説する必要もない場所があったが、小さくなった選挙区では対面によって対立候補に支持者を奪われなくする必要が生まれ、取りこぼすことを前提とした地域を持つ贅沢は失われた。
中選挙区では当選に必要な支持者を集めればいいミニマリスト戦略だったのが、小選挙区では競争相手に勝つために可能な限り多くを集めるマクシマリスト戦略を採らなければならないからだ。
だから、政党の掲げる政策は小選挙区導入の意図とは逆に似通ったものにならざるを得なかった。
(幸いなことに現在までは)目立った社会的分裂もイデオロギー的対立も存在しない日本では政党が利用できる流動層を取り込む戦略は、波風を立てずに、いかに信頼できるイメージを有権者間に醸成するかに重点を置かれる。
特に、有力な地方メディアが存在せず、対面よりもマス・メディアからの情報を重視する都市部の有権者を獲得するには、マス・メディアという「認識を操作する」集団・機構との関係を議員となろうとする者は重視せざるを得ない。
マス・メディアが情報の受け手の「認識を操作する」ことは、マス・メディアが情報のゲートキーパーである、と言い換えられる。
社会心理学者クルト・レヴィンが家庭食習慣の主婦の決定・影響の研究において提唱したこの概念は、D・M・ホワイトによって新聞のニュース選択へ応用され、それはA・Z・バズによって取材と編集の役割の違いに着目した「二段階行為モデル」へ発展し、さらにP・J・シューメーカーによってより広くニュースの制作に関わる諸力の相互関係を分析する概念へと展開されていった。
*
今日、民主党・社民党・国民新党の連立による鳩山内閣が発足し、記者会見が官邸で行われた。
昨日までの自民党・公明党連立政権と同じく、これまでの自民党政権と同じく、記者クラブが主催し、“特例”として、記者クラブのお情けと新政権への顔立てで、数社の外国メディアと雑誌記者を入れて、会見が行われた。
再三の問いかけと再三の明言は見事に破棄された。
そして、問いかけられたことも明言されてきたことも、マス・メディアは知らせていない。
もはや古典的な概念となっているゲートキーパーの研究が恥ずかしくなるほど、古典的な情報統制が今日もまた維持されたわけだ。
一日二回の、ポーター(お使い段階の人)やリポーター(ストレートニュースの記事を書ける段階の人)たちの愚にもつかない下らない質問(なのかイチャモンなのか懇願なのか雑談なのか分からない会話)に付き合う「ぶら下がり」が1回に減らされることに“首相への取材機会を減らすのは認められない」と、再考を求めている”のに、実績のあるフリーランスの出席を認めないという。
情報が欲しいのか、欲しくないのか、はっきりしてくれ。
これじゃあ、そそり立つ巨大なクソが官邸の入り口をふさいでいるも同然だ。
さて、その巨大なそそりたつクソの皆さんが集った今日の会見で鳩山総理はこう述べた。
“今までのように、国民の皆さんもただ1票を投じればいいんだという発想ではなく、ぜひ政権に様々ものを言っていただきたい。政権の中に参画していただきたい。私たちが皆様方のお気持ちを、いかにしっかりと政策の中に打ち出していけるか否かは、国民の皆さまの参加次第にかかっているとも申し上げていいと思います。”
なので、さっそく私は声を上げる。
私たちの目の前を塞いでいるゴミをどけてください。
さもないと、次の参院選では民主党に入れません。
このメッセージを民主党、その衆議院議員・参議院議員へあらゆる手段で届けよう。
この民主党の対応について、「すぐにはできない」「仕方がない」といった反応がネットに散見されるが、池田信夫さんが述べているように、記者クラブは国民共有の財産である官邸を不法に占拠している。記者クラブが会見を主催することや会場を利用することが問題なのではない、彼らが独占する権利も占拠する根拠もないのに、している不法集団となっていることが、問題なのだ。
今日、それを正さなくて、いつできるのだろう。
もちろん、この不法状態を晒し、正そうとすればマス・メディアは抵抗する。
しかし、それなら会見を別の場所で開けばいいのだし、海外メディアや記者クラブに加盟していないで排除されている雑誌メディアら地方メディアへ案内を回せばよいのだし、会見は成立する。
このような事態になれば、国民でも今までいかに異常なのかくらい理解するだろう。
「自由に来てください」と官邸が言っているに、行かないのはマス・メディアの側なのだから、彼らが出席しないならそう会見で言えばいいのだ。
もし会見を別の場所でやるのが無理なら、現在の官邸記者クラブ主催でさせても、彼らから相応の会場使用料などを徴収すべきだ。
これは、石原東京都知事が記者をコントロールする手段にしたものだ。
「メディアを敵に回すな」とメディアが言ってみたところで、味方になるわけじゃない。自民党の復権とそれを通じた自分たちの権益維持(なにせ、今のマス・メディア体制は自民党がつくったのだし)を目指すのは目に見えている。長年自民党に張り付いてきた人たちがマス・メディア内部での力を失ったわけではないのだから、民主シンパがいいようにしてくれるというのは幻想だ。
だったら、さっさとやってしまった方がいい。まさか自分たちの権益を奪うことはできないと思っていた相手が、あっさりと権益を奪われた時、政権を失った自民党議員と同様に呆然とするだけだろう。
参照)
新首相就任会見、雑誌記者の参加認める 朝日、自時… と報じられているが、実際は少し違うらしい。
J‐CAST 首相会見の出席枠拡大 民主党が記者クラブに申し入れ
PJニュース 民主党と記者クラブが「密約」、首相会見出席は徳麗華津限定的にと
ビデオジャーナリスト 神保哲生 なぜ記者会見がオープンでなければならないのか
新聞が書かない民主党の「公約破り」(山口一臣の「だめ編集長日記」)
鳩山政権 神保さん上杉さんそのほか雑誌記者さんへきつくお灸をすえる
Gatekeeping international news:an attitudinal profile of U.S.television journalists.
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最も小さい者の一人にしたのは
http://may13th.exblog.jp/9979864/
2009-07-13T20:13:00+09:00
2009-07-16T20:54:41+09:00
2009-07-13T20:13:11+09:00
sleepless_night
倫理
“そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」”
マタイによる福音書25章40節
*
臓器移植法の改訂案・通称A案が参院を賛成138、反対82で通過した。
A案が改訂臓器移植法として成立したことになる。
新聞でもテレビでも見た限りでは、従来の要点解説、「改訂によって15歳以下の臓器移植が可能になる」「家族の同意のみで移植可能になる」を変えていない。改訂が何を意味しているのを全く示していない。もしかしたら、提案者の説明や他の記者の解説だけを見聞きして、法案自体を自分で読んでいない記者もいるかもしれない。都議選で自民党が惨敗を喫した興奮で、マスメディアは持ちきりだろうし、臓器移植法の改訂など衆院解散を阻害する一つの要素とくらいにしか思っていないように感じられる。
テレビのアナウンサーやコメンテーターと呼ばれる人たちはもっと酷い状況だろう。
印象深かったのは、確かA案が衆院通過した日のNHKの午後7時のニュース。
番組冒頭で、「臓器移植法が衆議院を通過しました」と伝えるアナウンサーの背後の大きなモニターに子供を移植待機中になくして法改訂運動に携わっていた夫婦(中沢啓一郎・奈美枝さん夫妻)が衆院傍聴席で涙をながしている画像が「臓器移植法」というタイトルを付けて映し出されていたこと。
NHKが公正中立であることを信じているわけでももちろんないし、ニュースの本編ではドナーとなる側の長期脳死状態にある子供とその家族も紹介されていた。
しかし、NHKは「臓器移植改訂」というニュースがレシピエントとなる人のものであり、そうであるものとして視聴者に伝えたかったというのは十分に伝わった。
(この構図は今日のNHK首都圏ニュースでも全く変わらなかった。参院傍聴席には中沢さんご夫妻だけではなく長期脳死のお子さんを亡くされた中村暁美さんもいらしたのに、傍聴席の中沢さんご夫妻しか映していなかった。)
私の感覚では、これまでもテレビで臓器移植についてとり上げられるのは圧倒的に臓器移植が日本で受けられない「可哀そうな子供」のことだった(募金集めや渡航のニュース)。たまに、臓器不足で途上国で臓器を購入する日本人のニュースやドキュメンタリーも放送していただが、圧倒的に「可哀そうな子供」が臓器移植の世間でのイメージを作ってきた。
私は積極的意思表示をしないで脳死状態になった人が、「家族・遺族」がいないために、死を判定され、臓器摘出されるということを残酷だと感じる。
「家族」から何らかの事情で離れた人・のがれた人が、積極的意思表示をしないで脳死状態になると、離れた・のがれたはずの「家族」に死の判定や臓器摘出が左右されることを悲惨だと感じる。
積極的意思表示をしないで脳死状態になった人と臓器移植を必要とする人が家族にいた時、家族に一方には死を一方には生という決断が迫られることを非道なことだと思う。
これらは間違いなく、改訂臓器移植法によって生じる事態だ。
遺体の国の21グラム。 前篇で長々と臓器移植法について書いてみたが、長すぎて読む気が失せるというのが大抵だと思うので、簡単に結論・要旨を記しておく。
●今回の改訂は部分的な変更ではない。法の根本を逆転させている。
現行法は脳死状態にある患者本人の提供意思が必須だった。これは身体が不可侵であるという原則があり、例外として本人意思による可侵が認められることを意味する。
改訂法は脳死状態にある患者本人の提供意思は不用になる。これは身体は可侵であるという原則があり、例外として本人の拒絶による不可侵が認められることを意味する。
15歳以下の移植ができるようになるのは、この「本人意思不要」原則のおかげだが、この原則はなにも15歳以下のみに適用されるのではない。日本国民全員の原則になる。そもそも法律に書かれているのは意思表示の問題で、旧臓器移植法にも改訂法にも「15歳」という年齢の制限は書かれていない。
●「脳死は死」を一律に決めるものではない、というA案提出者の説明は間違い。
確かに法律が「臓器移植法」なので死一般を定めたものではない。しかし、死を定めた法律はもともとないので、今後、死に関係する法を制定する時は改訂臓器移植法が必ず参照される。法律は単一に存在するわけではなく、関連する法律が整合性をもって一つの現象を生じさせることをA案提出者の説明は無視している。この法律が今後の法制定や医療行政・政策で「脳死は死」ということを前提とした振る舞いを広めることは間違いない。 本気で臓器移植にしか関係がないと言っていたなら、立法者としての能力を疑う。
●親族優先規定は腐っている。
法の原則が本人意思を不用と変更されたのに、逆に臓器提供先に本人意思を尊重する規定を加えているのは矛盾している。
本人意思を不用とし、家族がいなければ何の歯止めもなく臓器摘出ができるように法の原則を変更しておいて、一方では臓器の提供先まで選択させるのは倒錯でしかないし、レシピエント選択を認めるなら、なぜ家族だけが選択対象なのかもわからない。そもそも医療資源は医療の必要性の観点から配分されるという公正性を著しく害している。
●弱いものを法は救わない。
繰り返すが、意思表示をしていない人で家族・遺族がいなければ、脳死判定をされて臓器摘出されることになった。
家族・遺族がいない、というのは家族が何らかの事情で形成できない人、家族から切り離された人・法律が常識語として使った家族の範疇に入らない関係を持っている人を含んでいる(「家族・遺族」というのは法律用語ではない)。
旧臓器移植法も15歳以下で移植を必要とする子供を救わなかったが、その中でも家族にカネやコネのない子供、家族からケアを受けていない子供は本当に救われていなかった(家族に金があるか、コネをつかって募金活動を展開しなければならなかったのだから、両方ないことのみならず、子供をケアする気がない親の子供は本当に救われていなかった)。これから、そういった子供たちはレシピエントになれるのではなく、ドナーになれるのだ。結局、旧法も改訂法も弱いものを救う法律ではない。
私は98年からドナーカードを持って、臓器提供の意思表示をしてきた。
家族の署名も入っている。
しかし、このような法の下で臓器を提供する意思はない。
新しいカードで臓器提供拒否の意思表示をしようと思う。
だが、カードを持たなければならないことが法に従うことだと思うと腹立たしい。
臓器移植関連:救う会の救われない救い
参議院HP:臓器移植法改定案本会議投票結果
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家族と遺族、臓器移植改正案が示す「常識」からの排除。
http://may13th.exblog.jp/9975260/
2009-07-12T19:26:00+09:00
2009-07-13T19:42:25+09:00
2009-07-12T19:26:57+09:00
sleepless_night
倫理
あす参院本会議で採決される予定の臓器移植法の改訂案・通称A案では、本人の臓器提供の意思表示がなくても、“その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がいないとき”(A案6条3項1号)には脳死判定ができるし、“遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき”(A案6条1項2号)には臓器摘出ができるとしている。
しかし、ここで言う“家族”や“遺族”は法律用語ではない。
誰が家族や遺族なのかが分からない。
常識的に判断すれば、親兄弟・夫婦・子供は家族や遺族に該当するだろう。
では、これら全員が承諾する必要があるということなのか。だれか一人でも承諾すればいいのだろうか。
また、法律的に結婚できないゲイやレズビアンのカップルはこの法律案の家族や遺族に含まれているのだろうか。
ゲイやレズビアンの人たちの中は親兄弟に受け入れられない・打ち明けられなかったりして親兄弟と音信不通の人だっているだろう。
もしその人たちが予め意思表示をしていないで脳死状態になったら、だれが承諾や拒否の意思をするのだろう。
十年以上同居してるパートナーがいても(養子縁組でもしない限り)法律的には何の権利もないのだから、臓器提供に関しても同様なのだろうか。
最も大切に思っている人の生命に関して、その人を受け入れなかった人たちにゆだねることが生じないだろうか。
法案の作成や審議において、これらは検討されたのだろうか。
追記)上記エントリの表現について、コメント欄をご覧ください。
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遺体の国の21グラム。 完結編
http://may13th.exblog.jp/9974377/
2009-07-12T14:46:00+09:00
2009-07-12T15:01:18+09:00
2009-07-12T14:47:01+09:00
sleepless_night
未分類
遺体の国の21グラム。 後編の続き↓
(9)浮上した無縁
病院の中での完結は解剖の歴史でもあった。
それは「篤志」の歴史に読みかえられたものであることを香西さんは指摘した。
だが、今私たちが目にするのは「篤志」に読みかえられた歴史から、逆転した新しい「篤志」だ。
ここに、浮上したのは「篤志」に読みかえられた歴史によって潜伏させられていた「無縁」だ。
“<篤志>という機縁を現在も押しあげつづけているのは、善意の語りに感応して提供を申し出るひとのうち、じつは遺族の承諾をえた遺体にもまして、遺族という抑止弁をもたない遺体である可能性が大いにある。つまり<無縁>が表現をかえて再現されているかもしれないのだ”
「無縁」という機縁による解剖体の供給は「篤志」による供給に消されたわけではない。
法律上も本人の献体申し出があり遺族がいる場合にはその同意を求められる一方で、遺族がいなければ同意は求められない。
その中で、実は遺族のいる場合に本人の献体への意思表示が成就しない場合が少なくない。(子供の献体に親が反対する、親の献体に子が反対する割合が反対者の中で多いが、なぜか妻の献体に反対する夫は夫の献体に反対する妻より少ない)
献体の歴史はミキ女の「篤志」によってはじまり「篤志」によって現在も支えられているといわれる中、実はその「篤志」というのが「無縁」の死体を解剖体へ供給するためのものだっとのと同じように、現在の「篤志」も遺族をもたない「無縁」が潜伏し支えているという側面がある。
その潜伏させられていた「無縁」が献体の水面に現れてきたのが葬送依存型の献体だと言える。
「無縁」はもはや人体の過剰性を解除や回避するのではなく、放棄しようとしている。
独自に必要とされる技術論を軽視して、解剖の言葉を用いてドナーとなる「人体」の過剰性を解除しようとし、技術論に流通を阻害され、今、臓器移植では法律を改訂しようとしている。
記述した様に、法改訂の内容は現行法の規定する2つの原則を覆すものであり、倫理が調停し得なかったドナーとレシピエントの「生」の内、数の論理でレシピエントの「生」を貫徹させた。
覆された2原理のうち、自律尊重の原則によって保たれていた現行法のドナーの「生」はドナーを死んだことにすることで無視された。「無縁」のドナーは現行法では何ら意思表示を予めにしていなくとも「生」を守られていたが、改訂案では意思表示を予め行い・それが他者に確認されないなら「同意」したものとして「生」をレシピエントへ譲ることになる。
「無縁」はここで解剖から臓器移植へ「同意(善意・篤志)」という倫理のトンネルを用いて出現することになった。
臓器移植法の改訂案では記述した様にコントラクト・アウト方式を採用する。
面白いことに、この方式は個人の権利(利益)よりも共同体の権利(利益)を優先するのだが、共同体の結合が弱まり、個人がバラバラにされるほど、共同体の利益に資するという仕組みになっている。
つまり、予めの意思表示をしないでも家族や代理を務めうる人間関係がある場合には臓器提供を拒絶される恐れがあるが、そういった関係から個人が切り離されればされるほど、共同体が本来なら「弱まった」と表現される状況になればなるほど、臓器という共同体の利益が臓器するのだ。
そう、「無縁」が顕在的に臓器移植のネットワークを支えるような仕組みになっている。
今まで日本国内で臓器移植ができなかった15歳以下の子供たちは、親たちが億を超す金額を調達できるかどうかで生きられるかどうかが決まっていた。
「無縁」は今まで臓器移植のネットワークへの参入が拒まれていたのだ。
これからは、今回の改訂案・A案が成立すれば、この子供たちのうち「無縁」の子供が日本の移植のネットワークを支えることになる。
(10)三輪清浄
出生率が1.3にも届かない現在は少子化の時代だと言われる。
理屈から人口の再生産には最低でも出生率が2以上でなければならないのだから、人口は減少していく。
人口の減少は抽象的な話ではなく、私たちの子孫がいないということであり、私たちの死後にどこかの墓へ埋葬されたとしても、その墓を参る人がいなくなるということだ。
これを「無縁墳墓」(墓地、埋葬等に関する法律施行規則3条)と言う。
昭和初期から都市化が進んだ東京では継承者のいない墓が増えて社会問題となっていたが、これからは全国規模の問題となるのだろう。
無縁墳墓は上記規則にのっとって官報掲載による告知と1年の立て札掲示などで処分される。
収められていたお骨は記録を付して納骨堂へ収められたり、合祀されることになる。
つまり、無縁仏と同じ道を辿る。
葬式仏教と揶揄されるように、仏教は特に近代から葬儀に依存するようになり、何軒の檀家を維持でき、月に何件の葬儀・法事が持てるかは寺院の経済を直撃する。
葬儀の仏教離れが言われるが、それと同じくらい、少子化による墓地の継承途絶は仏教寺院の経済に深刻な影響を与えることになる。
仏教は死を相手にしてきた、それが脳死問題や臓器移植に関する仏教の意見表明のなさ・曖昧さにつながっているのではないかと(3)で述べた。
脳死状態のドナーからの臓器移植へ意見として否定的な傾向の一つに布施のロジックがレシピエントのエゴによって成立しない、三輪清浄を充たさないというものがあったことも述べた。
その時、仏教寺院は寺の墓地から墓がどんどん消えていくのを前に、自分たちこそ三輪清浄を満たしていなかったことを思い知るだろう。
(11)遺体の国の21グラム
マサチューセッツ州ヘーヴァリルのダンカン・マクドゥーガル博士は1907年に人の魂の重さを量る実験を行った。
竿秤の台に乗せられたベットに瀕死の患者を寝かして死ぬ前と後の重さの違いを調べた。
6人を調べた結果、重さは死後に4分の3オンス軽くなっていたことが分かった。
人は死ぬ時、21グラムを失うといわれる。
遺体への熱烈な執着を見せてきた(ただし、日本の歴史を通じてずっとそうだったわけではない)国で、それを失った時、「無縁」が増進されるべき「生」となった時、この国は何グラムを失うのだろう。
引用・参照)
臓器移植法
臓器移植法改訂 A案
「医療倫理の四原則」水野俊誠著(『入門 医療倫理1』勁草書房)
「脳死と臓器移植」児玉聡著(同上)
自民党衆議院議員 河野太郎HP 太郎の主張「臓器移植法改正関する河野私案について」
ごまめの歯ぎしりブログ版「なぜA案なのか」
『脳死・臓器移植の本当の話』小松美彦著(PHP新書)
「仏教と「人の死」・「人の命」玉城康四郎著(『現代日本と仏教 第1巻 死生観と仏教』)
「脳死・臓器移植問題と仏教倫理」芹川博通著(同上)
「人間の生命は心身一元である」信楽俊麿著(同上)
「仏教から見る「人の死」の問題点」奈倉道隆著(同上)
「脳死・尊厳死・安楽死」奈良康明著(同上)
「医療と主体的な生の実現」庵谷行亨著(同上)
「何が仏の道に通ずることなのか」濱島義博(同上)
「仏教からみた人の死」松長有慶著(同上)
「日本人の感性、仏教の出発点から考える」脇本平也著(同上)
「「死」は文化的社会的側面がある」水谷幸正著(同上)
「臓器移植法における「死」の解釈について」長谷川正浩著(同上)
『病と死の文化』波平恵美子著(朝日選書)
『流通する<人体>』香川豊子著(勁草書房)
『医療倫理学』小川芳男著(北樹出版)
世界医師会 WMAの主要な宣言等
「功利主義をめぐる論争」伊瀬田哲治著(『生命倫理学と功利主義』ナカニシヤ出版)
『現代倫理学の展望』伴博 遠藤弘編(勁草書房)
「「自分の死」の選択としての献体」中尾知子著(『死の社会学』岩波書店)
『墓と葬送の社会史』森謙二著(講談社現代新書)
『死体はみんな生きている』メアリー・ローチ著 殿村直子訳(NHK出版)
参照)
日本移植学会
日本臓器移植ネットワーク「移植に関するデータ」
5号館のつぶやき 「献体が増加していることをどう考えたらよいのか」
社会学と生命倫理学の迷い道 「WHOの(新)移植指針について」
赤の女王とお茶を 「「脳死が人の死か」という以前に「脳死判定が本当に脳の死を意味しているのか」が問題」
イスラーム世界がよくわかるQ&A「Q61 イスラームは科学の進歩をどう考えているのですか。」
科学に佇む心と体Pt.1「脳死と臓器移植の日米勘違い」
Smectic_gの日記「臓器移植絡み」
間歇日記 世界史Aの始末書「脳生きるは人の生か?」
哲劇メモ「小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』」
今日の小児科医の日記「小児脳移植問題について」
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遺体の国の21グラム。 後編
http://may13th.exblog.jp/9974342/
2009-07-12T14:30:00+09:00
2009-07-12T15:02:43+09:00
2009-07-12T14:30:52+09:00
sleepless_night
倫理
遺体の国の21グラム。 中編の続き↓
(5)遺体=人体の過剰性
“新聞の投書であれ文集の随想であれ、篤志家らの文章の特徴は、そこに解剖台がないことである。抽象度の高い言葉でつづられており、「解剖体」や「切り刻む」といった表現は見られない。もしもそれが単に修辞上の特徴ではなく、そのまま篤志家らのもつ世界の表れだったとするならば、篤志家(団体)と解剖学教室とのあいだに横たわる溝は、そうとう深かったといわねばなるまい。遺体の寄贈は、解剖台の近景や解剖体の露骨な数読みが見えないように運ばれていたからこそ行われ得た。そのため、それらが可視化されてしまうと、「篤志」は想像力の基盤を失いかねなかったのだ。”
香西豊子(日本学術振興会特別研究員、学術博士)さんは、医療・医学への提供を可能にした言説を分析し、今日の移植ネットワークの行き詰まりについて以下のような分析をしている。
江戸時代の医学である漢方にとって死体は神気が散じた「虚器」であり解剖は不用とされていた。
1754年の記録上の日本初の解剖である山脇東洋、1771年の杉田玄白、いずれも刑死体を「穢多」が執刀するを見学したものだった。
刑死体は「御様御用(おためしごよう:刀剣の利鈍の鑑定のために人体を試し切りする)」に供される斬首刑の死罪の男子があてられ、いわば死体をバラバラにする刑の一つとして刑場でなされた。
明治に医学が西洋医学に制定され医学校が設立されると、解剖の必要が生まれた。
これにより、刑場ではない場所で解剖する事態が発生する。
解剖用死体の調達先は東大病院の入院患者で「当人所望之者」「貧民埋葬出来兼候者」があてられることが政府から許可され、1869年に死後解剖を申し出たとされるミキ女が第一号と言われている。
以降4体ほど「本人の申し出」による死体が出るが、1870年には「刑死者・獄中死者で受取人がない死体」を「平人病死者」でさえ解剖が許されているのだからと供給を申請する。本人意思による死体ではその後の葬儀費用などがかかりすぎること、刑死体の方が容易に入手できることも影響したと推測される。
1873年には解剖体不足を理由に、引き取り手のない養育院の病死者まで解剖用に願い出て認められている。また、学用患者として診察費無料で死後は解剖体として死体を「願い出る」という施療院も京都や東京など各所で作られた。
1883年より行旅死亡人の受け入れを養育院が開始し、規則としては養育院の死体は火葬されることになっていたが、解剖学教室と養育院との直接交渉で火葬費用の一部を教室が負担することで解剖体として教室へもちこまれた。1889年、同じように養育院の治療を東大が受け持つ代わりに、養育院での病死者の解剖を東大解剖学教室が受け持ち、内規で顔の解剖をしない条件で正常解剖に充てられた。
解剖体は刑死体・獄死体、系列病院、養育院の病死体と、開拓されてきたが、これらは引き取り手のない「無縁」の死体という属性で共通することになり、「無縁」が解剖体の主流となった傍流で僅かに「特志」の死体が供給された。
戦後、1947年に死体交付法が公布・施行され、「無縁」の死体は学校長の要請を知事が許可することで解剖体として交付されることとなった。
1949年には死体解剖法が制定され解剖の法的根拠を明確にし、解剖が死体損壊に当たらないことを明らかにした。
刑死者の減少や医学校の増加で解剖体不足は深刻だったが、依然として解剖体は「無縁」を想定されていた。
1955年、一老人の医学への貢献のための遺体寄贈の実現と老人の息子による遺体寄贈組織・白菊会が東大解剖学教室に生まれる。全国に「篤志」による献体の組織が結成され、全国運動にまで発展する。
1983年には献体法が制定され、献体には「献体の意思」と「家族の同意」が必要とされた。
80年以降、献体は順調に増加し、90年代以降では献体の受け入れを制限する大学まで現れている。
人体は過剰性を持つ。
“人体という言葉づかいは、生命科学との連関を予想させるだけでなく、どこかですでに、ある社会性をまとっている。”
“人体はそれ自体ですでに、物質や言葉が乗り入れる過剰なあり方をしているともいえる。それは、侵襲的な機構を仮想されずとも、言及されるだけで、みずからの物質性をどこか賦活させ、そこに築かれていた意味論をそのたびごとに震撼させる”
過剰性は「社会」にとって制御しえない生命に脅かされる根源的な不安、“人体という不安”を付きまとわせる。
刑場での刑罰という属性内に規定されていた死体は、近代になると西洋医学の解剖によって流通性をもつ「人体」へと見出された。
そこでは死体を切り刻むことが刑罰であり辱めでしかないという認識から、その認識を上回る人々の「生」への志向が「人民の幸福」を理由として流通を駆動した。
だが、流通し始めた「人体」はその過剰性ゆえに容易に需要を満たす供給量を出せるなかった。
そこで、「人体」の過剰性を解除するミキ女の「本人の申し出」を梃子にした施療院と無縁の死体が供給元として選択され、「本人の申し出」は「人体」を流通させるコストから傍流の「特志」へと追いやられていった。遺族のいない無縁の死体は、「人体」の過剰性を解除するコストが低く済んだからだ。
解剖という営みが制度化されると、解剖が始まった時から・始まったからこそ不足でしかなかった「解剖体不足」が常態として実体化さた
戦後に「篤志」が組織化されると、それまで解剖を支えてきた施療院と無縁の経済と「篤志」の経済とが衝突する、「人体」の過剰性を無縁の死体を選択することで解除してきた仕組みとそれを支えた言葉が「篤志」という新しい過剰性の解除の仕組みとそれを支える言葉と整合せずに、対立した。
両者を調停するために医療の倫理が紡ぎだされ、それによってかつての無縁による過剰性の回避は否定されるべきものとして語られるようになり、ミキ女らの「特志」は「篤志(善意)」へと読みかえられ、「篤志」の推進による解剖体の経済が確立した。
そして近年、その経済を生み出した「篤志」は供給過剰によって当初は全く想像もされなかった解剖の意味付けをもたらしている。解剖体不足の時代には医学の基礎知識習得手段に他ならなかった解剖は、解剖体が過剰になると知識の習得ではなく倫理の感得へと意味が変わっていった。
一見、倫理の言葉はそれ自体の価値によって「篤志」の献体を創り出したかのような歴史も、「人体」を流通させるための経済の帰結であった。
解剖へ「人体」を流通させた人々の「生」への志向は、死体から臓器を取り出し病者へ移植することを求めるようになった。
ところが、臓器摘出は解剖のように需要を満たすために供給をひたすら探せばよいという経済論のみで成り立つのではなく、摘出臓器とレシピエントの適合という問題、新鮮さをもとめるための死の判定、死体からの臓器摘出、という問題などの技術論もが「人体」の流通形成に影響を与える。
そして、ドナーとなる「人体」の周りには遺族がいた。
これをクリアしようと「同意」が持ち出される。解剖を可能にするための言葉が死体をめぐる言葉の整合性や「人体」の過剰性を解除し遺族との調停に持ち出され、移植のネットワークが組み立てられた。
ところが「同意」のネットワークによる移植は、移植の技術論によって行き詰まる。
人々はレシピエントへ臓器を提供するという「同意(善意)」によってネットワークへ参入するが、これはドナー側の技術論しか解決しえず、レシピエントとの適合という技術論はのこり、ドナーから「同意(善意)」で取り出した臓器が不適合によって捨てられてしまうという「同意(善意)」にそぐわぬ事態を生じさせた。
これが人々に知られると「同意(善意)」はドナー不足の一因となり、レシピエントは別の臓器流通の経済へ、生体移植へと向かった。技術的にも親族からの生体移植は適合可能性が高いのだ。
「人体」は流通し難いにもかかわらず、“「人体」やドネーションに関するさまざまなっ言葉―先行する法の言葉や、経験から抽き出された「教訓」など―が大いに活用され”“「人体」が不在のまま「篤志」が移植片のドネーションへとなだれ込んで”“流通にたいして固有の抵抗係数をもつ移植編が、あたかも容易に流通するかのごとく描かれ”てしまったことが、移植のネットワークを「いびつな」形に導いた。
“ネットワークというドネーションの難航と生体移植の実施率の高さは、因果の関係にあるのではなく、「人体」の流通しがたさを表す並行現象としてある。”
私たちは今、「同意(善意)」という言葉によって「人体」の過剰性を解除可能にする社会にいる。
実は、同じ「同意(善意)」でも、それが持ち出された経緯、流通の経済論と技術論との調整としての倫理も異なっているにも関わらず、「人体」は「同意(善意)」によって流通することができる。
同意できるもの全員がドナーとなりうる、「同意(善意)」によって解除される「人体」は全身体が流通可能で、抽象化される。
ちょうど献体の言説から解剖体が消えたように。
ドナーとレシピエントとは隔絶していった。
ところが、「人体」が流通可能で抽象化された社会では私たち全員が潜在的にレシピエントでもある、つまり、ドナーとレシピエントとの重なり合いも生じる。
“ドネーションへの要請は、どのような機縁のもとでも、レシピエントの「生」に発していた。(略)ドネーションは、レシピエントの「生」をめぐる言葉の編成を起点としていた。(略)とはいえ、いくらレシピエントの「生」が慮られるといっても、その動きがドナーの「生」を侵襲するような場合には、ドネーションは停止する。ドナーのまわりに、とたんに「倫理」的な言葉が醸成され、今度はそちらの「生」が荷重されるようになる。(略)現状においては、ドネーションは、そもそもの<意思>を発露するドナーの「生」ありきのものなのだ。日本では、献体や献血に比べて臓器移植がふるわないといわれる事由も、おそらくここにある。一般に言われているような、ドネーションの歴史の浅さや具体的な手続きの未整備のためなく、現代の増進されるべき「生」がそうした形をとっているのだ。”
一人の「生」の内で、ドナーの「生」とレシピエントの「生」は、どちらかになる日まで調停もされずに潜在する。
(6)数の選択
“誰もがレシピエントでもドナーでもありうる世界においては、「調停」という営みがそもそも、達成不能な企図なのかもしれない。現状では、その配分の場を覆っているのは、単純に数の論理である。”
6月18日、数は選択した。
香西さんのように歴史を分析すれば、倫理とは経済論と技術論の調停として登場したが、一人の「生」で矛盾する潜在を調停しうる倫理の級審は探りえなかったのだ。
倫理に関わることだからという理由で、政党の多くは各議員の自由投票を指示し、見事に倫理の調停がなされなかったことを表した。
そこで選択したのはレシピエントとしての「生」だった。
自分は生きて、ドナーにはならないという選択だったとも言えるかもしれない。
ついにレシピエントの「生」への志向が移植の経済論と技術論を貫徹したのだ。
調停不能だった倫理は、経済論と技術論にとって用なしになった。
ドネーションは“<意思>を発露するドナーの「生」ありきのもの”だったら、ドナーは「死」んでいればいいのだし、“<意思>の発露”には耳を澄ませなければいい。
(7)倫理の言葉
医療における倫理へ影響を与えた様々な言葉がある。
その嚆矢として有名なヒポクラテスの誓いは、患者の利益最優先・無危害、致死・堕胎の禁止での生命尊重、結石手術の専門者への依頼が示す専門性尊重、患者の階級差別禁止、患者の秘密保持などを定め、現在では内容がパターナリスティックであるという批判もあるが、現代にも通じる内容をもつ。
ヒポクラテスの誓いを現代に改めて医の倫理を規定しようとしたのが1948年のジュネーブ宣言で、人類への奉仕、良心と尊厳をもっての専門職実践、患者利益の最優先、患者の差別禁止、患者の秘密保持、人権や自由の侵害への医学知識利用禁止などを定めている。
つづく1949年には医師としての義務を一般的義務・患者への義務・同僚への義務と詳細化した医の国際倫理綱領が採択された。
ジュネーブ宣言、医の国際倫理綱領の精神を受け、1964年にはヒトを対象とした医学研究の倫理原則を規定したヘルシンキ宣言が採択された。75年にはインフォームド・コンセントの概念を導入したことで注目される(インフォームド・コンセント自体は1957年の医療過誤訴訟についてのカリフォルニア控訴栽の基準として登場している)。
インフォームド・コンセントように医療を受ける側の権利を規定したのが1981年のリスボン宣言(患者の権利に関する世界医師会リスボン宣言)であり、ここで「患者の自己決定権」が明示され、医療倫理の試される困難な事例における判断基準となっていった。
以上のような各宣言に表されたような医療倫理の原則としてトム・L・ビーチャム(ジョージタウン大教授、哲学)とジェイムズ・F・チルドレス(ヴァージニア大教授、哲学)は1979年『生物医学・医療倫理の諸原則』(邦題:生命医学倫理)で自律尊重原則・善行原則・無危害原則・正義原則の4つを挙げ、誰でも直観的に受け入れられる倫理に共通の言葉を用いて医療現場での議論に対応できるようにした。
これを用いれば、医療の倫理は、善行と無危害の重視から自律と正義の重視へと変化してきたと言える。
また近年ではこの4つでは議論が不十分であるとして、尊厳の概念やケアの概念も議論に用いられるべきだとされている。
この医療倫理4原則自体も大きく2つの争点を蔵している。
一つは各医療倫理原則内部の争点。
自律尊重原則についていえば、「自律」の実質的な定義について、当人の持つ何らかの価値に合致した決定(自己決定)・熟慮の上で重要だとみなす価値に合致した決定(神聖な決定)・感情や感覚や他社の意志などに規定されずに自ら定めた普遍化可能な法則に従い下した決定(理性的決定)などがあげられ、さらに「尊重」とは他者の支配的な制約に従わないこと(消極的)か必要な情報を開示したうえで自律的決定を促すこと(積極的)かという見解の違いがある。
善行原則についていえば、「善行」とは「他者に利益をもたらすために遂行される行為」であるが、「利益」の定義には、は単純に他者の主観的な苦痛を減らし快楽を増やすこと(心理状態説の快楽説)・他者の欲求を充たすこと(欲求充足説)・理性の活動や能力の発達のような客観的に善いと判断さえることをし、裏切りや残忍な行為などの客観的に悪いと判断されるものを防ぐこと(客観的利益のリスト説)があり、また「行為」には、害悪を防ぐこと・害悪を生じさせる原因をなくすこと・利益を促進するよう介入することなどがある。加えて、善行の責務には契約や血縁などの関係にある人への責務(特殊な善行の責務)と関係に関わらない責務(一般的善行責務)があり、其々で責務の限界や条件を考える必要がある。
無危害原則についていえば、「危害」とは「ある人や物に対して為された害悪またはある人や者が被った害悪」であるが、医療倫理では意図的な人に対する危害に限定される。無危害とは「危害を引き起こさない・及ぼさない・危害のリスクを負わせない」ことだが、医療で求められるのは注意義務の範囲内に限る。具体的な内容は、殺さないこと・苦痛を引き起こさない・能力を奪わない・不快を引き起こさない・他者から良いものを奪わない、など幅がある。
正義原則についていえば、「正義」とはアリストテレスが狭義の正義を均等だとし、これは命法として形式的には「等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱うべし」、実質的には「各人に各人の正当な持ち分を与えるべし」とされている。実質的な命法で「各人に各人の正当な持ち分を」という部分を中心に正義を考えるジョン・ロールズは分配的な正義・公正さを重視する、一方で「各人の正当な持ち分」をという部分を中心に考え持ち分の正当性を重視する正義をロバート・ノージックは説く。
これら、各原則内部での争点がある上で、もう1つは各原則の間での争点がある。
脳死の例で考えてみれば、脳死状態になった人が予め臓器提供意思表示を行っていたとして、医師はその意思表示を尊重する責務(自律尊重原則)の一方で脳死への疑問から無危害の責務(無危害原則)や善行原則と対立する。また、その人が自分の臓器を特定の他者に与えるために積極的に脳死状態を自らに実現させたいと精神科医に打ち明ければ、精神科医は患者の周囲に注意を促す(善行原則)か秘密を守るか(自律尊重原則)の対立に悩み、脳死状態になることに成功したら予め指定した他者へ臓器を与える(自律尊重原則)か医療の観点から最も必要性の高い人に与えるか(正義原則)で対立が生じる。
原則間の争点を解決する方策として、抽象的な原則を事例に即して特定化する、原則間の比較考量をする、優先順位を設定する、単一の原則を決める、などがある。
臓器移植改訂案については既に述べたとおり、6条3項の改訂によってA案は現行法の自律尊重原則を、6条の2の新設によって現行法の正義原則(分配的正義)を覆している。
代わりに、あえて言えば善行原則を採用した様にも解釈される。
ただし、医療原則における善行原則の「善行」が向けられるのはドナーとなる患者であるのだから、無理がある。レシピエントの意志や移植医の「善行」には当てはまるかもしれないが、脳死について国民がどれほどの知識を有しているのか、ドナーとなる患者や代理者を守る仕組みの貧弱さを考えれば無危害原則にもやはりそぐわない。 また、6条の2は自律尊重原則にあたると言えるが、そもそも改訂案A案の提出者たちは脳死は死だとする原則を採用したのだから、死者に意志や自律が成り立つのかという疑問も生じる。
倫理という思想の圏内に臓器移植法改訂案を入れて見れば、70年代以前の医療倫理でしか正当化しえない代物だと言える。
倫理の言葉は正に、移植の経済論と技術論でレシピエントとレシピエント側の医師の「生」への意志を貫徹させるために便宜的に持ち出されているだけとしか見えない。
倫理の言葉は語られようとした、倫理が作り上げてきた言葉の圏内から発しようとしたが、移植をめぐる言葉の磁場に無力だった。
(8)過剰さの放棄
(5)で述べたように、90年代以降、献体の申し出数は断られるまでに達した。
中尾知子さんは献体登録者の文集の内容を分析し、献体登録者の献体の動機を行為の志向性とメリットの軸から4つに分類している。
社会や医学への貢献といった社会への志向性とそれが充たされる満足感などの心理的なメリットとによる社会貢献型。満足を求める心理的メリットは同じだが志向が社会より自分個人の逝く先へ向かっている人生完結型。死によって物質となった身体を利用するほうが合理的だと考える実質的なメリットと社会や医学への貢献といった社会への志向性の合理思考型。死体が物質であるという実質的なメリット重視は同じだが志向が遺体処理という個人的な場合の葬送依存型。
実際には明確に4つへ分類されるものではなく、複数のタイプが重なってみられると述べている。
注目するのは葬送依存型だ。
社会貢献型は献体の歴史が「篤志」によって解釈されなおした現在が最も推奨されるものだし、合理思考型は献体登録数の増加から言われる死生観の変化で言及される。
人生完結型と葬送依存型は個人的な指向で共通するが、葬送依存型は実質的な考え方と同時に社会や人間関係からの孤立が表わされる。
献体によって自らの葬送をかなえようとする人々がいるということだが、葬儀の変化については多くが研究されている。なかでも、近世からの目立った変化として葬列の消滅・減少が挙げられる。
葬送は場所の実際の移動によって生から死へと遺体を移す葬儀の最も重要な要素だった。
地域の慣習ごとに異なるが、参列者によって位牌や膳とともに遺体を埋葬地まで運ぶ行列である葬送は、葬儀の場と埋葬地の遠隔化に伴い霊柩車の出現とともに消えていった(残っている場所もある)。
それが意味するところもさまざまだが、中尾知子さんは碑文谷創(雑誌『SOGI』編集長)の葬儀演出形態の変化を牽いて、葬儀が地域共同体への「死のディスプレー」から職場などの人間関係へのディスプレーに変化していったと指摘している。
葬儀が誰に向けての「死のディスプレー」かという観点からすれば、献体に葬送を依存するということは、病院での死から一度も病院の外(死んだ病院から解剖のために大学医学部へ運ばれるとしても)へ出ることも無い事態、ディスプレーの否定を意味する。
もはや「人体」は過剰性を解除されるまでもなく、近世に死体が刑場の中でしか解剖されえなかったように、病院内で完結することになる。
続き→遺体の国の21グラム。 完結編
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遺体の国の21グラム。 中編
http://may13th.exblog.jp/9974331/
2009-07-12T14:27:00+09:00
2009-07-12T14:54:05+09:00
2009-07-12T14:27:21+09:00
sleepless_night
倫理
遺体の国の21グラム。 前篇の続き↓
(2)本当の話
このようなA案に対しては各所で反対・危惧の声明が出された。
その代表的なひとつ、生命倫理会議では生命倫理の教育研究に携わる研究者71名が緊急声明でA案への抗議と参院での徹底審議を求めた。
生命倫理会議の代表である小松美彦(東京海洋大教授、科学史・科学論・生命倫理)さんは『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)で以前から臓器移植(法)への問題提起を行ってきた。
同書では脳死判定の「自発的呼吸の停止」を確認するために無呼吸テスト(人工呼吸器の取り外し)が患者へ与える悪影響(血中二酸化炭素濃度の上昇)や「平坦脳波」の確認困難さ(頭蓋の上から測定しなくてはならない)や限界(脳波と心の在り方との関係に疑問)やラザロ徴候といった脳死患者の自発的身動きや臓器摘出時の血圧上昇と暴れるような動作(そのために摘出時に「死体」に麻酔をかける)、長期脳死という10年以上の脳死状態での生存、移植後の生存率と非移植での生存率比較といった基本的な情報や疑問、そもそも一般的に想像されるような「死」の定義と脳死を検討する人々の「死」の定義の違い(脳死臨調で問題とされた「死」は「人体の有機的統合性」であって、一般人が思い描くような「何も考えない・感じない・動かない」ではない)といったことが提示され、さらに脳死という概念自体への疑問・批判(他の臓器の不全は「死」と呼ばないのに、どうして脳だけ「脳死」なのか?)を投げかけている。
また、日本における臓器移植のキーポイントととなった和田移植(1968年の日本初の心臓移植)と高知赤十字病院移植(1999年の臓器移植法成立後初の移植)の杜撰さを指摘し、批判し、臓器移植法改訂問題へも提言を寄せている。
(3)仏教の立場 のようなもの
これと関連するものとして、やはり以前から仏教側から脳死状態にある患者からの臓器摘出について意見が表明されてきた。
玉城康四郎(東京大学教授、仏教)
“「人の命」を端的に表しているのは、父と母との交わりにより、母の胎内に宿った刹那の「命」である。その「命」をサンスクリット語でカララkalalaという。「ひとかたまり」という意味である。(略)カララはいかなるものによって成立しているのであろうか。これについてはいろいろな文献に示されているが、大別すると二とおりある。ここでは『大集経』と『宝積経』から見てみよう。 まず、『大集経』では、カララは、命と識と煖から成立している、という。命は寿命であり、識は意識、煖はぬくもりである。そしてカララが生きているということは、命・識・煖が一つの合体していることであり、カララが死ぬということは命・識・煖の結合がほどけて、バラバラになることにほからないない。命・識・煖の結合のなかで、特に重要なのは命、すなわち寿命である。これによってカララは胎内で成長することができる。この寿命を風道といい、カララはすでに呼吸している、とみられている。それが胎内から生まれて、実際の呼吸となる。呼吸が寿命としていかに重要であるか、むしろ寿命そのものであるともいえる。 次に『宝積経』について調べてみよう。ここではカララは、地・水・火・風によって成立している。生きていることは、その結合であり、死ぬことは、その分散である。地はかたさ、水はしめり、火はぬくもり、風は動きである。かたさ、しめり、ぬくもり、はいわば材料であり、動きこそ生命的なものである。すなわち、地・水・火・風の風は『大集経』の命、識、煖の命に相当するものであり、寿命であり、風道である。いいかえれば呼吸である。(略)以上のように、生きているとは、命・識・煖の結合、あるいは、地・水・火・風の合体で、成長を続けているということであり、死ぬとは、それぞれの分散であるということができる。”
“今日、臓器移植のことから脳死が問題となり、生命維持装置によって、呼吸運動や血液循環を補助することができる。たとい脳の機能が不可逆的に停止して脳死と判定されても、仏教からいえば、命・識・煖の結合、あるいは、地・水・火・かぜの合体は明白であり、けっして「死」ではなく、「生きている」ことは論をまたない。したがって移植のために臓器をとることは、死に至らしめるのであり、殺生罪を犯すことになる。”
芹川博通(淑徳短大教授、宗教学)
初期仏教典では
“死の諸相について「一切の生きとし生けるものが、それぞれの部類から落下し没すること、[身体が]壊れること、消失すること、死滅すること、臨終をなすこと、諸構成要求が壊れること、遺体を処理すること、これが死であるといわれる」(『サミュッタ・ニカーヤ』)とある。また、「寿と煖とおよび識と、三方の身を捨するとき、所捨の身は僵仆す。木の思覚なきがごとし」(『雑阿含経』)とあるように、人の声明を構成する寿命と体温と意識が肉体を離れるとき、その肉体は枯れ木のように倒れて死ぬと述べている”
大乗経典では上記の玉城と同様『大集経』『宝積経』を挙げている。
小乗仏教典では『阿毘達磨倶舎論』の“命根の体はすなわち寿にして、能く煖とおよび識とを持す”を引き“寿命があり、温かさと意識がある脳死は、身体に生命があって生きているので、死を意味するのではない、ということになる”と述べる。
また万有をアーヤラ識から縁起したものとする唯識からは、“心臓が鼓動をうち、体温があるうちの脳死状態は「人の死」ではない。体温があるというのは、いまだ、アーヤラ識が身体を執受しつづけ、生命あらしめている証拠”としている。
さらに“仏教の心身観では、肉体(kaya 身)と精神(citta 心)は不二一体のものと説いている。このことを心身一如、心身不二という。仏教では、この身と心を決して二元論的に個別の実態とみなさないで、あくまでも一つのものの両面とみなす。(略)日本人にとって、心身はその生命を失っても、心あるいは霊の宿るより白なのである。(略)また日本では、古くから心臓が動いているうちは霊魂が宿っているので、遺体を傷つけることを恐れる、というものもある。(略)生命を失った肉体をも物質視しない思想を、人々は育んできた”とデカルト的な心身二元論との対比で述べている。
信楽俊麿(元龍谷大学長、本願寺派僧侶)
“心身一如的な立場においてとらえるというこおとである。(略)原始経典によれば、生命(ayus)とは、識(vijnana)と煖(usna)とともに構成され、存続するという”識とは心理学的な意識ではなく、心(citta)もしくはアーヤラ識を指し、日常的な意識作用や意識下の意識の根底にある根本意識を意味する。
“仏教の立場からいえば、人間の生命とは何にも代えがたい絶対価値を宿しており、またその生命とは、心身一元的に、識と煖とともにあるということであって、脳死といえども、なんらかの意識が残存し(脳死者の足裏を針でさすと足をうごかすという)、呼吸し、心臓が動いて、体温があるかぎり、それは当然に生きているということであり、一人の人格主体として十分に尊重されるべきである。その点、仏教の立場からするならば、このような脳死を人間の死とすることには、きびしく反対せざるをえない。”
また“他人の不幸、その脳死をひたすらに待ち望んで、そのうえに自己の生命を充足させようとする発想は、人間の倫理感覚を次第に麻痺させていくにちがいない。”と危惧を表明している。
奈倉道隆(四天王寺大学大学院教授、インド哲学・仏教学・公衆衛生学)
“死について『倶舎論』は、煖と識と寿とが消え、身体が知覚を失った木材のようになることだと説いている。煖が失われれば体のぬくもりが去って冷たくなる。日本の生活文化では、死を意味する表現として「冷たくなる」と言っている。脳死状態は、意識が完全に失われているが、人工呼吸器によって呼吸は続けられ、脈拍はしっかり触れることができる。体のぬくもりは保たれ、皮膚の血色も豊かである。これを「死」と認識することには生活文化の面から抵抗があろう。また、心身一如、縁起的生命観に立つ仏教思想の立場では、たとえ脳の機能が停止してようとも、また、生命維持装置に依存する状態であろうとも、生かされて生きるいのちとして尊ぶ姿勢には変わりがない。”
奈良康明(元駒澤大学学長・総長、曹洞宗住職)
“こうした問題に対しては、「仏教では」という答えは難しい。そうではなくて、「仏教者の一人として、私はこう考える」という姿勢でなければなるまい。”と応用問題への解答の多様性を指摘したうえで「私」の生き方を問う仏教としての姿勢を示し、“脳死は、生命をモノに限りなく近づける発想が基盤にあるので、私は認めがたいと考えている。”
庵谷行亨(立正大学教授、仏教学・倫理学)
“仏教ではすべての存在は仏の顕現であると考えている。人間は誰にも仏性があり、すべては仏の子であると説く、不殺生は仏教の基本的徳目である。”
などと、脳死・臓器移植を仏教の経典を根拠として否定する立場がある。
仏教の生命観として示された寿・識・煖、あるいは地・水・火・風の結合は、脳死が死かという議論における死の定義である「人体の有機的統合性」と重なる。
仏教者の脳死についての知識に若干あやしさを感じる部分があり、最重要視する呼吸については脳死では自律呼吸ができない点の処理に弱さを感じる。ただ、体のぬくもり、いのちを構成する要素が結合しているという点を見れば、生命を否定することは難しいだろう。
脳死を死とみなして臓器移植の供給を増やそうとする人たちからすれば、早晩心停止する相当の可能性があると分かっている患者より助かる可能性のあるレシピエントを助けるという比較が働くが、仏教の絶対的な生命尊重は、どちらも同じ絶対であることから比較の発想は採りえない。
その一方で
濱島義博(京都女子大学長、消化器外科)
“自分のいのちとはいったい誰のものなのか。はたして自分だけのものなのだろうか。ここに、縁起と共生という仏の教えを考えてみる必要があるのではないだろうか。(略)脳死を死と法律で定められた今日、脳死の基準を満たしたと決定されれば臓器を提供する他への思いやりと慈悲こそ、仏の教えにもっとも適した行動なのである。”
といった、「慈悲」という仏教のロジックによる肯定の意見もある。
だがこれについては
奈良康明さんは“臓器移植が偉大なる布施だ、という論理はそれなりに理解できる。しかし、仏典に示され、かつ教えられている壮絶な布施行は、慈悲の発露としての行為である。信仰者としての自覚にもとづく慈悲行であるが、私たちがいま論じているのは社会の制度としての脳死、臓器移植であり、とくに脳死を法律で決めていいかどうかという問題である。”と否定する。
また芦川博通さんも“諸経で諸衆救済のために、菩薩(bodhisattva)は、身命を惜しまずに努力することを「不惜身命」といい、わが身を投げ出して布施(dana)をする「捨身」が説かれており、いずれも仏教の救済思想である。(略)したがって、臓器を必要とする人(recipient)にみずからの臓器を移植する行為は最大の布施行であり、菩薩行ということができるとする、という人もいる。仏教者のなかには、臓器移植が結果的に布施行であり、善なる行為であるから、脳死を「人の死」と認めてよいのではないかという人も少なからずいる。結果や目的がよければ「手段を選ばず」の論法は危険なものである”とこのロジックを否定する。
同様に「慈悲」「布施」のロジックを否定するも、現実に対する仏教の活動の必要性をも提唱する松長有慶(元高野山大学学長、高野山真言宗管長)さんはこう述べている。
仏教は死への諦念や浄土信仰など様々な立場があるが“死に対して仏教がとった立場は、精神的な対処であったとみることができる。それに対して現在問題となっている脳死を人の死と認め、脳死の人からの臓器を採取し、それを必要とする人に移植する医療は、延命操作にほかならない。現代の医療の根底には、人間の身体を物質とみなす思想が横たわっている。(略)さらに問題がある。現代科学は人間の欲望の充足を是認する立場を採る。(略)臓器移植の問題を論ずる時、仏教の捨身飼虎の伝承がよくもちだされる。(略)しかしこの話は、真理を聞き、それを人に伝えようとする利他の精神から出た行為であって、一時的な延命のために、不用になった臓器を提供する行為とは一致点を見出しにくい。また仏教の布施の精神が云々されることがある。ただし仏教の施しは三輪清浄といって、授者と受者、それに布施という行為、この三者がいずれもエゴを捨て、利他の立場にたって初めて成り立つ。ところがドナーに自己犠牲の精神があるとしても、患者にほうがそれを受けても、以降の活動のなかで社会還元の意思がみられず、我欲にもとづいた保身に終始するならば、それは本当の意味の布施ということはできない。”と仏教の立場での脳死・臓器移植の肯定し難さを指摘したうえで、“現代社会では、いくら仏教の立場から反対を唱えても事態は進展していくにちがいない。その場合に、仏教がこの医療行為に対して全く手をこまねいているわけにもいくまい”とレシピエントのケアなどを提唱する。
以上から大きく分けて言えば、脳死・臓器移植に対して仏教は
否定論…仏教経典の生命観
肯定論…慈悲・布施
ということになり、否定論が論として優勢かと判断される。
だが、この否定肯定の二項対立自体を否定する意見もある。
脇本平也(東京大学名誉教授、仏教学)さんはこう指摘する。
仏教は歴史的地理的な膨大な広がり・多様性を持ち、場合に応じて正反対の意味付けを行うこともできるが、“仏教の出発点は、生老病死の苦を超越することにあった。生死の超越とは、生と死とを分けて執着する迷を断じて生死一如の境に住することだ、ともいわれる。この立場からすれば、脳死を人の死と認めるか否かなど賛否を問うことは、問い事態が迷中の迷、無用の閑葛藤ということになるかもしらぬ、どうでもよい、ということになりそうである。どうでもよいことは、各自が銘々で決めればよい。”という自己決定原則の支持もできる
。
上記のような仏教独特の二項対立否定ではなく、単に決着できない現状を示す意見もある。
水谷幸正(元佛教大学学長、元浄土宗宗務総長)さんは、その原因をこう述べている。
“すでに十数年以前から、脳死の問題について多くの仏教者があれこれ発言しているが、同じ仏教者の立場でありながら、脳死は死であると認める者、認めない者、中間的な者などさまざまであり、その理由も多種多様である。その原因は、どのような状態を「死」とみなすのか、ということの受け止め方の相違もあるが、やはり仏教のどの部分をおさえていくか、という受け止め方の相違が大きい。まさに仏教は偉大であり曖昧なのである。”
1988年の日本印度学仏教学会の検討委員会でも“各人が状況に応じて判断し、決断してゆくべき”としている。浄土宗総合研究所の脳死に関する中間報告でも賛否は言わず、それぞれの状況での判断を提言している。
こうした仏教の曖昧さ・多様さのなかで、結論のなさにもかかわらず仏教界の現状として脳死や臓器移植へ否定的な傾向が見られる。
この理由について、長谷川正浩(弁護士、大正大学非常勤講師)さんはこう指摘する。
“死と生の境目を決めることは、もともと仏教の教義では不可能に思われる。はっきりいって、それはないものねだりなのである。生と死の境を決めることは、社会的・法律的要請によるものであって、少なくとも仏教ではどうでもよいことなのではなかったか。 では、なぜ仏教者は一般に脳死を人の死と認める立場に冷たいのであろうか。それは、脳死を人の死と認める多くが臓器移植をしやすくるるために主著うしていることを本能的に見抜いているからではないだろうか。”
ここで紹介した意見にははっきりと見られないが、仏教界が明確な判断を示さないのは、仏教の僧侶たちが生きている人間ではなく既に死んでいる人間を中心に生活しているという実際が影響していると考えられる。
既に死んでいる人間を中心に死者の遺族に接するのだから、死者がドナーとして死んだかレシピエントで移植待機者として死んだか、どちらでも死んでることには変わらないし、どちらにも当たることが予想され、判断を明確にすればどちらかを「敵」を作る可能性がある。
そんな事態は面倒であり、上記したように仏教は広大で曖昧なのだから、その時その時で上手く使えばよい、一貫性の無さは対機説法・融通無碍とでもいっておけば済むのだし。
(4)遺体の国
“遺体にこだわらない文化など、知られている限りでは存在しない。どのような文化でも遺体にはこだわりを持つのである。唯、そのこだわり方が文化によって異なるということなのである。”
波平恵美子(お茶の水女子大名誉教授、文化人類学)さんは、“死とは何か、どういう状態かという問題を考えるとき、生物体としての個体がどの程度機能を失ったかということのみを基準として決定する社会はない。(略)どの社会でもしは段階的に「確認」されるような社会的慣習を保持している。”と「死の文化」の存在の普遍性を指摘する。
特に日本では航空機事故で断片となったものまで捜すほど遺体にこだわりを見せる。これは死が死者と生者との断絶を意味しない、死者と生者とには交流・影響があるとする日本の霊魂観・死後観の影響を原因とすると考えられ、これは脳死・臓器移植に対する日本人の態度にも影響していると言う。
そもそも脳死状態からの臓器提供による死亡は従来の遺族の死の受け入れの順序を混乱させるものである上、臓器提供をすれば遺体を傷つけることは不可避であり、特に遺族が手を下して遺体を傷つけることは強くタブー視される。また、遺体の状態が死後世界での死者の安寧とつながるという信仰、悲惨な死に際なら特に一般より手厚く弔うことで死者の霊を慰めようとすることは、ドナーとして求められる青年の突然死の遺族が最も求めることと言える。
さらに、臓器移植は従来の「献身」の構図を大きく変える。
まず、遺族とはいえ臓器は脳死状態の患者のものであり、自分のものではない。また、「献身」した方が死に、された方は助かる。さらに、日本では直接・間接的な知り合いでの相互扶助(献身)は強固に見られるが知らない人への扶助は消極的であり、見知らぬ生者より血縁の死者の価値は高い。
続き→
遺体の国の21グラム。 後編
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